86輪目 ローズマリーー追憶ー
「熱は?」
「微熱くらいだから明日には下がってると思う」
「そう? まあ今日は寝てなさい」
母親は、小鍋から皿に料理を盛り付けて、テーブルの上にそれを置いた。
「熱いからね」
手渡されたスプーンを握り、お椀の中身を見つめる。ご飯と、玉ねぎにベーコン。それらが牛乳で煮込まれた、いわゆる、ミルク粥。幼い頃、僕が熱を出すと、母親が毎回作ってくれたご飯。
「いただきます」
少し小さめに一口ぶんをスプーンに取り、よく冷ましてから口に含む。ほんのり甘みのある牛乳は、煮込んだおかげでまろやかな口当たりになっていて、ベーコンの塩っ気と、味付けに使われたコンソメの味とも良く合っていた。
いつもなら見ることの出来ないお昼のバラエティー番組を横目にそれを少しずつ食べていると、母親が僕に問いかけた。
「この辺りのものは食べていいの?」
「え? 大丈夫だよ。別に、いつも食べてるじゃん」
「……そうね」
レンジでチンした肉じゃがを、タッパーのまま食べる母親は「これ美味しい」と小さく呟いた。何となく恥ずかしくて、聞こえなかったふりをしてテレビに集中する。
「最初……あんたが就職するって言った時は驚いたけど……こんなに色々出来るようになって。いい職場なのね」
「うん」
「……まあ、やるならやるで頑張りなさい」
「うん、わかってるよ……あのさ」
テレビを見たまま会話を続けていた僕たちは、初めて目が合った。
「何かあったの?」
「……そう見えるの?」
「うん……」
「ほんと聡い子ね……まあ、また今度ゆっくりね」
母親はそう言って立ちあがり、テーブルの上の空になった食器を回収してそれをシンクで軽く水洗いをする。
蛇口を捻り水を止めると、僕の方を向いて口を開いた。
「部屋に戻って寝てなさい。何か欲しいものある?」
「ううん、ないよ」
「そう? お母さん部屋にいるから、何かあったら声かけて」
「うん」
リビングの扉を開けて廊下に出ると、暖房もなにもないそこは、空気が冷え切っていた。足早に部屋へと戻ると、電気ストーブによって暖められた空間が僕を出迎えてくれる。
母親に言われた通りに布団に戻り、目を瞑る。しかし、散々寝たあとだったので眠気は来ず、ただただ時間が過ぎていくだけだった。
──仕方がない、一回起きよう。スマホに手を伸ばして、ホーム画面を開く。芹さんと、それから藪沢くんから連絡が来ていた。
芹さんからは、やりとりの続き。簡単に返信して、藪沢くんからのメッセージを確認する。
『辞書借りた!』
こちらにもメッセージを返して、暇つぶしにニュースサイトを閲覧する。天気や事件事故の話題。それから社会問題に、ほのぼの系の話題まで。
しばらく画面を眺めていると、次第に目蓋が重くなってきて、スマホの画面を閉じる。
そういえば。お母さんが言った"今度ゆっくり"とは一体なんのことだろう。
でも多分、悪いことではないのだろう──そんな事を考えながら、僕の意識はゆっくりと落ちていった。
*
「もうあなたも子供じゃないし、お母さん居なくても大丈夫よね?」
「待って」
「なんで? もう、好きにさせてよ──……」
僕に背を向けて遠ざかっていく後ろ姿を追いかける。
ただ歩いているだけのはずなのに、母親に追いつけない。姿が見えなくなってから立ち止まり辺りを見渡すと、光も音もない、真っ暗な世界にひとり。右も左も分からぬまま、ただ、何かを求めて彷徨い歩く。
──わかっていたじゃないか。母親にとって僕は、邪魔な存在だと。だから、別に、今更何を思うことも──。
「……て、大……夫? 起きて」
「──……さん?」
真っ暗闇で聞こえた声は誰のものか。それを理解しないまま、僕は目を覚ます。
「あ……起きた? 良かった……」
「……お母さん?」
「様子を見にきたら、魘されていたから、驚いたじゃない」
「あ、そ、そうなんだ……」
母親の言葉で、先程まで見ていた夢を思い出す。突然不安に駆られた僕は、起きあがって、縋るように問いかける。
「どこにも……行かないよね?」
「な、に? 急に」
「……っ、さっきさ、何か話がある、みたいなこと言ってたじゃん。だから、それで」
「そう。不安にさせてたのね……」
母親は、ぎゅっと唇を噛んで、掛け布団の上の僕の手にそっと手を重ねた。母親の人差し指が、僕の手の上で優しくリズムを刻む。
長いとも、短いとも思えるような間。母親の指の動きが止まり、そして、ようやく言葉を発する。
「……ごめんなさい」
「そ、そんな、別に……大丈夫なのに……」
「違う、違うわ。お母さんね、ずっと……今までのこと、謝りたかった」
「え……?」
「あなたにしてきたこと、それから、してこなかったこと全部。でも……もう嫌われてると思ってたから、何も言えなかった。許せないかもしれないけど、言うだけ言わせて。ごめんなさい……」
「お母さん……」
冗談だとか、付け焼き刃じゃない、本気の言葉。何と返そうか考えて、それでも言葉が出てこない。何も言わない僕に、諦めたのか、母親は立ちあがる。
「こんなこと、急に言われても困るわよね」
「困る……とかじゃないけど……」
「喉渇いてるでしょ? 机の上に飲み物あるから」
僕の手を離れた母親の指先が僕の頭に軽く優しく触れる。
なんとなく、このタイミングを逃したらいけないような気がして、僕は母親を引き留めた。
「待って! あのさ……えっと……」
「なに?」
「僕さ、もう少し……お母さんと話してたい」
「そんなこと言うなんて、珍しいわね……あなたこそどうしたの?」
「友達にね、言われたんだよ。ちゃんと話さなきゃ分からないこともある……って。僕たち、あんまりちゃんと話したことないから……」
「お母さんなんかよりよっぽど大人びてる高校生も居たもんね」
「あ、えっと、その子さ、サッカー部なんだけどね……」
僕たちはそれから数時間、今までの溝を埋めるように話し続けた。学校のことや、お母さんの職場のこと。
「あ、そういえばさ、何か話があるんだよね?」
「あぁ……驚かないで聞いてほしいんだけど……お母さんね、転職するのよ。今度は夜勤のパートじゃない、正社員で」
「えっ!? そうなんだ……? 何するの?」
「デパートで化粧品の販売員。前の職場の人が誘ってくれたの。だからまあ、生活リズムもちょっと変わるからって、それだけ。もう夜なのね。疲れてない?」
「うん。疲れてないよ。お母さん、今日仕事じゃないの? そろそろ準備しなくていいの?」
僕がそう聞くと、お母さんは少し驚いた顔をした。
「バカね、子供が熱出してるのに行くわけないでしょ。そろそろご飯にする?」
「うん」
ベッドから降りて、母親と共にリビングへ向かう。朝よりも随分と身体が軽くなったように感じる。明日は学校に行けるだろう。
「あ、そういえば」
「なに?」
「あんたが寝ぼけて呼んだのって誰?」
「え、寝ぼけて……? なにそれ、誰?」
「聞いてるのはお母さんなんだけど……二文字の名字で、さん付けの……」
二文字の名字、さん付け。思い当たる人物は複数人いるけれど、きっと、僕が思い浮かべている人物で間違いないだろう。
「さあ……誰だろう……寝ぼけてたから……」
*
「あ、萩くんおはよー」
翌日学校に行くと、いつもより少し早く来た芹さんに後ろから肩を叩かれた。
「あ、芹さんおはよう。今日は早いんだね」
「ん? うん。ノートのコピーいるでしょ」
はい、と渡された数枚の紙束。わざわざコピーしてきてくれたらしい。
「わー、ありがとう」
「別に大丈夫だよ。ノート貸すよりお互い楽でしょ? うちコピー機あるし」
「うん。助かる」
「でもすぐ来れて良かったね」
穏やかな時間に、やっぱり学校はいいなあと思っていると、後ろから大声が響いてきた。
「あっ! なずなー! おはようっ!」
「苺花、朝から賑やかだね」
「それうるさいってことでしょ? 苺花わかるからね! 昨日は楽しかったね〜」
にこにこ、いや、にやにや。そんな表情を浮かべる志木さん。
「昨日? 何かあったの?」
「そうそう! なずなと二人でさ、催事見に行ったんだよ。チョ……」
「ちょっと待って、言わないって約束だったじゃん!」
何かを言いかけた志木さんの口を、慌てて塞ぐ芹さん。
「あぁー、ごめんごめん。そうだよね〜。まあ彼氏さん、お楽しみってことで」
「だから! なんでそういうこと言うの!? あと別に彼氏じゃないもん!」




