8輪目 ストレリチアー恋する伊達者ー
ジメジメとした空気に変わる六月。
移行期間を経て学校全体の制服が夏服に変わる頃、伸びてきた髪が鬱陶しいなぁ、と使い古した下敷きで自分に風を送っているとクラスメイトのひとりが僕の机に手をついた。
「話あるんだけど今いい?」
「……? いいけど」
ここじゃ話せないと、連れられたのは校舎裏。
いつぞやのようにリンチされるのではないか──こんなに馬鹿正直に着いて行った僕は何も学んでいないのか、と何となく屋上を見上げた。
「君とは話したことないよね? 藪沢くん」
「……萩は話したことある奴の方が少ないと思うけど?」
遠慮なしに痛いところを突かれた僕は押し黙る。藪沢くん……彼はクラスの中心にいる人物で、部活は確かサッカー部。そして、俗にいう”イケメン”である。彼は、整った顔を崩さないまま、口を開いた。
「まあそんな話はどうでもよくて。芹さんとは付き合ってんの?」
「……いや、付き合ってないよ?」
「あ、そうなんだ?」
藪沢くんは考える素振りをした後に言葉を続けた。
「萩は芹さんのこと、どう思ってんの?」
「……どう?」
そんなこと、考えたこともなかった。
なんとなく隣にいて、学校にいる時はいつも一緒にいるけれど。
いつまでも答えを出さない僕に痺れを切らしたのか、藪沢くんは答えを待たずに言った。
「好きなの?」
……好き?
「いや、それは、考えたことないかなぁ」
……仮に僕がそう思ったとしても向こうがないんじゃないだろうか──なんて考えていると、藪沢くんは身体の前で腕を組み、右手を口元に添えて首を傾げた。計算しつくしているのか、自然体なのか、全ての動作が見惚れてしまいそうな程に整っていた。
すこしの沈黙の後に、藪沢くんは僕に問いかけた。
「ふーん。じゃあ、告っていい?」
「……へ?」
「いや、だから。芹さんに告白していい?」
「……なんで僕に聞くの?」
「なんでって、別にいいじゃん」
「そう……」
なんとなく噛み合わない会話。居心地の悪さを感じた僕は、手に握ったままのスマホで時間を確かめる。始業まで、あと十分。
「じゃ、まあそういうわけで」
藪沢くんは僕の肩を叩いて先に教室へと戻っていった。
一人残された僕は考える。
藪沢くんが告白をして、もしも二人が付き合いはじめたら。芹さんは、僕の隣を離れて、藪沢くんの隣にいるようになるのだろうか。
藪沢くんと並んで笑う芹さんの姿を思い浮かべる。
「……なんだか嫌だなあ」
何故嫌なのだろう。うまく言葉には出来ないけれど。なんとなく、心の中がモヤモヤとしていた。
*
「朝からどこ行ってたの?」
今日もギリギリに着いたらしい身の回りを整理整頓する何も知らない芹さんは僕に笑いかける。
「ちょっと、呼び出し? されてて」
「なんかやらかした?」
「いや、やらかしではないけど」
コトリ、と机の上に置かれた芹さんのスマホ。シンプルなカバーのそれには、ペンギンのキーホルダーが揺れていた。
「あ」
「……なに?」
「……いや。ペンギン、付けてくれてるんだなーって思って」
「あぁ……うん」
気の利いた言葉の出ない僕に助け舟を出すようにチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。藪沢くんは時折こちらの様子を窺っていたけれど、午前中の業間休みは特に何もなく──迎えた昼休み。
いつものように屋上へ向おうとする僕たち──いや、芹さんのことを藪沢くんが引き止めた。
「……話したい事があるんだけど」
「……? え、いま?」
「そう、いま」
少し考えてから芹さんは、お弁当箱を僕に預けて藪沢くんに着いていった。初めて話すわけではないのか、後ろから見る二人は普通に仲良さげに話をしているよう。
その後ろ姿を見送って、預けられたお弁当箱を落とさないように持ちかえて、いつもの階段をひとりで上り屋上へ足を踏み入れると、手すりに身体を預けた姿勢で、屋上からの景色を眺めた。
何分くらいそうしていただろう。不意に屋上の鉄扉が開いて、こちらへと歩いてくる人影。
その人はすとん、と僕の隣に腰を下ろしてお弁当箱を開いた。
「おかえり」
「ん、ただいま」
なにも言わないまま黙々とお弁当を口に運ぶ芹さんに、さて。なんと言ったものか。
「明日のロングホームルームの時間なにするんだったっけ?」
口から出たのは、そんな当たり障りのない言葉。芹さんは、玉子焼きを半分に割りながら答えた。
「文化祭の話し合いじゃなかった?」
「文化祭かあ。何になるんだろう」
「放課後までには決まってほしい……」
「ね」
僕は芹さんの隣に座ってお昼ご飯用にと持ってきていた紙パックのコーヒー牛乳を口に含む。すると、ぬるくて甘い味が口いっぱいに広がった。そのチープさを味わいながら空を見上げると、芹さんも同じようにして空を見上げた。そして、口を開く。
「梅雨入りしたら屋上で食べれなくなるね」
「そうだね……そしたらしばらく教室かな」
「今日の昼休み全然ゆっくり出来なかった」
「そうだね、まあ、そういう日もあるよ」
少々不満げな芹さんを諭して、少し急ぎ気味にご飯を食べる。
昼休みの終わり、教室に戻ってから見た藪沢くんは、なんとも言えない表情で頬杖をついて虚空を見つめていた。
彼の周りだけ、違う時間が流れている様な、そんな風に僕には見えていた。
*
──翌朝。
いつものように本を読みながらのんびりと始業時間を待っていた僕の前に人影が現れて、珍しいと思いながら顔を上げる。それは、藪沢くんだった。
「萩、いつも早いよな」
彼は荷物も持ったまま僕の真ん前の席に座った。
いまいち感情の読めない表情でイヤホンを外し、携帯にコードを巻き付けている最中の藪沢くんに、なんと声を掛けるか迷い──そして、無難に挨拶をした。
「……おはよう」
「うん、おはよ。てか、何読んでんの? あ、これ俺も読んだ。ラストシーンでさ……」
「え? ちょっと待ってよ。ネタバレやめてって」
僕は藪沢くんを制して、本を閉じる。彼は僕と目が合うと、笑って言った。
「……芹さんてさ、やっぱり他の子とは違う感じするね。なんか、昨日はすごく聡い子って思った」
「……多分、そう……なのかも。藪沢くんはさ、どこが好きなの?」
「さあ」
「さあ、って」
「そういうもんじゃん? 例えば、昔好きだった人に似てる、とか」
「あっ、そうなんだ」
「そうなんだ、ってなに? 例え話だけど」
「友達の話だけど……って枕詞は基本的に自分のことなんだって僕は教わったよ」
僕がそう言うと、声を上げて笑う藪沢くん。そこから、探り探りだった二人の間で会話が弾む。彼とはタイプが違うのに、なぜだかとても気が合って、話していると楽しかった。時間も忘れ他愛のない話をしていると、芹さんが登校してきて隣の席に荷物を置いた。
「珍しい……朝から賑やかだね」
僕と藪沢くんは目を合わせる。
「まぁね、男同士の会話は弾むんだよ」
そう元気よく言った藪沢くんはからりと笑った。
*
僕らの学校は、芸術系授業は美術、音楽、書道でわかれる。
美術を選択していた僕は、緩い担当教師の「校庭にある好きなもんを自由にスケッチしてこい」の一言で授業時間にも関わらず校舎の外に放り出されていた。
僕がデッサンの材料に選んだのは、忘れ去られたように寂しく佇む百葉箱。なんとなく、曲線がなくて楽そうだったから。
「お、いたいた」
がさがさと雑に草木をわけながら歩いてくるのは同じく美術を選択している藪沢くん。
「百葉箱いいじゃん。俺もこれにしよっかな」
「……友達は?」
「あぁ、あいつら別に俺がいなくちゃってわけじゃないし、そもそもあいつらいると終わんないからさ」
「そっか」
藪沢くんが紙の上に鉛筆を滑らせていくのを見て、僕もデッサンに取り組む。
「なー、萩はさ。あんま人とつるまないよな」
「そうかもね」
「人嫌い?」
「ううん。そんなこともないよ」
「ふーんそっか」
話は途切れて、鉛筆の音だけが響く。
書いては消して、書いては消して、消して消して消して……。
思ったよりもバランスの取りづらい百葉箱をモチーフに選んだことを後悔しそうになった頃、音楽室から合唱の声が響いた。
「そいやさ、知ってる?」
藪沢くんが顔をあげずに言葉を発した。
「なにを?」
「芹さんってめっちゃ歌上手いんだって」
「へえ……」
そういえば、芹さんは音楽を選択していたっけ。それを知った時に、なんとなくイメージと違うなと思ったから記憶に残っている。
「てかさっきから消してばっかだけど進んでんの?」
ひょい、と僕のスケッチブックを覗き込む藪沢くん。僕のキャンバスには消しカスと、何度も引かれては消された鉛筆の跡しか残っていない。
「そういう藪沢くんはどうなの」
彼の持つ作品を覗き込むと、そこには目の前にある百葉箱が何本もの線を使い、しっかりと紙に書き落とされていた。筆跡が濃いのが、なんとなく藪沢くんらしい。
「藪沢くんって、絵、上手かったんだね……」
「なんだよ! 萩は全く進んでないのな」
「うーん、そうだね。こういうの苦手だなぁ」
「完璧に描こうとしなくてもさ、いんじゃね? ちょっとくらい歪んだって死ぬわけじゃないし」
「でも……求められてるのは綺麗な作品でしょ。完璧に描かなきゃ意味ないかなって」
僕がそう言うと、少し目を見開いた藪沢くんは、間髪入れずに白い歯を見せて笑うと、僕の肩に腕を回した。
「難しい事考えるなぁ。 悩みでもあるなら話聞いてあげよっか?」
「い、いや、いいよ。でもありがと」
「ちなみに授業はあと一時間しかないよ。さっきチャイム聞こえた」
「え、それは急がなきゃ……」
与えられた時間の半分しかなく急いで描いたデッサンは、今までで一番、高評価を貰うことが出来た。