58輪目 アザミー触れないでー
気分が優れないから、体調が悪いから……と言い訳をし続けて布団の中で過ごした数日間。寝ても寝ても晴れない気持ちは今日も健在で、バイトも入ってなくて助かった、と思いながら今日も締め切られた薄暗い部屋で一日が始まる。
昨夜出掛ける間際に母親が言い残していった言葉をふと思い出す。
「携帯くらい充電しておきなさいよ」
ここで変に逆らっても後々面倒臭いだけだ……とゆっくり起き上がり少し布団の上でぼんやりしてから、鞄の底に眠らせっぱなしのスマホを取りにベッドから降りる。
ちょうどそのタイミングで、外から風に乗って聞こえた、祭囃子の音。
これは、毎年恒例となっている市役所の広場で行われるお祭りの音。ということは今日は、土曜日か。
思ったよりも時間は経っていなかった。それでも、二日間も文化祭の準備をすっぽかしたのは間違いないのだけれど。
鞄の奥底で充電の切れていたスマホを引っ張り出して、ベッドに伸びるコードに差し込む。完全に電池が切れているから画面がつくまでは少し時間がかかるだろう。
特にする事もなく、ベッドに寝直した僕の耳に、外から聞こえる賑やかな声。
アパートの二階まで聞こえる行く行かないと押し問答をする会話は、姉妹のものか、友人同士のものか。
起動出来るくらいには充電出来た携帯が自動で開く。パスワードを入力してホーム画面を開くと、着信とメッセージのお知らせがいくつも溜まっていた。
……メッセージ、見るのは怖いな。
画面を閉じようとした瞬間に鳴り響く着信音。
反射で着信ボタンを押してから知らない番号だということに気がつき、出てしまった事を後悔する。
しかし、その電話の相手は僕の知っている人物だった。
「やっほー! やっと出たね!」
「え……志木さん……? なんで……連絡先……」
「ん? 藪沢くんに聞いたから!」
「いや、僕のプライバシー……」
不意に電話の向こうから聞こえる車の音。志木さんどうやら外にいるらしい。わざわざ出先からなんの用事だろうと思い聞こうとすると、家のチャイムが鳴った。
「あ、ごめんちょっとインターフォン鳴ったから出てくる……」
通話状態はそのままに玄関へと向かう。
来客者の確認をついうっかり怠って、顔だけ出す形で扉を開けるとそこには、電話の向こう側にいたはずの志木さんが立っていた。
彼女は、僕が出てきた事を確認するとスマホの通話終了ボタンを押す。そして、扉を閉められないように素早く足を掛けた。
「寝起き? もう昼過ぎだけど!」
「え、いや、なんでここに……?」
電話以上に不可解な出来事に、頭が混乱する。
志木さんはショルダーバッグから一枚のはがきを取り出して僕に見せつけた。
「藪沢くんに借りてきちゃった! ほんとは藪沢くんにね、連れてきてもらおうと思ってたけど今日用事あるって言うからさ。苺花が連れてきたんだよね」
「あ、年賀状……っていうか、僕のプライバシーっていつなくなったの……」
「まあまあ、細かいことは気にしないでさっ。……って、逃げようとしないの!」
志木さんは僕から視線を逸らすと右に手を伸ばす。そういえば、連れてきたなんて言っていたけれど、他に誰がいるんだろうと扉を全て開けると、そこには志木さんに首根っこ掴まれた芹さんがいた。
「……」
一瞬合ってから、逸らされる瞳。
志木さんは困ったように苦笑いをした。
「家あがっても大丈夫な人?」
「いや……家は……えっとじゃあ僕、着替えてくるから……」
「わかった! 出てくるまでここでずっと待ってるからね!」
いつものように軽い口調で、にこにこと笑っているものの、つり目がちの桃色の瞳が、口以上に圧力を掛けてくる。これは本当に、逃げられないやつだと観念した僕は、猫のように大人しく掴まれたままの芹さんを一瞬見やる。そのしおらしい姿に思わず猫耳の幻覚を見そうになり首を振った。
「うん、ちょっと待ってて……」
扉を閉めて、息を吐き出す。
簡単でいいやと、Tシャツに黒のズボンを履き、寝癖のついた髪を纏めて縛る。久しぶりにつけた腕時間を確認すると、午後三時を少し回ったところだった。
履き古したスニーカーを履いて、玄関扉のドアノブを握り、ひとつ深呼吸をする。
腹を括って扉を開くと、二人いたはずのその場所には一人しかいなかった。
「ごめんお待たせ……って、あれ、志木さんは……?」
「……帰った」
共用通路の手すりに寄り掛かるようにして待っていた芹さんは、ぶっきらぼうに答える。
心なしか、少し疲れたような顔をしている芹さんに、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ちくりと胸が痛む。
「この辺さ、ファミレスとかないから……公園で良い、かな?」
「うん。どこでも」
アパートから少し歩いたところにある、一軒家に囲まれた小さな公園。誰もいない事を確認して、木製のベンチに並んで腰掛ける。
途中の自販機で買ってきた桃のジュースのプルタブを開けながら芹さんは言った。
「……元気そうで、良かった」
「あ、うん……あのさ、芹さん。ごめん、今週……」
「べつに……」
お互いに探り合いながらの会話。重い空気。
「怒って……る?」
「……怒ってない、けど。ねえ、あたし、なんかした?」
「え」
「火曜日のこと。言いたくないなら、言わなくても良いけど……」
真夏の公園に響く、セミの声。祭り会場になっている広場から微かに聞こえてくるざわめき。
僕はなにも言わないまま、また、昔のことを思い出していた。
*
小学生の頃は、隅で目立たない、運動は苦手で、勉強は少しだけ得意な、そんな子供だった。何があったわけでもないけれど、みんなと同じものを持っていないという自分では抗えない事実に対して、形容し難い気持ちはいつでも付き纏っていた。
──その後、中学生になっても僕は、教室の隅で静かに過ごしていた。
ただ淡々と過ぎていく季節。ずっとそれが続くのだと信じて疑っていなかった僕の考えが甘かったと知るのは、中学三年生になったばかりの頃だった。
受験生にもなると、これまではあまり意識してこなかった"学力での競争"が突然激しくなっていく。
僕は勉強は嫌いではなかったから、トップ集団とはいかずとも常に上位の方には名前があった。
クラスの中で決して目立ちはしないけれど、教師からの評価は悪くなかった僕のことが気に食わなかったのだろうか。それとも、親からの圧力がない僕のことが妬ましかったのだろうか。もしくは、輪に入ることの出来ない僕だったから、ちょうど良かったのか。理由がわからないまま、それは、前触れもなく始まった。
『アイツの事触ったら菌がうつるから触んなよ!』
誰が言い出したのかもわからないままクラス全体に広がっていく悪意を孕んだ空気。
クラスメイトの反応は様々だったけれど、もともと友達と言える人が少なかった僕が完全に孤立するまではあっという間だった。
それまでは話しかけてくれていたクラスメイトも、露骨に僕を避け始め、夏が来る頃には学校で一言も発さないまま下校する日の方が多くなっていた。
──それでも、学校には毎日登校していた。
母親にバレたくない、心配させたくないという気持ちが、僕を動かしていたのかもしれない。
傷付いているという事実に目を背け続けながら毎日を過ごしていた僕の心を完全に折った出来事が起こったのは、夏休みに入る直前、担任がそのいじめの実態を知ったことがきっかけだった。




