57輪目 萩ー思案ー
「……今日はもう帰って、ゆっくりしたら?」
行き場をなくした右手を、胸の辺りで握り込んで絞り出すようにしてそう言った芹さん。
どんな表情をしているのか——僕は、それを知るのが怖くて、視線を地面に落とす。
「……ごめん……」
来た道をひとり戻ろうとした瞬間、自販機横の校舎に繋がる出入口から見知ったシルエットが視界に映った。その人物から僕に投げかけられた言葉を聞こえなかったフリをして、若干早歩きでその場を立ち去る。
どうして、こうなるんだろう。どうして、なんて思う必要なんてないか。すべて僕が悪いんだから。
そのまま昇降口を抜けて、駅までの道を足を止めずにいつもよりも早いペースで進んでいく。
改札を抜けてホームに降りると、タイミングが良かったようで、すぐに電車が到着した。
階段すぐの扉から乗り込んで、空いていた一番隅の席に座る。
ぐったりと仕切りに寄りかかって目を閉じる。もう、なにも考えたくない。
そう思うのに、僕の頭は昔のことを思い出していた。
*
物心ついた時から父親の存在は無く、母親も毎日働きに出ていた。
いわゆる鍵っ子だった小学生時代。まだ小さかった身体には大きすぎる家で、近くの公園から聞こえてくる楽しそうな声を聞きながら一人過ごした放課後の時間。
僕は、みんなが持っているものを持っていなかった。
最新のゲーム機、みんなが毎月買っている漫画雑誌、流行りのスポーツブランドの服と靴。
学校で配布される注文用紙で買える、裁縫箱やピアニカ、習字道具に至るまで──格安ディスカウントショップで揃えた物を渡されていた。
もちろん、指定ではなかったからそれでも問題は無かった。
けれど、羨ましくはあったのだ。
みんなでお揃いの、キャラクターがプリントされた学習道具。
それから、それを買ってもらえるその環境が。
隅っこで目立たない生活を送っていたけれど、それが自分の居場所だと、日陰にいるのが当たり前なのだと、その頃はなんにも疑問に思っていなかった。
車内アナウンスが、乗換駅の到着を知らせる。降りる準備をして立ち上がり、電車が完全に止まるのを待つ。
寄り道せずに家に帰り、そして、今日はバイトの出勤日であることを思い出した。
バイトは夜からだから、それまで寝て、起きたら準備しよう。そう考えて僕は身支度もそこそこに布団に潜り眠りについた。
*
「おはようございます……」
目覚ましもかけずに寝ること数時間。完全に寝起きの状態で出勤した僕に、料理長は怪訝な顔を見せた。
「……なんや辛気臭い顔しおって」
「え、そうですか? 寝起きだからかもです」
「ほんまにそれだけかぁ?」
椅子から立ち上がってずい、と僕の顔を覗き込んだ料理長。思わず後退った僕は、真後ろの外に繋がる扉に背中を打ち付ける。
「いたっ」
「……大丈夫か?」
「あ……はい」
ちょうどドアノブがヒットした辺りをさすりながら更衣室へと向かい、制服に着替えながら考える。
──そういえば。
芹さん、今日は早く帰りたいと言っていたのに、あのまま学校に置いてきてしまった。
それに、僕が立ち去る寸前で声を掛けてくれた彼は、気を悪くしていないだろうか。
ひとつ考え始めると、次々に浮かぶ悪い妄想。良くない思考の癖だと思いつつも自分ではどうすることも出来ない。
そんな心持ちでは普段の仕事のクオリティーは出ず、パスタを焦がしプチトマトをばら撒き、包丁で指を切ったところで「お前もう帰れ」と料理長からの戦力外通知を受けることとなった。
「クッソ、なんで絆創膏切れとんねん……」
コンビニの小さなビニール袋をぶら下げた料理長は、それをぽいと僕の方に放る。
……店にある絆創膏が切れていたうえに、思っていた以上にざっくりと切ってしまったから自分で買いに行けず、料理長自らわざわざコンビニに走ってくれた……という訳だ。
「あ……何から何まですみません……」
「ほんまやでまったく」
店の方はバイトに任せることにしたらしい料理長は、そう言いながら椅子に腰掛ける。僕が絆創膏を巻き終わったのを確認して、料理長は立ち上がった。その手には手のひらサイズの小箱が握られている。
「ちょいええか」
「……はい」
これは……説教だな、と腹をくくり料理長に着いて行った先は店の裏側の、通りからは目立たない位置にひっそりと佇んでいる喫煙所だった。
「……たばこ、吸うんですか」
店舗の壁に二人並んで寄りかかる。ちらりと横目で窺った料理長は、たばこに火を付け咥えたまま慣れた手つきで赤と白の箱にライターを仕舞い、それを胸ポケットに入れた。右手の人差し指と中指で挟み込んだそれを口から離すと、夏空に白い息を吐き出す。
向こう側に流れていく白い煙。高校生を喫煙所に連れてくる行為はともかくとして、さりげない気遣いが垣間見えたような気がした。
「……まあ、たまにな。贅沢品やし」
「味わからなくなるって言いません?」
「そら、メンソールなら多少そうかもしれへんけど……って、わからんか」
「そうですね……」
たばこの話はよくわからないけれど、味がわからなくなるというのは僕の勘違いなのかもしれない。料理長が作る料理はいつでも狂いなく、美味しいワケだし、美味しい料理を提供するのが仕事なわけで。
「……なんかあったん」
「え?」
「学校かなんかで」
「んー……」
なにか……あったにはあったけれど、あれは完全に僕が悪い訳で。
答えあぐねていると、二本目のたばこに火を付けた料理長は言った。
「あの女の子と喧嘩でもしたんか?」
「……なんでですか?」
「腕時計してへんかったから」
「……良く見てますよね、そういうところ……喧嘩っていうか、ちょっと……」
なんと言えば良いのだろう。喧嘩ではないし、すれ違っている訳でもなく、ただ一方的に僕が突き放したという事実があるだけで。
ただ、それを一から話すには僕のなけなしのプライドが邪魔をする。知られたくない過去は、僕だけのものであればいい。
「……僕のせいで芹さ……友人を傷付けてしまって。それで、嫌われてしまったかなって……」
「ちゃんと話したん?」
「それは……まだ……」
「最初っから思っとったけど、悪い方に考えすぎちゃうか? 世の中そんなに悪い方には動かへんよ。それにな」
夜空に吐き出される煙。料理長は、見上げたまま言った。
「……詳しいことはわからんけど、その子はお前の事嫌いになんかなってへんやろ。多分な。そんなに想える相手なら、向こうも同じくらい思ってるんちゃうの。いっぺん、ちゃんと話してみぃや」
少しの沈黙を破ったのは、料理長を呼びにきたバイトの先輩だった。用件を聞きたばこを消した料理長は、片手をひらりとあげて立ち去っていく。
その後ろ姿を見送って、壁に背を付けたままずるずるとしゃがみ込む。
──料理長の言ったことはもっともだと思う。芹さんに僕は謝らなくちゃいけないし、きちんと話して誤解を解かなくてはいけない。
それでも。
いくら想っていても信じていても、向き合うのは怖い、向き合って傷付くのが怖い。はっきりと自覚してしまったその感情は、僕の中で暗く渦巻いていく。
それはきっと、過去の出来事がそうさせている。
これは、一生引きずっていかなければいけないんだという理不尽さと無力感に根底から何かがぐらついて崩れ落ちる。
急いで家に帰って、支度もそこそこに布団へと潜る。苦しいほどの動悸に、いつもより早い呼吸。
──翌日。最悪の気分で迎えた朝は、あまりに眩しすぎて、布団の中にくるまったままやり過ごすしかなかった。




