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ききょうくんとなずなさん  作者: Nas
二年生の頃のお話(前)
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56輪目 クロユリー呪いー

「ちょっと、アンタ荷物散らかしっぱなしで……」


 母親の声と、部屋の扉を開ける音でゆっくりと意識が浮上する。昼ごろに帰ってきてからずっと眠っていたらしい。

 寝起きの、気怠くぼんやりと重たい頭では起き上がる気にもならず、全身すっぽりと掛け布団を被ったまま、曖昧に返事をする。


「……なに? 体調でも悪いの?」


 パチン、と電気を付ける音が聞こえて数秒、周りが少し明るくなり、母親の手によって掛け布団が遠慮なく剥がされた。

 自分の意思に反して開けた視界の先は真っ赤に染まっていて、今が夕方であるということを知らせていた。


「……悪く、ない」

「もー、それなら、忙しいんだから手を煩わせないでよ! お金はいつも通り置いてあるからね」

「うん……」

「じゃあお母さん仕事行ってくるから」

「うん、いってらっしゃい……」


 母親が部屋を出ていくのを見送って、重い身体を何とか起こす。

 水分も取らずに布団の中で寝こけていたからか、全身がカラカラに乾いていて、本能的に水を求めて台所へと向かった。

 昔から飲み慣れた味のよく冷やされた麦茶をコップ二杯分飲み干して、ダイニングテーブルにぐったりと身体を預ける。姿勢を正しておくのも辛いほど、心は弱りきっていた。


 ──芹さん、怒ってるかなぁ……。


 約束をすっぽかしちゃった訳だし、と溢れて止まらない悪い想像を膨らませる。

 これがきっかけで、嫌われてしまったらどうしよう。

 クラスのみんなにも、何か言われていたら。

 そんな訳ない、と否定しながらも考えるのを辞められない。


 散々寝た後だったけれど、なにをする気も起きなくてまた布団に潜る。

 携帯は見るのが怖くて、鞄の奥底に眠らせたままだった。



 窓の外から聞こえる新聞配達のバイクと、古いアパートを揺らしながら走るトラックの音で目を覚ます。薄らぼんやりと明るい空模様から察するにまだ早朝なのだろう。しかし、昨日の昼過ぎから寝続けていたから二度寝は出来そうにない。仕方がない、と身体を起こしてリビングへと向かい、テレビをつける。


 昨日よりかは幾分気分は晴れたような気もする。しかし、なんとなく重い身体はまだ本調子とは言えなかった。


 昨日、うっかり再会してしまったがために繰り返し思い出してしまう、記憶の奥底にしまっていたはずの中学校時代(いじめられていた頃)。

 ちびちびと麦茶を飲みながら、早朝のニュース番組を流し見していると、玄関の方からガチャガチャと音が聞こえてきてその扉が開いた。


「……起きてたの?」

「うん、さっきね」


 両目を微かに赤く染めた母親が帰って来て、僕の顔を見てそう言った。母親は、冷蔵庫の中に今日の昼食にするのであろうコンビニ弁当を仕舞い、続いて冷凍庫を引き出した。


「あ、お母さん」

「なによ」

「そこのさ、みかんのアイス食べていいよ」

「これ?」


 母親の手によってつまみ上げられた青とオレンジのパッケージのアイス。

 僕は、レジに立っていたアイツの顔を思い出しそうになり目を逸らす。


「そう、それ……気分じゃなくなった、から」

「じゃあ後で貰うわ」

「……うん」


 俯いた僕の前に置かれる、スーパーのビニール袋。

 中身を確認しなくともわかる。いつも買っておいてくれるパンだろう。


「じゃあお母さん寝るけど、アンタは今日学校行くの?」

「多分……」


 学校、やっぱり行かなくちゃいけない、よなぁ、と思いながらもいまいち気乗りしない。


「行く、かな……」

「そう? わかった。じゃあ、おやすみ」

「うん。おやすみ……」


 母親は一度洗面台に寄ってから、自室へと籠る。

 起こしてしまっては悪いからと音量や下げたテレビの中のアナウンサーが、今日は真夏日になると知らせていた。


 茹だるような暑さの中、いつもよりも随分と時間を掛けて歩く駅までの道のり。身の危険すら感じる程の外気温が、昨日からの鬱々とした気分に更に拍車を掛ける。

 改札を抜けてホームに降りると、目的地に行く電車が出発するところだった。ますます沈む気持ちで僕は、ホームに備え付けのベンチに力なく腰掛ける。

 次の電車までは、おそらく十分か十五分程だろう。

 …….そういえば、腕時計をつけてくるのを忘れた──と、ひとつため息を吐く。

 のんびり、というよりかはだらだらとした動きで辿り着いた久しぶりの教室は、最後の仕上げが行われているようで、活気に溢れていた。


「あ、萩くん?」

「あ、芹さん……おはよう。昨日はごめん……」


 入口から様子を伺っていた僕をすぐに見つけてこちらに駆け寄る芹さん。一週間ぶりくらいに見る彼女は少し日に焼けたような、そんな気がした。


「いや、それは大丈夫なんだけど……なんか顔色悪くない?」

「そう? ……暑かったから、来るまでに疲れちゃったかも」

「え、それはまずいよ。お茶持ってる? 自販機行く?」


 芹さんはそう言うと、近くで作業していたクラスメイトに「少し出てくる」と声を掛けた。その姿は、クラス委員として様になっていて、ジャンケンに負けて渋々引き受けたようには見えなかった。


「じゃ、行こっか」


 登校してきた姿そのままに、今来た道を少し戻り自販機へと向かう。

 なんとなく二人の間にいつもよりも距離感があるような気がするのは、僕の気のせいだろうか。


「あ、あのさ……」


 僕の様子を窺うようにこちらを見上げた芹さんは、言いにくそうに何度か小さく唸ってから、口を開いた。


「萩くんが大丈夫なら……今日ちょっと早く帰っても良いかな……?」

「あ……うん、大丈夫。何かやっておくことある?」

「えっとねぇ……」


 二人で話しながら、自販機まで続く道を歩く。良かった、いつも通りだ……と安心した僕は、内心胸を撫で下ろした。

 自販機の前につくと、芹さんはラインナップを眺めながら言う。


「お茶……でも良いかもだけど、スポーツドリンクとかにしといたら?」

「そうしようかな……」


 小銭を自販機に投入して、ボタンを押す。大きな音を立てて落ちてきたペットボトルを拾いあげて今来た道を戻ろうとした僕の腕を、芹さんの手が掴んだ。


「ちょっと待って、あたしも何か買うから──」


 芹さんの手が僕の腕を離すより先に、反射的にその手を振り払う。

 驚いたような彼女の表情と、行き場をなくした芹さんの指先。

 僕は咄嗟に謝罪の言葉を口にした。


「ご、ごめんっ、びっくりして」

「……や、大丈夫、だから」


 二人の間に、今までにない重たい空気が流れる。僕は──いやきっと芹さんも、何を言えばいいのか分からないでいるのだろう。


 数分にも数十分にも感じられる沈黙を破ったのは、芹さんの方だった。

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