55輪目 マリーゴールドー絶望ー
先生とご飯を食べた後、軽く校舎を案内してもらって、学校から徒歩十分の学生寮になっているマンションに着いたのは十五時頃だった。
オートロック式の入口を開けてもらい、エントランス常駐の係員に声を掛けて、鍵を貰う。鍵に書かれた部屋番号を確認して入室すると、ビジネスホテルのように整えられたベッドと簡素な作りの勉強机が置かれた部屋が僕を出迎えた。その他にもタオルなどの必要最低限の物が備え付けられているこの部屋は恐らく、入寮体験用の部屋になっているのだろう。
荷物を下ろして、椅子に座る。あらかじめクーラーの付けられていた部屋の室温は外から帰ってきた僕の肌に心地良かった。
この後は、十八時から二十一時の間に夕食があって、明日は十時までに退出すれば良い。バイトや文化祭の準備で忙しい時間を過ごしていたから、こんなに暇なのも久しぶりだ……と机の上に置いたパンフレットに手を伸ばして、ページを開く。
先生がいる──ということを差し置いても、環境的にもここが一番自分に合っているような気がする。田舎特有ののんびりとした空気に、木材をメインに設計された、温もりのある校舎。それから、在校生の雰囲気。
寮に入るなら慣れ親しんだ土地と親元、それから友人達と離れて、一人暮らしになる訳だけれど。
「一人暮らし……しようかなって言ったらお母さんはなんて言うのかな……」
随分若いうちに僕を産んで、父親は物心ついた頃にはいなくて……それでも、お金の心配をしたことはなかった。
「楽になるって、思うかな……」
よく考えてみたら、十六歳で子供が出来たのだとしたら、今の僕と同い年なのだ。一番楽しい時期を出産と子育てに費やした苦労は、想像してもしきれない。
パンフレットの、学費のページで手を止める。入学金、授業料……在学中にかかる、軽く数百万を超える額に目眩すらしそうになる。ただ、特待生に選ばれれば、その限りではないらしい。
高校三年間での貯金と、大学に入学してからのアルバイトでどれくらい賄えるのだろう。場合によっては奨学金も視野に入れないと──そんな事を考えながらうとうとしている間に、気が付けば机に突っ伏したまま寝ていたらしい。次に目を覚ましたとき、外は夕陽で染まっていた。
時間を確認するために手繰り寄せた携帯は、チカチカと光ってメッセージの受信を知らせていた。
『明日来れる?』という、簡素な──芹さんからのメッセージ。
ここを八時くらいに出れば、午後には行けるかな、とあたりをつけてそう返信する。間髪入れずに返ってきたスタンプに少し口元を綻ばせてベッドから立ち上がる。
ちょうど良いし、ご飯でも食べに行こう──僕は、オープンキャンパスで貰った寮内の簡易マップを持って二階にある食堂へと向かった。
「こんばんは、体験の子ね? ご飯は大盛りにする?」
「あ……いえ、普通で大丈夫です」
白米、味噌汁、メインのおかず……今日は、デミグラスハンバーグだった。それから、小鉢、ミニデザートの載ったトレーを受け取って、隅の方のカウンター席に座る。ご飯と味噌汁はおかわり自由らしい。
「……いただきます」
住み込みで働く寮母さんが作っているらしいご飯。それはとても素朴で家庭的な味だった。
──ちゃんとしたご飯が朝夕食べられて、家賃が五万台はかなり安い気がする……と思いながら食べ進める。
僕の背後に広がる食堂のスペースには次々人が来ている様で、ずっと賑わっていた。
「ごちそうさまです。美味しかったです」
「あら、ほんと? 良かったわぁ。朝ごはんは六時から九時の間で来てね。あ、一階と二階は共用スペースになってるから自由に歩いてみていいわよ」
空になった食器を返して、共用スペースを見て回る。一階にエントランスと談話室、それから、大浴場。二階に食堂と寮生が使えるキッチン、個室のシャワーがあった。せっかくだけど今夜はシャワーにしよう……そう思い自室に戻った。
──翌朝六時。
荷物をまとめて食堂に向かうと、朝早い時間だというのにまばらに席が埋まっていた。昨日と同じ様に食事を受け取り、カウンター席につく。
ご飯に味噌汁、目玉焼きと付け合わせのおかず。寝起きの身体に、暖かい味噌汁が沁みる。
「ごちそうさまです」
「体験の子よね? 朝早いのね〜」
「はい、地元に戻って、文化祭の準備に参加しようかな、と」
「いいわねぇ〜! じゃあまた、会えるのを楽しみにしているわね」
「あ……はいっ」
「いってらっしゃい」
いってらっしゃい、か。何となく、また会えることを楽しみにしてくれているような気がして、僕もすっかりその気になっていた。
……ここで過ごして気付いた事だけれど、寮母さんは全ての寮生の顔を覚えているらしい。誰と会っても、自然に声掛けをしているのだ。
良いなぁ、あったかい。
僕は、エントランスで鍵を返して、荷物を持ち直す。また、来れたら良いなぁという淡い気持ちを抱えながら駅まで向かった。
*
その後、家の最寄り駅に着いたのは十時半頃だった。
座ったままで凝り固まった身体を伸ばしてから、改札を抜ける。一度家に帰ってから学校に行っても十三時までには着けそうかな……と、腕時計を見ながら頭の中で計算をする。
ジリジリと焼けつく様な暑さに、アイスでも買って帰ろうかな、と家の一番近所のコンビニに足を運び、色々ある中から、みかん味のアイスを選んで手に取った。
他に買うものはないかな──と店内を一周して、結局アイスだけを持ってレジに向かう。
「いってらっしゃっせぇ。袋ご利用すか?」
随分と砕けた話し方をする店員だなあと、小銭を渡すついでにその顔を見る。
その瞬間、心臓がひとつ高鳴るのを感じた。
少し大人っぽくはなっているけれど、目の前にいるのは、間違いようもない中学生の頃の同級生。
「百二十円になりま……って、あれ? もしかして、萩?」
真っ直ぐに目を見て呼ばれた名前。きっと、僕が見つめていたのも悪かったのだろう。
──大丈夫、もう、昔とは違う。
そう思うのに、変な鼓動を繰り返す心臓に、乱れそうになる呼吸。
記憶の奥底に追いやった出来事が、黒く溢れて、僕を支配する。
「久しぶりじゃね? 卒業以来? そういえば今度みんなで会うんだけどお前も来ない?」
「──ごめん、急いでるから」
小銭をちょうど、レジに叩きつける様にして渡し、震える指で商品を受け取ってコンビニを出る。
真上から差す太陽が熱い、コンクリートで反射する熱で暑い。
それなのに、僕の身体は酷く冷え切って震えていた。
結局、その日は学校に行くことができなかった。




