54輪目 タチアオイー豊かな実りー
オフィスチェアから立ち上がった料理長は、僕の目の前に座り机の上のパンフレットを拾い上げる。
パラパラ……と数ページ捲った後、その手を止めてパンフレットの一ページを凝視し、驚いた声で料理長は言った。
「……今ってほんまに、学費高いねんなぁ」
「そう、ですよねぇ……」
専門学校や大学の授業料は、年々右肩上がりらしい。奨学金を借りることも出来るけれど、それを返済するのは結局未来の自分なわけで……。
「ふーん……てか、この道進みたいんか?」
残りのページを流し読みした料理長は、パンフレットを閉じると僕をまっすぐに見て言った。
「……もしお前が、本当に料理人目指したいならウチに就職するっちゅう手もあんで」
「……え?」
「学校で何年もかけて身につける技術は、現場にいれば数ヶ月で身につくで……まあもちろん業務外で勉強せなあかん事もあるけどな」
厨房から名前を呼ばれた料理長は「今行くわ」と返してコック帽を被ると店内に繋がる扉のノブを握って続けた。
「まあ、一つの候補としてとっときぃや……それとな」
真面目な顔から一転、ニヤけた表情で料理長は言った。
「それ(それ)、女からのプレゼントか? よう似合ってんで。でもな、キッチン入る時は外してこいよ?」
「……そっ、そうですけど……いや、わかってますよ。厨房で着けれないことは……」
*
バイト先のレストランに就職──だなんて、考えた事もなかった選択肢。
だけど、料理長の腕の良さは近くで仕事をしているから知っている。それに最近、地域誌で取り上げられる事も多くなっていて、レストラン自体の売上も僕が入った一年前よりも増えていると言っていた。
ここで、本格的に働けることが出来るのならば──それも、良いのかもしれない。
「おぉ、お疲れさん」
七時間ちょっとの労働を終えて休憩室に戻った僕に掛けられる労いの言葉。「お疲れ様です」と返事をして、コック帽を外す。
前髪を手櫛で適当に直して、料理長に声を掛ける。
「料理長は……どこか専門学校とか行ったんですか?」
「いや、行ってへん。料理人んとこで修行した」
「へ、へえぇ……!」
バリバリ叩き上げの職人さんだ! とその経歴にますます尊敬と憧れを感じる。
「……大変じゃなかったでしたか?」
「まぁ……全然畑違いやったし大変やったけど、今は楽しいで。自分の店も持てたしな」
「畑違い……元々は違う業界にいたって事ですか?」
「あ? その話は……ま、お前が酒飲めるようになってからやな」
そう言って意味深に笑った料理長は、意味深に笑って「遅くならんうちに帰れよ」そう言い残して厨房へと向かっていった。
お酒飲めるようになったらって……あと三年か、と頭の中で計算をする。その時僕は、何をしているのだろう?
でも何故か、料理長との縁は続いている──何故か、そう信じて疑わなかった。
*
その日から少し時は進んで、お盆明けの、最初の平日。
僕は、ボストンバッグに詰めた荷物を抱えながら海を望む路線を走る電車に揺られていた。
今日は、かつてお世話になった先生から紹介された学校のオープンキャンパスの日。
今日行く学校は、都心部に近い僕達の住むところから三時間ほど離れた、海に近く、低いけれど山もある、そんな場所にある。
ふわ、と欠伸をして目を擦る。十時から始まるオープンキャンパスに参加するためには家を朝六時に出る必要があった。朝早いのは慣れているとはいえ、この時間に三時間の通学路はやっぱりしんどいからここに通うなら寮生活になるのかな、などと考えながら左手につけた腕時計で時間を確認する。
──あと一時間くらいか、と背もたれに身体を預け目を閉じる。
それから一時間後、目的の駅名を告げるアナウンスで目を覚ました。知らない間に寝落ちしていたらしい。
電車を降りるとそこには、ベンチがいくつかあるだけの殺風景なホームが広がっていて、見渡す限りの田んぼと、遠くの方には山が見える。
心なしかいつもよりも大きく聞こえるセミの声を聞きながら歩くこと十五分。
目の前に現れたのは、温かみを感じる建築の、自然と調和した大きな校舎だった。
オープンキャンパスは、十時から十三時の約三時間。学校の説明、学科の説明を全体で受けた後に二本の体験授業が受けられて、その後は入試の説明や学費の話。
体験授業を終えてパンフレットを見ながら学費などの説明を受けている間、僕は先程の授業の内容を思い出していた。
内容は、心理学の入門をかなり噛み砕いたもので、恐らく高校生向けにアレンジしているものなのだろう。
元々興味のある分野だったのと、先生から貰った本を読んでいたから、内容がするすると入ってきて面白かったなあと思いながらパンフレットに目を落とす。
説明を受けた後は、解散というのがスケジュールだったけれど、この後有志の学生によるキャンパス内の案内があるらしい。
僕は、それには参加せずに、敷地内にある食堂へと向かった。
*
「萩くーん! こっちこっち」
隅の方に席を取っていた人物が、僕を見つけて手を振る。
気持ち早歩きでそちらに向かい、正面に立ち挨拶をした。
「先生、声掛けてくれてありがとうございます」
「どうだった?」
「自然も多くてのどかな感じで、授業も楽しくて……今までで一番良い感じでした」
「そっかそっか。それは良かった。あ、お昼まだだよね? さっき学食の無料券貰ったでしょう?」
「あ、はい」
「一緒にお昼にしよっか」
にっこりと笑った先生に対して断る理由もなく、二人でメニューを見に行く。
日替わりの定食が和食と洋食それぞれ一種類ずつと、常設メニューの麵物や丼物などがあるらしい。思っていたよりも多い選択肢に迷いながら選んだのは、和食の日替わり定食。先生は、夏らしくさっぱりとした冷やしうどんを注文していた。
中学生の頃は当たり前のように毎日一緒にお昼ご飯を食べていたけれど、改めて向き合って食べるのは、何となく気まずさを感じる。僕は、たいして気の利いた話をすることもできず、先生の質問にただただ答えるばかりだった。




