6輪目 ラベンダーー期待ー
「そういえば、バイト決まったって?」
全教科のテスト返しが終わり、遠足を三日後に控えた今日。まさに今日こそが初出勤日だった。
返却されたテストの見直しをしながらその言葉に二つ返事をする。
「何やんの?」
返却されたテストを早々に机に放り出した芹さんが小さく首を傾げた。
「個人経営のレストランのキッチン」
「へー料理できるんだ?」
「うーん。いや、そんなにしたことはないかな……」
「そっか。まあ、良いところだといいね」
「うん。賄いもあるし長く続けられたらいいなぁ。面接してくれた人はいい人そうだったし」
「そうなんだね」
短く返事をした芹さんの指が僕の手の中のテストの結果を奪い取る。
「あっ」
「へー萩くん、頭いいんだね」
はい、と返された紙に並ぶ点数。その数字に芹さんは素直に感心しているような素振りを見せた。
「芹さんは? テストどうだったの?」
僕がそう聞くと、言葉の代わりに結果一覧を差し出した芹さん。そこに並ぶ数字は、文系理系ではっきりと明暗が分かれていた。
「理数苦手なんだ」
「あと英語もね」
結果を返すと芹さんは丁寧に二つ折りにして、机に放りだした答案用紙と共に鞄へとしまい込んだ。見直しをするつもりは特にないらしい。
「バイト何時から?」
「シフトは五時からだけど、初日だからちょっと早めに来てって」
「そうなんだ。頑張ってね」
全ての授業が終わり、帰りのホームルームも終わった。
テストの見直しの為の居残りもそこそこに校舎を出て、緊張で絡まりそうになる足を叱咤しながらバイト先へと向かう。家の最寄りのひとつ手前の駅で電車を降りて改札を出て、横断歩道を渡って右に曲がればすぐにバイト先へとたどり着いた。
あらかじめ教えられていた裏口へと回るとそこには面接をしてくれたオーナーの女性の方が立っていて僕を待ってくれていた。
「萩くん、こんにちは」
「こんにちは。今日からお世話になります」
軽く会釈をすると「そんなにかしこまらなくていいわよ」と優しい声で僕にそう言った。
「じゃあ、今日はこれからロッカーとか案内するわね」
裏口から入ると、玄関のようなスペースがあり、その奥に事務スペースが広がっていて、パソコンと大きな棚と、ロッカーが置いてあった。その部屋の一角に、カーテンで仕切られた小さなスペースがあり、そこは更衣室であると教えてくれた。オーナーさんは部屋のほぼ真ん中に鎮座しているテーブルに僕を招いて、椅子に座るように指示した。
「契約書とか通帳のコピーとか預かるわね」
「あ、お願いしますっ」
クリアファイルにまとめた書類を手渡す。オーナーさんはその中身を確認して、そのまま受け取った。
「このレストランは夫婦で経営しててね、私は事務仕事一般を担当してるので書類関係とかの質問は私にしてね。じゃあ、着替えて行きましょうか」
コック服と帽子、それからエプロンを受け取り、カーテンで仕切られた更衣室で着替える。
初日はまず、先輩のバイトの人から備品や食材の場所や種類を教えてもらい、その後はずっと洗い物をしていた。
二十一時、初勤務が終わってコック服から制服に着替える。
うねって不細工になった前髪を整えてカーテンを開けると、料理長の梅木さんがパソコンの前に座っていた。
「お疲れさまです」
「おう、お疲れさん。初日どうやった?」
「結構忙しそうで、大変そうだなあと思いました」
「まあちょうどピーク時やったもんな。そや、これ持って帰り」
梅木さんはプリンターから紙の束を取り出しクリップで留めると僕に手渡した。
十枚程度のその紙には、レシピが載っていた。
「次来たらサラダの盛り付けやってもらうから次までに目ぇ通しとき。次いつやったっけ」
「えっと、明後日です」
「じゃあ、また明後日な」
厨房へと向かうその後ろ姿に、改めて挨拶をする。
レシピを大切に鞄に入れて、僕は帰宅した。
「サラダ五種類……。これは覚えて行ったほうがいいのかな?」
自室の机に向かい、レシピを広げる。幸いにも、暗記力には自信があった。
見慣れない食材の名称に四苦八苦しながらも僕はサラダのレシピをなんとか数個暗記して、二日後、二回目の出勤日。
覚えたレシピを復唱しながらレストランへと足を進める。
そっと裏口を開けると、事務所には誰もいなかった。
ロッカーに荷物を入れて、制服に袖を通す。
未だ見慣れないこの姿が、見慣れる日──板につく日は来るのだろうか。
出勤前のルーティンである髪の毛を絡めとる為のコロコロと、体調チェックをする。
ボールペンとメモ帳。それから四つ折りにしたレシピをポケットに入れて、緊張しながら厨房へと足を踏み入れる。
「おはようございます」
挨拶をすれば先輩たちからも挨拶が返ってくる。
マニュアル通りの手洗いをして、僕は料理長の元へと向かった。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おー、おはよう。レシピ見てきたか?」
「はい、見て……覚えてきました」
「そらええわ。じゃあ、一回確認してそれからオーダー作ろか」
料理長は他のバイトに指示を出し僕をサラダの盛り付けスペースへと案内した。
「新人はまずサラダとサイドメニューをやってもらっとる。レシピは置いてあんねんけどまあ覚えた方が早いわ。この台の下の冷蔵庫に食材は全部仕込んである。……ところで、サラダ頼むタイミングっていつが多いかわかるか?」
「え、と……一番、最初ですかね……?」
そう答えると、料理長は頷いた。
「せや。メインが来るまでに食べる場合が多い。だから、ここでもたもた作っとったら待ち時間が多くなる。それはあかんから、手際良く盛り付けなあかんで」
話していると、目の前にある機械から紙が印刷され、そこにはメニュー名が書いてあった。
「早速注文や。シーザーサラダ。作って見せるから、よう見とき」
料理長は、流れるような動きで作業台の上に備え付けられた棚から皿を出し、材料を出し、盛り付けていった。
はかりは使っているが必要ないくらい一度で正確にグラムを載せていく。
息をするのを忘れるくらいのそのパフォーマンス性の高さに思わず釘付けになる。
仕上げにドレッシングをかけて、完成。
「完成したら、あそこの配膳口にこの紙と一緒に置くんや。そん時は卓番とメニュー読み上げな。十六番、シーザーサラダお願いします」
完成したサラダが、ウェイトレスによって運ばれていく。
「じゃあ、次は作ってもらおうか」
野菜や調味料の定位置を教えてもらっていると、目の前の機械が紙を吐き出した。
「さっきの注文と同じやな」
手渡された紙にはシーザーサラダの文字。
皿を用意して、レシピを確認しながら材料を取り出す。
はかりで何度もグラムを前後しながら何とか作り終えて、料理長に確認してもらい配膳口へ運ぶ。
「三番卓、シーザーサラダお願いします!」
僕の盛りつけたものがお客様の元へと運ばれる。そして、それを食べてもらえる──その事実に不思議な高揚感を覚えた。喜んでもらえるだろうか。
ポジションへ戻ると、サラダの注文が追加で二件入っていた。
「一個作り終わって満足してんとちゃうぞ」
「は、はい!」
それからはずっと忙しかった。サラダの盛り付けと洗い物しかやっていないのに、手を休める暇もなく動き回っていた。
その間、料理長は僕を指導する口を止めなかった。
「同じもん来たら同時に作らんかい!」「レタスは全てで使うんやから、同時に計ってから仕舞え!」「この卓そろそろ出さなあかんぞ」
「お疲れさん。今日はあがってええで」
……そう言われた頃には、すでに二十一時になっていて、これまでにない程に集中していたからだろうか。どっと疲れていた。
「お疲れ様でした」
料理長にそう言うと、料理長は僕の肩を叩いた。
「着替えたら、事務所でちょっと待っとれ」
「……? はい」
何だろう? 着替えながら僕は悶々と考えていた。
仕事遅かったからから、怒られるのかな。向いてなさそうだから、クビとか?
着替えて更衣室を出ると、ふわりといい香りがして、そこには料理長がパスタを持って待っていた。
「す、すみません。お待たせしました」
「おう、今日の賄いや」
差し出されたのはミートソーススパゲティ。
このお店の、人気メニュー。
「い、いただきます」
フォークに麺を巻きつけて口に運ぶ。生麺のモチモチした食感に濃厚なミートソースが絡んで美味しい。そして、たまに鼻に抜ける粉チーズの風味がミートソースの味を引き立てる。
仕事終わりの賄いってこんなに美味しいんだ……。そう思いながらあっという間に平らげて、パソコンで作業をしていた料理長にお礼を告げた。
「あの、何かお話があったんじゃ」
「はなし?」
「今日、とろかったし、向いてないからクビ、なのかなあなんて」
俯き気味に話す僕に料理長は言った。
「お前、自己評価低すぎひんか」
ぱっと顔をあげると、こちらをまっすぐに見据えた料理長と目が合う。
「初日でそんなんわからへんやろ。メニューも覚えてきよったし、しっかりと俺の指示も聞ける。今はそれで十分や。まあまだ効率は悪いし鈍臭そうやけど」
料理長は僕の目を見たまま微笑んで続けた。
「俺は今の段階ではお前のこと評価してんねんで?」
……評価、してくれている?
僕はその言葉に目頭が熱くなるのを感じて、一生懸命に堪えた。
そして、真っ直ぐ前を向いてそれに応える。
「はい! 頑張ります!」
「もっと仕事できるようになったら、もっとええもん食わせてやるわ。これからよろしくな。──ききょう」