43輪目 ユズー恋のため息ー
──その日の放課後。
荷物をあらかた纏めた僕の耳に、はつらつとした声で僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。その方向──教室の入口を見ると、そこには帰り支度を済ませた藪沢くんが手を振りながら立っていた。
「萩ー! 準備終わってる?」
「あ、うん! ……芹さんも帰る?」
藪沢くんの呼びかけに応えて、席から立ち上がった僕は未だ座ったままの芹さんに声を掛ける。
メッセージアプリで誰かとやりとりをしていたらしい芹さんは、画面から目を離して僕を見上げた。
「いや、苺花たちと遊びに行くから先帰ってていいよ」
「そっか。じゃあまた明日」
「うん、じゃあね〜」
朝言ってた女子会は、本当に実行されるのか……とその行動力の高さに感心して入口で待っていた藪沢くんと共に教室を後にする。
のんびりと会話をしながら、初夏の風が心地よい通学路を歩く。
「藪沢くんはさ、進路ってもう決まってる?」
「俺? だいたい決まってるよ」
「そうなんだ……スポーツ系?」
「そうそう。スポーツトレーナーになろっかなって思って。整体師の国家資格取れるところに進学する予定」
「へええ、スポーツトレーナー……めちゃくちゃ藪沢くんぽい!」
整体……行ったことないから想像でしかないけれど、あの術着みたいなものを着て働く藪沢くんは、想像に容易い。むしろ、良く似合いそうだ……なんて思いながら、会話を続ける。
「萩は? なんか考えてる?」
「んー……進学しようかなとは思ってるけど、まだ迷い中……」
「まー、まだ時間はあるしゆっくり考えても……って、あ、電車!」
駅が見えてきた頃、踏切ではカンカンと音を鳴らしながら踏切のバーがゆっくりと降りていく。矢印で示された電車の行き先は、いつも僕が乗る電車とは反対方面──これから行く、藪沢くんの家の方面だった。
「えっ!? 走るの!?」
「だって待ちたくないもん!」
僕の数メートル先を駆けていく藪沢くんの後を追いかけて走る。そんなに長い距離でもないのに、走り出してすぐに開く二人の距離。残酷なほどの、瞬発力の差。
藪沢くんがすごいのか、僕がとろいのか、いや、両方か──と思いながら足を止めずに何とか走りきる。
カバンの側面にあるポケットから定期券を取り出して、改札を抜け、発車ベルが鳴る電車になんとか滑り込んだ僕は上がった息を整える為に扉へと寄り掛かった。
「体力なさすぎ」
「いや、ほんとに、それ……ともかく、電車に乗れて良かった……」
「そんなに?」
「そうだよ……」
何度か呼吸を繰り返して、最後に大きく息を吐く。
混んではいないけれど、座るところはない程には人が乗っている車内。入口付近で立ったまま会話をする。
「言われるがままに着いてきちゃったけど、急にお邪魔して大丈夫?」
「うん。特に見られて困るもんもないし」
十分ほど電車に揺られて、ホームに降り立つ。
藪沢くんの家は、そのまま乗り換えなしで歩いていけるらしい。
「近くていいなぁ……」
「あー、でも駅からちょっと歩くよ。萩んちって結構遠いよな、こないだバイト先行って思ったけど」
「なんだかんだ一時間半とかかかる日もあるかも……」
「それでちゃんと来てんの偉いじゃん」
「うん、学校楽しいからね」
駅前にある昔ながらの商店街を抜けて更に歩く。藪沢くん曰く、近くに大型ショッピングセンターが出来てからシャッターが下りている店が増えたらしい。
更に歩くと、住宅街に入り、築年数があまり浅くなさそうな一軒家が建ち並ぶ中に、マンションがぽつぽつと建てられている、不思議な街並みが広がっていた。
駅から十五分か二十分くらい歩いただろうか。藪沢くんは、自身の名字のネームプレートの下がった家の前で足を止めて、道路に面した門を開けた。
門と玄関の間には石が敷かれていて、その横には家に沿うようにしてきちんと手入れされた芝生の庭が広がっている。
新しさはないけれど、そこそこ大きな家を見上げて、今時珍しい引き戸に手を掛けた藪沢くんに素直に感想を告げた。
「立派な家だね……」
「うちのじいちゃんとばあちゃんがバブル期に建てた家なんだってさ。まー、あがってあがって」
ガララ、と音を立てて引き戸が開く。広い玄関に置いてある棚の上には、家族写真と、どこかのお土産のような置物が所狭しと並べられていた。木彫りの熊を置いている家庭が、今時あるんだと少し驚く。
「おかえり。あら、お客さん?」
玄関の音を聞いてわざわざ出迎えてくれたのだろう。白い割烹着を着た優しそうなおばあちゃんがゆったりとした声色で僕たちに笑いかけた。
「初めまして。お邪魔します」
「はいはい。ゆっくりしていってね。後でお菓子持って行くね」
「もー、俺やるからばあちゃんはゆっくりしてて。萩は先俺の部屋行っててよ。そこの階段あがっていちばん奥の右の部屋な」
案内されたリビングのすぐ外にある階段を指差して藪沢くんは言う。階段をのぼる僕の耳には、おばあちゃんの声と、それに返事をする藪沢くんの声が聞こえていた。
仲良いんだなぁと思いながらのぼりきって、いちばん奥の部屋を目指し扉を開けると、物が多いながらも綺麗に整頓された部屋が僕を出迎えた。
大きな本棚に並ぶ、漫画に、文庫本。その中に収まるのは、小さい頃に買ってもらったのであろう地球儀や図鑑。それから、何個も飾ってある輝くトロフィーとサイン入りのサッカーボール。テレビに据え置き型ゲーム機まで部屋に存在していた。
藪沢くんらしい部屋だ──と思いながら、使い古された勉強机に飾られた写真を眺める。
そこには、まだ幼い藪沢くんと、寡黙そうな、それでも優しさを浮かべたお父さんが並んで釣竿に釣られた魚を持って写っていた。
「お待たせー……なに見てんの?」
「あ、釣りするんだなあと思って」
「お父さんが釣り好きだからさ、よくくっついて行ってんの。麦茶しかなかったんだけど、麦茶でいい?」
「あ、いいよいいよむしろ手ぶらでごめん……」
「呼んだのは俺だから気にしないで」
藪沢くんは、コップとお菓子とお茶のボトルが置かれたトレーを床の上に置くと、ベッドの横に立てかけられていたミニテーブルを広げて僕のことを手招きする。
ベッドに寄り掛かるようにして座った藪沢くんの前にテーブルを挟んで腰を下ろす。
「……今日って、僕、なんで呼ばれたんだっけ……?」
「いや、なんでっていうか。芹さんとなんかあったっしょ?」
「えっ」
その言葉を聞いた僕の心臓が一瞬大きな音を立てる。
なんか、どころの話じゃない。藪沢くんは、全てを気付いている──といったように意味深な笑みを浮かべて、口を開いた。
「なんか……じゃないか、好きになった?」
「えぇ……藪沢くんエスパーなの……?」
僕がそう聞くと、藪沢くんは吹き出して言った。
「わかりやすいんだよ! 見てるこっちがもどかしいの! ……そういうわけで」
藪沢くんは、立ち上がって部屋を出て行くと、大量の本や雑誌を抱えてすぐに戻って来る。
「ほっといたらなんも進展しなさそうだからこれで勉強していきなよ」
バサバサ、とミニテーブルに置かれたパステルカラーの表紙の少女漫画に、有名なモデルやタレントが表紙を飾るファッション雑誌。
「これで勉強するの?」
「けっこー面白いよ。これとかおすすめ」
藪沢くんに差し出された漫画を受け取る。それは、最近実写映画になったタイトルが躍る、物語の一巻目だった。
まあ、このままだと進展しない、というのは事実だし……というか、僕はこれ以上の何かを求めているのだろうか……そんなことを考えながら、水色の表紙を捲り物語の世界へと入っていった。




