【藪沢くんとゆうがお④】
その日は、特にジメジメとした蒸し暑い日だった。
昨晩降り続けた雨のせいで朝の部活は中止。
俺は、纏わりつく空気のせいで重い足取りで家から三十分程のところにある学校へと向かっていた。
教室の扉を開けると、想定より少し早く着いたからか、まだ人はあまりいなかった。
あ……アイツ、来るの早いんだな。
俺は、窓際の特等席に座る萩 ききょうの姿を見てそう思う。彼は、静かに本を読んでいた。
そういえば──彼とは、話をしたことがない。そう気付いた俺は、どうせ暇だしと思い、話しかけてみることにした。
自分の机に荷物を置いて、彼の席まで歩いていく。萩は、俺が机に手を置いてからようやく顔を上げた。
「……藪沢くん?」
「話あるんだけど今いい?」
俺がそういうと、不安そうに揺れた瞳。別に、どうこうしようというわけではないのだけれど、と俺は思った。
「いいけど」
彼は読んでいた本を閉じると、席を立った。チラッと見えたタイトルは、俺の婆ちゃんが読んでいた推理ものと同じで、ふうんセンスいいじゃんなんて、そんな風に考える。
特に会話もないまま辿り着いたのは体育館裏。
開けた場所よりも湿った草木の香りが強く鼻を抜けていく。
探り探りの会話の中、俺はふと、いつか話した内容を思い出す。
「……芹さんとは付き合ってるの?」
口をついて出たのは、そんなストレートな質問。
「……いや、付き合ってないよ?」
それに対して、はっきりとした回答。彼の様子を見るに、それは嘘ではなさそうだった。
それならば……と俺は質問を変える。
「好きなの?」
「好き? ……いや、それは、考えたことないかなぁ」
やけにのんびりとした口調での回答。
もしかして芹さんは、こういう空気を気に入っているのだろうか──なんて思った。
「ふーん。じゃあ、告っていい?」
「……へ?」
「いや、だから。芹さんに告白していい?」
「……なんで僕に聞くの?」
それは、いつも一緒にいるから。
「なんでって、別にいいじゃん」
「そう……」
焦りを全く感じさせないその様子に、本当に恋愛感情ないんだなと少し驚く。それかもしくは、逆に余裕があるのかもしれないけれど。
「じゃ、まあそういうわけで」
俺はそう言うと、萩を置いて教室に戻る。
そして昼休み──人の目を掻い潜って俺は、ようやく、芹さんにコンタクトを取ることに成功した。
「……話したい事があるんだけど」
「……? え、いま?」
「そう、いま」
こてん、と首を傾げた芹さんは、隣で戸惑っていた萩にお昼ごはんを全て託すと俺の少し後ろを歩いて着いてきてくれた。
「ごめんね? お昼に」
「ううん。別に大丈夫。珍しいね」
「まあ、ちょっと」
「どこ行くの?」
「んー……」
俺は少し考えて、別棟の人通りのないところに行くことにした。靴を履き替えるのはめんどくさいだろうと思って。
「芹さんってさ、なんか……他の女の子とは違う感じするよね」
「え、そうかな? 別に……普通だと思うけど」
「そう? なかなか出来ないでしょ、屋上行ったり……あとは、問題児を先生にチクったりとか」
「あぁ……バレてたんだね」
「まぁね。他のヤツは気付いてないかもだけど」
そこで一度話を区切り、俺は再び口を開く。
「ねえ、俺、芹さんのこと気になってるんだけど……って言ったらどうする?」
「気になってる、って?」
「そのまんまの意味」
「そのまんま……」
芹さんの、空色の瞳が不安のようなものを映して揺れた。
望んでいないというように。
「入学式の次の日にさ、初めて芹さんのこと認知して、何となくずっと」
「……藪沢くん?」
「え?」
「さっきから、目の前にいるのにあたしのこと見てないでしょ?」
その言葉にハッとして、顔を上げる。
その時初めて、しっかりと目が合った。
「……ほんとだね」
俺がそう言うと、芹さんは真っ直ぐに目を見たまま口を開いた。
「ねえ、あたしを通して、誰を見てるの?」
「え……」
「さっきから、なんかちょっと上の空だから……」
芹さんを通して、誰かを見ている──そんなこと、自分自身は気付いていなかった。けれど──……。
「……ごめん、そうかも」
──正直、芹さんは可愛いと思う。
ぱっちりした瞳に、整った顔立ち。
欠点の見当たらない造形に、可愛いとは思うけれど、改めて自分の心に問いかけた時それが恋であるかと言われれば、そうではないらしい。
そもそも気になったキッカケが後ろ姿が夕香ちゃんと似ていたから。俺はずっと、芹さんのことを見ているフリをして、未だ癒えない恋の傷に上書きをして、カサブタを作ろうとしていたらしい。
「そう? なら、良かった」
「え、良かった?」
安心したように微笑む芹さん。
こんな、ど失礼な話に良かったもクソもあるのだろうか。
「うん。あたし、恋愛する気ないから」
「へー……」
こっちもこっちで、萩に恋愛感情を抱いていないらしい。まあ、そういう関係もあるよなと思ったと同時に、今度はちゃんと芹さんに興味を持った。
もしも俺が、夕香ちゃんと重ねて見ていなければ、普通に好きになっていたのだろうか。
「なんか、変なことに付き合わせてごめん。よかったら購買行かない?」
「購買?」
「うん。なんか申し訳ないし奢らせてよ」
「そこまで言うなら……」
「じゃ、決まり」
俺は芹さんを連れて購買に向かう最中、そういえばお金は入ってただろうかと思いポケットから財布を取り出した。それは、夕香ちゃんから高校入学祝いで貰った青色のチェック模様のもの。それを見た芹さんは言った。
「なんか……意外なデザインの財布使ってるね」
「そうかな?」
「うん。なんか、龍とかチェーンとかのイメージだった」
「芹さんは俺のこと、小学生か中学生だと思ってる?」
「いや……そういうんじゃないけど……」
「あ、そういえばさ。連絡先教えてよ」
「うん。いいよ」
スマホを取り出した芹さんはスムーズにQRコードを呼び出して俺に提示した。
それを読み取ると現れる、芹さんのホーム画面。
「ありがと」
俺はスマホを仕舞い、購買の敷地に足を踏み入れる。
芹さんがお菓子を選ぶのを待っている最中、何気なくメッセージアプリの友達欄を見た。
「あ……」
神の悪戯か、芹さんの上にいる夕香ちゃんの名前。
俺はそっと、その名前を消した。
何となく、もういいかなってそういう気がしたから。俺もそろそろ、前に進もうと思う。
「藪沢くん! これいい?」
「うん」
チョコレート菓子の袋を持ち上げて俺に見せた芹さん。
これから屋上で、萩と食べるのだろうか。
そうだ、明日また、アイツとちゃんと話してみよう。なんか多分、悪いヤツじゃなさそうだし。
「藪沢くん、なんかご機嫌だね?」
「別に? ただ、明日のこと考えてただけ」
「明日のこと?」
「そうそう。あ、そういえばさ……」
俺は教室、芹さんは屋上に向かう道すがら。ずっと思っていたことを俺は芹さんに告げた。
「髪、また伸ばさないの?」
「んー……短いとさ、めっちゃラクなんだよ」
「俺、長い方が好き」
「じゃあ、伸ばさない」
「芹さん、案外意地悪だね」
「そうかな? じゃ、あたしはここで」




