120輪目 クレオメー秘密のひとときー
「ただいま……」
「おかえり」
僕が家に帰ると、お母さんがリビングからわざわざ出迎えてくれた。
その瞳は、逃さないといったように僕を見つめる。
「先着替えてきていい?」
「いいわよ、じゃあ、リビングにいるから」
別に逃げたりしないのに、と頭の中で話を組み立てながら思う。
……どこから、どう、何を話そう。
僕は着替えながら、怒涛のこの二日間について思い出していた。
*
「ふーん……じゃあ、その子のために二人で逃避行してたってわけ?」
「うん……あっ、言い出したのは僕だから……」
結局、芹さんと海で再開してから昨日帰ってくるまでのことを全て話した。横目で時計を確認するともうすでに十五分は経過していた。
「ん……親としては……まあ、説明もせずに遠出して、急に外泊なんて認められないけど……」
「けど?」
「その子は幾分救われたんじゃない?」
「そ、そうかな?」
「こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど、話聞きながら羨ましいって思ったわ」
お母さんからの肯定の言葉で、胸の中にずっとつかえていた何かが落ちたような気がした。
重くのしかかる現実に、知らず知らずのうち気を張っていたのだろう。そういえば、大人にこのことを話すのは初めてだ。
「外泊も遠出もダメとは言わないけど、これからはちゃんと許可取りなさいよね」
「わかった……今回はその……心配かけてごめんなさい」
その謝罪で、話は終わりといった場の雰囲気が流れる。僕は、まだ伝えていない大切なことを思い出して、立ち上がろうとしたお母さんを引き止めた。
「なによ?」
「あ、あのさ、僕やっぱり進学しようと思うんだけど」
「……え?」
「ずっと行きたかった学部があって……やっぱり挑戦してみようかなって。明日か明後日にパンフレット見せるね」
「そう……分かった。アナタはお母さんと違って勉強出来るもんね」
「お母さんがずっと、勉強はするようにって言ってたからね」
「塾とか行きたいの?」
「それは考えてなかったけど……必要かな?」
「さあ……時期も時期だし、どうなのかしらね? 先生に相談してみたら?」
「うん……そうする」
今度こそ本当に終わった会話。
お母さんは今度こそ立ち上がると台所に立ち言った。
「カレーあるけど食べる?」
「うん。お腹すいた。あ、僕サラダ作ろうか?」
「作る? どっちでもいいわよ」
次いで僕も立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
少し前まではほぼ空っぽがデフォルトだった庫内は、それなりの数食材が入っている。僕はその中から大根ときゅうりを取り出した。
二人で並ぶには少し狭い台所。けれど、その狭さが心地良い。
「アンタ包丁上手いわね〜」
「料理長がすごい丁寧に教えてくれるんだよね」
大根ときゅうりをそれぞれ千切りにして、和風ドレッシングで和える。その作業をしながら僕は、進学するということはあのバイト先も長くてあと半年の勤務ということに気付いてしまった。
せっかくここまで育ててもらったのに、少し──いや、かなり申し訳なさを感じる。
僕は、これからやらなければいけないことを思い浮かべ、心の中でため息をついた。
食事を終えた後はすぐお風呂に入り部屋でのんびりとしていた。
受験に向けてやらなければいけないことがあるのは自分が一番よく分かっていたけれど、文化祭の間だけはいいかなと自分を甘やかした。
午後九時──寝るにはまだ少し早い時間。僕は布団に仰向けで寝転がり、スマホのホーム画面とメッセージアプリを行ったり来たりしていた。その理由は、無性に芹さんの声が聞きたい。ただそれだけだった。
そう思いながらも発信ボタンを押せないのは、これまでの付き合いで電話をしてこなかったから。
急に掛けても迷惑かなぁなんて言い訳をして、意味もなく往復を繰り返す。
「……おわっ!」
突然震えたスマホ。驚いた僕はそれを思わず投げ飛ばしてしまった。
拾い上げて通知を確認するとそれは芹さんからのメッセージ通知だった。急ぎでも、重要でもなさそうな簡素な文章。
僕は少し迷ってから、発信ボタンを押した。
「も、もしもし……?」
ワンコールにも満たないうちに繋がった電話。
機械越しに聞こえる声は、少し戸惑っているように感じた。
「珍しいね、電話なんて」
「あ……駄目だった?」
「ううん。あたしもその……掛けようかなって、思ってた。萩くんは何か用事?」
「用事はないんだけど……えっと、なんとなく声聞きたいなって……」
「え、あ、あたしもそんな感じ……」
その言葉の後に訪れた沈黙。
吐息と鼓動だけが煩く響く。
「えっと……萩くん、今何してるの?」
「僕? もうそろそろ寝るところ」
「あたしもだよ。パックし終わったら寝る」
「パック?」
「そうそう。苺花がね、明日のために無理やり押し付けてきたやつ……」
はあ、とため息をついた芹さんは、それでも満更ではなさそうだった。それは、声だけでも、画面越しでもわかる。
「明日芹さんのとこいくの楽しみだなあ」
「い……いいって、来なくて」
「え、いや、行くって」
「やだよ、恥ずかしいもん……」
僕は芹さんのその言葉を無視して、彼女のメイド服姿を想像する。
さぞかし、よく似合うことだろう。
「芹さんって明日朝早いの?」
「あー……いや、そうでもない、かな? 普段よりはもちろん早いけど」
「時間一緒くらいかな……駅で合流しない?」
「あ、うん! 苺花も一緒だけどいい?」
「うん、大丈夫」
それから僕たちは、今日の文化祭についてお互いに思い出話に花を咲かせていた。もっとも、芹さんは明日のリハーサルでほとんど回れていないらしいけれど。
「──あ、芹さん。そういえば時間大丈夫? パック終わった?」
「うん。もうとっくに」
しれっとそう告げた芹さんに、僕は慌てて時計を確認する。
気付かぬ間に、短い針が一周していた。
「明日も文化祭だし……もう寝よっか」
「そうだね……おやすみ、萩くん」
「うん。芹さんもおやすみ」
名残惜しさを残して切れた電話。
僕はスマホが充電されていることを確認して、寝る体制になった。
慣れた布団の感触。そういえば、二日ぶりの自分の布団だ。
僕は寝落ちするまでの間、芹さんの最後の言葉を何度も反芻していた。
*
「彼氏さん、おっはよー!」
翌朝、僕が待ち合わせ場所にいると、朝の静かな空気を破るほどよく通る声にそう呼ばれた。
「志木さん。それに芹さんもおはよう」
「萩くん、待った?」
「ううん、今来たところ」
「──あれっ? 二人って付き合ってるんじゃないの?」
僕たちの会話を聞いた志木さんは、不思議そうな顔をしてそう言った。
その言葉に真っ先に反応したのは、芹さんだった。
「なっ、え、誰に聞いたのそれ!?」
「あー、誰に聞いたのってことはそうなんだ? 苺花は藪沢くんから聞いたんだけどねっ!」
「う……」
自ら墓穴を掘る形になった芹さんは悔しそうに下唇を噛んだ。
「てか二人とも、なんで名字呼びなの?」
「い、いいじゃん別に! ほら、もう行こ!」
「あ、ごめん。苺花、コンビニ寄っていい? 二人はここで待ってて!」
志木さんはそう言うなり、僕たちの返事を聞かずにコンビニへと走り出した。
取り残された僕たちは、お互いに顔を見合わせる。
「あの……ごめん、僕、藪沢くんに言っちゃった」
「や、それは別にいいけど……」
「……」
「……」
志木さんが言い残した言葉のせいか、妙に気まずい雰囲気。ただそれは、心地悪いものではなくて、むしろ──……。
「えっと……き、ききょう、くん?」
「えっ、あっ、何?」
「いや別に……」
「──な、なずなさん?」
「……」
顔を赤くして僕を見上げた芹さんは、何かを言おうとしながらも言葉が出てこないらしい。
金魚のように口をパクパクさせた後に呟いたのは「恥ずかしいね……」の一言だった。
「ごめーん! お待たせ!」
程なくして、ビニール袋を片手に下げた志木さんが戻ってきた。
「あれっ、苺花、邪魔?」
「そんなことないよ、ほら行くよ。──萩くんも!」