117輪目 ツンベルギアー黒い瞳ー
「も、もしもし……?」
お店を出て浜松駅へと戻り、芹さんが駅前のショッピングモールにある薬局に買い物に行っている最中。僕は、お母さんに電話を掛けていた。
「……もしもし? アンタ今どこにいるの?」
「は、浜松……」
電話越しに聞くお母さんの声は分かりやすく怒っていた。僕は、火に油を注いでしまうかもしれないと思いながら口を開く。
「今日ちょっと帰れない……ごめんなさい」
「は!? なにそれ、どういうこと?」
「本当は帰るつもりだったんだけど、新幹線が動いてなくて。明日の朝にはちゃんと帰るから」
「……」
訪れた沈黙。僕は、息を呑んだ。
「……誰かに、騙されたりしてるわけじゃないのね?」
「えっ? うん。それは大丈夫」
「わかった、けど今回だけだからね。あとでホテルの場所送りなさい」
「え……あ、わかった」
「あと、帰ってきたら全部ちゃんと説明してもらうからね」
「うん」
思っていたよりもあっさりと許可が降りたことに驚きながらも電話を切る。家に帰ったら、どう説明しようか──そんな風に考えながら、辺りを見渡すと、電話をしながら無意識のうちに随分歩いてしまったらしく、芹さんと分かれたところから少し離れていた。芹さんはもう買い物を終えているかもと思った僕は、急ぎ足で待ち合わせ場所へと向かう。
「萩くん!」
待ち合わせ場所に着いた僕が周囲を見渡していると、後ろから名前を呼ばれた。僕が振り向くより先に背中に飛び込んできた芹さんは、僕を見上げると言った。
「どこ行ってたの? その辺探し回っちゃったじゃん」
「ごめんちょっと、ふらふら歩いてた」
「……びっくりさせないでよ」
拗ねたような、不安そうな表情を浮かべた芹さん。そんな彼女の心うちを想像してしまった僕は、安心させようと口を開く。
「大丈夫だよ、芹さん置いてどこか行ったりしないから」
「……ん、約束だよ」
「えっとじゃあ、そろそろ行こっか」
「うん……あ、その前にお土産だけ買って行かない? 駅の中にショップあると思うから」
「あっ、そうだね」
僕と芹さんはホテルに行く前に駅へと戻り、それぞれお土産を購入した。そして、駅から徒歩五分程のところにあるホテルへと向かう。
正面玄関から館内に入ると、黒と緑を基調としたシックな内装のフロントが僕たちを出迎えた。芹さんと受付スタッフの間で淡々とチェックイン作業が進み、鍵が渡される。それを持って部屋に歩いている最中、僕はふと、とある事実に気が付いた。
「……あれっ、同室?」
「え? うん」
僕のその質問に、当然のことといったように答える芹さん。彼女のその、毅然な態度を見ていると、おかしなことを言っているのは僕なのかもしれないという考えが生まれる。
「でもベッドは二つだから」
「あ……そっか、それなら……」
それならって、なんだろう。僕は心の中で密かに首を傾げた。
今日の僕たちの部屋は、五〇二号室。芹さんは持っていた家のものより大きな鍵を差し込み、扉を開けた。ガコン、と大きな音が廊下に響く。
「……って、ダブルベッドじゃん!」
入口すぐの電気のスイッチを押し、露わになった客室。壁沿いに置かれたベッドを見て、僕は思わず声を上げた。僕の声にビクリと肩を震わせた芹さんは冷ややかな視線を僕に向ける。
「うるさ……」
「あ、ご、ごめん……いやでもこれ、ダブルベッド……」
「いや、違うよ」
芹さんはそう言うと、ベッドのところまで迷わず歩いて行き、掛け布団を一枚めくった。
「ほら、掛け布団も敷き布団も分かれてるでしょ?」
芹さんに促されて、ベッドを確認する。ダブルベッドだと思われたそれは確かに、シングルベッドよりも一回り大きいものをくっつけたものだった。何故くっつける必要があったのかはわからないけれど。
「う……まあ、確かに……」
「あたし歩き回って疲れちゃった。上の大浴場行かない?」
「あ、そっか、大浴場あるんだっけ」
見せてもらったサイトに、大浴場があることがアピールポイントとして載っていたことを思い出す。
芹さんと同じように僕も一日中歩き回って疲れていたのでその提案を快諾し、二人で大浴場へと向かう。
「ここ、ドリンク飲み放題なんだって。だからここで待ち合わせね」
芹さんが指差した大浴場の入口の横に広がるスペース。そこには、椅子とテーブルが置いてあり、奥にはドリンクバーが設置されていた。既に何個かの席は埋まっている。
「うん。じゃあ」
暖簾をくぐると、周囲の空気が湿度の高いものに変わる。空いているカゴを探して服を脱ぎながら、そういえば大浴場苦手だった……なんて今更なことを思ったりした。
とはいえ、普段とは違う広いお風呂にテンションが上がるのは日本人の性なのだろう。思っていたよりも長居した僕が着替えまで終えて出たのは、芹さんと分かれてから四十分後のことだった。
ロビーを見渡すと、ドリンクバーの一番近くの席に目当ての人物は座っていて、天井から吊られたテレビをぼんやりと眺めていた。
「芹さん。ごめん、待った?」
僕がそう言うと、緩慢な動きで視線を向けた芹さん。彼女は、風呂上がりだからなのかメガネ姿だった。
「ううん、大丈夫」
「……寝る前にコーヒー飲んだら、寝れなくなるよ」
「萩くん、あたしのこと子供だと思ってるね? まあいいや、萩くんもドリンク取っておいでよ」
芹さんに言われるがままにドリンクバーの前に立つ。ポピュラーなラインナップの中から僕が選んだのは、カルピスソーダだった。
「新幹線、動き始めたって」
僕が席に着くと、テレビを見たままの芹さんはそう言った。
「そうなの?」
「うん。今ニュースでやってた」
テレビを見ると確かに、新幹線が動き出したとのニュースをやっていた。ダイヤはだいぶ乱れていて、混雑しているらしいけれど。
二人、会話のないままテレビをただ見つめる。東京の明日の天気は晴れ寄りの曇りらしい。
全国ニュースが終わり、地方ニュースに番組が切り替わる頃。随分静かだなあと思いながら芹さんの様子を見ると、コーヒーの入った紙コップを両手で包み込んだまま俯いて一点を見つめていた。
憂いを帯びたその瞳と表情に、心配になって声を掛ける。
「……芹さん?」
「え? なに?」
「いや、なんか固まってたから……」
「……そうかな? でもちょっと、疲れてるかも」
「えっと、じゃあちょっと早いけどもう布団入る?」
「うん」
その返事を聞いてから紙コップの中身を飲み干して、早々にロビーを後にする。そして、五階にある部屋まで戻る道中のエレベーター内。僕は思ったことをついそのまま口にした。
「あれ、なんかいい匂いする」
「え? どっかで焼肉やってるとか?」
「や、焼肉……? いや、違うよ」
いい匂い=焼肉という芹さんの思考回路は置いといて、僕はなんの香りだろうと首を傾げる。
甘いけれどすっきりとした、花のような香り。
その答えは、言語化出来ないモヤモヤを抱えながら部屋に戻った時に明らかになった。
「……あ、もしかして萩くんが言ってたのって、これ?」
部屋に戻ってすぐに荷物の整理を始めた芹さんが、黄色のボトルを僕に見せる。
「……?」
「あれ、わかんない? ジャスミンの香りのボディクリーム。普通に薬局に売ってるんだけど」
ボトルの蓋を開けた芹さんは僕に「手、出して」と、そう言った。
「安いやつなんだけど、お気に入りなの」
僕の手のひらに出される、白色のクリーム。それは確かに、先程感じたのと同じ香りをしていた。
「あ、ありがとう。これって普通に塗っていいやつ?」
「うん」
僕は再びお礼を伝えて、そのボディクリームを右腕に伸ばす。普段気にしてスキンケアをすることのない肌は、クリームの効果によっていつもよりも潤っているような気がした。そして、芹さんとお揃いの良い香りがする。それはなんとなく、気分良く思えた。
「……よし。荷物の整理終わり。じゃああたし、先布団入ってるから」
布団に入るといっても、すぐに眠りにつくわけではないようで、芹さんは寝転がってスマホを見ていた。もしかしたら僕が布団に入るまでは寝ないのかもしれない。そう考えて、荷物の整理を急ぐ。
鞄の中身を確認しながら盗み見た芹さんは、ロビーで見た時と同じような表情を浮かべていた。




