113輪目 ききょうとなずな2/2
「あのさ、芹さん……こんな話したくないと思うんだけど」
「うん?」
「その……これから、どうするの?」
どこか行政に相談をするか、もしくは親戚を頼るのか──僕にはそれくらいしか思い付かないけれど。どちらにしても、今のままでは良くないのではないだろうか……そんな風には思う。
しかし、芹さんの答えは僕の予想に反したものだった。
「……どうもしないよ」
芹さんは最後の一口のパンケーキを口に放り込み飲み込むと、コーヒーを口にしてから話を続ける。
「ほら、もうちょっとで卒業だし……一応、住むところにもお金にも困ってないから、変に環境変えたくないっていうか……」
「えっ、でも……大丈夫なの?」
「うん……部屋に鍵付けようと思って買ったし……それに、お父さんは忙しい人だから、あんまり家にいないしね」
「そう……」
「大丈夫だよ。卒業したら引越すし、その為のお金はバイト代で貯めてあるし、それまでの辛抱だから」
芹さんがそう言ったとしても、僕の中の不安は拭えないけれど、
「芹さんがそう決めたなら……僕は何も言えないけど、何かあったら必ず助けるからね」
そう伝えることしか出来なかった。
「うん。ありがとう」
「あ、あとね。これだけは言いたくて……芹さん昨日、自分を責めるようなこと言ってたけど、芹さんはなにも悪くないよ。お母さんにもきっと、芹さんの気持ちは伝わってると思うから……」
「うん……あのさ……」
「え?」
「ううん。やっぱり何でもない。そろそろ行こっか」
「うん」
ファミレスを出て駅へと向かい電車に乗り込むと、スーツを着たサラリーマンや制服姿の学生の姿があり、今日が平日であると思い出させるようだった。僕たちは電車に乗っていた約十分の間、何も話すことなくただ無言で並んで座っていた。
「あっ、潮の香り」
「ほんとだね。地図で見た通り、海近いんだ……あ、そういえば、水買っていい?」
「あたしも飲み物買いたい」
浜松駅とは比べ物にならないほど閑散とした駅に降り立ち、駅前にポツンと立っていた自販機で飲み物を買い、地図を頼りにして歩く。
道自体は単純で、すぐに砂浜に辿り着くことが出来た。
「波打ち側ギリギリまで行けるのかな……芹さん、あっち行ってみる?」
僕が波打ち際を指差すと、静かに頷いた芹さん。ファミレスを出てからやけに口数が少ない気がして、少し、心配になる。
長旅の疲れなのか、それともまた別のことなのか。無理をさせてしまったのではないだろうかと思いながら、立ち止まってその顔を覗き込む。
「芹さん?」
「……萩くん。あのね」
意を決したように顔をあげた芹さんの、朝日に照らされてキラキラと煌めく空色の瞳と目が合う。吸い込まれそうだなんて、そんなことを思いながら、彼女の次の言葉を待つ。
「あたし、萩くんのこと、世界で一番好きだよ」
真っ直ぐに目を見てそう言った芹さん。想像もしていなかったその言葉になんと返せばいいのかわからなかった僕は、反射的に曖昧な返事をすることしか出来なかった。そんな、気の抜けた僕の返事を笑った芹さんは、さらに言葉を続ける。
「いつも隣にいることが当たり前になってたから、ずっとそうだって思い込んでたけど、そうじゃないって今更気付いたの。それに、こんなにあたしのことを想ってくれる人だって、そんなにいないよね。だから、言わなきゃ後悔するって思って。あたしも変わらなきゃって、昨日ずっと考えてた。萩くん、去年言ってくれたこと……まだ、変わってない?」
「去年……」
芹さんの言う"去年のこと"とはきっと、文化祭の後夜祭、二人で花火をした時のことだろう。
僕は咄嗟に、ずるいと思った。
「そんな聞き方……変わってるわけ、ないよ。ずっと……その、好きだよ」
「あのね、一年も待っててくれてありがとう。ずっと、中途半端でごめんね。萩くん、あたしと……」
「あっ、待って待って。僕から言わせて」
別に、男女どちらから告白した方がいいなんてこだわりがあるわけでもなかった。けれど、僕から言いたいとそう思った。芹さんの前ではカッコつけたいのかもしれない。いや、これまで散々ダメなところを見せているから、ついてはいないと思うけれど。
ひとつ咳払いをしてから僕は、改めて芹さんと向き直す。
顔を真っ赤にしている芹さんの瞳は、緊張からか潤んでいた。それでも、表情には期待が見え隠れしている。
「芹さん。えっと……僕と付き合ってくれますか?」
僕のその言葉に、芹さんは口を綻ばせて答えた。
「うん。不束者ですが!」
「っ、それ、結婚の時のやつ……」
「ふふっ、萩くん。顔真っ赤だよ?」
僕の方に一歩踏み出した芹さんは、悪戯にそう言うと、辺りを見渡してから背伸びをした。そして、僕の唇に自らの唇をそっと重ねてすぐに離すと、照れ臭そうに笑った。
キスをされたのだと、脳が理解するまでに少し時間がかかって、遅れて恥ずかしさが込み上げてくる。僕だけが狼狽えているのかと思っていたら、目の前の芹さんも余裕な表情を浮かべながらも、頬を赤く染めていた。
「芹さんだって……」
高鳴る心臓は今にも張り裂けそうで、余裕なんて全く持ち合わせていなかった。それでもなんとか平静を装って、芹さんの唇に狙いを定めて自らの唇を重ねる。
人の唇は思ったより柔らかいだとか、力加減が難しいんだなあとか、手はどこに置けばいいんだろうとかそういうことばかりが脳内に浮かぶ。そんなノイズ混じりの思考の中、そういえば初めてのキスだ、なんてことも考えていた。
何秒か、いや、何十秒か。蕩けるような時間に夢中になっていた僕の耳に不意に人の足音が聞こえて、名残惜しくも慌てて唇を離す。その足音は、早朝ランニングをしていた恐らく地元のお爺さんのものだった。見てはいけないものを見た、というように一瞬合った目がすぐに逸らされる。
恥ずかしさから、目の前にいる芹さんの顔を直視出来ない僕は、少しそっぽ向いたまま手のひらを差し出して言った。
「せっかく来たし、少し歩こっか……」
「……うん」
控えめに添えられた手を握り、半歩ほど芹さんの前を歩いて波打ち際まで行く。平日早朝の海は人が居らず、貸切状態だった。
「夏だったら入れたのにね」
「あっ、でも今日気温高いから入れるかも……」
「クラゲに刺されたいなら入ってくれば?」
「それは嫌かな……」
目視できる範囲にはクラゲはいないけれど、時期的には波打ち際に打ち上げられていてもおかしくはない。刺されたことはないけれど、かなり痛いとは噂で聞いたことがある。
そんなわけで、僕たちは朝の海辺をアテもなくただ歩いていた。
「ねえ萩くん。あたし達多分、これからも何も変わらないよね」
「え?」
「だって、今までだってずっと、二人でいたから……」
「そうだね……」
確かに、そうかもしれない──僕はそう思いながらも、芹さんの言葉の本当の意味を考えていた。
なんとなくだけれど、去年「失うのが怖いから付き合えない」と言った時とニュアンスはおんなじような気がしていた。芹さんはずっと、失うことを恐れているのだろう。今も、昔も。
「芹さん、大丈夫だよ」
「なにが?」
「なにが……っていうか、その……心配しなくてもずっと芹さんの味方……って言い方はおかしいのかな……とにかくずっと側にいるから」
「……萩くんにはなんでもお見通しなんだね……」
「なんでもってことはないけど……」
突然足を止めた芹さんにつられて僕も、歩みを止める。続いて繋いでいた手を解いた芹さんは、僕の背中に抱きつくと言った。
「……勝手に、どっか行っちゃ嫌だからね」
「うん」
「あと浮気したら針一万本飲ますから」
「それは絶対しないから安心して」
これから何も変わらない──なんて、嘘だ。温もりをこんなに近くに感じることも、鼓動を共有することも今まではなかったから。
でもきっと、変わらないことも、変わらなくていいこともある。
「萩くんあたし、お昼はハンバーグが食べたい」
「それはいいけど……いきなりムード壊しにくるね……」
「知ってる? 有名なお店あるの」
「……うん。調べた時に色んな人がおすすめしてたから」
「じゃあ、もう少し歩いたら戻ろっか」
芹さんのその言葉を合図に僕たちはまた、手を繋ぎ直して歩き始めた。




