111輪目 ハマユウーどこか遠くへー
「え、な、亡くなった……って」
芹さんから告げられたのは、とても受け止めきれるものではない、非情な現実だった。
芹さんのお母さんと会ったのは去年の文化祭が最初で最後。身体が弱いとは聞いていたけれど、まさか、そんな。
「うん……帰省先で……倒れて、そのまま」
僕に寄りかかったまま話す芹さんは、声色こそ弱々しいものの、泣いてはいないようだった。散々泣いた後なのかもしれないし、もしくはまだ、処理しきれていないのかもしれない。
僕は、眼下に広がる波打ち際を見たまま口を開く。
「それは……辛かったよね」
「まあ……それでちょっと……昼夜逆転しちゃってたから、今日も起きたの昼過ぎで……一応制服着て外出てきたけど、いっかってなっちゃった。多分みんな心配してたよね」
「うん……でも、良かった。今日会えて」
「あ、そういえばよく分かったね。ここ」
「それは……柳先輩がここかもって教えてくれたから」
「あぁ、そうなんだ。遠かったでしょ」
「若干ね」
探し回っている間に火照った身体が、潮風によって徐々に冷まされていく。
僕は、捲っていた袖を戻しながら、ふと気になったことをそのまま口にした。
「そういえば芹さん、暑くない? それ」
「え? あぁ、別に」
特別寒い日というわけでもないのに芹さんは、制服の上にパーカーを羽織っていた。今の時間ならともかく、昼に出てきたのなら、暑かったのではないだろうかと思う。
さっきまでは薄らと明るかった空も、もうすっかり暗くなり、頭上には星が瞬いていた。
「……芹さん、いつ帰るの?」
「んー……」
芹さんは僕に凭れかかったまま曖昧な返事をしただけだった。
「帰りたくないの?」
「ううん、帰るよ」
「……ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃあさ、ご飯食べに行かない?」
「うん」
僕の提案に頷いた芹さんは、身軽な動作で立ち上がった。僕は、落ちないように気を付けながら立ち上がって芹さんの後ろ姿を追いかける。
「どこ行くの? 駅なら向こうだけど……」
「自転車がこっちに停めてあって……」
「あ、そうなんだ」
二人並んで、街頭のない静かな海辺の道を歩く。
話したいことはたくさんあるはずなのに、何一つ言葉が出てこない。僕たち二人は何も話さないまま海沿いの道から駅へと続く大通りへと出ると、どちらからともなく駅に向かう方へと歩みを進めた。道中にあるショッピングモールか、駅前か──どちらにしても、何かしらはあるだろう。
「萩くん、駅まではバスで帰るんだよね?」
「あ……うん。多分」
「じゃあ……ショッピングモールにしとこっか。そっちなら、バス停も近くにあるし……渡れるかな……」
芹さんはそう言って、対岸にあるショッピングモールの辺りを見渡す。恐らく、横断歩道を探しているのだろう。
「……ん?」
向こう側を向いた時に街灯に照らされた芹さんの首。もっと正確に言うならば──耳のちょうど下辺り。無防備に露わになったそこに、痣のようなものが一瞬見えたような気がした。
「何かあった?」
僕の方を振り返った芹さんは、不思議そうに見つめる。少しだけ痩せたような気がするけれど、他に変わったところはなさそうだった。もしかしたら、何かの影だったのかもしれない──そう思い込ませて、返事をする。
「えっ、いや、何でもない……」
「そう? ……向こう側行くには歩道橋渡らないとダメみたいだね」
「そっか、あ、自転車押そうか?」
「え? あ……いや、いい。萩くん、自転車に引っ張られて転びそうだもん……」
「そ、そんなことないよ……多分」
芹さんの中での僕は、随分と鈍臭い人間らしい。そういえばさっきも「海に落っこちないでね」と割と本気のトーンで言っていた。
「何食べよっか?」
「僕はなんでも。芹さんは?」
「あたしは……そうだなぁ。うどん、とか?」
「……もしかしてそんなにお腹空いてない?」
軽率にご飯に誘ってしまったけれど、配慮が足りなかったかもしれない──そう考えていると、僕の言葉を違う意図で汲み取ったらしい芹さんが頬を膨らませて言った。
「萩くんってあたしのこと、食いしん坊だと思ってない?」
「えっ、いや、違う違う」
「たまには、あっさりしたものの気分の日だってあるよ……」
「うっ、ご、ごめん……うどん屋さんあるかな。調べてみるね」
ショッピングモールの名前を入れて、ショップガイドを開く。うどん屋さんは、フードコートにあるようだった。
「あ、良かった。あるみたい」
「ほんと? あっ、あたし自転車置いてくるから、ちょっと待ってて」
自転車を押しながら小走りで駐輪場に駆けていく芹さん。
僕は先ほど見た──痣のようなものが気になって、スマホで検索をする。以前読んだ本で見かけたことがあるから、調べるほどでもなく知識としてはあるわけだけれど──……。
見間違いなら、それで良い。僕は、自転車を置いてこちらに歩いてくる芹さんを迎えに行って、そのままショッピングセンターのフードコートへと向かった。
「美味しかったね」
セルフサービスの水を飲みながらそう言った芹さんは「今何時?」と続けて僕に聞いた。
「今? えっと、八時くらい」
「そっか。じゃあ、そろそろ帰ろっか」
芹さんは水を飲み干すと、立ち上がってトレーを持ちあげようと少し腕まくりをする。僕は、その瞬間に、ほぼ反射的に芹さんの腕を掴んだ。
「萩くん……っ?」
何が起きているか分からない、と言ったような表情を浮かべた芹さんは、僕のことをじっと見つめる。
「芹さん、これ、どうしたの?」
彼女の細い手首に残る、赤い痕。それは、僕の指の位置とぴったりと一致していた。
出来るだけ平静を装いながらも、心臓はバクバクと変な音を立てていた。それは怒りなのか、悲しみなのかは分からないけれど、フードコートに響く声や、お店からの機械音がやけに遠くに聞こえて、胃の底が冷え込むような、そんな感覚がした。
「……だから、萩くんには来てほしくなかったのに……」
「何か、あったの……?」
「帰りながら話そっか。駅まで歩いても、三十分くらいだし……」
芹さんの手首を解放して、僕も立ち上がる。ここに来るときよりも、駅に帰る足取りは重たかった。
「……どこから話せばいいのかな」
芹さんは自転車を押しながら、落ち着きなく視線を地面に彷徨わせる。ショッピングモールを出て、数分歩いた一つ目の信号で、ようやく芹さんは話を始めた。
「えっと……うちのお父さんがね、その……お母さんにずっと、暴力を振るってて……」
「……あの、聞いちゃいけないかもしれないんだけど、お母さんはそれで……?」
「ううん、違うよ。直接的には……関係ない」
間接的には要因になっていると芹さんは考えているのだろう。部外者である僕でも、そう考えるのは自然なことだった。
「でね、あたしはずっとお父さんと仲良くなかったんだけど、こんなことになっちゃったからさ、話し合いしなきゃって思っただけなのに。全然上手くいかなかったんだよ……お互いただ言い争ってさ。もうずっと、そんな感じ」
「芹さん……泣かないんだね」
「え?」
「いや、さっきからずっと思ってて……」
泣かないというより──むしろ、自嘲的に笑っているようにすら見える。
「泣く資格なんてないって、そう思ってるのかも」
「え、それ、どういうこと?」
「あたし、高校出たらお母さんと家出ようって役束してたの。そのために三年間頑張るねって。でも、全然、頑張れなかった……それにね、あたしずっと、見て見ぬふりしてたから」
「見て見ぬふり……?」
「そう。ずっと、知らないふりしてた。家の中で起きてることなのに。だからね、最初からないんだよ。あたしに悲しむ資格なんて……」
「そんなこと、ないよ……」
僕はそれしか言うことが出来ず、俯いてただ歩くしか出来なかった。
きっと、もうすぐ駅に着いてしまう。
芹さんはこの後、家の中で自分を責めながら、傷付けられながら過ごすのだろうか。
何となく、このまま帰してはいけないような、そんな気がした。ここで別れたら、きっと後悔する日がくるだろう。そんな予感がする。僕の独りよがりかもしれないけれど、そんなのは嫌だ──ただ、それだけの気持ちだった。
「──芹さん」
「なに?」
「あのさ、これからどこか行かない?」
「え……? どこに?」
「わかんない……けど、僕たち二人で、どこか遠くへ」




