柳先輩となずなさん12
緊張からか固く閉ざされた唇をこじ開けて口内へと舌を滑らせる。歯の裏、上顎を舌先でゆっくりとなぞり、最後に舌を捕まえ絡ませた。逃げようとするそれを必死に追いかけて、ついでに身体も引き寄せる。
溶けてしまいそうで、落ち着かなくて、ただただ夢中になる。こんなことは、初めてだった。
「……は、柳……先輩っ」
息が苦しくなったのか、オレの胸をなずなが叩いたのを合図に口を離す。銀糸が、名残惜しそうに千切れた。
「ごめん、オレ、なんか余裕ないかも」
「……へ、え? 余裕ないって」
──こんなこと、ただ面倒なものだったはずなのに。今はただ、欲しくて触れたくて堪らない。
ユリが甘えた顔でオレ求める時も、こんな気持ちなのだろうか。
だとしたらオレは──……。
「好きだよ、お前のこと」
耳元でそう囁いて、首筋に歯を立てる。されるがままのなずなは悲鳴のような嬌声を小さくあげて、それでもその場から逃げようとはしなかった。
それを同意と好意的に解釈して、そのままベッドに移動する。軋むベッドの、真っ白なシーツの上でオレを見上げた彼女は存外、子供ではないらしい。オレを見据えた双眸に見え隠れする熱情が、それを語っていた。
*
「お前、ちゃんとご飯食べてんの? 手首とか細すぎなんだけど」
オレの左腕を枕にしながらこちらに背中を向けるなずなの右手を持ち上げながら問いかける。
元々痩せている方なのは知っていたけれど、実際に触れてみると思っていた以上に細くて驚いた。きめ細かく滑らかな肌は、よく馴染んで気持ち良かったけれど。
「た、食べてますよ。ていうか柳先輩、うちで一緒にお母さんのご飯食べたじゃないですか」
「いやお前こういう時にお母さんとか言うな」
「え? なんでですか?」
そう言って振り返ったなずなは、とぼけた顔をオレに向けた。
「いやなんか……罪悪感湧くだろ」
「そういうものかな」
「そういうもん。だってお前親に大切に育てられてきたんでしょ」
「……うん」
そうして続けられる、特に意味のない会話。身体の深部に燻っていた熱がようやく冷めた頃、オレは話を切り替えようと口を開いた。
「なあ、ちょっとこっち向いて」
「なんでですか?」
「いいから」
オレの言葉でモゾモゾと向きを変えたなずなは、まん丸な瞳でオレのことを見据えた。メガネがなくてどれくらい見えているんだろう、そんなことを考えながらなずなの顔に張り付いていた髪の毛を指で払う。
「順番逆になっちゃったんだけどさオレと付き合ってくれない?」
「ん……うん。えっと、あの……あたしでよければ……」
「ほんとに?」
「こんな時に嘘なんか言わないです」
「……そっか。オレ今、すげえ嬉しいわ」
そう言って身体を抱き寄せて、サラサラの髪を撫でる。引っかからずに指が抜けるそれは、日頃から丁寧に手入れをしているのだろう。時折香るシャンプーも鼻腔に心地よい。
「これ、シャンプー何使ってんの?」
「さあ……なんだろう? お母さんが買ってきて違うボトルに詰め替えちゃうから……」
「親と仲良いんだ?」
「お母さんとは」
「父親は?」
「うーん……好きじゃない……」
そう言ってオレの胸に顔を埋めたなずな。時折、素肌を撫でる吐息がくすぐったい。
「あ……この間親と喧嘩したって言ってたのは?」
「え? あぁ、あれは……うーん。誰に怒ってたのかな、あたし」
「は?」
当事者にも関わらずふわふわとした、要領を得ない回答。
しばらく言いづらそうにしてから、なずなは口を開いた。
「うちのお父さんねー……お母さんのこと、叩いたりするんだよ」
「……え、なんで、そんなこと」
オレは、なずなによく似たなずなの母親の姿を思い浮かべる。
柔和で、優しくて、料理も美味しい。側から見てそんなことをされるような人物には思えないのだけれど。
「さあ……それでこないだちょっと喧嘩になっちゃった。お父さんはもちろん嫌いだけど、そこから逃げようとしないお母さんも、なんにも出来ないあたしも嫌い……」
オレには、弱々しく言葉を吐いたなずなの頭を撫でてやることくらいしか出来なくて。彼女は、オレが感じたよりも大きな無力感を抱いていることだろう。
「でもそれは、公的機関に相談とかすれば……」
「お母さんがそれは嫌だって。別にあたしはお母さんと居られればいいのに」
「あぁ、なるほど……」
恐らくだけれど、なずなの母親は、なずなが過ごす環境を変えたくないのだろう。あのマンションの上層階に住んでいるところからも、家の裕福さは窺える。公的機関に相談して助けてもらったところで、今よりいい生活が出来るかと問われれば、その保証はない。拗れた家庭で過ごすことがいい生活であるはずはないけれど。
「ごめんなさい。こんな話」
「いや別に……オレで良ければいつでも話聞くし」
「……優しいんですね、柳先輩……もっと怖い人かと思ってた」
「そうか? 別に……普通だと思うけど。ていうか……別に敬語じゃなくていいから」
「あ……わかりました」
「だから、敬語じゃなくていいって」
「それは、慣れるまで待ってくださいよ……あ、ミケが鳴いてる」
突然、ミケがベッドの下で鳴き始めた。声色的にも、時間的にも、空腹を訴えているのだろう。
「ちょっとオレ、餌あげてくる。お前は寝てていいよ」
布団から抜け出して、ベッドの下に落とした服を拾いあげる。
オレはその光景に既視感を覚え──そして、すぐに答えに行き着いた。これは、ユリの家で見たものだ。
なんとなく雰囲気に流されてしまったけれど、オレには付き合って二ヶ月の彼女がいる。
つまりこれは、二股とか浮気とかそういう状況なわけで。
ただ、どちらの方が好きかと問われればノータイムで答えを出せるほど、オレの中での比重は違っていた。
別れを切り出したら、泣くだろうか。それとも、すんなりと受け入れてくれるのだろうか。
その時はまだ、そんな風に楽観的に考えていた。




