90輪目 ハボタンー祝福ー
「聞いて聞いて! 大ニュース!」
先輩たちの卒業、そして、二年生最後のテストを直前に控えた三月の上旬。朝一にも関わらずパワフルな声とともに、志木さんが僕たちのクラスに飛び込んできた。
「し、志木さん? おはよう」
「彼氏さんおはよー! 早いね!」
「まだ芹さん来てないよ?」
「ちぇー。まあいいや。知ってる? 昨日さ、柳サンが受けてたセンター試験の合格発表だったんだよ」
「そうなの? 僕そんなに仲良いわけじゃないから……」
柳先輩が受けた大学──といえば、国内最高峰の偏差値を誇る大学だろう。
「で! まあ、当然のように合格してたわけなんだけど……」
合格していたなら、もうすこし手放しで喜んでもいいのに……と不思議に思っていると、志木さんは僕の疑問に答えるように、言葉を続けた。
「前にも話したかもなんだけどね、柳サンの親って製薬会社の偉い人なんだよ」
「そういえばそうだったかも」
あれはいつだっただろう。そうだ──文化祭の後だったような気がする。柳先輩と話した後に、志木さんとも話した記憶がある。
「んでね! 柳サンは元々、親の跡を継ぐってちっちゃい頃から決まっててさ」
「ちっちゃい頃……」
確かに、小さかった頃もあるよねと思い、幼い柳先輩を想像する。全く思いつかなかったけれど。
「だから、親も含めてみんなさ、医学部行くでしょ? って疑いもしてなかったんだよね。ていうか、出願した時誰も気付かなかったの? っていうね」
何が面白いのか、志木さんはひとりで笑う。いまだピンと来ない僕は、それが表情に出ていたらしい。志木さんは少し考えた後に補足した。
「例えるなら、藪沢くんがサッカー選手じゃなくて、野球選手になった感じ」
「……! それは……大変だね……」
坊主頭でバットを振り、球投げをする藪沢くん──柳先輩の子供時代よりも想像はしやすいとはいえ、違和感の塊でしかない。……と、いうより、坊主頭の藪沢くんなど見たくもない気がする。
「っていう話だけしに来たんだけどね! じゃあね〜」
志木さんは、喋るだけ喋って教室を後にした。外から再び、よく通る声が聞こえてきたから、廊下で友達に出くわしたのだろう。
……嵐のようだったと思いながらふと、そういえば結局、どこの学科に入学したのか聞いていないと気付く。
「萩くんおはよ」
後ろから肩をぽんと叩かれる。その声の主は、自らの席に荷物を置くと、僕に質問をした。
「さっき苺花がすごい勢いで出てったけど、なんかあった?」
「あー……なんかね、柳先輩の進路先の話しにきてたんだよ」
「あぁ……」
そのことについては芹さんも知っているらしく、納得したような顔をする。
「薬学部じゃなくて経済学部だっけ? まあなんにせよすごいよね」
「あ、そうなんだ?」
「うん。まあ噂流れるのは早いよね」
「そっかぁ……僕たちももうすぐ三年生だね」
年度内の行事はあと、卒業式とテストと終業式のみ。登校日数も数えるほどしかない。
「あー……就活始まっちゃう……」
ぐだっと机の上に突っ伏してみせる芹さん。細い髪の毛が、顔の横に落ちる。
「もう大体決めてる?」
「ん? ううん、全然。だから、進路ちゃんと決まってる萩くんはすごいよ」
「いやいや……」
料理長に誘ってもらえたことも、そもそもあそこでバイトを始めたのも偶然で──うまいこといい流れに乗れただけ、なような気がする。素直に受け止められない僕は、まだ少し、揺らいでいるのかもしれない。
そうこうしているうちに、始業のチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。今日は、テスト前最後の授業。明日は卒業式の予行練習、そして明後日が卒業式。
とはいえ、帰宅部の僕が関わった先輩はそう多くもなく、ただの置物として参列するに過ぎないのだけれど。部活動に打ち込んでいた──例えば、藪沢くんや、夏目さんなら心持ちも違うのだろう。
テスト対策と称した授業内容を四時間受け、昼休みに差し掛かる。いつも通り屋上へ向かおうとした僕たち──いや、僕を引き止めたのは、志木さんだった。
「彼氏さんっ」
「……志木さん?」
「ちょっと、用事があるんだけど、いいかな?」
志木さんが昼休みに訪ねてくるのは珍しい。いつもよりも歯切れの悪い志木さんの様子を不思議に思ったのは、僕だけではないらしく、僕よりも先に芹さんが口を開いた。
「……苺花? どうしたの?」
「え? あー……彼氏さんにね? 聞きたいことがあって」
「……なんか悪巧みしてない?」
「し、してないよぉ!」
探りを入れるような芹さんの目線を切るように、志木さんは顔の前で両手を振る。
芹さんは、まだ少し怪しんでいるようだったけれど、僕の方を向くと言った。
「じゃあ、あたし先行ってるね?」
「うん。わかった」
「あ、お弁当持ってってあげるね」
自らの荷物を持ち直した芹さんに、お弁当と飲み物を預け、屋上へと向かう背中を見送る。
「志木さん、用事って?」
「えーっと……。あっ! ちょっと勉強教えてほしくてさ!」
しどろもどろな志木さんの様子に、これは芹さんじゃなくても悪巧みしていると疑ってしまう……と思いながらも、了承して、志木さんのクラスへと向かう。
*
「……で、ここはこの公式を使って……」
「なるほどね〜。完全に理解した!」
数式が並ぶ数学ノートを満足そうに掲げる志木さん。
「よかったね……」
そう言ってはみるものの、いまいち腑に落ちない僕は席を立つ。志木さんと話していると、本当にその単元が出来ないのだろうか、という疑問が浮かんで仕方なかった。本当に数学のできない──例えば、芹さんと話していると、出だしから「わかりません」という顔をしているから。
「彼氏さん、もう行っちゃうの!?」
「え? うーん……芹さんも待ってるし……」
「だよね……ご飯も食べるんだもんね……」
「放課後とかは?」
「いや、大丈夫! 彼氏さん教えるの上手いから助かったよー」
じゃあね〜と、わざわざ教室の出入口までお見送りをしてくれた志木さん。教室を出て屋上に向かう僕は、またしても声を掛けられた。
「あれっ、萩?」
「藪沢くん」
紙パックのドリンクを飲みながら廊下を歩いていたらしい藪沢くん。朝話していた、野球児の藪沢くんが頭をよぎり、慌てて掻き消した。
「あれ、屋上居るんだと思ってた」
「あ……その予定だったんだけど、志木さんに数学教えてて」
「……は?」
「え?」
怪訝な顔をした藪沢くんは、ジュースをひと口飲んでから言葉を続ける。
「志木さんに数学教えてたとか嘘でしょ? だって志木さん、数学は……クラスで一番とか、そんくらい得意だよ」
「……え?」
「あ、もしかして──」
藪沢くんは、何か心当たりがあるらしい。何かを閃いた顔をして言う。
「さっきさ、柳先輩見かけたんだけどそれと関係あるんじゃない?」
「え? あ……もしかして……。藪沢くん、ありがとう」
「おー……」
こういう時の直感はよく当たるもので。
屋上へと続く階段を上り、数センチだけ扉を開ける。ここからは見えない位置にいるようで、姿は見えないけれど──聞こえる二人分の話し声。
「柳先輩、合格したんでしょ? おめでと」
「なんだもう知ってたのか。ありがとな。……色々と」
「別に……」
「……」
流れる沈黙。出て行きづらいし、どうしようかと悩んでいると、しばらくしてまた会話が再開する。
「その……なんだ、色々悪かった」
「そんな、いまさら」
「女々しいと思われるかもしれないけど、きっちりケジメつけてから卒業したいんだよ」
「……うん、わかった。でもそれなら、わざわざ苺花を使って待ち伏せしなくてもよかったのに」
「そうでもしないと二人では会ってくれないだろ」
これから何が始まるのか──息をのんで、そこに留まる。側から見たら不審者のそれだ。




