1輪目 黄色いゼラニウムー予期せぬ出会いー
やっぱり、学校なんて来なければよかったのかもしれない。
薄暗い体育館裏で僕は、口内に広がる血の味も気にせずに寝転がる。おろしたてで綺麗だった制服も、砂まみれになってしまった。
きっと、誰も助けになんて来てくれない。そう諦めた僕の目の前に現れた人物。彼女は僕の手を握って、力強く僕の身体を引っ張って立ち上がらせてくれた。
この時はまだ、気付いていなかった。
彼女との出会いが、僕の人生を大きく変えることになるだなんて──。
*
僕が今年から新入生として通う高校は、都内まで一時間程の千葉県内にある、畑に囲まれた立地でのんびりとした雰囲気が特徴の学校。
四月の中旬──入学式からもう既に一週間経った高校は、初々しさを僅かに残すだけで、いつもと同じであろう時間が流れ始めていた。
校庭に響くバットがボールを打ち返す音や、サッカー部の掛け声、ふざけながら歩く生徒の笑い声を聞きながら、校舎につながる学校敷地内の通学路を歩く。
砂利の上に散らばる桜の絨毯を踏みしめて学び舎を見上げると、少しくすんだ色の建物の向こう側にはどこまでも続く青空が広がっていた。高校の入試で訪れたぶりの昇降口で真新しい上履きに履き替える。汚れひとつない真っ白なそれは、風景から浮いて見えて、まるで僕のようだと、そう思った。
階段をのぼり、自分のクラスを探す。一年、一、二……三組。校舎の一番端の階段をのぼり切って、三個目の部屋。そこに、僕のクラスはあった。
事前に知らされていた席に着く。窓際の一番後ろの席。担任の計らいなのだろうか、誰もが欲しがる最高のポジション。鞄の中から文房具やノートを取り出して机の上に置いておく。
身の回りの片付けを終えたところで教室の様子を窺う。
……わかっていたことだけれど、周りからの遠巻きな目線が痛い。入学早々に一週間も休んでいた僕の存在が物珍しいのは理解できるけれど。クラスメイトからの目線から逃げた先は、机の上の文房具。このままではダメだと、なけなしの勇気を振り絞る。
せめて隣の席の人に挨拶しておこう。
僕の左隣は窓だから、右隣だけ。
隣の席の生徒は女の子だった。彼女は頬杖をついた姿勢のまま、青空を閉じ込めたような綺麗な瞳でつまらなさそうに黒板の辺りを眺めていた。
開けられた窓から吹き込む風が、肩の少し上の辺りで切られたグレーがかった女子生徒の後ろ髪を撫でる。
声を掛けるタイミングを見計らっていると、不意に強い風が吹きこんで、僕のノートを捲った。それに巻き込まれたシャープペンシルが彼女の足元に転がり落ちる。
僕が拾おうとするより先に、彼女の細く白い指が僕のシャープペンシルを拾い上げる方が早かった。
「……どうぞ」
この時、初めて目が合った。長いまつ毛に縁取られた、垂れ目がちの双方の瞳。彼女は、凛とした目つきなのに、どこかアンニュイな雰囲気も纏っていて、本質が汲み取りにくい。右目の下の泣き黒子が、なんとなく、アンバランスに思えた。
「……あ、ありがとう」
僕にシャーペンを手渡すとそれ以上はないと言うようにすぐに逸らされる瞳。
結局誰の名前を聞くこともなく、その日は始業時間を迎えてしまった。
*
一コマ五十分の授業を四コマ分終え、時刻は十二時半。昼休みを知らせるチャイムが鳴る。入学式から一週間経ったぎこちなさの残る教室は、それでももうすでにグループが出来上がっていて、みんなより登校の遅れた僕は当然のように弾かれる。
逃げたばっかりに、居場所のない僕。
ため息をついて、お昼ご飯の入ったビニール袋を片手に教室から逃げるようにして廊下に出る。そんな僕の耳に聞こえたひそひそ話に気付かないふりをして、振り向かずにそのまま廊下を進んで行く。といっても、行くアテなどないのだけれど。何処へ行こう。中庭か、図書室か。いや、図書室は飲食が出来ないから……便所飯は流石に、嫌だなぁ。
「あ」
階段まで歩いた僕の目に映ったのは、立入禁止を乗り越えようとするお隣さんの姿。
僕の声に反応して振り返った瞳は僕を歓迎していないようだった。彼女の表情はどこか怒っているようにも──なんだか、不安そうにも見えた。
「……そこ、屋上? ……立入禁止じゃないの?」
「……なに? 説教しにきたの?」
「ち、違うよ。えっと」
「用がないなら行くけど」
言葉に詰まった僕を無視して、立入禁止のその先の扉を開ける彼女。開けられた扉から覗く雲ひとつない青に、爽やかに吹き込む春風。
……見えない何かが、僕の背中を押す。
「っ、ねぇ、僕もそっちに行ってもいい?」
「……ん、別にいいよ」
思っていたよりもずっと、あっさりと許された立入禁止の向こう側。
適当なところに腰を下ろすと、お隣さんは僕の眼を見て挨拶をしてくれた。
「あたし、芹 なずな」
「僕はえっと、萩 ききょう」
「萩くんね、うん。覚えた」
優しく微笑んだ芹さんの表情に思わずどきりとする。
こんな風に、笑うんだ──。
その日から僕は、芹さんと屋上でお昼を食べることが日課になった。
一日一日を積み重ねるごとに僕は芹さんの事を少しづつ知っていって、芹さんも僕の話に笑ってくれるようになって。
中学生の頃は知らなかった温かな友情は、学校という場所に苦手意識を持っていた僕が登校する為の大きな動機にいつしかなっていた。
「いつも思ってたんだけどお昼ご飯少なくない?」
初めて登校した日から二週間程過ぎた四月の終わり。
袋からサンドイッチと野菜ジュース、それからチョコレート菓子を取り出した僕に彼女は問いかけた。
「そうかなあ……いつもこんな感じだから……芹さんはいつも美味しそうなお弁当だよね」
「……なんかいる?」
「え、いいの?」
お弁当の蓋を皿代わりにして乗せられる卵焼きとプチトマト。右手で器用に二本の箸を操る仕草はとても綺麗で上品で、きっと育ちが良いんだと思った。
「えっと、じゃあ、お礼に、これ」
個包装のチョコレートを三粒取り出して、彼女の白く小さな手のひらに乗せる。
「……ありがとう」
早速卵焼きを口に運ぶ。ほうれん草が巻き込まれたそれは、黄色と緑の色彩も鮮やかでその味も出汁が効いていてとても美味しかった。噛むたびに出汁の味が口いっぱいに広がっていく。
それを飲み込んで率直に感想を伝える。
「卵焼き、美味しいね」
「うん。うちの親の一番のおかずだよね」
「ほうれん草入ってて、出汁が効いてて美味しい」
「……ありがとう。伝えとくね」
そう言って笑う芹さん。
初めて彼女を見た時は不愛想な印象だったけれど、実はそうではないらしいと事あるごとに気付かされる。むしろ、最初の態度の方が偽りだったのでは、という気がする。それと同時に浮かぶ純粋な疑問。
「芹さんてさ、なんで教室でご飯食べないの? そもそもここ立入禁止だし……」
ストレートに疑問をぶつけると、芹さんの瞳は僅かに伏せられる。
陰る空色にこれは聞いてはいけなかったのかも、という不安がよぎる。
「んー……誰とも、関わる気なかったから。屋上なら誰も来ないし……。普通はリスクを負ってまで立入禁止破らないしね。だからびっくりしたよ、そっち行ってもいい? って聞かれたときは」
「そう、なんだ……」
僕の事を芹さんの双方の瞳がじっと見つめる。
「あたしも気になる。なんでここに来てるのか」
なんで。その質問に僕は、初日の情景を思い出す。
開け放たれた、屋上に繋がる扉。そこから覗く自由に広がる雲一つない青空と、僕の事を見つめる芹さんの空色の瞳。
「僕、は……青空に魅せられたから、かな?」
言ってから、これはだいぶ恥ずかしい事を口走ったのでは? と思い視線を頭上に広がる空に向ける。
芹さんは「わかるわかる。屋上気持ちいいもんね」とひとり納得したように頷いて僕と同じように空を仰いだ。
ちらり、と隣に座る彼女の事を盗み見る。
空を見上げる瞳はきらきらと輝いていて、初めて見たあのつまらなさそうな表情は身を潜めていた。
誰とも関わる気がなかった、そんな風に言った彼女にとっての今この瞬間が、僕と同じように居心地の良い場所であればいいと──そう思うのは、あまりにも傲慢なことなのだろうか。




