昨日 午後五時二十九分 (ファイル番号13)
職員は皆早々に引き上げたようで、オフィスは既に静まり返っている。俺とスタンリーは彼の業務用端末の前に陣取り、先ほど見つけた「証拠」の数々を、デスクトップに並べていた。
ふと、腕時計に目を落とす。しまった、時間を過ぎている。
「ちょっと失礼させてもらうよ」
俺は胸ポケットから注射器一式を取り出した。端末のモニタを睨んでいたスタンリーは、ちらりとこちらに一瞥をくれる。
普段はバスルームに行くのだが、まあいいだろう。
曲がらないよう慎重に針を取りつける。空打ちをしてから、迷わず、すばやく、正確に刺す。場所は二の腕だ。跡が残らないよう、前回の箇所から二センチ程ずらすのも忘れない。もう長いこと日常的にこうしているので、シリンダーを押す手つきにも迷いはない。焦らずゆっくりと行う。
皮膚に空いた小さな穴を通り、インシュリンが体内に流れ込む感覚。頭の中で数を数え、そして、深い深い安堵のため息をつく。
スタンリーが作業の手を止めずに言った。
「糖尿病ってのはやっかいなもんらしいね。それ、毎日決まった時間にやらなきゃいけないんだろう」
「慣れりゃどうってことないさ」
俺が針を抜いて後始末をする間に、スタンリーは「証拠」を一つ一つ入念に確認した。普段の冴えない事務員としての彼からは想像もつかないほど、その目つきは鋭い。
スタンリーが情報技術に関して高度なスキルを持つと知るのは、俺を含めて限られた人間だけだ。彼はある理由から、そのことを巧みに隠している。
まったく、うまく化けるものだと、俺は別人のような彼の横顔に唇の端を上げた。
「なるほど……。写真、貸金庫の契約書。捜査部会議の議事録に、捜査部職員の個人情報。地域課の押収品リストまであるのか」
「ああ。こういう機密性の高いファイルや内部情報を、メールで送信している」
「ふん」
スタンリーは小バカにしたように、鼻で笑った。
「ずいぶんこれ見よがしな『証拠』だな。そもそも情報漏洩をするような人間が、こんなものを自分の端末に残しておくはずがないじゃないか。犯人はどうしてこんな、安っぽい証拠を残したんだろう」
「死人に口なし、ってことだろうな」
「え?」
「情報漏洩の疑いがあった職員は『自殺』し、端末から証拠が発見される。被疑者死亡のまま書類送検で、この件は決着。それが真犯人のシナリオなんだろう。容疑を否認する本人がいなければ、この程度の証拠で充分だ」
「そ、そっ、そんな……」
スタンリーは震え上がった。
「い、嫌だ! 僕は死にたくない!!」
「おい、声を落とせよ」
俺は慌てて唇に指を当てた。誰かに見とがめられると面倒だ。
「大丈夫だ、スタンリー」
俺は彼の肩を軽く叩いた。
「犯人の思惑通りにさせないために、俺たちはここへ来た。そうだな? スタンリー」
「あ、ああ……」
「それなら、協力して犯人の手がかりを探すんだ。分かったか?」
「う、うん」
スタンリーはおどおどしつつも気を取り直し、モニタに向かった。俺も肩を並べ、デスクトップに並ぶファイルを漫然と眺める。
「手がかりか……」
自分で言ったものの、たったこれだけのヒントでどうすればいいのか、俺には見当がつかなかった。俺たちの属する捜査部は、五千人をゆうに超す人員からなる組織だ。犯人の残した証拠が捜査部、特に地域課の情報に特化していることから考えて、犯人は捜査部地域課所属の人間と思われるが、地域課だけでも一千人近い数になる。ここからどうして容疑者を絞り込んだものか。俺はため息交じりに腕組みをした。
そもそも始めから、分からないことがある。
「パスワードでロックされた君の端末に、犯人はどうやってログインしたんだろう」
「ああ。まずそれができなきゃ、偽装した証拠を残せないね」
すっかり落ち着きを取り戻したスタンリーは、淡々と答えた。この男は端末をいじってさえいれば、心の均衡を保てるのだろうか。
「俺がしたようにシステム管理者用パスワードを使って、ネットワーク経由でログインしたんだろうか」
「うーん」
スタンリーは腕組みをして考え込んだ。
「君の場合は、正式にシステム管理部から許可を得たんだろう。犯人がなんらかの方法で、管理者パスを盗んだとは考えにくいな。システム管理部のセキュリティを突破するのは骨が折れる。第一、管理者パスを使えばシステム管理部にログが残るんだ」
「じゃあ、犯人は君のパスワードを盗んだのか」
「ありえない」
スタンリーはきっぱりと否定した。
「僕はパスワードをメモしない。僕の頭の中にしかないんだ。盗むなんて不可能だよ」
「じゃあ、パスワード解析ツールを使って割り出したとか」
スタンリーは首を振った。
「ツールで割り出されにくいような、長文で複雑、かつ無意味な文字列のパスワードにしてある。それに頻繁に変更してるから、限られた時間内で解析できたとは思えない」
「じゃあ、パスワードを盗むようなマルウェアを仕掛けたんじゃないか? よくあるだろう、キー入力された文字列を記録して外部に送る――、キーロガーというんだったか。それか、バックドアを作成するようなウィルス――」
「ランドルフ」
スタンリーは、こちらを少々見下すような、静かな声音で言った。
「僕の端末のセキュリティは万全なんだ。なにしろ僕自身の手で、マルウェア検出システムを――」
そこまで言うと、スタンリーは急に表情を変えた。すばやく端末を操作して何かのファイルを開き、すごい早さでスクロールしながら目を通していく。
「なんだ、やっぱり自信がないのか」
俺はからかうように言った。
「そうじゃないよ。犯人がそういう手段を一度は試したとして、それがマルウェア検出システムのログに残っていれば、何かの手がかりになるかもしれない」
「なるほど」
俺はしばらくの間、作業に集中するスタンリーの邪魔をしないよう、口をつぐんでいた。
「ん……?」
スタンリーの手が止まった。
「どうした」
「これは……」
スタンリーは身を乗り出し、近眼の目をモニタに近づけた。
「マルウェア検出システムが、あるウィルスを駆除したログがあるんだ……」
「やっぱり! そいつがパスワードを盗んだのか」
「いや、そうじゃない。実行される前に駆除されてるし。……ちょっと待ってくれ。感染経路を見てみよう」
ピアノを弾くように滑らかな手つきで、スタンリーの指がキーボードを叩いていった。静かな室内に軽やかな音が響く。
「分かった。真犯人が残していった、押収品リストのCSVファイルだ」
キーボードの音が止まった。
「CSVファイル?」
「そう。表計算ソフトで開くファイルのことだよ。この押収品リストのファイルが、ウィルス感染していたんだ。ファイルを開くと実行されるようになっている」
「じゃあそのウィルスは、犯人がなんらかの方法でログインした後に仕掛けられた、ってことか。そいつを使ってパスワードを盗んだわけじゃないんだな」
「違うよ。それにこのウィルスは、パスワードを盗むようなスパイウェアじゃない。単なるジョークウィルスなんだ」
「ジョークウィルス?」
「そう。ウィルスの一種ではあるけど悪意はなくて、ふざけたメッセージを表示したりするだけのものなんだ。つまりイタズラさ」
「どうしてそんなものが?」
俺はすっかり面食らった。犯人は、情報漏洩の証拠となる重要なファイルに、イタズラをするだけのウィルスを仕込んだ。意図がまったく見えない。
「違う。ウィルスは意図的に仕込まれたんじゃない。犯人は気づかなかったんだよ」
「は?」
「ウィルス感染してたってことは、このCSVファイルが僕の端末で作成されたものじゃないという証拠だ。僕の端末は万全の対策が施されているから、マルウェアが侵入してきたらすぐに駆除する。現に、このファイルにくっついてきたウィルスだってそうだ。つまり僕の端末は、常にクリーンな環境なんだよ。この端末で作成したファイルは、始めからウィルス感染しようがない」
「なるほど……」
「犯人は自分の端末で押収品リストのCSVファイルを作成して、作成者なんかのファイル情報も書き換えた。でもその端末は、きちんとマルウェア対策がされていなかったんだろう。ウィルスが潜んでいて、用意したファイルは感染してしまった。しかも犯人はそれに気づかないまま、ファイルを僕の端末に移した。そして僕の端末でウィルスは検出され、駆除されたというわけさ」
「つまり犯人は、君に有利な証拠をむざむざ残してしまったんだな。確かにそれなら、意図的ではなくミスだったに違いない」
「だろう? ――待てよ。もしそうなら……」
スタンリーはいきなり端末に向かって身を乗り出すと、ぶつぶつ独り言を呟きながら、勢いよくキーボードを叩き始めた。
「何か思いついたか?」
「ああ」
生返事をしただけで、スタンリーは作業に集中する。どうやら警察局ネットワーク上で、何か探しているらしい。目にも止まらぬ早さであちこちのサーバーを次々に調べている。
やがてモニタには、何かのリストが表示された。
「よし」
スタンリーが満足気に唇の端を上げる。
「これはなんだ?」
「システム管理部の、端末管理データベースだよ」
「『端末管理データベース』?」
「ああ。システム管理部は、職員の業務用端末を一元管理してる。例えば、業務に必要なソフトウェアのアップデートなんかがあるだろう? そういう時はシステム管理部が、ネットワーク経由で各端末にアップデートをかける。端末を使っている職員は余計な作業に煩わされず、本来の業務に集中できる。この端末管理データベースはそういう用途に使われてるんだ」
「なるほど」
「つまりこのデータベースを見れば、各端末のシステムが現在どういう状況にあるかすぐ分かるんだよ。――ウィルス定義ファイルの適応状況も」
「ウィルス定義ファイルだって?」
ウィルス定義ファイルとは、セキュリティソフト開発会社によって提供される、巷に出回るウィルスのリスト――例えるなら、指名手配書のようなものだ。セキュリティソフトウェアはこの定義ファイルに基づいて、ウィルスを識別する。
ウィルスを作る者とウィルスから守る者の競争は常にイタチごっこで、ウィルス製作者は常に新しいウィルス、今までのセキュリティソフトでは検出できない新種のウィルスを作り出そうと苦心する。対してセキュリティソフト開発会社では、新種のウィルスをいち早く解析し、自社のソフトで検出できるようにウィルス定義ファイルの更新を行う。この繰り返しだ。
つまり、頻繁に更新されるウィルス定義ファイルは、常に最新版を適用しておかないと、ソフトが新種ウィルスを検出、駆除できない。
「あのCSVファイルは、きちんとウィルス対策がされていない――つまり、最新のウィルス定義ファイルが適用されていない端末で作成されたんだ」
「そうか! つまり……」
「このデータベースでその端末を抽出できる。抽出した端末の使用者リストが、そのまま容疑者リストになるというわけさ」
スタンリーはニヤリと笑った。
「でも定義ファイルは自動で更新されるんじゃないのか。そのための一元管理だろう?」
「更新が行われる時に端末使用者の側で一時中断して、後回しにすることもできる。更新中はどうしても端末の動作が重くなるから、場合によっては業務の妨げになるし。本来なら後で時間のある時にやらなきゃいけないんだけど、ユーザーによっては面倒がって、何度も先延ばしにする。その結果、長い間更新されないままになることがあるんだ」
「なるほどな」
俺は、そのデータベースを凝視した。
「よし。じゃあ、最新の定義ファイルが適用されていない端末を検索するよ……」
スタンリーはそう言いながら、もう手を動かし始めていた。




