今日 午前十時二十五分 (ファイル番号37)
取調室のボリス・マッキンリーはだらしない姿勢で浅く椅子にかけ、監視に立つ警備官に軽口を叩いていた。隣室からマジックミラー越しに観察する俺とダンに、該当部署から派遣されてきた心理学者が言った。
「今のところ不審な様子はありませんね。今日も、例の抗争事件の事情聴取で呼び出されたと思っているようです」
「そうか。だが、しらばっくれているだけかもしれん」
ダンは太い腕を組み、片手で顎をさすった。
「ええ。ですが殺人事件について何か隠しているなら、それは必ず挙動に現れます。動揺させて、揺さぶりをかけてみてください」
「よし」
ダンはニヤリと笑った。
「まずは、顔を見せてやろうじゃないか」
ダンが俺に目で合図をし、俺は隣室に続くドアをノックした。警備官がドアを開ける。
「やあ、おはようさん! あんたも朝からご苦労だねえ」
ボリスは既に顔見知りの俺を見るなり、ふざけてまるで同僚のような口をきいた。ニヤついた口元、ずる賢そうな細い目。しかし、その表情には驚きの欠片も見られない。
「……おはよう。度々で悪いが、今日も調書を取らせてもらうよ」
俺はさり気なくボリスを観察しながら言った。彼のヘラヘラした態度が、内心の動揺を隠しているようには見えない。だがその判断はマジックミラーの向こうの専門家に任せるとして、俺は彼と向かい合った椅子にかけた。
「毎日これじゃあ、こっちも商売にならねえよ。困ったもんだ」
ボリスは別段困った風でもなくそう言うと、歯並びの悪い口元でニッと笑った。その笑い方は、俺をいらつかせた。
「…………」
「ま、冗談冗談。こっちは善良な一市民として、警察の旦那方に協力を惜しみませんよ」
ボリスは俺に向かってウィンクをしてみせた。
俺は、手にした調書をぞんざいに脇によけた。わざと大きな音を立てて机に投げ出した紙の束を、ボリスは訝しげに見やる。そしてボリスはゆっくり俺に目線を戻し、表情のない顔で俺を見据えた。ボリスは危険に対する嗅覚の鋭い、裏社会の人間だ。何か想定と違う事態が起きていると、すぐに勘づいたらしい。無の表情は、いかなる変化にも対応できるよう、身構える体勢なのだ。
しばしの間、俺とボリスの間では、言葉を使わない水面下のやり取りが行われた。
「今日君を呼んだのは、実は別件なんだ」
俺はそんな探り合いなどまるでなかったかのように、平然と言った。
「別件?」
「昨夜ダウンタウンで起きた殺人事件のことで、何か知らないか?」
小細工なしに、正面から話を切り出す。俺は気の短い男だし、回りくどいやり方は性に合わない。いつだって、最短で目的を果たす、一番効果的なやり方を選ぶのが流儀だ。
「殺人事件だって? どの?」
ボリスはこちらの出方に用心しつつも、低い声でせせら笑った。
「あそこらじゃ、毎日何件もの殺人事件が起きてるぜ」
「ロウアーウエストサイドの裏通りで、警察局の職員が他殺体で発見された件だ」
「ああ、それなら話は聞いたな。だけど情報は持ってねえ。……おい。ちょっと待てよ。まさかこの俺が、容疑者だとでも言うんじゃねえだろうな?」
「…………」
俺は何も答えずにボリスを見つめた。ボリスの顔に、みるみる狼狽の色が表れる。
「冗談言うなよ! なんで俺がそんなことをするってんだ。自慢じゃないが俺は、ヤバイ橋は渡らない主義だ。殺し――しかも警察局の人間? そんなバカなまねするもんか!」
ボリスは身を乗り出して、俺に食ってかかった。
「ヤバイ橋は渡らない? こんな仕事をしてるくせにか?」
俺が思わず皮肉な嘲笑を浮かべると、ボリスはため息をついて椅子に深くかけなおした。
「……まあ、あんたらからすれば、そう思うだろうよ。だけど俺はな、本当にヤバイ仕事は受けねえんだ。いいか、そういうのはな、上に行きたい奴らのすることさ。俺はそういう奴らから、つまらん仕事のおこぼれを頂戴するケチなチンピラでいいんだ。それならダウンタウンでだって長生きできる。早死にするのは、欲張った奴らだよ」
「お前は欲がないっていうのか?」
「そんなもん、十歳の時に河向こうに置いてきた。俺はな、とにかく生き延びて、家族を食わせていられりゃそれでいいのよ」
「…………」
彼の言う河とは、国境のことだ。富と貧困、チャンスと絶望を無慈悲に分断するその河を、食い詰めた隣国の連中が夜間に泳いで渡る。彼もかつてはそんな、不法移民の少年だったのだろう。
「家族皆で飯が腹いっぱい食えるってのは、すごいことなんだぜ。あんたには分かんねえだろうが」
ふと、彼の目線が俺を通り越して宙に浮いた。
「……家族が誰も、飢えて死なない。俺はそれで充分だ。小悪党の小物でいいんだよ」




