フィニアス・ルビディア神王猊下
ガタン、と揺れた勢いに驚いて茉莉花は目覚めた。身体が大きく傾ぐのが分かったが、バランスを保てずそのまま投げ出されるのを覚悟する。しかし気が付くと、ロスの両腕でしっかりと受け止められていた。
「ロス、様……」
咄嗟の事だったのだろう。ロスは片膝をついて正面から抱きしめるような形で茉莉花を支え、お互いの顔がやたらと近くにあった。常に無表情な彼が軽く目を見開いて、間近から茉莉花のことを見ている。
(睫毛長いなぁ。肌も男の人なのに綺麗だし)
茉莉花は呑気にロスの秀麗さに感嘆していたが、段々と状況を把握するにつれて顔に熱が集まっていく。
(近い近い近い!ひえぇ、どうしてこうなった!?)
道は舗装されているとはいえ、馬車はかなり揺れる。その中でぐっすり寝こけた自分はどれだけ寝汚いのかと。
どうやら大きな段差に差し掛かって身体が一瞬宙に浮いてしまったのだろう。ロスに支えて貰っていなかったら、座席から転げ落ちていたに違いない。
「ごめんなさい!ありがとうございます!」
そそくさとロスから離れ、きちんと座り直す。顔は熱いし、心臓がとんでもない速さで鼓動を打っているのを感じた。
対するロスはいつもの無表情に戻り、軽く膝を一つ払うと自分もまた茉莉花の向かいに座る。
「……よくもあれだけ深く眠れるものだ」
「はい、まったくおっしゃる通りで」
ぐうの音も出ない。
一方で、仕方ないじゃない、と茉莉花は内心言い訳する。
(昨日は寝てないし夢の中に私の姿したマリスフィエナ出てくるし……ってそうよ!今のホントに夢!?)
とてもリアルで、今さっき実際に起きた事のように鮮明に記憶が残っていた。
好印象が得られるという打算で選んだ進学校の校舎。
女生徒にあまり人気の無いデザインの制服。
猫っ毛の黒髪を肩まで伸ばした、どこにでもいそうな女子高生。
茉莉花の姿をした、マリスフィエナ。
(一体どうなってるの……マリスフィエナは私の身体に?やっぱり入れ替わって日本にいるの?)
ロスの体温を感じた時とは別の意味で心臓がバクバクと打つ。胸騒ぎ、というものか。
漠然とした不安がしばらく茉莉花の心を覆い続けていた。
王都から少し外れた、自然をそのままに残す場所。木々と共に聳え立つ壮大な建物は、茉莉花も見た事のある景観だった。
言わずもがな、スチル絵だ。
ただし絵では伝わらなかったその大きさ。これ程までの巨大建築物だったのかと、茉莉花は驚嘆する。
大神殿アストルム。それがこの世界を創造したと云われる神を祀る場所だ。
全てが石造りの神殿で、石はベースの白に淡いグレイや黄色がまるで唐草模様のように混じっている。それはペイントされたものではなく、もともと持つ柄のようだった。
ギリシャの世界遺産になっているような神殿の造りに似ていて、太く高い柱が何本も並び立っている。茉莉花は思わずその雄大さに魅入ってしまった。
階段の先には玄関となる入り口があり、入ってすぐのホールに水を湛えた大きな水盤が設置されている。ロスと共に歩んでいく間にも多くの人が横を通り過ぎ、同じく奥へと向かっていた。
気になるのは通り過ぎて行く人々が、一々振り返ってこちらを一瞥していくのだ。
(……ロスがカッコよすぎるのか!)
ハッとして茉莉花は納得したが、原因が自分にもあるとは露ほどにも思わない。
煌びやかな装いの男女にも気を取られたが、水盤の横を進むにつれて茉莉花は神殿の荘厳さから目が離せなくなった。
本殿内部はどこかゴシック建築の教会を思わせる内装をしており、ステンドグラスのような大きな窓は無いものの、アーチ状の梁が天井を支え円形状になっている。
蝋燭の燭台なども立派な石像が支え、柱にも神話を現しているのか精緻な彫刻が彫られていた。
(すーごい!こんな広い建物だったの神殿!ていうかやっぱりイラストよりかなり細かい装飾してる!)
ホールの先、祭壇のある場所は壁で仕切られ、その壁を埋めるのは一面のステンドグラスだ。
ステンドグラスは外からの採光を得られないからか、全体的に着色硝子はポイントにしか使われず無色透明の硝子が多く占め、代わりに複雑な幾何学模様が描かれていた。
「まるで初めて来たような顔だ」
「……何度見ても美しいと思います。ロス様は違いますか?」
誤魔化しではなく、何度来てもきっとその都度魅入るだろうと確信できる。茉莉花にとってこんな芸術的な建築物に立ち入るのは、初めてだ。
海外の写真集などで古代から中世にかけての歴史的建造物は見た事はあるが、その空気をまさか肌で感じることができるなんて。
しかしロスはそこまで感慨は無いようだ。極めて冷静に嘆息すると、肩を竦めた。
「これを人力だけで行えば私も感心するだろうが、神力を使えば三日で終わる」
(ええええ!?三日で終わるの!?神力持ってたとして、何をどうしたらこれ造れるの!?造れる気がしないけどこれっぽっちも!?)
「そういう、ものかしら。ほほほ」
カラ笑いをするしかない。
この感覚の違いをどう表せばいいのか。ワールドギャップとでもいうのか。
「花そのものよりも、花を咲かせるまでの努力を私は見るべきだと思う」
おや、と茉莉花はロスを見上げた。
自発的にそんな事を喋るとは、ロスらしくないように思う。
「そういう考え、素敵だと思います。努力を評価してくれる人って、良いですね。そんな人がいてくれたらみんながんばろうって思えますし」
会話が成り立ちそうで、嬉しくて勢い込んで言うと、ロスは急に立ち止まって茉莉花をはたと見つめた。と思うとなぜか気難しげな顔をしてぐいと腕を引っ張り茉莉花を連れて再び歩き出す。
(ちょっ、なに?ノーコメントですかロス様!)
ゲームなら攻略するのは難しく無いのに。
やはり生身の人間同士には相性というものがあるのだなーーー茉莉花は虚しくなりそんなことを考えた。
ロスは女神の如く麗しい令嬢を連れながら、なぜかその辺にいる平凡な少女を相手にしているような気分が拭えなかった。
馬車で寝る、反応は単純、言動が洗練さに欠ける。
輝くような美貌という見た目に誤魔化されそうになるが、口を開けばどうも純朴な娘という印象を受ける。
そして無垢な顔をして、なぜあのような世辞を。
婚約破棄を望む相手を褒める意味も分からない。
これが本来のマリスフィエナなのか。
顔合わせなどで見た彼女には、およそ想像もできない言動や行動。それぐらい印象がかけ離れている。
立ち居振る舞いにこれといって問題は無いが、何か自信に欠けるというか、二歩も三歩も引いて行動しているような。主張の強い令嬢よりロスとしてはその方が楽なのだが、以前はもっと年齢の割に泰然としていた。
(何があったのか知らないが、これなら妻として御しやすいかもしれないな)
イーテエラ侯爵令嬢という付加価値を持つ妻はロスとて欲しいところだ。貴族の婚姻とは所詮打算だと完全に割り切っているロスにとって、妻は仕事の同僚を選ぶのと等しい。
この時のロスは、まったくもって酷く傲慢な動機から茉莉花を見るようになっていた。
正面には壇上があり、体育館より更に大きな空間に立派な長椅子が並ぶ。
座る場所は位によって明確に決まっているようで、公爵家の位置は王族に近くかなり前へと連れていかれた。
中央のメイン通路を神官と思わしき男女がチラホラと通っていく。
あとどれくらいで始まるのか、祭壇の細部までに凝らされた細工を観察しながら茉莉花は意識が遠のきかけていた。
あと少しでまた眠りにつきそう、というところでどこからか気になる声を耳が拾う。
「ほら、やっぱりマリスフィエナ様よ」
「なによ、ロス様との婚約は無くなったと聞いたのに、一緒にいるじゃない」
「貴女まだロス様のこと諦めていなかったの?あのマリスフィエナ様を手放すはずがないでしょう?」
「でも、ロス様はあの方を愛していらっしゃる訳では無いわ。それにマリスフィエナ様も」
後方から囁かれる声は年若い娘の物だ。甲高く良く通るそれはひそひそ話にしては姦しく、本人に聞かれないとでも思っているのだろうか。それかその扇を広げていれば遮断できると勘違いしているのでは。
「そういえばマリスフィエナ様から婚約を退けられたとか」
「なんて高飛車なのかしら。美しいからって何様だと思っているの。あんな高慢な方、ロス様だって嫌気が差すはずですわ」
(ですわ口調、生で聞けた。って私すごい批判されてるわー)
本人はあずかり知らぬところだが、方々から性悪と認識され始めている茉莉花であった。
「仕方ないわ。あの方ほどの美貌なら、殿方だって選びたい放題でしょうもの。マリスフィエナ様が微笑めばどんな男性でも喜んで傅くと、専ら言われていることじゃないくて?ーーーそういえばご存知?」
その後殊更声を潜めて、何事かを話している。するとすぐに侮蔑のこもった声が届いた。
「ああ嫌だ。ウィルトス様にも手を出そうなんて。清純そうな顔をして、まるで淫婦のよう。あの方のせいで神殿が汚されなければ良いのだけど」
「ちょっと」
「なによ、貴女が言ったんじゃないの」
「わたくしは別に」
『やり直し』が起こる以前、マリスフィエナのせいで神殿は壊滅状態になった。あまり笑えないところだ。
というかこれは普通に茉莉花の悪口では。痛くも痒くもないが、どうやら評判はガタ落ちらしい。
片方の少女は随分とヘイトを溜めているようだ。
(選びたい放題かぁ〜。私だって好き好んでマリスフィエナやってるわけじゃないんだけど。つかもう元に戻して欲しいんだけど。いい加減やさぐれるわよ、神どもめ)
創造主にして最高神。それを喪った世界。
代償の大きさを茉莉花だってなんとなく分かる。空気ぐらい読めるのだ。
(だいたい女の方から男を選んで何がいけないのよ?親の言う通りにホイホイ結婚するわけ?嫌じゃないの?)
茉莉花には分からないことだらけで、純粋に理解ができない。恋愛という段階があってこその結婚、というのが茉莉花の常識だ。まるで犬猫の番を宛てがうように結婚相手を決めるのは、どうにも受け入れがたかった。
(マリスフィエナみたいにすごい神力があるなら、神殿の巫女になるってのも最終手段でアリかもな〜。神託があったとかテキトーなこと言って……)
そんな事を真剣に考えていると、鐘の音が鳴り響いて茉莉花は驚きで肩を跳ね上げた。
国王と王妃、王子ラウルスが到着した合図らしい。彼らは静かになった本殿の中を堂々と歩み、最前列の一際豪勢な椅子へと腰掛けた。
その後に続いたのは白髭の長い老人と、フィニアス・ルビディア。老人は一目で位の高さを感じさせる立派な衣を纏い、フィニアスは見覚えのあるデザインの白い衣装を着ている。
フィニアス・ルビディア神王猊下。
相応しい者が現れなければ、空位となる時代があっても珍しくないという。
(これでフィニアスは全神殿のトップになるのか)
老人とフィニアスが壇上に上がると、居並ぶ王侯貴族たちに向き直り、老人が朗々とした声で挨拶から始め神殿の歴史や自分が大神官となってからのことを話しだす。茉莉花は早々に(あ、これ長くなるやつだ)と悟り気が遠のきかけた。
視線をフィニアスに移すと、ちょうど彼と目が合う。するとフィニアスは控えめに微笑み、釣られて茉莉花も日本人らしい曖昧な笑みを返した。
涼やかな水色の髪は背中で緩く編まれ、白に金の刺繍が施されたゆったりとした長衣が眩しい。柔らかな表情はとても優美で、まるで天使のようだ。
(……あんな若いのに、堂々としててすごい。正直ものすごく元に戻りたいけど、あの子とかここにいる人達がみんな死んじゃうのが分かってると、やっぱり諦めちゃうよなぁ。マリスフィエナをこっちに戻すわけにいかないもん)
そして長い演説の後に、老人は大神官の座を辞し、新たに神王を据えると宣言した。