夜が明けて、再び
今日も空は青く、アイテール王国は平和そのもの。
昨日の夜、魔王が部屋を訪ねてきた以外は。
「マリスフィエナ様、本日はフィニアス・ルビディア様の戴冠式でございます」
毎日色々あるな、ご予定!
茉莉花は寝不足でひりつく目を瞬き、侍女のアンネが甲斐甲斐しく髪を梳いて整える姿を鏡越しにぼんやり眺めた。
寝不足は完全に魔王のせいだ。
振り返ること昨夜、寝室に突如現れた美貌の青年は自らを魔王と名乗った。浮世離れした妖艶なる美しさは人外でしか持ちえない雰囲気を漂わせていた。
そして不眠の理由は彼がもたらした情報にある。
透が身一つでこの異世界のどこかへと放り出された。
それが最たる理由。
魔王が寝室から消えた後も茉莉花はどうしても眠ることなどできなかった。
自分がどうなろうと構わないが、弟はまだ十一歳の子供なのに。今この瞬間もどこでどうしてるのか、そればかりが心配で、いっそ屋敷を飛び出してしまおうかという考えも起きた。
けれど、屋敷を出てどこへ行く?どこを捜す?
地理も地名もろくに分からないのに、それに王都にいるとも限らない。
現実的なことを考えると茉莉花は一歩も動けず、昨夜は窓辺の下でへたり込んで茫然と過ごした。
まるで豪華な牢屋の中だ。
自分では何一つ動けず自由に行動を決められない。
歯痒い思いをして微睡むことも出来ず、茉莉花は頼みの綱が魔王という現実に朝から複雑な気持ちでいる。
(すごい美形だったしザ・魔王な雰囲気あったけど、なんか弱そうだったわね。頼りになるのかなぁ、あれ)
あれ呼ばわりしているが、魔王サイドでも茉莉花は性悪な小娘として認識されていると思いもよらないだろう。
「それで、マリスフィエナ様……」
ぼんやりしていると、アンネが気まずそうに声をかけてきた。茉莉花は彼女へ視線を移すと、首を軽く傾げて先を促す。
「昨日ロス様と御婚約を成されなかったとお聞きしましたが、本日同伴は務めていただけるのでしょうか?」
「え」と声が出かけて、茉莉花は寸でのところで呑み込んだ。
同伴とは。
「無いと駄目かしら」
当たり前のように言い放ってみるも、侍女の困り顔からあった方が良いらしい。
「衆目というものがございます。侯爵様の為にも、ロス様と睦まじいお姿を周囲にお見せになった方が宜しいかと」
「睦まじい……私たち、睦まじいと言える仲だったの?」
皮肉でもなんでもなく、単純に質問として聞いてみたのだが、アンネは青白くなって黙ってしまった。まあ、十中八九ほぼ他人レベルの仲だったはずだ。
「笑われようが指差されようが構わないわ。お断りしたのは私だし。オトウサマには迷惑でしょうけどね」
眠いしダルいし、誰かに気を使って過ごせる気分ではない。同伴者なんてできるならつけたくは無かった。
「両親と一緒ではダメなの?」
「駄目という訳ではありませんが……小さい子供という訳でもございませんし……。ご同年のご令嬢は婚約者様に伴われていらっしゃると思います」
「婚約者のいない子はどうするの?」
「ご兄弟やご親族の殿方がいらっしゃるものです」
夜会に出る訳でもないし、と茉莉花は首を捻る。戴冠式なのだから、そこまでして異性のエスコートを受けなければならない意味とは。
マリスフィエナには本来ロスが婚約者として迎えに来る手筈だったのだろう。それがご破算になってしまったから、親族に頼むにしても急過ぎる話かもしれない。
(戴冠式に出るっていうにも、どうするつもりなのかな?昨日はオカアサマは倒れちゃうし侯爵様も最後項垂れて燃え尽きた、みたいな顔して黙っちゃったし)
恐らく、今日の事まで頭が回っていなかったのではないだろうか。
(ま、いいか。別に)
茉莉花には透以上に重要なことなど、この世界に存在しないのだ。
ローズブロンドの髪は複雑に編み込まれ、真珠のピンが花のように散っていた。バレッタにもふんだんに使われ、数珠繋ぎに垂れ下がった飾りがシャラリと動きに合わせて音を鳴らす。
涼やかな水色のドレスもヒラヒラと裾をはためかせて、まるで妖精のように優美であった。軽やかに薄絹を重ねた上にキラキラと輝いて見えるのは、本物の宝石である。縫い付けてあるそれが光を弾いて、華美なデザインでは無いのにとても豪華に見せた。
(歩く宝石……いや自画自賛とかでなく。それか歩く金塊?札束?どんな通貨か知らないけど)
袖の裾は人魚の尾ヒレのように波打って流れ、振袖並の長さをしていた。
鏡を見た茉莉花は唖然としてしまう。
これが本当にこの世に存在する人間かと。
あまりにも幻想的で、あまりにも美しい。
(さすが、国の至宝だとか言われるだけあるわ……)
マリスフィエナとは魂レベルでは他人では無いが、意識の上では完全なる他人だ。
(これだけ時間かけてめかしこんだけど、両親からは音沙汰無いし、誰も何も教えてくれないし。マジで戴冠式とやらに出席するの?)
戴冠式は王様がするものだと思っていたが、今日はどんなことをするのだろう。
(たしかフィニアスって、神殿のトップだったはず。つまりこれからその地位になるのかな)
フィニアス猊下。ゲーム内ではそう呼ばれていた。
優美な細面の少年で、癖のない水色の髪は長く伸ばされ、緩く三つ編みに纏められていた。
木の枝のような冠を被り、白い衣装には金の刺繍。これもまたザ・神官、な格好をしたイラストが、茉莉花の知るフィニアスだった。
十五、六歳ほどだったはずだが、現実に考えたらずいぶんと若い最高位の宗教者だ。ゲームだと思うとなんとも感じなかったけれど。
「マリスフィエナ、準備は出来たかね」
「オトウサマ……」
イーテエラ侯爵が小難しい顔をして現れ、硬い声で茉莉花に問うてきた。しかし娘の妖精のような装いに目を留めると口許が緩み、満足そうに頷く。親バカである。
「ロス・サフィラス殿が迎えに来てくださった。かねてからの約束だからと、果たしてくださるそうだ」
なんと。来たのか。
茉莉花はこっそりと驚く。
「良いか、マリスフィエナ。くれぐれもロス殿に無礼な真似をしてはいけない。お前なら分かるだろう?」
申し訳ないが現在すでに侯爵令嬢のマリスフィエナでは無く、他所の小娘が中身に収まってしまっている。諦めて現実を受け止めて欲しい茉莉花である。
学校の先生に受け答えるような感覚で、茉莉花はとりあえず「はい」としおらしく返事をした。侯爵は鷹揚に頷くと相好を崩し、一階へと降りるよう促す。
(もしかしてこれ、昨日のことまるっと無かった事にしようとしてる?)
今朝から一切昨日の件に触れない夫妻に、スルーをする事で解決しようという妙なポジティブさを感じた。このままだと同意無しにいつの間にか婚約成立していた、なんてことも有り得そうだ。
茉莉花は小さく息を吐くと、疲労感の残る身体を億劫に思いつつ動かし、一階への階段を降りて行く。そして侍女と共に正面玄関のホールにたどり着くと、昨日と変わり映えの無い色味を纏ったロスが待っていた。
ただし今日は、昨日よりも更に着飾っていて、その秀麗な美貌が何割も増しているようだ。
黒絹のような髪には左耳の後ろ辺りに銀の飾りがあり、耳飾りや指輪も銀製の物で統一されていた。
肌の白さが際立つような黒の長衣は細かに刺繍が施され、少しゴシックな雰囲気が漂っている。
首元のスカーフには唯一色のついた宝石が輝いていたが、それがマリスフィエナの瞳と同じ菫色というのが意味深だ。というか絶対明らかに狙った宝飾品だろう。
「おはようございます」
「ご機嫌は如何だろうか、マリスフィエナ殿」
朝から隙の無いイケメンだ。どの角度から見ても美形すぎる。
今日は黒い衣装なせいで、どこぞの魔王を思い出してしまうが。
「いいんですか?今日一緒に行ってもらって」
「約束は約束だから」
「どうもありがとうございます」
素直にお礼を言うと、ロスは片眉を器用に上げた。どういう意味なのだろうか、そのリアクションは。
ロスの顔を見上げていると、彼はおもむろに腰を屈めて茉莉花の耳元に口を寄せる。突然近くなった距離に身じろぐ間も無く、ロスが小さな声で言いやった。
「貴女も強かなものだ。利になる物は都合よく受け入れる」
硬く冷たい声。
ロスの目を見ると、同じく冷えた瞳。茉莉花でも分かる。これは侮蔑の目だ。
(都合が良すぎる、ってことだよね)
怒りを買っても仕方がない。その覚悟はしていたけれど、それでもこの酷薄な気配はかなり茉莉花の心を凍えさせた。
(怯むな、私。こんなの全然平気なんだから)
大人の顔色を見て、ずっと良い子を演じてきた。
それはたまに帰って来る両親の為の演技だった。愛情が欲しくて、褒めて欲しくて。
そして透の為にも、ずっと平気な振りをしてきた。
姉弟二人だけだって、じゅうぶんやっていけるのだと。強く、なんでもできるしっかりした姉がいるから平気だと。
茉莉花は微笑みを浮かべる。
(だから何?って顔で笑え。もうゲームなんかじゃないんだもの、自分の道は自分で決めるんだから)
しっかりとロスへ笑いかけてやると、彼はどう取ったのか分からないが、ただ目を眇めただけでそれ以上口を開くことは無かった。
マリスフィエナの両親はその様子を良いように勘違いしたらしく、やたらニコニコして見ている。
「よろしくお願いしますね、ロス様」
そう言うと、ロスは溜め息を一つ落としてイーテエラ夫妻と挨拶を交わし、茉莉花を伴って馬車へと乗り込んだ。
その後を夫妻もまた続き、イーテエラ侯爵家の馬車へと消えていく。
今この世界の季節がいつなのか分からないが、日中は暖かいけれど暗くなると少し肌寒い。日本での春先か、もしくは初夏の前か。気温だけならそんな気候だ。
「私の父上は貴女との婚約を諦める様子は無いようだ」
馬車の中でロスは単刀直入にそう切り出した。
「結婚は親が決めるもの、ってやつですか」
「それが常識だ」
「すみませんね、私は非常識なので。はいそうですか、って聞く気はありませんから」
微笑みは崩さず、口調だけはおっとりと柔らかく強気な台詞を口にする。
「以前の貴女なら、そんな事を言わなかっただろう」
「気が変わったんです。女心なんてそんなものですよ」
「まさか。ずっと従順な人形のようだった者が、急に自我を持ったと?」
ずいぶん辛辣に言うなぁと、茉莉花は閉口する。なるほど、ロスにはマリスフィエナは従順な令嬢に見えていたのか。
想像してみると、ずっと微笑んで周りの言うままに行動するだけの美少女とはただのマネキンでしかない。見た目に魅了されないロスが、マリスフィエナに人形、という印象を抱いても仕方ない。
「自分の意見を言うこともなく、常に微笑んでいる姿しか私は知らない」
「ロス様こそ、無表情だし無口だし、感情の起伏なんて滅多に見せないじゃないですか。笑顔の一つでも見せてから人のこと言って下さいよ」
まったく自分を棚に上げて散々な言い様だ。マリスフィエナの事なので怒りなど無いが、そっくりそのまま自分もそうじゃないかと呆れてしまう。
「……私は、苦手なだけだ」
「それって私とどう違うんですか?」
「感情の機微くらいある」
「私だってあります」
「そうは見えなかった」
「見せなかっただけです。今はもう、ええと、苦手を克服したんです。そうよ、ロス様と違ってちゃんと克服したので、これからは思ったままに生きてみたいと思うようになったんです」
俄には信じられない、といった疑念の目を向けるロス。
「今の貴女と話をしていると、調子が狂う……」
思い切り眉を顰めてロスは言い、茉莉花から視線を外した。
「確かに……」
「?」
「今は生きた普通の娘だとは、思う」
「それは何よりです?」
語尾が思わず疑問形になってしまった。
お互い向かい合って座ったまま、しばらく茉莉花は外を眺める。しかしそのうち眠気が襲ってきて、中々の揺れがあるにも関わらずそのまま眠ってしまった。
気がつけば馬車は止まっていた。
(やば!しっかり寝てた!)
瞬時に覚醒して目を開けると、目の前に座っていたはずのロスの姿は無い。
馬車の外もずいぶん静かな気がする。何の物音も聞こえて来ないなんてことがあるだろうか。
茉莉花は窓から外を窺う。
(え……?なんで……?)
窓から見えたのは、学校だった。
見慣れた、茉莉花の通う高校の校舎。
馬車は校庭のど真ん中にあるようだった。
「このゲーム、面白いわね」
(……ッ!?)
隣に、人影があった。
声に戦き見ると、その姿はーーー。
「な……に……?」
「面白いけれど、でも駄目ね、肝心なことが抜けてるんだもの」
ふふ、とお淑やかな微笑みを浮かべる。
それはよく知った姿をしているが、まるで別人の口調をしていた。
茉莉花が愛用しているゲーム機を手にして、その画面には記憶にあるゲームのオープニングが流れている。
「良いことを教えてあげるわね」
優しげな声と笑み。柔らかな雰囲気。
けれど茉莉花はその様子に身を強ばらせ、身構える。
「世界を壊したかったのは、わたくしではないの。わたくしはただ願いを叶えてあげただけ」
茉莉花の通う高校の制服を来た少女は、ゲーム機を脇に置いて行儀良く膝上で両手を合わせた。
「……だれ、の?」
「それを教えてしまったら、つまらないわ。人間が惑い抗う姿は、わたくし嫌いではないの。諦めず必死で抗う時だけ、生き物としての価値を感じるから……」
優しげな表情で、サイコパスな台詞を吐く。
ーーーああ、間違いない。
これは、マリスフィエナだ。
茉莉花の姿をした、彼女だ。
「そう、必死な願いとは嫌いではないわ。だから少し、協力してあげようかしら、って思ったの。わたくしも退屈で仕方なかったから」
イタズラを明かす少女のような、無垢な笑み。
セミロングの黒髪と父親に似た二重の目、それ以外は母親に似てきたように思う。毎日鏡で見る自分の姿が横にあって、けれど自分ではありえない言葉を吐く。
「そんな理由で……」
「神々の本質とはそういうものよ。それに、結局はみんな死んでいないでしょう?わたくしのしたことなんて悪戯にもならないはずよ。だって、何も起きていないのだから」
ゾッとする。
自分は本当にこんな人間と同じ魂をしていると?
「ねえ、新しいわたくし。これから沢山わたくしのことを楽しませてちょうだいね?」
茉莉花は何かを叫ぼうと思った。
抗議の声か、非難か。
けれど言葉が出てくる前に、目の前の景色が歪んでいく。
ぐにゃり、と握りつぶされたように世界が消え、唐突に意識は途絶えてしまった。
ーーー世界の破滅を願う者がいる。
茉莉花はそれが、酷く胸に重くのしかかって来たように感じた。