魔王来たれり
イーテエラ侯爵家はその日、お祝いモードから急転直下で雷雲モードとなり、屋敷中が「マリスフィエナが婚約解消を申し出た」という話で持ちきりとなった。
夫妻にしたら青天の霹靂。どうしてこうなった状態である。
しかも娘に理由を問えば、
「結婚したくないから」
の一点張りだ。
ロスとの婚約が持ち上がった時、あんなにもにこやかに(親視点)受け入れたというのに。一つの不満も文句も漏らさず承諾したはずの娘が、なぜいよいよというこの日に婚約破棄を望むのか理解できない。
「マリスフィエナ。なぜ結婚したくないと思うんだ」
ロスとの婚約がどれほど素晴らしいことか、彼の品行方正さや有能さなども切々と説いてなんとか説得しようとしたイーテエラ侯爵。
ロスが嫌いなわけではない。不満もない。でも婚約するのはちょっと、という堂々巡りの応酬に、とうとうイーテエラ侯爵は根本を訊ねた。
「したくないからしないんです。それに結婚するまでに間があるでしょう?少なくと一年は先になるはずだし……その間に誰かに惚れたりしたらどうするんです?」
これを聞いた夫妻の顔は、茉莉花から見ても大分残念なほど間抜けであった。「何語?コレ同じ言語?」と聞こえてきそうなほどで少し可哀想になったが、ここは心を鬼に、いや鋼の精神で貫かねば。
耐えられなかったマリスフィエナの母はふらりと倒れていき、慌てて使用人達が介抱して寝室へ消えていった。
ーーーマリスフィエナ母よ、許せ。
マリスフィエナを溺愛しているとはいえ、なんでも言うことを受け入れるわけではないようだ。
ワガママは言わないの、と言うようなことをもっと小難しく丁寧に話していたが、茉莉花は全て聞き流したのでよく覚えていない。
婚約だの結婚だのの問題は長期戦になりそうだ。
「もー、貴族ってめんどくさいわー」
その辺の女子高生が突然侯爵令嬢なんてものになっても、なりきれるものでは無い。
「ていうか私、マリスフィエナの両親のこと、お父様とお母様って呼ばなきゃならないのかな」
だいたい、彼らの名前さえ知らないというのに。
娘がある日「ねぇ私の両親の名前ってなんだっけ?」なんて質問したら変に思うだろう。
「日本のあの二人に対してだって……しばらく呼んでないわよ……」
『お父さん』『お母さん』ーーーそう声に出したのは、どのくらい前だった?
彼らと話したのはいつが最後だったか……。
そのくらいあやふやな記憶だ。
何度聞こうと思っただろう。
『どうして結婚したの?どうして離婚しないの?なんで私たちを産んだの?』
夫婦として、親子として破綻しているのに。
それでも何も言わなかったのは、離婚をした後の自分たちの行く末が想像出来たからだ。
透と一緒に居られないかもしれないと不安に思った。実際どうなるかなんて子供の茉莉花にわからなかったが、大人の事情にこれ以上振り回されたくない。
茉莉花は子供ながらに利口だった。
お金はくれる。学校も希望のところに行ける。親の愛情を諦めたら、それ以外のものは保証されているのだ。
知らない親戚や福祉施設に行かさるような予測不能な不安より、ここで甘んじて独り立ちする準備を整えた方がマシだ。
天秤にかけた結果だった。
「マリスフィエナ様、お茶をお持ちしました」
ノックの後にメイドがワゴンを押して部屋へと入ってくる。ティーポットとカップが乗っていて、昨日の夜も同じ時間に彼女が入れてくれた。
マリスフィエナの習慣なのだろうか。
このメイドに昨夜「ありがとう」とお礼を言ったら、石のように固まってこちらを見てきた。解せない。
茉莉花はただ微笑むだけに留め、花の香りがするお茶をチビチビと口にした。そして「読書をするから、もうお茶は大丈夫よ」とメイドを下がらせる。
マリスフィエナの好きなハーブティーなのだろう。しかし、身体は彼女のものでも、茉莉花の味覚がそのまま反映されていた。
(ハーブティー……マッズ!)
元々紅茶よりコーヒー派。飲めてもミルクティーの甘いヤツ。
コーヒーは苦くても酸味があっても平気なのに。
ハーブティー=オシャレ女子のイメージがあったが、自分にオシャレ女子は無理だったようだ。
(昨日は飲み干してみたけど、これを毎晩はムリ……。なんか昨日は断れなくてオカワリしちゃったし)
申し訳ないけど残そう。
そのままテーブルにカップを置くと、茉莉花は寝室の方へと移動した。ナイトテーブルに水瓶が用意されているから、口直しでもしよう。しかしその水瓶にも謎の葉っぱが一緒に入れられて浮いていたりするから、どれだけ草を多用しているのだろうかこの世界。
「なんかもっと身体に悪いもの飲みたい〜。砂糖と着色料たっぷりな色のヤバイやつとか、あとジャンクフードとか食べたい〜」
茉莉花は深い深い溜め息を吐くと、そのままベッドへとダイブした。
その刹那、
「ルルドの茶はもういいのか?こんな希少な茶葉はそう手に入らないというのに」
聞き覚えの無い声が、茉莉花に問いかけてきた。
この部屋には自分一人のはず。他に人がいるはずがない。
茉莉花は海老が跳ねるような勢いでガバリと身を起こし、声のした方へ目を向けた。
「ーーーッ!?」
そして声の主を目にし、絶句するほど驚嘆する。
茉莉花しかいなかった寝室に、異様なほど存在感を醸し出す青年がいた。
長く癖のない黒髪。色違いなだけで、その美しさはマリスフィエナと同等と思われた。
顔立ちも精緻な美貌で彩られ、作り物のように完璧だ。人形のようだと感じるのはその肌があまりにも白く滑らかであるせいか。
細く長い首筋はしかし確かに男性の線をしており、その肩幅もしっかりしている。その身を覆うのはゆったりとしたトーガのような黒い布で、その上を豪奢だが繊細な装飾品達が彼を飾り立てていた。
なんだ、この全身黒くて無駄に豪華な男は。
「……」
マリスフィエナの知り合いかどうかが分からない。この登場は普通か否か。
「賢しいことだ。昨日から観察していたが、違和感がさほど無い」
「……なに?」
何を言っているのだろうか?
茉莉花は慎重に青年の言を待つ。
「そなた、名前は何という?マリスフィエナの片割れよ」
ーーー片割れ?
「なにを、言っているの?あんた誰?」
「私は魔王だ」
「……は?」
「で、あるから、魔王だ」
「あ゛?」
つい、声が低くなってしまった。だが致し方ないだろう、部屋に突然湧いて出た男が魔王と名乗る、そんな状況有り得るだろうか。というか有り得て欲しくないし、あっちゃいけないと思う断じて。
よりによって魔王とか。
「ていうかちょっと待って、私がマリスフィエナじゃないって分かるの!?ん?つか昨日からなんだって?観察!?」
情報が脳に届いた。
「あんた、なにがどうなって私がマリスフィエナになってるのか知ってるの!?」
「私は魔王だと何度言えば……」
「そんなことはもはやどうでもいい!ゲームの中じゃ魔王なんてマリスフィエナに殺されるのに、キャラデザどころか声優さえないし!」
「なんと……やはり私は殺されていたのか……」
なにやらショックを受けたようだ。
「やはりって?」
「そなたはこの世界の行く末を知っているのだな?」
「え……まぁ」
自称魔王は物憂げに溜め息を吐き、手近にあった椅子へと腰掛けてその長い脚を組んだ。まるで海外モデルさながらに様になって、さすが魔王と名乗るだけある。
「私の知る限り、事の発端は、神の一柱が消えた事から始まった」
「はい?」
「この世界の最高神たる女神が消えるその瞬間、知の神と魁の双子神にこう告げたそうだ」
ーーーこの世界は滅び、喪われた嘆きはもはや癒せぬ。故に我が身をもって再起と成す。
ーーー禍の女神が望みは止められぬ。故に魂を同じくせし者を、女神の肉体へと召喚する。
ーーーこれを以て女神の望みを退けん。
「はいそこなんか不穏な発言聞こえたわよ」
「話の途中なのだが」
「まず最高神、消えたの?え?死んじゃったってこと?」
「お隠れになったのだ。この世界には居られぬ」
回答がイマイチよく分からない。神だから生死とかの次元ではないのだろうか。
「滅ぶんじゃなくて、滅んだって言ったわね。つまりこの世界って……」
(ゲームの通りに、一度マリスフィエナによって災禍を受けた……?でも主人公が救ったのに。最高神の女神は惨劇それ自体を無かったことにしたかったの?)
ストーリーの流れで、どうしても止められない悲劇は沢山あった。大切な人が死んでいき、国王夫妻もマリスフィエナの手にかかり王国はめちゃくちゃになる。
しかも神殿が特に襲われ、壊滅するのだ。
ただの恋愛ゲームだから、気になんてしてなかった。
茉莉花はただストーリーに沿ってプレイしていただけだ。必要イベントをこなし、選択肢を選ぶだけで。
あれでは足りなかったのだ、主人公は。
止められなかったのだ。
「魂を同じくする者を、女神の肉体にショウカンの意味は?まさか私がソレだとか言うわけ?」
人外の美貌を持った魔王は、いやに妖艶な雰囲気を漂わせて艶然と笑んだ。
「お前は他の世界におけるマリスフィエナだ。お前の魂を召喚することで、この世界で引き起こされる災禍を止めた」
ハッキリと告げられたその瞬間、茉莉花は爆発的な怒りを感じた。
「魔王」
「なんだ」
「ちょっと一発殴ってもいいかしら」
「なぜだ!?」
神話の中でもよくあることだ。
人はただ、神々に振り回される存在。
しかしいざ当事者になると、なぜかそれが無性に腹立たしくて仕方なかった。
茉莉花に選択肢は無く、抵抗も許されない。抗うことのできない大きな力に、流され従うしかないのだ。
「魔王、洗いざらい話してもらうわよ」
魔王より魔王のような眼光で、茉莉花は冷酷な声で布告した。