プロローグ
イベントは毎日起こっている。
退屈な日常などない。
退屈な人間がいるのだ。
ランドール王国 国立図書館 所蔵
【勇者の日記】より
【0日目。日本のある交差点】
朝は慌ただしい。
日本中の人間がせっつかれるように職場へ学校へ向かう。
高校に通う俺もそんなごく平凡な日本人の1人だった。
俺の頭の中は来週に控えた期末テストのことでいっぱいだった。予習復習をしなかった己を恨むのは恒例行事。必死に勉強の計画を逆算する。保健は捨てるか……。いや、待て。ここは敢えて生物を……。
頭の中でそんなことを考えつつも体は高校へと歩みを進める。俺は赤く光る信号の前で立ち止まった。
むむむ、今回英語赤点とったらまじでやばい。英語を重点的にやりつつ……うん、数学は適当で良いか。
その時、俺の思考を遮る爆音が耳を貫いた。それがクラクション音だと瞬時に判断はできなかった。
音の聞こえた方向、俺の右手側に顔を向けると視界いっぱいに大型トラックが迫っていた。
足は動かなかった。
「危ない!」
再び聞こえてきた音。それは女性の声。
反射的に顔を前に向けると見覚えのある女の子が俺に飛びつこうとしていた。
校則通りきちんと頭の後ろで縛られた髪の毛に華美でない茶色い眼鏡。
同じクラスの渡邉さんだ。
トラックに轢かれかけている俺を助けるために飛び込んできたのだろう。全然話したこともないのに、俺を助けてくれるなんて……優しい一面を知れてよかった。
渡邉さんの体が俺にぶつかった。
そして俺たちはその勢いのまま地面に転がり、間一髪轢死を免れる……べきだったのだろう。
ただ、残念なことに渡邉さんは身長150センチちょいの小柄な少女。対して俺は身長184センチ体重74キロの巨漢。部活のハンドボール部で鍛えまくった俺は少女の突進でよろめくほどヤワな体幹をしていなかった。
「ぶにゃっ!」
俺にぶつかり勢いの死んだ渡邉さんは、そのまま地面に落下し、俺とともに仲良く死んだ。
【いつでもない時。どこでもない場所】
俺は目を開けた。目の前にあるのはトラックの車体でも見知らぬ天井でも、まして渡邉さんの姿でもない。
俺の目の前には1人の老人が立っていた。
長い髭を蓄えた老人は軽い口調で俺に喋りかける。
「うぇ〜い。どうも全知全能の神で〜す」
「…………」
タチの悪いドッキリか、はたまた俺の白昼夢か。前者ならば『誰も持ち上げることができない岩を作って欲しい』とお願いして、困らせてやるところだが、後者ならそれはあまりに悲しい虚構だろう。
「誰も持ち上げることができない大岩〜? 全く、全能の逆説なんてよく知ってるね〜。はいはい。全知全能は嘘でーす。ある程度のことならそれなりにできる神でーす。」
老人は両手を上げておちゃらけたように言った。
……思考を読んだ!?
「あはは。全知全能もどきを名乗れる程度にはすごいんだよ。僕」
ケラケラと笑う老人。
「んじゃあ。悪いけどあんまし時間がないから本題に入るね。単刀直入に言うと君は死んでしまった。まあ、自覚はあると思うけど」
俺は直前の記憶を思い起こす。
迫ってくるトラック。回転する天地。誰かの悲鳴。
うん。あんまり思い出して気持ち良いものではない。
「だよねー。で、本来ならば君らで言うところの輪廻転生ってことで、文字通り生まれ変わるんだけどさ。ちょっと君の場合は話が違う訳よ」
老人は灰色の髭をボリボリと書きながら言う。
「君がこれから転生……いや、正確には転移なんだけど。とにかく君の向かう先はこの世界じゃないんだ。全然別の世界に生まれてもらう。君の住んでた世界とは生態系がまるで違うけど……まあ、十分に適応できる範囲内だから安心してくれ」
話が見えないな。輪廻転生まではなんとか理解するにしても、俺だけが例外で別の世界に転移される?
「あっはっは。あんまり理由なんて気にしないでくれよ。仮に気にしたところで君のオツムじゃ理解できまい」
老人は馬鹿にしたように言った。
「あ、いやいや。馬鹿にしてるわけじゃないよ。例えるならそうだな——サンマに相対性理論を教えるようなものだ。……まあこれでも馬鹿にされてるように感じてしまうかもしれないけどサ。事実なんだよ」
老人の言いたいことをある程度察する。俺も神の考えを理解できるとは思えない。
「いやはや、ご理解ありがとう。で、具体的な話をすると君にはダンジョンマスターってのになって欲しいんだ」
ダンジョンマスター……。ダンジョンってのは何となくわかる。RPGではたまにでてくる言葉だ。モンスターが湧いてる洞窟や迷宮がそんな感じで呼ばれてたはず。
マスターってことはそこの管理者って感じか?
「そーそー。察しが良いねー!君にはダンジョンを運営してもらうわけサ。まあ、達成すべきノルマとか目標とかは特にないね。好きに生きてちょーだいって感じ」
ふーむ。まじで目的がよくわからんな。
「目的はそっちの世界で見つけてくれよ。その世界ならどうなっちゃっても構わないから。好きなことで生きていくって良くない!?」
まあ、悪くはないな。
「じゃあ、ごめんけどこっちもこのあと用事があるからもう転移させちゃうね」
「あ、はい」
「じゃあいくよ——っとその前に!」
老人は上空を指差した。
「あの子どうする?」
空中でぷかぷかと浮かんでいるセーラー服の女の子。後ろ姿しか見えないがあの華奢な体と状況から察するに……俺を助けようとしてくれた渡邉さんだろう。
「生き返らせてあげることってできます?」
「いやいやー、さすがにそれは厳しいね。遺体が無事ならワンチャンあったけど」
死体は無残ってことか。
他の選択肢はどんなものがあるのだろうか。
「うーん。さすがにこの若さで死んだとなっちゃあ徳も詰めてないしな……。生まれ変わるとしても選択肢としてはタンボコオロギかモリオカメコオロギかツヅレサセコオロギしかないかな」
コオロギにしか転生出来ないのかよ……。
「あっはっは。頑張ればスズムシでもいけると思うよ」
どちらにせよコオロギ科の域を出ないか。
「あ、君と一緒に異世界転移も可能だよ」
コオロギの姿で?
「いやいや、さすがにそこは人間のままで大丈夫さ」
ならば一緒についてきてもらうとしようか。渡邉さんはクラスでも生徒会の山本の次に頭が良いみたいだし、何より1人より2人の方が心強い。彼女もコオロギよりマシだろ、たぶん。
「じゃあ、一緒に転移するって事で。じゃあ、頑張ってね〜。あ、あっちの世界に行ったら光る玉に触ってみて。ダンジョンコアって奴なんだけど、たぶんいいことあるから」
「わかりました」
老人が手を振ると俺の視界は一気に暗転した。