鬼子奇譚
あれはいつのことだったかしら。
積もった白い雪を踏み分けて、足跡を置き去りに走った。
べそっかきの泣き虫と一緒に。
「まってよう、ひいさまぁ」
「早くしなさいよ。おいてっちゃうわよ」
わたしたちはいつもそんなやりとりを交わしていた。
でも、本当は置いていくつもりなんてこれっぽっちもなかった。
他の人がどれだけあの子を忌み嫌おうと、わたしはあの子のことが気に入ってたんだもの。
「ひいさま、ひいさま……あっ」
無様な音を立てて雪の中にあの子が沈む。
本当にどんくさいんだから。わたしは笑い声を上げながら来た道を戻った。
「さむいよう、こおっちゃうよう。でもおいていかれるのはやだよう」
「大したことないでしょうに、おおげさねえ」
起き上がるのに手を貸して、今度はそのままその手を引いた。
「おいで! どこにだってつれて行ってあげる」
わたしは高らかに、謳うように言ってのける。
そうよ、どこにだって行けた。なんだってできたはず。あの頃のわたしなら。
……あれはいつのことだったかしら。
あれは、だれのことだったのかしら。
白い、白い、幸せだった頃の記憶。
***
伸ばされた手の先、見慣れた天井が目の前に広がる。
瞬きを数回。
それで自分がちょうど今起きたところなのだと知覚する。
視界に映り込む、天を突き上げるようにぴんと突っ張った腕が、なんとも滑稽だった。
ゆっくり下ろして顔を覆い、前髪をかき上げる。額に濡れたような感触がある。
……何か夢を見ていた気がしたのだけど。ひょっとしてうなされていたのかしら。
夢って見ていたことは覚えていても、その内容がはっきりする前に、流れていってしまって、いつの間にか見ていたすらことも、すっかり頭からなくなってしまっているの。
まるで、掌から砂粒がこぼれ落ちるように、さらさらと、そうさらさらと、霧散して、二度と戻ってこない。
でも、それでいいんですって。
「取るに足らないことだから、忘れるようになっているんだ。本当に大事なことなら、ちゃんと起きた後も覚えているはず。忘れてしまうような夢なんて、ちっとも気にしなくていいんだよ」
旦那様がわたしの頭を撫でながら優しくそう仰っていたのだから、間違いないわ。
だから、この胸の中のモヤモヤも、どうせすぐに消える。
さあ、いつまでも布団の中で夢見心地でいないで、今日の支度を始めないと。
起きだして、まず着物を着替えたら、布団を畳む。
顔と手を洗うついでに、部屋の隅の水瓶を確認。
量も質も問題なし。これ一つで飲み水も兼ねるから大事なの。お留守番の時は特に。
ぽちゃん。柄杓から水滴が一粒。波紋がのぞき込んだわたしの影を揺らして消してしまう。
畳の上に戻ってくると、小さな鏡台の前に座り込んだ。
この棚に、お気に入りの櫛がしまわれている。花の意匠が施されていて、赤い部分に珊瑚という宝石が埋め込まれているんですって。
腰の辺りまで伸ばした長い黒髪をくしけずっていると、鏡の中のわたしと目が合う。
おはよう、鏡の中のわたし。
腰まで落ちるまっすぐな黒い髪は結びもせずに垂らし、肌は外に積もっている雪のように真っ白。唇は紅を引いたように自然と赤い。今日もわたしはお人形さんみたいに綺麗。
……でもお人形さんって本当に綺麗かしら? わたしにはもうちょっとつまらないものに見えるのだけど。でも旦那様はわたしのことをお人形さんみたいだ、って褒め言葉のつもりで言うのよね。
その旦那様は、お出かけ。何日も帰ってこない。
広くて素敵なお座敷には、わたし一人。本当、なんて贅沢なのかしら。
ねえ、聞いて? 鏡の中のわたし。退屈で仕方ないから、あなたぐらいしか話し相手がいない。
八畳の畳の間に、寝るときはお布団を敷くの。少し歩けば板の間が一畳程度あって、そこに大きな水瓶が置いてある。
柄杓ですくって使うのだけど、飲み水にしないときは盥に移す。盥も濡れ物だから、水瓶の側に置いておくの。手ぬぐいだって忘れないわ。
それから小さな鏡台と行李、机。
綺麗なおべべにお人形、あやとり、おはじき、お手玉、紙風船に手鞠、お習字。
琴だけは遊びと言うより本気。これは教養なの。淑女は皆、美しい音楽を奏でられるのですって。
一人遊びの玩具には事欠かない。時間はいくらでもあるから。
本を読むのも好きだけど、旦那様がいるときでないと駄目なの。
何故かって? わたしが余計な事を考えるのが嫌なんですって。
子供向けの絵本も嫌いじゃないけど、文字ばかりの大人の本だってわたしはもう読めるのに、これはまだ早い、まだ早い、っていつまでも取り上げたまま。
外出にも厳しいわ。屋敷の外はおろか、お庭にだって滅多に行けないの。
わたしの身体は驚くほど弱いから、お日様の光を浴びることは望ましくない。
そうでなくとも、外には危険な物がたくさんある。
だからわたしはこの地下室で、一人あの人を待ち続けるの。
死ぬほど退屈でも気にしないわ。もう慣れきっているから。
……ちゃんと聞いてくれている? 鏡の中のわたし。
今日も暇つぶしに付き合ってね。わたしがほかの事を考えないように。
***
鏡の中のわたしとも一通り話しくたびれて、行李をあさって中身を出したりしまったりして、擦り切れて汚れが目立ってきたお手玉をもてあそびながら、そろそろ縫い直し時かしら、それとも別の遊びをしようかしらなんて考えている最中のことだった。
お耳の良さにはちょっぴり自信があるの。
でも、期待が先回りした幻聴だったら悲しいから、はやる心臓の音をわずらわしく思いながら、少しだけ待ってみる。床に耳をぴったりとつけて、目を閉じて。
……間違いない、足音だわ! 旦那様が帰ってきた!
わたしは大慌てで部屋の中のあらゆるものを隠す。散らかしっぱなしなんてみっともないもの。
最後に鏡を覗き込んで、身だしなみを整えることも忘れない。
間もなく、仕掛け階段がぎぎぎと軋んで降りてきた。心臓が弾む。それだけでゆるみそうになる目じりを、上がりそうになる口角を、顔中の筋肉でたしなめる。
「おれのひいさま、いい子にしていたかい」
一歩も、腕の動きも、顔の向きも、全部聞いて感じ取っている。
でも最初はしらんぷりしてやるんだから。
「だあれ? 気安く呼ばないでちょうだい。知らないわ、あなたなんて」
何もない、狭い部屋に一人きり。物はたくさん与えられているかもしれないけれど、わたしは退屈で死んでしまいそうだったのよ。簡単になんか許してやらないわ。つんとそっぽを向くの。目なんか合わせてあげないんだから。
旦那様が格子の前で苦笑する気配がする。目は合わせてあげないけど、ちらっと視界の端で様子をうかがってみる。
着物に袴に水干、頭には烏帽子。
出かけるときはいつもそうよ、だからお屋敷の着物に着替える手間も惜しんでここにすぐ来てくれたんだって事はわかるわ。
「どうか機嫌を直しておくれ。ほら、お土産を買ってきたんだ」
「またそうやって、わたしを物で釣ろうとするのね」
「そう言わず、この筒の中をのぞいてみてごらん」
旦那様はわたしのことをいつまでも子ども扱いする。少しばかり目新しいもので気を紛らわせれば、多少のことには目を瞑る都合のいい女だと思っているのよ。
正座を崩してなんかやらない。膝の上で握った手をほどいてなんかやらない。今日はわたしだって本気なんだから。一体何日放っておかれたと思っているの?
「そうか。気に入らないなら、これは捨ててしまおうかな」
今日のわたしがなかなか強情だからだろう。
旦那様はせっかく並べた贈り物を、惜しげもなく無残に散らす。
物の落ちる音に咄嗟に振り返ると、今回のお土産らしきものが、手で払われた拍子にこちら側に転がってくるのが見えた。
朱色を基本にした綺麗な飾り模様が目を惹く。なんだろう、あれは? 新しい物に心がざわめく。
彼はわたしが戯れにお土産をいらないと言うと、その場で壊してしまうことがある。
そのくせ、わたしが残念がっているのを見ると、また遠くまで出かけていって買ってきてくれたりもする。
どうでもいいことなんだろうと思う。わたしに与えるような物は。そしてたぶんわたしのことも。
……わたしは別に、忍耐に負けたわけじゃないわよ。でも、このままわたしが意地を通していると、あの綺麗な筒が失われてしまうかもしれないから。
そらしていた顔を狭い廊下のほうに向けると、格子越しに旦那様の微笑が見える。
その顔がいかにもしてやったりという雰囲気なのが腹立たしい。ただ、彼に価値を認めてもらえない哀れな物共を、気に入ったら助けてあげようと思っているだけなの。勘違いしないで。
だって、わたしはあなたより、ほんとうは、とても、ずっと――。
……あら? 何かしら。今、急に頭がぼんやりとした。
わたしのちょっとしためまいを感じ取ったのか、それともだだをこねるのをやめる気配の方に反応したのか。
旦那様は格子の鍵を開けて、わたしの八畳の城の中に踏み入ってきた。
畳に広げられた鱗模様の風呂敷から、きれいな模様の筒がころりと転がり落ちる。
「旦那様! これは何!?」
「万華鏡だよ。それにほら、お前のほしがっていた色紙もたくさん」
危うく手を伸ばしそうになったけど、今日のわたしは手強いんだから、飛びつきそうになっていた自分に気がついたら、ぱっとお手々をぐーにして、膝の上に下ろすの。
だめだめ、今日は譲らないって決めたはずでしょう。わたし、ちゃんと我慢するのよ。
「でも、でも! だからって、わたしをずうっと一人にしていたことを、許したつもりじゃないんだから」
「悪かったと思っている。だから、明日は一緒にお庭に行こう」
その言葉はわたしにとっての殺し文句。どんな強気も吹き飛んでしまう。
屋敷から出ることを許されていないわたしが唯一許されている外出が、お庭の散策だった。
お屋敷の広いお庭を、独り占め。
――いいえ?
旦那様が一緒でいるときでないと許されないから、二人占め。
「本当!?」
「ああ。いつもいい子にしているから、ご褒美をあげよう」
「好きよ、わたし、旦那様のことがだーいすき!」
旦那様に飛びついて、全身で喜びを表現する。
首に腕を回して抱きつくと、背中をぽんぽんと撫でてくれる。
そうされると、体の奥がぞわぞわして、ぶわっと肌があわ立って、頭の中がぽーっとして、それでちょっと疲れたけどすっきりした気分になるの。
「今度の外出でまたいい肉が手に入ったから、それも食べようね」
だから少しぐらい違和感があっても、気にしないわ。
わたしは、ここ以外の場所を知らないから。
***
広いお屋敷の中には、旦那様とわたしが二人きり。
本当は歩き回って一日中遊べるぐらい大きなお家なのに、旦那様ったら心配性だから、わたしが目の届く範囲にいないと安心できないの。
遊びは自分で考えたこともたくさんあるけれど、手習いや音楽、和歌は旦那様から教わった。
琴は今ではわたしの方が上手よ。お出かけの前にめいっぱい美しい調べを奏でて、気分をよくしておくことにする。
「どうかした?」
今回のお土産のお礼に奏でていた旋律を、ふと、思わず止めると、彼は不思議そうに閉じていた目を開けた。わたしは頭を振る。
「ちょっと、弦の調子が悪かったみたい」
「そうかな? いつも通りとても美しかった」
旦那様はわたしに手を伸ばし、頬に触れて髪を撫でる。
「お前は変わらず美しく愛らしい。ずっとそのままでいておくれ」
わたしは微笑みを浮かべたまま、黙っている。
しばらくわたしを撫でていた旦那様だったけど、重たそうな腰を上げて外に向かおうとする。
「さて、庭に行こう」
ちゃんと思い出してくれたようで、よかった。
お庭に出られる時は、格別旦那様の機嫌のいいとき。
彼が用事でどうしてもお外にお出かけするとき、わたしは地下の座敷で過ごさなければならない。
わたしはとても珍しい病気で、ずっとここにいないとすぐ死んでしまう。そう言い聞かされて育った。
「おれはお前が美しいままでいられる方法を知っていたから、引き取って育てることにしたんだよ」
口癖のように繰り返される。
……この退屈さにも慣れたわ。旦那様のつまらない話を半分程度聞きながら頭の中で別のことを考えるのにも慣れたし、鏡の中のわたしと話をするのも随分上手になった。
取り繕う笑顔だって、昔は見透かされていたけれど、今では何も言われない。
日がすっかり暮れた頃合いを見計らって、旦那様はわたしをお庭に連れ出した。
ちょうど雪が積もっていて、足下が少し危ういけれど綺麗。
冬って折角出られても花が咲いてなくていまいち彩りに欠けることが多いから、雪景色は好き。
雪の中に埋もれたお池に落ちないように、それだけは気にしながらも、足跡をつけていく。
「旦那様、なあに、それ」
「寒いからね」
ふと振り返ったら、彼は思わぬ厚着をしてぶくぶくに丸まっていた。
毛皮や綿の入った着物を重ねて、まるで別の生き物みたい。
わたしは裸足でも雪の中を歩き回れるのに、本当に昔から寒がりなんだから。
咳き込んでいる彼に目を細めると、ちょっとばつの悪そうな顔になる。
「年々、寒さがこたえる身体になっていく。年は取りたくないものだね」
「それって、髪が白くなったり、肌にしわが増えたりすること?」
わたしは眉をひそめた。
昔の旦那様は小綺麗ですっとしていたけれど、最近は背筋を丸めて……正直、あまり好きではないの。
彼はますます苦笑の苦みを深めた顔になる。
「そうだねえ。おれはひい様と違って、年を取るから」
「わたしはずっと、わたしのままよ」
「ひい様の病気のせいだよ」
よくわからないけれど、そういうものらしい。
わたしは老いることはないけれど、その他の外因――怪我や病気や、心の病にとても弱い。
だから心配性の旦那様は、わたしを屋敷に囲っている。
ここにいる限り、わたしはずっとこのまま生きていくことができるから。
「お外に出たらわたしも旦那様のように醜くなってしまうんでしょう? それは確かに、嫌ね」
彼は軽口を叩きながら雪の中を飛び回るわたしを屋根の下で見守っていた。わたしはふと立ち止まる。
「ねえ、ついてこないの?」
「……どうして?」
「昔はあんなにわたしの後を追いかけてきたのに」
するとその瞬間、旦那様の苦みを含みながらも柔かだった顔が恐ろしいものに変わる。
「昔? そんな昔なんて、あっただろうか」
「あら、違うの? じゃあわたしの勘違いね、きっと読ませてくれた絵巻の想像をしていたら勘違いしたんだわ」
わたしは急いで言い直す。
すると旦那様は不審そうな目のまま、それでも少しだけ雰囲気が柔らかくなった。
彼から目をそらし、耳に手を当てる。
「ねえ、聞こえる?」
「……何がだい?」
「冬の音よ。どこかで雪が落ちたみたい」
旦那様は曖昧に笑った。聞こえなかったようだ。
……そうね。姿が醜くなるほどに、身体の方も衰えていっているようだから、そうなんじゃないかと思っていたわ。
「部屋に戻っておいで。ご飯にしよう」
「はあい」
わたしは素直に従う。
血の滴る赤い赤い新鮮なお肉。
わたしの持病に効く特別な食材とかで、旦那様は食べずにわたしにだけくれる。
彼が食べてるのは野菜とか、そんなものばかり。
わたしもそれらを食べられないわけじゃないけど、すぐにお腹が空いてしまうの。
ねえ。
昔から、知ってはいたのよ。ずっと前から、気がつかないふりをしていたの。何かが決定的におかしいってこと。
だから、旦那様がいけないのよ。
わたしはいたずらっ子なんだから、退屈にさせて隙を見せるのがいけないの。
***
四季の中で冬が一番好き。毎日雪が見ていられたらそれに勝る幸せはないけれど、我慢。でも旦那様は冬がそんなに好きではないみたい。
冬の季節は出歩くことが難しいけれど、かといって全く出歩かないわけにもいかない。
旦那様は若い頃、お仕事に忙しかった。
近頃は前よりずっと一緒にいてくれる日が増えたけど……正直あまり嬉しくない。
だって昔より醜いから。彼は美しい物が好きだ。わたしに持ってきてくれる物も趣味がよくて好き。けれど、身だしなみに気を遣い、身の回りのことに気を遣い、それでも老いさばらえていく中身を覆い隠しきることはできない。何故かとても不愉快なのだ。変わっていく彼を見ている事が。
今日、ようやくそんな彼がいなくなってくれた。
どうやら食料調達と、それからまたわたしに珍しい物を買ってきてくれるらしい。
彼が老いてから、わたしが以前ほど彼のご機嫌取りに熱心にならなくなったのを、たぶん少しは勘づいているのでしょう。
それでも対処に物を贈るしか考えることがないのが、いかにも旦那様らしいと言えばらしい。
快哉を上げたい気持ちを抑えつつ、いつも通りを装って座敷の中からお出かけを見守る。
仕掛け階段が上がって、しばらくして、屋敷がしんと静まりかえる。
今日は行李から玩具を出すことはない。わたしはただ、待っていた。待って、待って、ようやく聞こえた音に、それでもまだもう少しだけ待って――ようやく、頃合いを見計らって声を上げてみた。
「ねえ、あなた。そこにいるのでしょう」
すると天井がきしみ、ぴたりと止まる。誰かが息をのんだような、はっとする音。
いつからだったかしら?
旦那様が年を一つ越えるごとに変わっていったように、わたしも少しずつ、旦那様の気をどうやって惹くか、旦那様のいない間をどうやって過ごすか考えるだけの時から、もっと我が儘なわたしが顔をのぞかせるようになった。
彼はわたしの琴を止めた存在に気がつかなかった。雪を落としたうっかりものに気がつかなかった。
かつてわたしと同様のみずみずしい黒髪を持ち、闇のように黒い目がすべてを見透かしていて、背筋がしゃんとまっすぐ伸びていた頃には、家の中に入り込んだねずみが大きいか小さいか、わたしに促されるまでもなくわかっていたはずなのに。
今では耳のいいわたしにちょっと言われても気がつかない。本当に、あの人は変わってしまったんだわ。
かつてはあんなに、恐ろしくも素晴らしいものに見えたのに。
……頭がぼんやりしそうになるから、首を振って追い払う。
わたしは期待を込めて天井を見上げる。足音どころか何の音も聞こえなくなった。
あまりずっとこの姿勢を続けていたら首が痛くなってしまうのだけど……それとも変化はわたしが望むばかりに勝手に見ている妄執の幻なのかしら? 外の雪のように、春になったら溶けてしまうものなのかしら?
「ぼくに、気がついていたの?」
わたしがいよいよわたし自身の一人遊びに失望しかけたとき、天から声が降ってきた。
旦那様の低い声ともわたしの高い声とも違う、不思議な声音。
旦那様もわたしも怒鳴りつけるような人ではなかったけど、この声の主もまた囁くような発音の仕方だった。
わたしでなければ聞き逃してしまうかもしれない、か細く小さな頼りない声。
「ええ、とっくに。わたし、とても耳がいいから。そこで何をしているの?」
こっそりそんなことを考えながら答え、同時に問いかける。
「……待っているんだ」
「誰を? それとも何を?」
「あなたを。あなたが自由になる日を」
思いもかけない言葉に、わたしは思わず声を上げて笑ってしまった。
「わたしはあなたのことなんか知らないわ。余計な事は考えられないの。旦那様が許さないから。それにわたしが今どこにいるか知っている? 屋敷の地下よ。地下への仕掛け階段は、旦那様が持っている鍵がなければ開かない」
「あの男は人間だもの。人ならば、いずれ死ぬ。たぶん、もう間もなく。そうしたら、あなたは自由だ」
「わたしは旦那様のことしか知らないのよ。気がついたらこの屋敷で暮らしていた。旦那様の帰りを待つ毎日で、旦那様の気を惹く和歌の作り方や琴の鳴らし方に一生懸命だった。自由って何? わたしには何もないわ」
声はぴたりと黙り込む。
一時の高揚感はすぐにしぼんで、空しい気持ちばかりが残る。
天井がきしんだ。
「……行かなくちゃ。夜が明ける」
「そう。もう来ないの?」
頭がぼんやりとする。いけないことをしている。旦那様に知られたら生きていかないかもしれない。けれどわたしはこのいたずらをやめる気になれない。
罪悪感と好奇心、期待と不安、一体どれが本当の自分なんだかわからないまま、曖昧な中で、それでも確かに声の主は答えた。
「ううん。ぼくは、ぼくだけは、いつまでもあなたを待っている。来るよ」
遠ざかる旦那様以外の足音の残響を耳奥で拾いながら吐いたため息は、安堵か失望か。やっぱりわたしには、わからなかった。
***
「ひいさま、まってよう」
「ぐず、さっさとするのよ」
あれはいつのことだったかしら。きっとまだわたしがとても幼かった頃。
四季の中でわたしは一番冬が好きだった。あの子と同じ色をした雪が降るから。
わたしは白色が大好きだった。だからあの子のことが気に入った。
どこに行くにも引っ張って回って、いつだって一緒にいた。
「お前は本当にどんくさいねえ。しかたないから、大人になったら、わたしがめしあげてそばづかいにしてあげる」
「むりだよう、ひいさまはえらいもの。ぼくなんかえらばれっこないよう」
「ばかね、えらいからみんながいうことをきくのよ」
他愛ない子ども同士のやりとり。でもわたしはいつだって本気だった。
大人達は真っ白で一際日の光に弱くて片方しかないあの子のことを嫌っていたようだけど、わたしはどうでもよかった。
だってわたしはそんな些細なこと、どうでもいいぐらい偉くて強かったのだもの。
誰もがわたしに頭を下げた。産まれたときから、いずれわたしは一族を率いていく長になるのだと決められていた。
高いところに上るのが好きだった。いろいろな物が見えるから。日の光に弱いあの子の手を引いて、山の中をかき分けて、わたしはようやく目当ての場所にたどり着くと、赤色に染まる山々を指差した。
「ごらん。あれはね、たそがれと言うのよ。お顔がわからないから、たそ、かれ。夜に向かうこの時間はおうまがときとも言うわ。あやかしに出会う時間。すてきだと思わない?」
わたしはあの子の目をじっとみた。赤い、赤い白と同じぐらい、もしかするとそれ以上に好きかもしれない血の色。
「お前の目といっしょよ。本当にすてき」
あの子は照れたように顔を逸らす。昔からそうだった。そんなところも気に入っていた。
もう少し困らせてやろうかしら。そんな風に思って開いた口が歪んだ。
「――臭い」
わたしは鼻を押さえて振り返る。
同じようにしたましろが悲鳴を上げた。
「ひい様、里が燃えている!」
***
弦の糸が切れた。
わたしは呆然としている。
「どうかしたのかい?」
旦那様に話しかけられても、しばらくわからなかった。耳障りな咳。ただでさえ錯綜する思考がさらにばらけてしまうからやめてほしい。
わたしが、旦那様の留守の間に天井の主と話をしていたこと。
わたしはずっと、そのことを旦那様に言わなかったこと。
ここ数日間、天井の主が来なくなったこと。
わたしがそぞろな気分をごまかすために、旦那様のためにと言って、お琴を弾いていたこと。
その間に、ぼんやりと意識が飛んで、何か夢見心地にみていたこと――。
鮮明な白昼夢が、夢か現か判然としない。
白昼夢? いいえ、わたしは眠れない旦那様のために演奏していた。
この人が眠れば、あの人が来るかもしれないなんて淡い期待を抱いた。
時間はもう、とっくに夜。ならばやはり、あれはただの夢幻だったのだろうか。
瞬きの先に見る旦那様の髪は、もうすっかり白い。
白。
白色。
「――ましろ」
わたしの唇から漏れた音を、耳が拾って頭がそれは名前だと認識する。
ただの夢ではない。ただの夢ではなかった。あれはわたしの記憶だ。昔本当にあったことだった。
一度糸口をつかめば、するするとたぐり寄せられる。
「わたし、昔、雪のように白い子どもといつも一緒だった。わたしがましろと名前をつけた。ずっとかわいがっていた。わたしたちは里に暮らしていた。山奥の……」
そこまで言ったところで、旦那様は深いため息を吐いた。
「ああ、もうそんなところまで術がほどけてきていたんだね。本当に年は取りたくないものだ。ならば仕方ない」
ゆらりと立ち上がり、格子の扉を開ける。
「ついておいで、ひい様。全部、教えてあげよう」
しわくちゃの顔に浮かべられた笑みは、どこまでも醜悪だ。杖にすがって歩くその姿は、どこまでも無様だ。
わたしの背筋にぞっと怖気が走った。
本能が拒絶している。あれは悪いものだと。
――けれど、ついて行くしかない。ここが変化の場所で、ここを逃せばわたしにきっと先はない。
わたしは旦那様の後に続いて、地上への階段を上った。
家というのは不思議なもので、人が住まないとあっという間に寂れていく。
広いお屋敷は、わたしと旦那様の二人暮らしにはどう考えても余りすぎていた。
もっと前には、大勢住んでいたのではなかろうか。
頼りない月明かりに照らされた、全く使用していない建物の屋根の傷みを長い廊下から眺めつつ、そんなことを思う。
旦那様はそれでも、腰が曲がって歩くのも手を動かすのも思うようにならないこの年になっても、わたしたち以外の誰かがこの屋敷に住むことを――入ってくることすら、拒んだ。
そのことの異様性を、改めてひしひしと感じる。
彼がわたしを導き、震える手で開けた鍵の先は、どうやら倉庫のようだった。
たちまち立ち上るむっとする生臭い臭いにわたしは顔をしかめるどころか――うっとりと頬を緩ませた。
そんな自分にびっくりする。
けれどすぐに、薄暗い中に見えたものにさっと血の気が引いた。
「ましろ!」
旦那様を押しのけて、わたしは室内に飛び込んだ。
今はもう、彼が何者であるかを知っている。
薄暗い部屋の中、真ん中の小さな箱のような檻に押し込められていた白い塊に駆け寄ると、白い腕が格子の隙間から伸びてくる。
「ひい様……」
記憶の中、わたしが手を引いていた相手は真っ白な髪に血のような目をした男の子だった。
左の額から生えていいる一本の角からは、痛々しい色の液体が流れ落ちている。
振り返って、ましろをこんな目に遭わせたであろう男をにらみつけたわたしに微笑みが向けられる。
「まだ記憶に混乱があるかもしれないから、ゆっくり最初から説明してあげようか。若い頃のおれは、悪い妖怪を退治する鬼狩りという仕事をしていた。とても優秀な人間でね。けれど鬼狩りの一族は人間達から必要とされつつも、忌み嫌われていた。鬼とは人を食らう、人とほとんど同じ姿で角を持つ妖怪のことだ。怪力を持ち、怪しい術を使う」
鬼、という言葉をわたしの唇がなぞった。懐かしい響き。男は気にしない。
「彼らはけがれている。彼らに触れる鬼狩りもまた、けがれを背負う者達だ。貴族のように振る舞うことを許されていても、けして尊い物とは思われない。だがおれも、醜い人間共が大嫌いだった。ただ、奴らが生きるために屈辱を噛みしめながら頭を下げ、嫌悪を浮かべつつもこびへつらって貢いでくるのを見るのは、嫌いじゃなかった」
昔よりずっと小さくなった水干烏帽子の男は、杖に身体を預けたまま、しゃがれた聞き苦しい声をつむぐ。
「ある日、鬼の里の征伐任務が下った。長い間、存在だけ知られていて場所はわからない状態だったんだが、おれは優秀だったからね。突き止めたんだ。さすがに一人では厳しかったから、同業者達と挑むことになった。戦いは激しかったが、すっかり油断していたところを奇襲できたこともあって、おおむねこちらが優勢に終わることができた。――だが鬼の姫だけは別格だった」
ましろの指がわたしの手に絡まる。わたしは瞬きもせず、じっとうなされるような、浮かされるような、奇妙な抑揚を孕む男の言葉を聞き続けている。
「おれは驚いた。あんなに美しく愛らしいものを見たことがなかった。しかも人と違って鬼は老いない。人を食らう限り、いつまでも若く美しいまま永遠を保っていられる。おれは人間が本当に嫌いだった。だが妖怪とて好ましいなどとはちっとも思わぬ、汚らわしい。奴らがおれたちに討伐されることでおれたちは特権を得られるのだ。だがそれまでどんなものにも躊躇を覚えなかったおれが、初めてあの時迷いを覚えた」
白。季節は冬だった。
赤。同族の血と、里が焼かれる炎で一面埋め尽くされていた。
「お前は懸命に抵抗し、手強い相手だった。だがお前は代替わりしたばかりで幼く、未熟でもあった。それでも鬼の姫の力は壮絶で、なかなか仕留めきれなかった。だからおれは、均衡を崩すために提案した」
――その足手まといを見逃してやる代わりに、おれのものになれ。
男の唇の動きが、現在と過去でぴったりと重なる。
そうだ。
わたしは戦った。
里にわたしがいれば、もっと早く、もっと多く、鬼達を救えたかもしれない。
一番のお気に入りはましろだったけど、別に同族や大人達が嫌いなわけではなかった。
長じたら彼らの先頭に立って鬼狩り共を討つことに、何の抵抗もなかった。
でもわたしは、ましろに黄昏の話がしたくて、わたしだけの知っている景色が見せたくて山に登った。
泣き虫で欠角のましろだけが、わたしのもとに残った。
――本当に、約束を守ってくれる?
――欠角の鬼だ、大したことはできない。生きていようが死んでいようが同じ事。
――なら、わたしはあなたのものになる。角をあげる。だからましろを逃がして。
ましろを守るためなら、なんだってできた。
それしかもう、残ってないと思ったから。
――ひい様。ごめんね、ひい様。待っているよ。ずっとずっとあなたを、ぼくだけは待っている。あなたの帰りを、待ち続ける――。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして逃げたましろ。その姿を目に焼き付けたのを最後に、わたしは額の両角を折られ、角と共に力と記憶と――わたしのすべてを奪われて、この男に飼われることを選んだのだった。
男が後ろ手にゆっくりと扉を閉じると、世界は闇に染まる。
わたしたちの逃げ場はなくなり、老いてなお術者の力を失っていない男の着物から煙が立ち上る。
わたしは知っている。あれが彼の思うようにしなやかに風のごとく動き、何人もの同族を屠って首と胴を両断したことを。
男はあの時と同じ、うっとりした顔でわたしに語りかけた。
「姫よ、お前はかつてのまま美しい。お前を生かすのに必要な人肉以外、おれの望むものだけを与えて育ててきた。可愛い童女。愛おしく、愛い女よ。――だからこのまま、おれの理想に死んでくれ」
煙が襲いかかってくる。
けれど角を折られ、自分が何者であったかもしばらく忘れていたわたしに、咄嗟に抵抗する手段はない。
自分のあまりにも意味のない人生とあっけない終幕にいっそ笑いすらこみ上げてきそうなほど。
呆然と立ち尽くす、わたしはとても無力だ。
そのとき、ぎゅっと手を握る感触がある。
「ずっと、ずっと待っていた――このときを」
ましろ。わたしがいつも手を引いていた欠角の少年。
握りしめた手から流れ込んでくる、彼の乏しいわずかな力。
――ああ、そうだ、そうだった。
わたしは鬼だ。鬼の姫だったのだ。
額が割れる。びきびきと音を立てながら、わたしの頭の中に閉じ込められていたものが生える。
それは二本の角。見なくてもわかる。朱色のまっすぐな角。
そうよ、赤はわたしの色。だから好きなの。
ましろとわたしを取り巻く影が、床から伸びてわたしたちを覆う。
不埒な煙を防いだそれは、あちらがひるむと優雅な動きでなぎ払う。
煙ごと、術者の身体まで一気に切り上げる。
血を吐いて、倉庫の床に水干男が転がった。烏帽子が頭から取れて遠くに飛んでいく。
わたしが近づくと、恨めしげな血走った目で見上げてくる。
「なぜだ、俺の可愛い子よ。今まであんなに苦労して、死なないように、けれど本性が目覚めないように、大事に大事に、育ててやったのに。お前のために、手回しをして、嫌な仕事も引き受けて、立場を盤石にして、それでも人の影におびえた。この家だけがおれの癒やし、おれの終の棲家。永遠なる、理想の童女よ――なのにお前もまた、人と同じく醜悪に生きていくのか」
わたしはきょとんと首をかしげた。
人のしがらみのことなんて、わからないけれど。
「醜いのは、あなたでしょう?」
泡を吹き、失望に染まるその顔をこそ、恥と知れ。
わたしは足を上げて、不愉快なそれを踏みつぶした。
***
男の身体をまさぐって、ましろの牢の鍵を開けた。
頭の傷も、わたしたちが鬼だからだろうか、思っていたよりずっと軽そうでほっとする。
「馬鹿ねえ、あの人も。鬼は鬼に力を分け与えることができる。わたしが使い方を忘れていても、ましろがわたしに教えてくれた――老いてもわたしを閉じ込められるほど優秀な鬼狩りだったはずなのに、どうしてわざわざあなたを捕まえて、わたしに会わせたりしたのかしら?」
「ぼくたちを見下していたからだと思う。ぼくもあなたも、あの時と同じ何もできないままだと思っていたんだ。捕まるのは賭けだった」
「……あなたは本当に、ずっとわたしを待っていたのね」
そういえば、彼は昔から、泣き虫だったけど、絶対にわたしの後を追いかけることを諦めない子だった。
「一番役立たずのぼくが生き残ってしまって、あなたを奪われて、本当に、本当に悔しかった……でも、ぼくには待つことしかできなかったんだ」
「でも、わたしたちはここにいる。あなたがいなければ、二人ともいない。すごいのよ、ましろ。あなた本当にすごいのよ」
彼は照れるとすぐ目をそらす。顔を赤くすると真っ白な肌だからよく目立つ。
改めて並んでみると、ましろはまだ子どもの名残を残しているけど、わたしより小さかった背が大きくなってわたしを抜かしている。
「大きくなったのね」
「……もっと大きくなるよ。鬼は二人きりになってしまったから、もっと強くなってひい様を守らないと」
「あら、わたしたち、なんだってできるわ。どこへだって行けるわ。今度はあなたが連れて行ってくれるんでしょう?」
わたしは手を差し出す。あの頃より少し大きくなったましろの手。これからもっと、たくましくなるのだろう。
彼は驚いたように目を見張ってから――ようやく笑顔を見せた。
「ひい様、行こうか」
「ましろ、行きましょう」
さあ、夜の闇の中に滑りだそう。
ちょうどわたしの好きないい季節。幾多の白を、鮮やかな赤で染めましょう。
たくさん人を殺して、いっぱい楽しい思いをしよう。
わたしの手を引いて屋敷の外に連れ出そうとする白い伴侶に向かって、わたしは久しぶりに作り物ではない、心からの笑みを返した。