5 Confessions of a Christmas Eve~聖なる夜に~
師走。この季節になると日本人の大半が口にする言葉がある。
『布団から出たくない』
そして、今まさにその衝動に駆られているのが夏海であった。
「あとちょっとだけ…」
「何言ってるの…もうすぐ八時よ!!」
「あっ、ちょっと!」
このバトルが始まって約一時間。勝負は母の怪力で決着がついた。抵抗する娘に手加減することなくスルスルと布団を引っ剥がしていく。夏海が強く握る掛布団のいくつものしわが徐々に伸びていき、最後には力なくその手を放した。次の毛布については語るまでもない。
「あ~、寒~~いっ!! ママ、どうして窓開けてるのよ!」
「空気の入れ換えよ。それが嫌ならこっちきなさい。炬燵あるんだから」
「オニ、アクマ!」
夏海は身を縮こませながら立ち上がると、小さくボヤキながら窓の鍵をしめた。窓にかかる息は白い。
「日本ってこんなに寒いのね」
鍵を触った手ともう一方を擦り合わせながら、彼女はリビングへ急いだ。
「おはよう」
夏海が席についてすぐに、背後から伸びた手が彼女の頬をとらえた。
「ひゃっ!」
「いひひひ! 目ぇ覚めたでしょ?」
「ちょっと! いきなりやめてよね」
梨桜に反省の色はない。
「ねぇ、夏海! ウチらでクリスマスパーティやらない?」
「クリスマスパーティ?」
「そっ! ほら、もうクリスマス近いし…ウチら全員フリー…」
夏海と目が合った瞬間、梨桜が止まった。
「どうしたの? 梨桜ちゃん」
「あっ、いや…アンタはいたなァ~って思って」
「クリスマスパーティーしよっ!」
彼女は既に乗り気だった。
「だから武蔵に悪いかと」
「えっ?」
「だって、パーティーやるのイヴだし、二人きりの方が…」
「あぁ…そういえば、日本ってイヴの夜は恋人と過ごす、ってママからきいたことあるわ。でも、気にしないで!」
「?」
「武蔵とは、友達の関係だから。…多分」
「へぇ、『友達』ねぇ。でも、今のアンタ。友達の事を話す顔じゃなかったわよ」
そう言われて彼女はハッとなったが、その顔に以前のような恥じらいはなかった。
「でも、アンタ本当にそれだけで満足なの?」
「満足って?」
「友達じゃなく恋人として接してほしいんじゃないか、って事よ」
「恋、人」
その瞬間、ジョージとの思い出が頭に浮かぶ。
「そう、ね。そうなった方がいいと思う。私のためにも、ね」
「じゃあ、その日は特別にアンタだけ飛び入り許してあげるから、ダーリンからのお誘いがなかったらこっち来なさい」
「お誘い、来るかしらね」
「さぁ、その時になってからのお楽しみね」
「そうね」
「ダーリンに優しくしてもらいなさい」
梨桜はそう言い残すと、振り向きざまに舌を見せてから自分の席についた。
「ハァ…」
夏海は、授業も上の空でさっきの梨桜との会話を思い出していた。
(友達じゃなく恋人として接してほしいんじゃないか、って事よ)
(恋人ねぇ。そういえば私達、周りから見たら恋人に見えるのかしら。友達なのに…)
でも、私達の関係って、「秘密」もあったわけよね。だとすると「ただの」友達じゃないってわけだし…。
「ねぇ、あれ買って~~!」
「お?」
「可愛くなァい? あのバッグ」
「いいよ、買ってやる」
「ありがとう、たっくん!」
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントな」
「うん!」
「おい、ちょ…こんなところで」
「いいじゃん、別に!」
帰り道。今日はやけに若いカップルが目立つ。
いいな~。もしかしたら、ムサシも…。
『ねぇ、ムサシ…私あれが欲しい!』
『あぁ、いいぞ! 他にはあんのか?』
『えっ?』
『欲しいもんは全部買ってやる!』
『ホント?!』
『当たり前だろ。んでケーキ買って帰ろうぜ』
『買って帰るって…どこへ?』
『俺んちに決まってんだろ』
『ム、ムサシの家…!?』
『嫌なのか?』
『べ、別にそういう事じゃなくて…家には親さんがいるでしょ? それに兄弟も。だから、その…何ていうか、私か急にあなたの家に行ったら…』
『あれ? 言ってなかったっけ…。俺んとこは共働きで夜遅くまで帰って来ねぇよ。夕飯は作り置きしててくれるけどな。それに俺、一人っ子だぞ』
『そうなんだ』
『なァ、黒崎! 今日は二人きりで過ごそうぜ。実は俺、お前に言っておきたいことがあるんだ』
『えっ、ちょっと…何よ! そんなこと急に言われても、私にも心の準備が…』
「…ちゃん! ねぇ、なっちゃんってば!!」
「えっ?」
「さっきから聞いてるのに全然反応ないからさ」
夏海は気付かぬ間に自分の世界に入り込んでいたらしい
「あっ、ごめん…何の話だっけ?」
「クリスマス、何して過ごすかって話」
「あぁ、私は特にないわ。家族でケーキ食べるくらいよ」
「ふ~ん。じゃあ、イヴは?」
「イヴも予定はないわ。あなた達は梨桜ちゃんがいってた『パーティ』には参加しないの?」
「夏海ちゃん、気づいてた?」
すかさず、紗希が入ってきた。
「何に?」
「私たちが話してる時、一人自分の世界に入ってたけど…何を想像してたの? 今まで見たことない顔になってたわよ、引いちゃうくらい」
「えぇ~~!! 私、どんな顔してた!?」
「上手く言えないけど、トロけてたわ」
「何それ!? 意味分かんないわ」
「自分が一番分かってるでしょ? 正直に言いなさい」
「あ~、分かった! 武蔵君とイヴにデートするんでしょ?」
「ない、ない、ない、ない、ない!!! 何言ってるの雅美ちゃん! 絶対ないわ、そんなこと」
夏海は全力で否定した。
「アンタ、ホントにKYね」
「なんかごめん…」
「でも、本当はデートなんでしょ?
「だから、そんな予定ないってば!! 第一、誘われてないし」
「どうせ、もうちょっとしたら誘ってくるわよ」
何よ皆して!
キスとかデートとか、そんな事できるわけないでしょ…。
何度か話題を変えようとしたものの、結局夏海は駅で降りるまで質問責めだった。
でも、ムサシなら誘ってくれそうな気もする。ちょっとだけなら期待していいかも。ムサシは、いつも真剣に私と向き合ってくれる。だから私も本当は素直にならなきゃいけないのよね…。
この数日間、彼女は今まで以上に武蔵を意識するようになっていた。それは自然なこと。自然なことだ。なぜなら“ムサシと恋人とになりたい”―ほんの少しだけ素直になれたのだから。夏海にはもう一つ悩みがあったが、時は待ってくれなった。
十二月二十四日、クリスマス・イヴ―その誘いは突然だった。
スマホの着信音に気づいた夏海は課題をしていたその手を止め、画面を覗きこんだ。
【ムサシ】
その表示名を見た瞬間、身体から込み上げてくるものがあった。
何やってんのよ私!
早く出ないと切られちゃうじゃない!!
四コール目を過ぎても画面をスライドできない。そんな自分が情けなく思えたのか、彼女は小さくため息をつき、一呼吸おいてスマホを手に取った。
「もしもし、ムサシ?」
「おぉ、黒崎! ちょっと聞きたいことあんだけど、今いいか?」
「いいわよ、何?」
「今夜、暇か?」
「うん、別に予定ないけど」
「あのさ、一緒に飯でも食いに行かね?」
「それって、二人で?」
「あぁ、俺は二人でって思ってるけど、呼びたい奴いるか?」
やっぱり、二人きりか。考えてみたら、学校以外で二人きりになったことなかったわ。私どうなっちゃうんだろう?
それに、これはもしも、もしもの話だけど…こ、告白とかされたら私はなんて答えるの?
「お~い、聞いてんのか?」
「あっ、いや、ごめん…。ムサシはその…本当に私と二人きりでいいの?」
「当たり前だ! 俺はお前と会いたいから誘ってんだぞ」
一気に心拍数が上がり、彼女の口から次の言葉は出てこない。
「それにお前、日本でのクリスマスって初めてだろ? 俺、今駅前にいるだけどさ、もうちょいしたらイルミネーションが点灯されるらしいだ! お前の国でもイルミはやるだろうけど、日本だって結構キレイなんだぜ。早く来て一緒に見ないか?」
「嬉しい」
「えっ? 今、何か言ったか?」
「なっ、何でもないわよ…今から行くから待ってて!」
「あぁ、分かった。てか何怒ってんだ」
「切るわよ」
「?」
夏海にはこれが精いっぱいだった。電話を切ると彼女は両手をダラリと下ろし、そのままベッド倒れこんだ。
信じて良かった…本当に嬉しい。
彼女はしばらく天井を見つめた後、勢いよく起き上がった。
駅までは徒歩十五分。
「待った? 何の曲聴いてんの?」
「おわっ! いきなり脅かすなよ」
「ぷっ!」
腰を屈め、下から覗きこんでいた夏海は思わず噴き出した。
「笑うなよ!」
少し恥ずかしかったのか、武蔵は慌ててイヤホンを外し、不機嫌そうな顔を彼女に向ける。
「隣、座っていい?」
彼の気持ちを察することもなく、彼女は無邪気に笑いかけた。
「あっ…」
「どうかした?」
夏海と目が合った瞬間、彼の眉間は緩み、その表情は一変した。
「ちょっと、何?」
「お前、その服似合ってんな! なんかいつもより大人っぽいっていうか…」
「なっ、何言ってんの!? だって、このコート、ママのお下がりだもん」
「そうなのか…」
「そうそう、大人っぽいとか急にやめてよね…それコートのせいだから!」
はい、場がしらけました。
何どーでもいい情報を自分からブッ込んでんの?
私ってバカ?
どー考えても素直に『ありがとう』って言うとこでしょ!?
「どうしたんだ? お前」
「どーもしてないわよ!!」
「大声出すな、バカ! ここ駅だっての」
「ごめん…」
その一喝で我に返る夏海。
「ったく、何か悩み事でもあんのか?」
「別にそんなんじゃないわ」
彼女はため息交じりに腰を下ろした。
「そっか、ならいいけどさ。でも、お前の口から謝罪の言葉なんて初めて聞いたかも」
「バカ言わないでよ! 私が風邪ひいてお見舞いに来てもらったのに追い返しちゃった時、あとからちゃんと謝ったじゃない」
「ははははっ! 何、真剣に答えてんだよ。冗談だっての!! しかも、自信たっぷりにいう事じゃないだろ」
「何よ、自分が言わせたんでしょ!!」
さすがの夏海も今のは恥ずかしかったらしく、怒鳴り声にもいつもような覇気はなかった。
「悪かったよ…ほら、あそこ見ろ。もうすぐツリー点灯されるぞ」
武蔵は正面に見える広場の巨大ツリーを指差して彼女を促したが、その返事は返ってこない。さっきのがよっぽど堪えたらしい。彼が表情を覗きこもうとすると、すぐにそらしてしまう。
「ったく、いつまで不貞腐れてんだよ! カウントダウン始まっから近くまで行くぞ」
「えっ?」
それは一瞬。ムサシはサッと彼女の手を取り、静かに立ち上がった。当然、俯いていた夏海には訳が分からず、その動揺を隠すので精一杯だった。自ずと体が硬直し、さらに俯いてしまう。
『…五、四、三、二、一! 点灯ォ~~~!!!』
その声に気づき、上を向くと眩いばかりの光の世界が広がっていた。二メートルもあるツリー全体に電飾が巻かれ、パチパチとカラフルに点滅している。
「どうだ? 少しは元気出たか?」
その答えは彼女の横顔を見ればすぐに分かった。武蔵にも自然と笑みがこぼれる。いつしか互いの手は先ほどよりも強く握られ、しばらくの間、二人はじっとツリーを眺めていた。その周辺ではサンタに扮した駅長からプレゼントを受け取り、歓喜に沸く子供たちの声がこだまする。
「ツリーバックにして写真撮ろうぜ」
「うん!」
「もっとこっち来いよ! 二人とも入ねぇから」
「ひゃっ! ちょっと、顔近い…」
慌てる夏海に対し、武蔵は左手を彼女の肩に回し、満面の笑みでピースサインをレンズに向けた。
いつもは抵抗する夏海も今日はされるがまま。
「それじゃ、撮るよ~。ハイ、チーズ!」
そこには、聖夜ならではの特別で温かい光景が広がっていた。
「悪ィな…イヴだったのに、こんな場所でメシなんて」
その後、イルミネーションを堪能した二人は武蔵の提案でバーガーショップに入った。
「あれ? 言ってなかったっけ…私、こういうとこ大好きだよ。向こうにいる時もよく食べ行ってたし!」
「そっか、よかった! でも、あっちの牛肉で作ったのも食ってみてぇな~! 絶対ぇ、そっちのがウマいに決まってる!!」
「そぉ? 日本のハンバーガも負けてないと思うけど」
「そーか? まァ、お前が好きならいいけどさ。今日は好きなモン好きなだけ頼め!」
「そんなに食べないわよ」
「だよな」
「今日はありがとね」
「何だよ…急に改まって」
「だって、こんなに楽しいデート久しぶりだから!」
カワイイ…。
「何、固まってんのよ」
「何でもねぇよ」
突然の優しい笑顔に武蔵は動揺を隠せない。
「そろそろ行こう」
「そうだな。お前、外で待ってろ。すぐ行くから」
「えっ? でもお金…」
「今日はオゴリだ」
「ご馳走になっていいの?」
一度は躊躇した夏海だったが、その後、武蔵の背中に軽く頭を下げてから扉の方へ歩いて行った。
やべぇ~、さっき完ッ全にアイツに見惚れてた…変に思われてないよな?
今日は必ずキメるんだ!
今日しかチャンスはない!!
絶対、コクる…!
「あのォ~、お客様…? おつりを…」
「あっ…すいません」
思ったより話せてないなぁ~…もっと積極的にならなきゃ!
そうよ、何で相手から来るのを待ってるの…私!
ムサシから言ってこなくても、私は絶対に…!
「待ったか?」
「ううん、全然」
「そっか、ならよかった。なァ、まだ行きたいとこあるか?」
「特にないけど」
「ならさ、今から少し俺に付き合ってくれないか?」
「へっ? いっ、いっ、今何て??」
「あん? いや、どこも行きたいとこがねぇなら…」
「その次よ、次!!」
「それなら、何で止めんだよ!?」
「いいから早く!!」
「だから、今から遊園地でもどうかなァ~って…嫌か?」
「あァ~、いいわね…! すぐ行きましょう、すぐに。こっからなら近いし」
「何、一人で興奮してんだ?」
ただの聞き間違え!?
今、確かに“俺と付き合え”って聞こえような…。
「どーかしたか?」
「ううん、気にしないで…そうだ、ムサシ! また手繋ごう。お別れするまでずっとね」
「いいぞ」
これなら、イケる!
数分後―
「ねぇ…何でいきなりこれ?」
「何でって…お前、観覧車怖いのか?」
「いや、そうじゃなくて! もっと遊べるアトラクションあるのに、何で初っ端から観覧車なのって聞いてんの!」
「そんな怒んなよ…落ち着けって。それよりお前『初っ端』なんて言葉知ってんだな」
こっちはコクるにはちょうどいいシュエーションかと思って…それに思ったより金使ったし。誰かさんのせいでな。
『そんなに食べないわよ』
あれが前フリだったとはな…。
「空…キレイだな」
「そうね」
もうぉ~、こんなことで二人きりなんて嫌っ!!
正面に座られちゃったら話にくいじゃない…!
まだ手繋いで横にいてくれた方が話しやすいからそうしたのに、正面に来られたら顔上げられないじゃない…ウソつきっ!!!
「なァ黒崎、お前…今、好きな奴とかいんの?」
「な、何でいきなりそんなこと聞くの?」
「いや、別に深い意味はねぇよ…ただ、あそこにカップルが見えてさ」
「へぇ~、特に深い意味もなく、いきなり女性にそんな事聞くんだ…? しかも人のデートまで覗いて」
「なっ…その言い方はないだろう! 俺はただお前なら答えてくれそうな気がしたから…。別に答えたくなけりゃこたえなくていい。それにあんなカップル見たらフツーに…」
「いたら? いたら、武蔵はどう思う?」
夏海が唐突に投げかける。
「そりゃ、何ていうか…複雑だ」
「どういう意味?」
「意味も何も…何となく嫌なんだ。てか、話逸らすなよ! まず、俺の方向いて俺の質問に答えろ」
「ムサシだって窓見てるじゃない! すぐ近くに私がいるのにカップルにデレデレしちゃって」
「分かった。じゃあ、俺が向くのと同時にお前も振り返れよな」
「いいわよ…」
さっきのアピール気づかれてない!?
落ち着け、私…!!
緊張するのは一瞬だけなんだから。あとはいつも通りに!
「お前、何で顔赤いんだ?」
思うようにはいかなかったようだ。
「赤くないわよ」
「そーか? んで、好きな奴いんのか?」
そこで会話が止まった。観覧車は半分以上過ぎている。
もう時間がない…。
「ハァ…答えてくれねぇならもういいよ。質問変える。今度こそ、俺の目ぇ見てしっかり答えろよ」
「何…?」
左側に目を逸らし、夏海はようやく返した。その頬はほんのり赤い。
「お前やった最初の英語の授業、覚えてるか?」
「えっ?」
「お前が俺に教えた最初の言葉」
「覚えてるけど…」
ちょっと待って、それって…。
「なら、ここで特別授業だ。今なら、あの言葉…恥ずかしがらずにお前に言える」
私に…?
「俺の発音、正しいか後で聞かせてくれ」
ウソでしょ…!?
だって、あの言葉は…。
「I Love you」
武蔵の声が彼女の全身を優しく包み込む。
ふいに前を向くと、彼がまっすぐこちらを見つめている。
「黒崎…俺と付き合ってくれないか? ひと目見た時からずっと気になってた。お前が好きだ!」
彼のまっすぐな言葉に夏海は目を逸らすこともできず、ただ黙っていた。
「答えは今すぐじゃなくていいよ。いつでも待ってっから」
どうしよう…私、なんて答えればいいの?
すごく嬉しのいに、どうしたらいいか分からない…。
「お前…泣いてんのか?」
今まで抑えていた感情が一気に溢れ出し、目には涙が溜まっている。
「おい、大丈夫か?」
返事をしようとするものの、緊張のあまり口が動かない。見つめられる時間がながいほど、顔はみるみるうちに紅潮し、声をかけられるたびに緊張は増していくばかりだ。
今は絶対、逃げちゃダメなの…。それは分かってる。
でも…でも、やっぱり…!!!
「おい!! 黒崎…!」
観覧車が停まった次の瞬間、夏海は勢いよくそこから飛び出し、彼から逃げるようにして無我夢中で駆けていった。
「おい!待ってくれよ!どうしたんだよ!」
その言葉は周りの雑踏にかき消され誰の耳にも届かない。
武蔵は呆然とその場に立ち尽くし、もうどれぐらい時間が経っただろうか。
もう周りには誰もいない。
とうの昔に見失った彼女の背中を追っている視線が悲しい
やがて、呆然となった自我が意識を取り戻す頃、武蔵は一人崩れ落ちる
「なんで、だよ。ワケ分かんねぇよ…」
その言葉が引き金となり、こらえていたはずの感情が一気に噴き出す。
「どうしてだよ、俺じゃダメだったってのかよ」
(くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそっ…!!!)
その慟哭は失恋の口惜しさによるものか、あの時追えなかった自分の情けなさによるものなのか。
一方、帰宅した夏海は自分のベッドに顔を埋めたまま一時間以上動かない。
「お風呂ぐらい入りなさいよ。それとも、ママと一緒に入る?」
「今は一人にして!!」
催促する母を夏海が罵倒した。
「今はって…あのねぇ、何が知んないけど、いつまでそうしてるつもり?」
「うるさい!」
「アンタ、いい加減に…」
振り返った娘の顔をみて、母は言いかけた言葉を飲み込んだ。その表情は困惑の色へと一変する。
「どうしたの…その顔?」
目の周りを真っ赤に腫らし、瞳から頬にかけて涙の痕がいくつも見える。
「イケメン君とケンカでもしたの?」
夏海は無言で頭を振った。
「私が悪いの」
「えっ?」
「私、何やってんだろ…もしかしたら嫌われちゃったかも」
そう言って夏海は笑った。だが、それが作り笑いであることは誰の目にも明らかだ。
「ハァ~、今日はもう寝なさい。明日はパパが帰ってくるからね」
「…」
扉が閉まる。
武蔵は、一番欲しい言葉をくれたのに―最高のクリスマスプレゼントを。
翌日―
「オハヨウ! ナツミ」
「おはよう、パパ」
目を擦りつつ、夏海が席についた。
「フユヤスミハ タノシメテル?」
「まぁまぁ」
いつもより会話が少ない。
「キョウハ フタリニ ダイジナ ハナシガアル」
食事も終盤にさしかかった頃、ニックが沈黙を破った。その表情はいつになく真剣だ。
「トツゼンダケド、ニシュウカンゴニ ニホンヲ タツコトニナッタ」
「えっ?」
(日本をたつ?それって…!)
「エンキニナッテイタ プロジェクトガ ジュンビガトトノッタトカデ マタサイカイスルラシインダ」
(日本を離れちゃうって事?あの学校とも…)
父親が理由を続けて言ってはいるが、娘の耳に届いてはいない。
夏海の頭の中は、日本で起こった楽しい出来事、学校で会った楽しい友達、その思い出の中の笑顔の自分…そして
その傍にはいつも、いつも武蔵がいてくれた!
ああ、ムサシ、ムサシ、武蔵!
けれど、皮肉なことに「楽しかった武蔵との思い出」は、昨日の「武蔵の悲しい顔」で終わってしまう。
(なんで私はあの時…こんなにも好きって気持ちはあったのに!)
夏海の頬に自然と涙が伝った。昨日あれだけ泣いたのに。涙は涸れることはないらしい。
「オ、オイ、ナツミ。キュウニドウシタンダイ?チャントキイテイタノ?」
心配性の父は、突然泣き出した娘に優しく声をかけた、が
「何でもっと早く言ってくれなかったの!!」
娘は、やり場のない悲しみを、日本に「突然の別れ」を告げた父に思い切りぶつけてしまう
「ナツミ…」
初めて浴びせられた娘からの怒号に父が返す言葉はなかった。