2 Give and take lesson~二人の授業~
翌朝、二人は登校するなり、さっそくその予定について話し合っていた。
「じゃあ、いつから始める? 俺は今日からでもいいけど」
『私も今日からでいいわ』
夏海はノートを見せた。
「そっか! じゃあ俺、放課後なら用事無いからそれでいいか?」
「ウン!」
「おはよー、皆!」
「先生来た」
武蔵に促され、夏海は席についた。黒板をまっすぐ見つめる彼女の顔は満足げに見える。
給食の時間、夏海の班はガールズトークで盛り上がっていた。
「アタシさ最近、急に太ってきて…三日前に彼氏に『お前、ちょっと太ったろ?』って言われてマジショック受けてさ…。部活入ったら自然に痩せるかな?」
「部活にもよるけどフツーは痩せるっしょ! てかだいたい、アンタ痩せてんじゃん」
「紗希ぐらいで太ってるっていうならウチらはどうなるのよ!」
彼女の隣に座っている小太りな二人組が下腹の贅肉を撮んで見せた。
「アンタらはフツーに痩せなさい!」
梨桜の一喝に二人組はシュンとなる。
「ねぇねぇ、この班で『私、リア充まっしぐら! もうカレシの事しか考えられないの~!』って人どれくらいいんの?」
「急になに言ってんのよ」
「いいから挙げて!」
質問した雅美以外の手が一斉に上がった。
「あぁ、皆そんな感じ…? エンジョイしてんのね」
「彼氏はいるけど・・・そんなテンションでいたら毎日持たないわよ」
「「ねー」」
雅美の言う『リア充組』が口をそろえる。
雅美は少し黙って、次の瞬間には興奮した様子で話し始めた。
「わ、私だってね…中学卒業するまでカレシはちゃんといたのよ! でも、進学する高校がちが…」
「ストップ! もう暗い話はヤメ。給食が不味くなるわ」
雅美が半泣きの顔で頷いた。
「そういえば黒崎さん、さっき手ェ挙げてなかったわよね?」
そこで彼女はようやく箸を止め、前を向いた。
「まさかわざと挙げなかったわけじゃないわよね?」
『私、今は好きな人いないもん』
「ホントかな?」
紗希の攻撃を筆談であっさり躱した。
「夏海は絶対モテるっしょ?」
「いいよね~、モデル体型で」
『ホントにいないもん!』
「夏海ちゃん、とぼけてもダメよ」
「どういうこと? 雅美」
「私、見ちゃったのよ! 昨日の五校時の休み時間にあなたと斎藤君が話してたとこ!!」
「それ、ホント?」
一瞬、注目を浴びた雅美への視線はすぐに夏海へと向けられる。さっきから彼女の箸は止まったままだ。
『ムサシが私に日本語を教える、って言ってくれたのよ』
「本当にそれだけ?」
「じゃあ、質問! 私以外皆彼氏いるんだよね…この学校来てまだ二週間ぐらいしか経ってないけど、『私の王子様はこの校内にいるわ~』って人!!」
「いるわけないっしょフツーに…てか、さっきから思ってたんだけどさアンタ少しは空気読んだら? 質する時、セリフ調に言うのやめてよね。キモイし、誰にもウケてないないから!!」
しばらくの沈黙の後、彼女は梨桜の吐いた毒に悉くやられた。
「本当にそれだけなの? 夏海」
撃沈した雅美をよそに軌道修正する梨桜。夏海は最後のコンソメスープを飲み干してから彼女に振り返り、目の前に思いきりノートを突き出した。
『ホントにそれだけ!!』
「うわっ! ちょっ…何だよ、いきなり!! 給食こぼれるっしょ!!」
素早く仰け反る梨桜。
「分かったよ…悪かった。でも急にびくるじゃん!」
「夏海ちゃんはその気がなくても彼にはあるかもしれないわよ?」
「十分ありえるわね…あの感じ!」
紗希の何気ない一言に彼女の下ろしかけていた腰が止まる。
『どういうこと?』
座り終えた夏海が聞き返した。するといつの間にか会話に復帰した雅美がすっと椅子から立ち上がり、微笑みながら彼女のもとへゆっくりと近づいていった。
「あなたも鈍感ね。もしかしたら、武蔵君は夏海ちゃんのことが好きかも、って話よ!」
雅美は彼女の耳元でそう囁いた。
外は暖かな春の陽気に包まれ、教室の半分開けられた窓からは少し生温い空気とともに時折、爽やかな風が吹いてくる。給食の最後に言われた雅美からの一言がどう気になって仕方がない夏海は昼休みに入ってから一人、昨日の武蔵の行動を思い出していた。
ムサシは急に私の手を引いて廊下に出た。彼が私に話してる時の目は、エミリーからも言われた通り確かに真剣だった。でも、何でそれだけで〈彼が私を好き〉ってことになるの? だいたい、彼と喋ったのは昨日が初めてで本当に私のことが好きだとしたら、もっと前から私に話しかけてきたんじゃないの? それに私は完全に彼を信用したわけじゃない! 特にあんなことがあった後だし…今〈好き〉とか言われても困るだけよ。
夏海は彼をどう受け入れればいいのか分からないでいた。ふと、窓の外を見ると男子たちが野球やサッカーを楽しんでいた。その中に、ボールを追いながらトボトボ歩く武蔵野姿が見える。当然、ミットにボールは入らず、相手に盗塁を許してしまった様子だ。すぐにチームメイトが駆け寄り、彼に何か話しかけている。彼らの表情とさっきの彼のミスから察するに文句を言われているに違いない。そんな光景に彼女は思わず笑ってしまった。
「夏海ちゃん、今一人?」
ハッとなって振り向くと扉の向こうで紗希が顔を覗かせていた。
「ウチら今から体育館でバレーするんだけど、よかったら一緒にやらない?」
彼女は大きく頷いた。
人を信じるとか信じないとか、今はそんなことどうだっていい。こうして皆が誘ってくれたり、話しかけてくれたりすることが本当に嬉しいんだもん! だから、ムサシの言ってくれたことも素直に喜んでいいのよ! 彼と勉強していけば日本語が上手くなって、きっと今までより皆と仲良くなれるはずよ。それに、これは彼との約束でもあるんだし―彼女の悩みは体育館に着くまでに意外とあっさり解決した。
放課後の始め約十分間は、いつも騒がしい。
「なぁ、お前ん家今から行っていいか?」
「うん、別にいいけど」
「いいからアンタは早く日直の仕事終わらせなさいよ!」
「うるせぇな! てかお前もだろ…ちゃんと手伝えよな!」
「言われなくてもするわよ。アンタと一緒しないで!」
やはりどこのクラスでも女子は強いらしい。
「ねぇ、井上さん。よかったら一緒に帰らない?」
「うん、いいよ!」
教室の人数が半分になった頃、武蔵の合図で二人は二階にある視聴覚室に向かった。
「ここなら今はあんまり使われてないし、奥にある部屋だから滅多に誰も来なくて集中できると思う」
黒板を消しながら彼が説明する。その間、夏海は席につき、彼の横にあるテレビをじっと見つめていた。
「デカイだろ? ここのテレビ。俺も家にこれぐらいのやつ欲しいよ」
夏海もそれに同意する。
「後からこれでビデオ見ながら発音の練習するからな。じゃあ、まずはお前の知ってる日本語を黒板に書きだしてみてくれ」
彼女は言われた通り黒板に単語を書き始めた。右端から下の方へ向かって次々と書き連ねていく。五分後、そこは平仮名・漢字交じりの単語でほぼ一面が埋め尽くされていた。形はぎこちないが、日本でいう小学校卒業程度の漢字は書けるようだ。その光景に武蔵の目は点になった
「お、お前…こんなに知ってんのか?」
振り返った彼女は「当たり前でしょ!」とでも言いたげに、持っていたチョークをピンと指で立たせながら見事なドヤ顔を披露した。
「そんだけ知ってれば日常生活には困らないだろうから、あとはホント発音だけみたいだな。よし! 今度は、お前が書いた単語数の多いジャンル順にビデオを見ていくぞ。画面に映った人が言った後、俺も繰り返すから、黒崎は俺の後に続けて発音してくれ。これを一単語につき二回ずつ繰り返すからな! それじゃあ、始めるぞ。まずは食い物からだな。お前の聞いたことないやつも出てくるから油断するなよ!」
夏海は大きく頷くと、鼻息を荒くして画面を凝視した。
「プハハハ…肩の力は抜いていいからな」
彼は思わず吹き出しながらリモコンの再生ボタンを押したが、彼女は既に自分の世界に入っている。
「寿司」
「寿司」
「スシ」
「刺身」
「刺身」
「サミシ」
「おしい! もう一回よく聞いて。刺身」
「サシミ」
「そうだ! 次!」
「天丼」
「天丼」
そこで彼女が止まった。
「黒崎、どうした?」
『これ何て読むの?』
夏海が示すノートを見てみて彼は彼女の弱点を見抜いた。
「もしかしてお前、濁音と半濁音が苦手なのか? 五十音しか教わってないんだな。これは『ど』だよ」
キョトンとしながら、左手の人差し指を立てた。
「『ど』!」
口は動かそうとするが、言葉にならない。
『私、点々の付く文字は【で】と【ぶ】しか発音できないの』
「そうなのか。 お前ってそもそも、どうやって日本語覚えたんだ?」
『ひたすら文字を書いたのよ。ママが書いてくれた文字を繰り返し書いて、同時に意味も覚えされたわ』
「書いただけで喋ってる言葉って理解できるのか?」
『書いた後、ママが順番に発音してくれたけど口の動きを追うので精一杯で声なんて入ってこなかったのよ。だから毎回、皆の口の動きで何を言ってるのか判断してるの』
「それって天才だな!」
『そうかな?』
「そうだよ! だから、今度は音を聴くことに集中してそれに合わせて口を動かす、っていう練習をしていこう!」
『私は口の動きを追うだけで精一杯なのよ!?』
彼女は不安げな表情をみせる。
「大丈夫だって、それって昔の話だろ? それと西山から聞いたんだけどお前、記憶力いい方なんだってな」
首を傾げる夏海。
「とにかく、やってみようぜ! このビデオが終わったら、濁音と半濁音を勉強するぞ」
『分かった』
夏海は彼の指示に従い、約一時間の間ひたすら練習に励むのだった。
「よし、今日はここまでにするか」
彼の言葉に彼女は、ホッとした表情を浮かべて脱力する。
「今から十五分休憩な! 俺、ちょっと下の自販機での飲み物買ってくるよ」
武蔵が部屋の扉を閉めようと後ろを振り向くと、その前には夏海が立っていた。
『私も喉渇いたから一緒に行く』
「そっか」
武蔵は平然を装って答えた。自販機までの道のりを並んで歩く二人。階段を降りながら、彼は夏海の方を向き、横顔を確認したかと思うと正面に向き直った。そこに着くまで彼は落ち着かない様子で何度かこの動作を繰り返した。
「お前は何にする?」
しゃがんだ彼が、取り出し口の缶コーヒーに手を伸ばしながら尋ねた。
『ジュースぐらい自分で買えるわ』
振り返る彼に反論する。
「バーカ。奢ってやるって言ってんだよ。早く選べ!」
『えっ? そんなことしなくていいわよ』
恐縮する夏海をよそに彼は財布から百円玉を取出し、投入口に入れる。
「ほらよ」
「アリガトウ」
結局、彼女は希望を言ってリンゴジュースを受け取り、校庭の手前にあるコンクリート製の道に腰を下ろし、缶を開けた。一口飲んで後ろを振り返ると、武蔵が少し離れた花壇の側に立っている。手招きする夏海にゆっくり歩み寄りその場に腰を下ろした。
「この学校慣れたか?」
『う~ん…まだ分からない』
「まァ、当たり前だよな。まだ始まって二週間だし」
『そうね』
その後、五分の沈黙が続き、スカートを軽く払いながら彼女がすくっと立ち上がった。
「もう行くのか?」
『うん、いい気分転換になったわ。 次は私の番ね! 先に教室戻ってるわ』
「ちょっと待て! 俺も行くよ!」
武蔵は残りのコーヒーを急いで流し込み、彼女の背中を追った。
『これ読んでみて』
席についた武蔵は固まった。
『どうしたの?』
「ちょ、ちょっと待て! 一つ聞いていいか?」
『何?』
「普通、英語の授業って言ったら最初は必ず【I have a pen】だろ…何でこれを選んだ?」
『アンタ、教科書での授業がしたいの?【私はペンを持ってます】って何のアピールよそれ?』
夏海は武蔵の言葉に呆れたが、すぐに言葉を続ける。
『ママも言ってたけど、【Thank you】と【この言葉】は日本、いや世界中のどんな人でも知ってる、って』
彼は突然立ち上がり、一つため息をついて黒板を指差した。
「確かに誰でも知ってる…でも、いきなりこれは」
『これは日常会話よ?恋人じゃなくたって家族や友人にも言うわ』
「そうは言ってもよ・・・」
そうは言っても武蔵にとって【その言葉】は恋人同士のソレ、しか馴染みがなかった。
『じゃあいいわ…改めて言わなくても知ってる言葉でしょうから』
なかなか言おうとしない武蔵にしびれを切らした夏海は、その横に次の単語を書き加える。それを見た彼は肩を撫で下ろし、ボソッと呟いた。
「言えるわけねぇだろ…お前の前で【I love you】なんて」
その後も、『日常会話の練習をする』という夫婦役としていきなり隣に座ってきたり、『親友に再会した時の挨拶』で抱きつかれたりと彼の初回の授業は驚きの連続だった。非常に内容の濃い授業だったが、彼の頭には何一つ残らなかった。
このお互いの授業は同じ時間、同じ場所で週に三回行われた。この時だけはいつも二人きり。回を重ねる度に上達していく夏海とは対照的に、武蔵はどうも集中できず、彼女の背中をじっと見つめるだけ。彼はそれだけで十分だった。
暑さは日を追うごとに厳しさを増していき、季節は夏へと移り変わろうとしていた。二人の授業が始まって二ヶ月。夏海は練習の甲斐もあり、違和感のない程にコミュニケーションが取れるようになっていた。分からなくなれば復習を繰り返し、時には武蔵を呼び止めて尋ねた彼女の努力の賜物だ。周囲の眼も以前と比べ、それほど気にならなくなった。
そんなある日、夏海の席が空いていることに彼は気付く。
「今日、黒崎さんは発熱と咳でお休みよ」
さすがに異変に思い、3校時目の休み時間に彼は職員室にいる國山に尋ねた
「そうですか…」
昼休みにメールを確認したが、彼女からのメッセージは一件もなかった。
何で連絡してくれないんだよ!
放課後まで彼女のことで頭がいっぱいだった。いてもたってもいられなくなった彼は校舎裏の駐輪場に向かった
「斎藤君!」
「何だ?」
途中、自分を呼ぶ声に振り返ると、そこに立っていたのは紗希だった。
「悪い、有川…今はちょっと急いでんだ!!」
「どこにいくの?」
前を向こうとする彼をなおも呼び止める。
「どこって、それは…」
急に口ごもる武蔵。
「黒崎さんの家、知ってるの?」
「!」
「図星みたいね」
「有川、お前アイツの住所知ってんのか?」
少し項垂れた後、彼は血相を変えて問い詰める。その迫力に思わず紗希は伏し目がちに頭を振った。
「そっか」
「黒崎さん、あなたにも教えてないのね…やっぱり彼女は鈍感よ」
言い終わった時、そこに彼の姿はなかった。
「あなたの考えてることは何でも分かるんだから…だから、黒崎さんとのことも応援したげる。それがあなたの幸せならね」
目に涙を光らせながら、彼の背中にそっと語りかけた。
「早く出ろ! 黒崎」
自転車の鍵を解除しつつ、夏海の返事を待った。
「もしもし」
六コール目でようやく彼女の声が聞こえてきた。
「おぉ、黒崎! 今の具合はどうだ?」
「えっ?」
「先生から聞いたんだよ。熱は下がったのか?」
「そう…でも、もう丈夫! 心配してくれてありがとう」
「ホントか?」
電話の向こうの声は明らかに苦しそうだ。
「強がんなよ…やっぱ俺、今からそっち行くから住所教えてくれ」
「嫌!」
「どうして?」
急に冷たくあしらう彼女に、少しムキになる。
「有川たちにも教えてないみたいだな。何でだ? まだクラスの奴らが信用できねぇのか?」
黙り込む彼女にさらに問うと、
「別にそういうわけじゃないわ! 別に聞かれてもいないのに言う必要なんてないでしょう?」
彼女は声を荒らげ、直後、咳き込んだ。
「…じゃあ、何で聞いてんのに教えてくれねぇんだ?」
「じゃあ、先に私の質問に答えて。どうして、わざわざ家にまで来てくれるの?」
「それは、友達だからに決まってんだろ」
急な問いに思わず声が小さくなる。
「それに俺はお前が…」
「えっ、何? 聞こえない」
聞き返されて、無意識に続けていたことに気づかされた
「と、とにかく教えろって!」
「分かったわよ…でも、絶対に来ないでね!!」
「どうしてだよ?」
自宅へのお見舞いをかたくなに拒否する夏海にふと疑問がわく。
「そ、それは…」
「それは?」
「これ以上、弱味を見せるわけにはいかないじゃない!」
一層荒げた夏海の声が苦しそうだったのは病気のせいだけじゃないのだろう。
「弱味…?」
「そ、そうよ!あたしは…ゴホゴホッ」
体調不良の夏海には声を荒げ続けるのはやはり辛かったらしい。
「ああ、もうわかったから、もう喋るな。家には来ないから」
武蔵は子供をさとす親のように言う。
「ホントウ!? 絶対よ!絶対に来ないでね」
「あぁ」
彼は住所を聞き出して電話を切った。
と同時に武蔵の思考は、夏海の家へと向かっていた。
武蔵は夏海のトラウマを聞いていた。そのせいで人をうまく信じられなくなった事も。
(アイツ、まだこだわってたのか…こだわっているのは俺も同じだな。あ~もう!)
もちろん、トラウマというのはたった数か月でどうこうなるもんじゃない。
そのトラウマを知りながら、アイツからの大事な質問にちゃんと応えてやらなかった自分にも腹が立つ
(こりゃ、ますます行かないとな)
その思考は、武蔵の足を更に急がせた。
住所を教えて、来るなという夏海の注文は最初から無理があったのだ。
「ここ、なのか?」
切らした息を整えながら確認した表札には「黒崎」と書いてある。
「広いなぁ、アイツん家。そういえば、女性の家に上がるのって初めてなんだよな」
玄関前に着いた今になって、様々な考えが頭をよぎる。
(今更緊張してもあれだよな。ええい、ままよ!)
武蔵は覚悟を決めたはずだったがそれでも指は震えていた。
ピンポ~ン。インターホンを押した。もう後戻りは出来ない
「はい?」
若い女性の声が聞こえてきた。
「く、黒崎さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうですが…」
「あの…私、夏海さんと同じクラスの斎藤武蔵と申します」
「あら、夏海にお友達? もうできたのね! ちょっと待って、すぐに鍵開けるから」
「はい」
一歩下がって待っていると、中からTシャツにジーパン姿の女性がにこやかに出迎えてくれた。見た感じ年齢は三十代前半で、おそらくすっぴんだろう。スラっとしている。非常に若々しい美人だ。
「どうぞ、入って!」
靴を脱ぎ、中へ入った武蔵はまず、その広さに驚かされた。左右に部屋が二つあり、奥にはリビングを挟んで大きな庭が見える。
「あなた、なかなかイケメンね。夏海もいい男選ぶじゃない」
「えっ?」
その声にハッと我に返る。
「あ、あの…失礼ですがお名前は?」
「私? 楓よ」
「楓さん、実は今日、夏海さんのお見舞いに伺ったのですが…」
「あぁ、夏海ならそっちの部屋にいるからどうぞ。オバサンは庭のお手入れしてきますから。あとは若い人二人で…ウフフ」
「あ、ありがとうございます」
少し天然な楓に戸惑いながら、武蔵は部屋のドアに手をかける
「あ、でもさっきまで寝てて、汗でベタベタするからって今着替…」
スー。
時既に遅し。言い終わる直前、楓の後ろで扉が開いた。
「ま、いっか。あの子が夏海がいつも話してる『ボーイフレンド』でしょうから」
楓はイタズラした子供のようにペロッと舌を出す。
~一方、夏海の部屋~
扉を挟んで向かい合う二人。振り返った夏海の手が胸の上で止まり、その目が目の前に立ち尽くす人物をはっきりとらえた。
「あっ…いや…お、俺は」
目の前に映る光景に言葉が出ない。視線の先にあったのは淡いピンクのブラジャーに包まれた胸の谷間とその膨らみ、引き締まったボディにくびれた腰のライン、それに加えて同じ色のパンツを履き、彼と同じく停止する夏海の姿だった。
一瞬、 時の流れが止まった。
「キャ~~!!!!!!」
「ボォホッ!!」
奇声と同時に彼の顔を抉ったのは枕だった。あまりの衝撃に体は吹き飛ばされ、壁の一メートル先で完全に伸びきった。薄れゆく意識の中、扉の向こうから夏海がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。その顔は火が出そうなほどに赤く染められていた。
ドンッ!!
扉の閉まる音と同時に彼の意識も遠のいていった。
しばらくして、意識を取り戻した武蔵体をゆっくり起き上がらせようとする。
「イッテテテ…枕をどんな投げ方したら、こんだけ痛むんだ?」
依然として扉は閉められたままだ。
「おい、黒崎! 開けてくれよ!!」
「何で来たのよ!!!」
夏海の怒号が突き刺さる。
「それに下着までジロジロ見て!!」
「ちがっ…ちがわねぇけど、俺もとっさのことでどうしていいか分からなかったんだよ」
「もう帰って!!」
「…分かったよ。勝手に押しかけて来て悪かった。ゆっくり休めよ」
彼は力なく立ち上がると扉の向こうに語りかけた。無論、返事はない。だが、彼はさらに続ける。
「最後に一つだけ言わせてくれ黒崎。お前、俺と一緒に勉強してる時、疑問に思ったことがあったら、すぐに『何で?』って聞いてきたよな。俺も間違えたこと教えられねぇから、自分なりに調べてしっかり答えたつもりだ。でも、さっきの電話とか今、お前に罵倒された質問に答えはなくていいと思う。こういう時は考えてるだけ時間の無駄なんだ。ただ、今あえて答えるとしたら、俺は、はっきりこう言うよ。『お前が心配だから。高校で一番長い時間一緒にいて勝手に親友だと思ってるから』だ! 言いたいことは全部言った…じゃ、明日学校で待ってる」
彼女の返事はない。
数後、夏海が扉を開けると当然、そこに彼の姿はなかった。自分がそうしてくれと突き放したのだから。
壁をじっと見つめる。
「あら、イケメン君は? 帰っちゃったの?」
庭の手入れを終えた楓が手袋を外しながら、こちらへ戻ってきた。
「ママ!」
「ん?」
「私、ムサシに悪いことしちゃった…」
「そう。なら、ちゃんと明日にでも謝りなさい。彼ならきっと分かってくれると思うわ」
母は娘の顔を見て優しく語りかけた。
「でも、ちょっと下着見られたぐらいであれはないわよ…せっかく、心配してお見舞いに来てくれたのに」
「えっ…ママ、見てたの?」
「見てたもなにも、入っていいって言ったの私だもの。その後、気づいて止めようとしたけど…もう遅かったのよ」
ウインクする母に、娘はただ固まっていた。
「別にいいじゃない…少し見られたくらい。だってあなたたち付き合ってるんでしょ?」
屈託のない母の言葉に娘の心はさらに動揺した。
「そ…そそ」
「あら?」
「そんなわけないでしょう~~~!!!!!」
瞬間、家が激しく揺れた。