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コレはワタシのモンダイなの!?  作者: 荒木テル・ダッチャブル
2/7

1 I am Japanese!!~出会い~

 翌朝、夏海が教室に着いたのは朝礼開始の五分前だった。扉を開けるなり、辺りをキョロキョロと見回し、自分の席を探す。クラスメイトの視線が一斉に夏海に向けられる。

「おい! あのコ、可愛くね?」

「へぇ~、お前、ああいうのがタイプか」

「ちげぇよバカ!」

「ねぇ、あの子が外国から来たっていう?」

「マジで!?」

「黒崎さん!」

 生徒たちの話し声をものともせず、ハキハキとした声が夏海にぶつけられた。不意の呼びかけに体をビクつかせる。その視線の先では一人の女性が机を指差してニッコリと微笑んでいた。

「あなたの席は前から二番目のここよ」

 夏海は何も言わず、頭をペコッと下げると顔を赤らめながら、教えられた席まで飛んでいった 。瞬間、教室は笑いに包まれた。

 その後、他に二人がギリギリで登校し、担任の話が始まった

「よし、全員揃ったみたいね。じゃあ、まずは私の自己紹介からね!」

 担任は黒板に名前を書き始めた。漢字を書き終わると、その下に筆記体でローマ字を書き加えて生徒の方へ向き直った。その時、彼女は一瞬だけ夏海を見つめ、ウィンクした。さっきまで固まっていた当人もその意味が分かったらしく、まだぎこちない笑顔を返した。

「私の名前は、國山葵。今日からこの1年三組の担任です。歳は二十八歳で…あっ、アラサ―だ、とか思わないでよ? 気持ちはあなた達と同年代なんだから!」

「あの、先生!」

 若干白けた空気の中、一人の生徒が手を挙げた。

「入学式って何時からですか?」

「え~っと、九時開始よ。そうそう、入学式が終わったら今度はあなた達に自己紹介してもらうわよ」

無言。

教師は気にする様子もなく、さっきの自己紹介の続きも含め、五分ほど喋り続けた。その間、夏海は独り、自己紹介のことで頭がいっぱいだった。

その後、國山の案内で生徒たちは体育館に移動した。扉の手前で職員がにこやかに会釈をする。生徒たちの顔は緊張で強張っていた。

「新入生、入場!」

 司会の号令と同時に扉が開かれ、再び職員が会釈をし、前に進むよう促した。次々と中へ入って行き、夏海も一つ深呼吸をしてからゆっくりと扉を抜けていった。周りではしっとりとした音楽と盛大な拍手が鳴り響いている。夏海は思わず目を丸くした。

 体育館全体に垂れ下がっているあの布は何だろう?

 正面に見えるのは何の旗だろう?

 こんなにも人数が多いの!

 心の中で様々な驚きと疑問が溢れ出る。

「あっ!」

 後ろの肩に押されてバランスを崩す。倒れる寸前でなんとか足を踏み込んで、公衆の面前でこけるという最悪の事態は回避できた。

「早く歩けよ。後ろ詰まってんぞ!」

 後ろの男子が小さく囁いた。言われてから、ようやく状況を把握した夏海は少し早歩きで列のペースに合わせた。皆が着席する同時に拍手が鳴りやみ、まもなく入学式が始まった。

 夏海は号令を聞き逃さぬよう、神経を集中させる。さっき國山が話していた【式での注意事項】を頭の中で何度も繰り返す。ふと、目線を横にずらすと、さっきぶつかった男子と目が合った。彼女は、ぶつかってきたお返しにからかうつもりで少しぶっきらぼうな顔を向けてやった。すると彼は直後に視線を逸らし、正面に向き直った。何よ、と不快に思いつつも、

「起立!」

 号令にしっかり反応するのだった。

 式は順調に進み、『校歌斉唱』は新入生を含む全校生徒の七割が口パクでやりすごした。職員も歌詞に自信がないせいか声が小さく、明らかに校長の視線に怯えている。当然のことながら夏海は歌えず、歌詞の意味も理解できなかった。

 式は一時間ほどで終了した。生徒たちは既にぐったりした様子だ。

「あなた達、体力ないのね~…今日はまだ始まったばかりよ! 休み時間が終わったら、さっそく皆で自己紹介してもらうから」

 國山はそう言い残し、いったん教室を出た。

 そんな中、夏海は一人静かに昨日の母との練習を思い出していた。

「まず、『人に会ったら挨拶から』っていうのは、ずっと教えてきたわよね」

「うん!」

「言ってごらん」

「コンニチハ」

「だいぶ上手くなったじゃない! あとはこのメモをゆっくり読めば問題ないわ」

 

チャイムが鳴り、自己紹介は名前順でスタートした。夏海は七番目だ。後ろの方からトップバッターの男子が頭を掻きながら黒板の前に立った。

「俺の名前は赤羽小次郎。趣味はゴロゴロしながら漫画を読むこと。でも、サッカーしてっから体は訛ってねぇぞ。あとは食うこと大好き! まァ、そんだけ」

 赤羽は再び頭を掻きながら席に戻った。

 二人目は大人しい感じの男子で早口で終了した。自分の順番が迫る中、夏海には前を向いて聞いている余裕はない。

 ついに六番目の女子がおわり、夏海に順番が回ってきた。拍手が鳴りやむと彼女はゆっくりと立ち上がった。一歩進むたびに胸の鼓動が大きくなっていくのが自分でもすぐに解った。周りの音は消えて彼女は今、独り。

あれだけ練習したんだから、大丈夫!

自分自身を奮い立たせる。

昔とは違う!

彼女は自分に言い聞かせながら、黒板の前で止まり正面を向いた。瞬間、クラス全員の視線が夏海に突き刺さる。慌てて下を見ると持っていたメモが既にグシャグシャになっていた。

五秒ほど経ってから再び正面に向き直った。その時の彼女の顔に不安はなった。昨日の母の言葉を思い浮かべながら、呼吸を整える。

「ミナサン、コンニチハ! ワタシノ ナマエハ クロサキ ナツミ デス」

 滑り出しは上々だ。しかし、周囲がざわつき始める。

「やっぱ帰国子女だったんだ!」

「なァ、あいつ日本語下手じゃね? もしかしたら日本人じゃねぇかもな」

「あんまデケェ声で言うなって! 聞こえるぞ」

 薄々気づいていながらも、夏海は続けていた。

「スキナ タベモノハ ヤキニクデ、キライナ モノハ アンコ デス。シュミハ テニスヲスルコト デス」

 言い終わってからメモを確認する。直後、彼女は固まってしまった。

 これなんて読むだっけ?

 彼女はしばらくの間、無言だった。いくら考えても出てこない。

 どうしよう…。

 時間だけが過ぎていく。前を向くとクラスメイトが自分を見つめている。徐々にさっき押し殺したはずの緊張が彼女を襲ってきた。頭は真っ白になり、目の前は何故か黒ずんでいた。彼女は再び独りになった。

「どうしたの? 黒崎さん」

 國山の声にハッと我に返った。

「続けて」

 促されたが言葉が出ない。どれくらい無言でいたか自分では覚えていないが、気付けば手が汗でグッショリだった。

何か言わないと!

「ミナサン、ガンバル!」

 教室は静まりかえり、夏海はポカンと立ち尽くす。

 何で皆、拍手をくれないの?

「あの…黒崎さん、何を頑張るの?」

 夏海は気付いていない。ようやく、気付いた時には笑いが起こっていた。急に恥ずかしくなって体が熱くなっていく。もう耐えらなかった。

「待って黒崎さん!!」

 勢いよく教室を飛び出す夏海。教室は一時騒然となった。國山は自己紹介を中止して、急きょ自習に変更し、夏海を探しに行った。


 夏海はトイレで泣いていた。

 私、何であんなこと言ったんだろう…? 笑われて当然よ!

 彼女は蛇口を捻り、顔に思いっきり水をかぶった。鏡に映る自分が情けなかった。

「あっ、居たわ! 黒崎さん!!」

 振り向くと、國山が息を切らして立っている。

「さぁ、早く教室にもどりましょ? さっきは先生も悪かったわ。悪気はなかったの。皆にもちゃんと説明するから。ね?」

夏海は少しためらいつつも教室に戻った。國山は傍らに立たせ、その肩に優しく触れながら説明を始めた。

「はい、注目! 黒崎さんは長い期間、海外を転々としてて昨日、日本に帰ってきたばかりなの。 だから、皆の言っている言葉は解ってもまだ喋ったり、会話をしたりすることがなかなか難しいの。だから皆、そこんとこ理解してあげてね!」

 國山は夏海に微笑んだ。

「じゃあ、自己紹介の続きやるわよ!」

 夏海は浮かない顔で席に着いた。

 この日、学校は半日で終わった。夏海は帰るなり、机の上にノートを広げて何かつぶやいている。しかも片言の日本で。彼女はあの時の自分が非常に情けなく感じ、自分から皆に溶け込んでいこうと、自己紹介中に震える手で懸命に書いたクラスメイト全員の名前を呪文のように唱えていた。暗記は得意のようだ。

 もう昔の私じゃない!

 唱えながら、彼女は自分の脳裡に浮かんだのはあの頃の記憶だった―


夏海は東京に『日本人』として生まれたが、英語しか喋ることができなかった。その為、幼稚園に入っても園児たちと上手く馴染めずにいた。

 そんなある日、一人の男の子が夏海の手を引いてこう言った。

「夏海ちゃん、一緒に遊ぼう!」

初めて声を掛けられた夏海は嬉しくて仕方がなった。すぐに頷き、その子の後をついていくと、既にお飯事が始まっていた。

「ねぇ、皆、僕たちも入れてよ!」

「いいよ!」

 笑顔で全員が振り返った。男の子は夏海を自分の隣に座るよう促す。

「僕の名前は中山健太。夏海ちゃんは僕の奥さん役でいいかな?」

 ほとんどは頷いたが、直後に大声が聞こえてきた。

「ダメに決まってるでしょう! だいたい配役決めるのは私よ!」

 健太に噛みついてきたのは濱田瑠理香。このひまわり組のリーダ的存在だ。

「夏海ちゃんは健太の会社の同僚役よ。奥さんは私!」

 瑠理香は座ったばかりの夏海を睨みつけた。瞬間的にジェラシーを抱いたようだ。

「そんなに怒らないでよ…瑠理香ちゃん」

 健太を鼻であしらうと、瑠理香は言い放った。

「健太は夏海と私どっちが好きなの?」

 周囲が固まる。健太はしばらく黙っていた。

 修羅場。

健太が左を見やると、夏海のつぶらな瞳が一直線にこちらを見つめていた。状況が飲み込めていない様子で首を傾げている。

「ぼ、僕が本当に好きなのは…」

健太が息を吸った瞬間、

「スト~ップ!」

 瑠理香が叫んだ。その後、健太を指差して大声で笑った。

「あんた、何マジになってんのよ…冗談に決まってんでしょう?」

 瑠理香の言葉に健太は放心状態だった。そんな彼を他所に瑠理香の指揮でお飯事は再開した。どうやら、大声で笑った直後に呟いた彼女の本音は誰にも聞こえていないようだ。手際よく配役が決められ、一人一人に全て平仮名で書かれたセリフの紙が渡させた。

「今渡した紙のとおりにセリフを読んで、楽しく演じましょうね! たまにはアドリブ入れてもいいけど、雰囲気壊さないでね」

「瑠理香ちゃん、もう嫌だよ…こんなやり方。みんなも楽しくなと思うよ」

 説明が終わると、すぐに一人の男の子が反論してきた。その指摘に彼女は一度皆の顔を見渡した。確かに半分以上が不満そうなかおをしている。再び彼女は正面に向き直り、男の子を見た。

「フン、そんなに嫌だったら私と遊ばなくちゃいいじゃない! 私のお飯事はこういうやり方なの!!」

「俺、やっぱ外でサッカーしよっと」

男の子はそう言いながら外へ出ていってしまった。すると、それに続き何人かが輪を抜けていった。

「何よ皆…さ、残った人たちで始めましょう」

 残ったのは五人。彼女の顔はどこなく寂しげだった。瑠理香の厳しい指導が入りながらも、お飯事は中盤。まもなく夏海の出番だ。

「くろさきさん、おつかれ! いまからいっしょにのみいかない?」

「…」

 夏海のセリフが聞こえてこない

「どうしたの? 夏海ちゃん」

 健太の問いにも答えず、しばらく沈黙が続いた。

「ちょっと、夏海ちゃん! 早く次のセリフ言わないと進まないでしょう!」

「これ何て読むの?」

 瑠理香に急かされた彼女はつい英語を喋ってしまった。当然、周囲の目は丸くなる。瑠理香の口は開いたままだ。

「ちょ、ちょっと待って! もしかして、夏海ちゃん日本語喋れないの?」

 問われてようやく自分の過ちに気づいた夏海は慌てて下を向く。しかし、覗き込んでいた瑠理香に小さく頷いた。

「どおりでさっきから全然喋らないと思ったら、そういうことだったのね。いいわ、夏海ちゃんはそっちで私たちの演技を観てて」

 ―この出来事をきっかけに、夏海の噂は園内全体に広がり、一部の男子から毎日のようにからかわれるようになった。その度に健太が庇ってくれたが、当然彼一人の力ではどうにも出来ず、夏海は入園してわずか二ヶ月で通うのをやめた。それからすぐ両親の仕事が異動となり、夏海は健太に手紙を送り、カナダへ向かったのだった。


 翌朝、夏海は登校するなり、隣の男子に話しかけた。

「オハヨウ! ニシヤマクン」

「あぁ、おはよう。え~っと、黒崎でいいんだっけ?」

 西山は不意を突かれたように振り向き、挨拶を返した。すると彼女は満面の笑みを西山に向けた。

「よく覚えてたな俺の名前」

 コクンと頷くと彼女はカバンからノートを取出し、何かを書き始めた。やがて、書き終わると彼女はそれを西山に見せた。『クラスの人の名前、半分くらいは覚えたよ』。ノートにはそう書かれていた。

「マジか? 黒崎って記憶力いいんだな! 俺なんてまだ全然だ」

『そうなんだ』

その後も、彼女はしばらく西山と談笑を楽しんだ―そう、彼女は昨日の失敗に加え、今までの自分を自ら変えようとしているのだ。昼休みにはクラスメイトと一緒にスポーツを楽しみ、放課後には自分から女子を誘い、一緒に帰った。時折、自分を見る周りの目が気にはなったが、彼女はいつも明るく振舞っていた。

 それから一週間後、夏海は日直の仕事を終えて下駄箱に向かっていた。

「おい、黒崎! 今から帰るのかよ」

 振り返ると、体育会系の男子三人がこちらに向かって歩いてくる。すると、中央にいた男子がいきなり彼女の顎を掴み、顔を近づけてきた。彼女は驚いてすぐ手をはらい、一歩下がった。

「ハカマダセンパイ…」

「おぉ、悪ィな…つい手が。しっかしお前、近くで見るとメッチャ可愛いじゃねぇかよ」

 袴田は褒めたつもりだが、彼女の反応を見る限り明らかに逆効果だ。

「袴田先輩、今のはあんまりッスよ…ただの変態行為&問題発言じゃないッスか」

「うるせぇな! 俺の体が勝手に…」

「あー、お前らは少し黙ってろ! 黒崎がビビってん…」

一喝を入れた赤羽だったが、途中で彼女と目が合い、顔を背ける。そんな彼を

見て、怒られた二人は顔を見合せて静かに笑った。

「実はねぇ、夏海ちゃん…コイツ、君ことがす…」

 瞬間、兵藤にヘッドロックが炸裂する。

「イッテ~! 悪かった、悪かったよ…ギブ、ギブ~~!!」

「やめてやれよ赤羽! コイツが体弱いの昔から知ってるだろ」

 ゴングは即鳴らされ、赤羽の勝利。兵藤が立ち上がった時には夏海の姿はなかった。

「夏海ちゃん行っちゃった…」

「何が『行っちゃった…』だ! 誰が『あの子を怖がらせろ』と言った!?」

「だって、袴田先輩がよ…」

「何言ってんだ兵藤! 元はと言えば赤羽の奴が勝手にあの子を…てか、前から思ってたがよ赤羽、何でお前は俺のことさん付けし…」

「だァ~、どいつもこいつも…こっちは言い訳聞いてるわけじゃねぇんだよ! お前らのせいで俺、あの子と全ッ然」喋れなかったじゃねぇかよ…どうしてくれんだ!!!」

 彼の説教が終わる頃には日が暮れ、帰り道の街灯は明かり一つ点いていなかった。

 翌日の昼休みも彼らは夏海を訪ねた。

「ねぇ、夏海ちゃんってさ~、まだ日本語少ししか喋れないだよね?」

 彼女は頷いた。

「じゃあ、今から黒板に俺が書く字を声に出して読んでみてくれる?」

 了承した彼女だったが、その表情はどこか不安げだ。

「まずはこれ!」

「オハヨウ」

「じゃあ、これは?」

「オヒサシブリ」

「はい、これは?」

首を振る夏海。

「分からないか…次これ」

 答えらない。

「これもダメか」

「プッ!」

 兵藤が次の問題を書こうとした瞬間、袴田が吹きだした。夏海は彼の方をチラリと見たが、赤羽の軽い膝蹴りで事態はすぐに収まった。

 結局、答えられたのは十問中三問。

「夏海ちゃん、ありがとう。ちょっと難しかったみたいだね」

にこやか語りかけてきた兵藤に、彼女は申し訳なさそうに小さく頷いた。その時―重低音の笑い声が教室中を震わせた。

「あ~、笑わせんなよ。腹痛ぇ! アハハハ…お前さ、あんなんも読めねぇのかよ!」

 袴田は笑い続ける。

「ちょっと、あの人うるさくなァい?」

「夏海ちゃん、可哀そう…」

「アイツ、何笑ってんだ?」

 その間、彼女の反応はなく、俯いていたまま。袴田の笑い声はただただ周囲を不快にさせた。彼はまだ気づいていない―

「お前、顔は日本人のくせに全然日本語喋れねぇんだな! アハハハハ!」

「お前な! ちょっと言いすぎ…」

 赤羽が止めに入った時にはもう遅かった。彼女は勢いよく机から立ち上がると、教室から逃げるように、一目散に走り去っていった。我慢はもう限界だったのだ―

「待て、黒崎!」

 当然、赤羽の声は届くはずもなく、ただ教室に響くだけ。赤羽の頭の中で彼女が立ち上がった瞬間の映像がフラッシュバックし、何度も繰り返される。立ち上がった際に一瞬だけ見せた誰も寄せ付けぬような何とも言えない威圧感をもった鋭い目…そして、その瞳に溢れんばかりに大粒の涙を光らせていた。あの瞬間、彼が彼女から受け取れたのはこれだけ。袴田の暴言に耐えきれずにこの教室を飛び出していった彼女の胸の苦しみは、彼には計り知れなかった。そして、それが何より悔しくてならなかった。

「袴田…お前!!」

「何だ赤羽。そんな怖い顔してぇ~。俺はただ外国から来たアイツに『外国式』の挨拶をしただけだぜ?」

 袴田は半笑いで続けた。

 パンッ!!!!

 拳の乾いた音が教室中に鳴り響いた。


 五校時目が終わり、夏海の姿は保健室にあった。

「ほら、黒崎さん! もうすぐ次のチャイム鳴るわよ」

 返事はない。

「あなたが寝たから中には入れなかったんだけどねぇ、さっき、赤羽君が袴田君をここに謝らせに来たのよ」

「本当に?」

「リアリー、リアリー! 本当よ。だから、もう袴田君のこと許してあげたら? 彼、赤羽君のおかげで結構、反省してたわよ」

 夏海はカーテンの奥でまた黙りこんだ。

「失礼します。光成先生、黒崎はいますか?」

「あら、武蔵君。今日は男子のよく来ること。黒崎さんなら今、ベッドで休んでるわよ」

 聞き終わると、武蔵は直ぐに中へ入り、彼女の寝ているベッドのカーテンを開けた。

「ちょっと! 武蔵君、女子が寝てるのに勝手に!」

 シャーっと勢いよく開かれたカーテンは風を受けてひらりと揺れる。その間から、音に驚いて飛び起きた夏海が顔を覗かせる。瞬間、二人の目があった。

「黒崎夏海、お前に話しがある! ちょっとついて来い!」

 キッパリ言い放った彼は夏海に答える間を与えず、次の瞬間にはその手を引いて保健室を出ていった。

「あの二人、あんなに仲良かったのね」

 突然の出来事に動揺を隠せない彼女だったが、強く握られた彼の手から感じられる温もりが彼女にはなんだか新鮮だった。それと同時に胸の鼓動が激しくなるのを感じたが、自己紹介の時のそれとは明らかに違う気がした。

「よし、この辺でいいや」

 彼はそう言って辺りを見回してから夏海を見つめた。

「驚かせて悪かった」

 恥ずかしそうに顔を上げる夏海。その直後の彼女の反応を見て、武蔵は安堵の表情を浮かべた。

「よかった! 俺の事、覚えててくれたみたいだな。俺の名前は斎藤武蔵。入学式ん時、目合ったよな?」

 彼女は思い出したようで、すぐに不満そうな顔を見せた。

「あぁ、あん時は急に目が合ったんで驚いて背けっちまっただけさ…悪かったよ。んでよ、お前に頼みがあるんだ。俺がお前に日本語を教えてやる。だからその代わりにお前は俺に英語とかあっちでの生活のこと教えてくれよ!」

 夏海の表情は一変した。

「何よ! どうせ、あなたもあの人たちと同じでしょう? そうやって私に近づいて人をからかうだけからかって、楽しむんでしょう? もう分かってるんだから私! 何回同じ思いすればいいのよ!」

 激しく罵られた彼は夏海の肩を廊下の壁に押さえつけ、彼女の目を一点に見つめた。

「俺、英語分からねぇからほとんど聞き取れなかったけどよ、言いたいことは全部言えたか? でも、怒んなよいきなり…びっくりしたぜ」

 夏海は見つめらせていることに気づき、ようやく我に返った。

「もし、お前が俺の事をさっきの袴田先輩と同じような奴だって思ってんならそれはそれでいい。でも、これだけは言っておく! 俺はお前に英語を習いたい。そしたら、さっきお前が言ってたことだって後から理解できるかもしれねぇし」

 彼はそう言って笑った。

「ヤバイ、あと二分だ! 早く教室戻ろうぜ黒崎!」

 促されたが、夏海は彼と逆の方へ静かに歩いていく

「おい、黒崎…そっちは下駄箱だって!」

 武蔵は、しばらく彼女の背中を見送ってから教室へ走った。


 その夜、夏海に一本の電話がかかってきた。それは中学校からの親友・エミリーからのものだった。帰ってからずっと布団に包まっていた夏海も、スマホの表示名を確認したとたんあわてて応答する。

「久しぶりね、夏海! そっちの生活はどう?」

「うん、まあまあかな…」

「どうしたの? アンタ、元気ないわね」

「ハハ、やっぱり分かっちゃうのね。聞いてくれる?」

 見抜かれた夏海は彼女に、学校での失敗、ハカマダというイヤな人、そしてムサシという男子との出来事、その全てを順番に打ち明けた。

「そう…大変だったのね」

「うん…」

「その『ハカマダ』って人はそういう人っぽいからまぁ、良いとして。気になったのはムサシという男子ね」

「え?ムサシがどうして?」

エミリーの言っている事が分からず、キョトンとしている夏海に言葉を続ける。

「そのムサシはアナタに頼みがある、って言ってきたのよね?」

「う、うん」

「アナタはそれを深く聞かず逃げ出した、と」

「だってそれは・・・!」

夏海は次の言葉を言おうとした瞬間、あの時の事を思い出す。

「俺がお前に日本語を教えてやる。だからその代わりにお前は俺に英語とかあっちでの生活のこと教えてくれよ!」

そう言った時のムサシの眼は、自分を一点に見つめてくるあの眼は真剣だった。

「彼はその、頼み方はちょっと高圧的だったけど、すごい真剣だったと思う」

「ふ~ん。なら一回その彼を信じてみてもいいんじゃない?」

今の夏海にとって、『信じる』という言葉は難しいものであったが、この瞬間夏海はちょっとした決意をもって答えた

「・・・うん」

「私はその彼がアンタを変えてくれる気がするわ」

「どうして?」

「なんとなくよ。それにアンタもその子は真剣に言ってると思う、ってさっき自分で言ったじゃない。『真剣な眼差しを持つ者は何かを変える力がある』ってパパも言ってたし」

「分かった!」

夏海の眼に希望の灯がともりだした。


 翌日、登校した夏海は迷っていた。

(昨日、エミリーにはああ言ったけど、どう切り出したらいいのかなぁ。やっぱり「ごめんなさい」かな?う~ん)

「く、黒崎、ちょっといいか?」

思考がぐるぐる回る中、自分を呼ぶ声がしたので前を向く。そこには武蔵の姿があった。

「ム、ムサシ!!」

机に突っ伏していた夏海は動揺のあまりその場で立ち上がった。

「おわぁっ、わ、悪い。寝てたの起こしたか?まさかそんなに驚くとは」

そりゃあ驚く。自分の思考の中心にいる人物がいきなり目の前に現れたなら誰だって。

『あ、あぁ。いいのよ。でも、何の用?』

夏海はぎこちなく返事をした。しかしその時、夏海は気付かなかった。武蔵もぎこちなかった、という事に

「あ、あぁ。それは良かった。用は、えーと、そのなんて言うか、昨日はゴメン!!」

「え?」

自分が言うべきセリフを先に言われて夏海は呆然とする

「昨日、あれから考えたんだけどさ。いきなりあんな頼み方したら誰だってイヤになるよな、ゴメン」

武蔵は一気に謝り、そして次の言葉を言うために大きく息を吸う。

「でも昨日言ったことは本当だから、考えといてくれよな、って、え?」

武蔵の言葉が終わるとほぼ同時に、夏海が武蔵の腕をつかんでいた。

『私の方こそ昨日はゴメン!勝手に逃げたりして。それで昨日の頼みなんだけどOKしたげる』

英語が苦手だという武蔵にも夏海が謝っている様子とOKという言葉は分かる。

「ん? OKということは・・・それじゃあ!」

『私に日本語を教えて! 私もあなたにいろいろ教えてあげる。だからムサシ、あなたが私の日本で一番最初のボーイフレンドよ! よろしく!!』

「もちろんだ! よろしく!!」

 こうして、二人の「個人授業」が始まろうとしていた。


~その夜、夏海の家~

「ママ、ただいま~」

「おかえりなさい、あら?えらくご機嫌ねぇ。何かいいことでもあったの?」

「え?そう?わかる?」

「当然よ。私はママだからね」

昨日はあれだけ落ち込んでいた顔が突然に明るくなったのだからそれはもう当然だった。

「で、何があったの?」

「実はね・・・」

今日の武蔵とのやり取りを嬉しそうに話す夏海。

(この子、随分嬉しかったんでしょうね)

その姿を優しく見つめる楓。

思えば日本に来る事が決まってから、娘の笑顔はあまり見ていなかった。

(この分なら大丈夫なのかしら?)

「ちょっと、ママ!? 聞いてるの?それでね・・・」

夏海は話し続けた。これからの学園生活が楽しくなると信じて・・・。

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