ヤンデレ幼馴染と結束バンド
ヤンデレ大好きですよね?
……視界が霞む。光をより受け入れようと目を見開こうとするが、そんな気力すら湧かず断念してしまう。
視界が不明瞭ということは自然と他の五感に意識が集中するわけで、特に感じるのは嗅覚。
清潔感の溢れるフローラルな香り。その匂いが漂うのは明らかに異常だった。
身体もあまり力は入らないが、気力を振り絞って手足を力任せに振り回す。
「――づぁぁっ!」
焼けつくような痛みが手足首に走った。痛い。脳が沸騰しているかのようだ。神経ごと削られているような感覚に、堪らず声を張り上げながら秋人は血生臭い息を吐いた。
――これで、何度目だろうか。
何度脱出を試みて、そしてそれは苦痛と絶望を与えながら秋人の前に立ちはだかる。
もう秋人の身体と精神は疲労し、摩耗していた。嗄れ果てた喉はきっと腫れ上がっているのだろう、呼吸をする度に痛みが走り、血の味が広がっていた。
秋人は痛みで浮かんだ涙で更に霞んだ目を開け、自分の手足を見る。
――結束バンドだ。
結束バンドが秋人の手足首をキツく縛り、肉の大部分が削がれている。
抉られた傷口から流血し、肉は赤を既に通り越して赤黒く変色していた。
「――――ねぇ、アキくんっ」
「――――」
……声が、した。
絶望の始まりを告げる、声がした。
「は、るか……」
動かすことすら億劫な顔を上げ、目の前に立つ声の主に目を向ける。
暗い部屋。重苦しい空気が漂うこの部屋にも関わらず、彼女の存在はそれを些細なことの様に打ち消してしまう。
美しい少女。愛らしい少女。幼馴染の少女。
――そして、自分をこんな目に合わせている少女。
「アキくん、大人しく待っていたんだねぇ! 待っててね、ご飯持ってきたから!」
彼女――春歌は秋人の様子に意に介さず、持ってきていたお粥を手に持ち、秋人を縛っている椅子の肘掛けに腰を下ろした。
秋人は春歌に対して顔に恐怖を滲ませているのに、春歌は満面の笑みを暖に向けている。
それは、あまりにも異常な光景であった。
「アキくん」
「――――ぅぐっ!」
口に生温かい物が突っ込まれる。仄かな鰹の薫りや甘味から、これがお粥だということが理解できた。
美味い。そうだ。自分の幼馴染は料理上手で、いつも彼女の料理にお世話になっていたのだ。
それが、どうして……。
「――――愛してるよ」
秋人は春歌にお粥を口に突っ込まれながら、思い出していた。
なんでこんなことになったのか。どうして自分は涙を流しているのか。
――その原因を考えながら、現実から逃避して。
◇ ◇ ◇
――冬山秋人の人生は順風満帆だ。
そこそこ裕福な家庭。通っている高校は地元でも有名な進学校。そして、その容姿と性格は誰にでも好かれる逸材だ。
高校二年生にして生徒会長を補佐する副会長に就任し、日に日に人望を積み重ねている優等生でもある。
だから、秋人は十分幸せな人生を歩んでいる。彼の生活は明るく色付いているのだ。
――ただ、一点を除き。
「――アキくん!」
「おわっ!? なんだ……って、春歌か……」
秋人が歩いていると、いきなり腰に衝撃が走った。襲撃者の顔を拝もうと後ろを振り向くが、その姿が予想していた人間だった為、さほど驚かない。
襲撃者を腰に着けながら、秋人は歩きを再開させた。
だが、襲撃者は秋人に無下にされたにも関わらず、彼の腰に顔を擦り付ける。
「そうだよ! アキくん最愛の春歌だよー! 今日も私とランデブーしようよー!」
「やかましいわ」
歩みを止め、秋人は幼馴染の頭に拳骨をぶつける。拳にも痛みが伝わる程に力を入れた為、当然春歌は秋人から手を離し、頭を押さえ付けながら悶絶していた。
「これが愛情なら……私は今までの価値観を見直さないといけないかも……」
「大丈夫だ。見直さなくていい。愛情なんて一切向けてないしな」
そう言いつつ、秋人は悶えている春歌の頭を撫でながら立ち上がらせる。自分でやっておいてなんだが、秋人は春歌の仕打ちに対して罪悪感を持っていた。
そんな秋人の優しさを春歌が見逃すはずもなく、
「……やっぱりアキくんは優しいね。私、アキくんの事大好きだよ」
「はいはい。そういう言葉は将来付き合った奴に言ってやれよ。こんな所で俺に言ったら、周りの奴等からの嫉妬の視線で殺されそうだから」
実際に周りを見ると、二人に向けて視線が集まっているのが判る。
昼休みの廊下だ。当然外に出ている生徒の数も多いわけで、人望のある秋人でも春歌との関係に嫉妬されるのは仕方がないことなのだ。
――夏川春歌。秋人の幼馴染である。
容姿端麗、頭脳明晰。スポーツ万能というまさに完璧少女。
秋人の通っている学校のアイドルとも言われ、ファンクラブもあるようだ。少し天然が入った優しい性格は、彼女の人気を更に上昇させる一因にもなっている。
そんな少女が男に対して好意を口に出しているのだ。周りの人間は相手が秋人であっても羨み、嫉妬してしまう。
その事から、秋人は深く溜め息を吐く。
昔から好意を向けられているが、それは幼馴染としての感情だ。勘違いされて生徒を敵に回すのも嫌だし、秋人は幼馴染のそんな軽口とも言える言動に不満を持っていた。
「ううん! 私は本当に、アキくんが――」
「――冬山君、少し良いかな?」
「ん? なんですか、月島先輩」
春歌の言葉を遮るように被せてきた声。
彼女は現生徒会会長であり、春歌に負けず劣らずの美貌を兼ね備えた月島海実だ。
春歌が可愛い系なら、海実は美人系だろう。違うベクトルながら、人気はどちらも負けてはいない。
そんな彼女まで現れたのだから、更に周りのざわめきが大きくなる。
「…………チッ、月島、海実……!」
憎悪の篭もった声は、周りのざわめきによって誰かに聞かれることはなかった。
「あのだな……あの、冬山君。今から少し話せないか?」
「今から? まぁ、別に大丈夫ですけど……」
「そうか! なら「駄目!」」
今度は海実の言葉に被せる声。それは、大きく張り上げた春歌の声だった。
秋人はいつものだだっ子のような症状だと軽く考えていたが、海実や周りの生徒は角度から春歌の顔を見ることが出来た為、全員が一瞬自分の目を疑った。
あの春歌が。心優しくマスコットのような少女の浮かべている顔が、憎悪で顔を塗り潰した可愛さの欠片もない表情だったのだから。
「駄目よ! アキくんは私の……ううん、渡さない! 誰にも、渡さない!」
顔を真っ赤に染めた春歌。俯いているから見下ろしている秋人は顔を真っ赤に染めていることしか判らない。
だからその表情が怒りではなく悲しみに彩られていると思い違いをしてしまった。
「心配すんなって。俺の幼馴染はお前だけだから。それに俺はお前のものじゃないっつーの」
「違う……! 違うのアキくん、そうじゃない……!」
「判った判った。話ならあとで聞いてやるから。それじゃ、行きましょうか月島先輩」
「え、えぇ……」
海実は戸惑いながら春歌の方を見るが、秋人に手を引っ張られたことで顔を赤くし、その場を二人で去った。
それを見ていた春歌は、
「……アキくん、裏切らないよね? 一緒にいてくれるよね? 約束したもんね? 信じて信じてシンジテ信じてしんじて信じて大好きで愛してるんだよ――アキくん」
そんな春歌の呟きは、虚空に沈んだ。
◇ ◇ ◇
「――冬山君! 好きだ! 私と付き合ってくれ!」
ここは校舎裏。人気もなく、周りに植えられている木々のざわめきしか聞こえない。
秋人はここに来て開口一番、頭を下げて右手を出す尊敬する先輩の姿を見て、困惑していた。
(あの月島先輩が俺に? いや、聞き間違いじゃないよな。あの学校のマドンナが、俺に告白しているのか……)
いつも凛々しく、秋人や他の役員、学校生徒を導いてきた彼女は、秋人にとって遠い世界の存在であった。
秋人の模範としている人物は月島海実だ。彼女を見ていたから自分は未熟ながら生徒を率いてこれたと言っても過言ではない。
そんな先輩が自分の事が好きだという現実に、秋人は信じられなかった。
「な、なんで……?」
「人を好きになる事に理由なんて不要だろう。ただ、私は君を好きになった。生徒会作業の時、君の向けてくる笑顔に、優しさに、私は何度も胸が痛くなった。そして、それが恋だということに気付くにはそう時間も掛からない」
誠実な輝きを目に宿し、海実は秋人を見据える。そこには虚言というものは全くない。真摯だけがそこにあって、
「だから、改めて言おう」
「――――」
「私と、付き合ってくれ!」
再び差し出された右手。それを見ながら秋人は考える。
確かに彼女は尊敬できる先輩である。美しい容姿と誠実な性格を、秋人は憧れと共に好ましく思っていた。
彼女と交際すれば、少なくとも後悔することはないだろう。喧嘩はしてしまうだろうが、彼女自身に関しては非の打ち所がない。
――だが、
「――すみません。俺、月島先輩の気持ちを受け止めることが出来ません」
秋人が選んだのは、その未来への拒絶であった。
「な、何故だ? 何故私では駄目なんだ……?」
海実も心の底では振られる筈がないと思っていた部分もあった。それはただの思い上がり。それは判っている。
それ故に、自分が振られた理由が知りたかった。
「……月島先輩の気持ちは嬉しいです。俺では釣り合わないくらい……でも」
告白されたとき、秋人の脳裏に過ったのは鬱陶しく感じつつも大切な幼馴染の姿だ。この気持ちがなんなのか、秋人自身も判ってはいない。
だけど、春歌の悲しそうな顔が過ったのだ。なら、答えは一つしかない。
「――大切な奴がいるんです。そいつへの感情にケジメをつけない限り、俺は誰とも付き合うつもりはありません」
「――――」
微笑を浮かべた秋人の言葉を聞き、海実はゆっくりと差し出した右手を下ろす。秋人の言葉は本気のものだ。きっと海実が何を言っても変わることはないし、想いが成就することもない。
少なくとも、彼のその想いに決着がつくまでは。
「……そう、わかったわ」
その声は、秋人でも気付くほどに震えていた。
「……最後に、一つだけ言わせて」
「月島……先輩」
「貴方の気持ちに正直になってほしい。……振られた私の為にもね」
そう言って、海実はその場を去った。
残された秋人は尊敬する先輩を振った罪悪感に苛まれていたが、それよりも彼女の言葉が凝りのように残っていた。
『貴方の気持ちに正直になってほしい』
その言葉がどういう意味なのか、秋人は昼休みが終わっても理解することは出来なかった。彼女の考えや思いがよく判らずに。
そして、彼もその場を去り、また木々のざわめきだけが校舎裏を支配する。
だが、それも一瞬の事だけで、
「――なんで?」
鈴のような声音。だが、その声に込められている感情は憤怒と嫉妬、そして狂気。
「ねぇ、なんでなんでなの。なんでアキくんはあの女に手を差し出されてたの。なんでアキくんは笑ってたの。なんでなんでナンデなんでナンデなんでねぇなんで!?」
怒号が木々や風の音を打ち消し、言葉は平坦なものから起伏の激しい声に変わっていく。
粗い息遣い。先程の幼馴染の密談を覗いていた彼女は、徐々に冷静さを失っていき、
「――アキくんが悪いんだからね」
これは始まりの言葉。
「アキくんは私のものなんだから。誰にも会わせないし渡さないし触らせない。――だから」
そう呟いた彼女は、歪んだ笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
その後は何事もなく、秋人は帰路に着いた。
この日は生徒会の仕事もない為、海実と会わなくても良かったのは好都合だ。
告白を拒み、それから半日も経っていないのに顔を合わせるのはどうにも気まずい。きっと、向こうもそう思っている事だろう。
そう思いながら、「そういえば……」と秋人はとあることに気付いた。
(今日は珍しく、春歌が迎えに来なかったな……)
いつもなら放課後、授業が終わった後に一緒に下校しようと教室まで突撃してくる幼馴染の様子に違和感を得ていた。
それだけではない。廊下ですれ違っても、ぶつぶつと呟いていて、秋人に気付いた様子はなかった。
「まぁ、いいか。月島先輩のことは……悩んでても仕方ないか」
開き直るわけではないが、考えても仕方がないと秋人は溜め息を吐き、冬山家の玄関前で鞄から自宅の鍵を取り出した。
昨日から両親は有休を取り、毎年恒例の一週間の海外旅行に行っている。今日を含め、少しの間一人暮らしだ。母親が家にいないため、わざわざ鍵を開けるのは億劫に感じる。
自宅の鍵を鍵穴に差して回そうとしたが、違和感に気付く。
「…………あれ? 鍵が空いてる……まさか、空き巣か!?」
この世の中、空き巣は少なくない。昨日視聴したニュースで『空き巣の手口!』という見出しがあったことを秋人は思い出した。
勢いよく玄関の扉を開き、中に入ろうとする。今は両親がいないため、自分の他には誰も居ないはずだ。
そう思っていたのだが、
「あっ、アキくんっ! おかえりなさい!」
直ぐに聞こえてきた声。それに秋人の焦燥感は霧散した。
「は、春歌? なんで俺の家に入っているんだよ? いつもみたいに連絡も寄越さないで……」
侵入者の正体は幼馴染の春歌だった。その事で秋人の心配は無くなったが、いつもの春歌の行動ではないことに疑問を抱いた。
確かに春歌には幼馴染という長い付き合いでお互いの自宅の合鍵を持っているが、どちらか一方の家に上がる際は相手に事前に連絡をすることが決まりだった。
その時、春歌は今まで一回も連絡を欠かしたことはない。
「春歌……お前、どうかしたのか?」
「ん~? 何が~?」
「……いや、なんでもない」
しかし、今回の春歌は欠かさなかった連絡を忘れていた。その事といい、学校での様子といい、秋人は春歌の事を心配してしまうのも当然である。
「あっ、もう夕飯作ったけど、アキくん食べる?」
「あぁ、作ってくれたのか。そうだな、少し早いけど貰うよ」
春歌の作った料理は秋人も認めるほど美味だ。この歳になっても上がり込んでくる幼馴染を拒まないのは、彼女の料理を期待していることも理由の一つである。
そう考えると先程まで燻っていた心配は消え去り、これからの料理の味に期待した。
久し振りに春歌の料理を食べれるとあって、部屋に行く足取りも軽く簡単な私服に着替えてリビングへと戻る。
部屋に入ると食欲を刺激する香りが漂っていた。それだけで身体が料理を求め、胃が締め付けられるような痛みを感じる。
「おおっ! 美味そうだな!」
「でしょう? 今日はアキくんの好物ばかりを作ってみたの」
「それじゃ、いただきます!」
テーブルの上にはハンバーグを始め、魚の煮付けやポテトサラダ、ミネストローネのようなスープ類も並べてある。
どれも、秋人の好物だ。
「あぁ……やっぱり美味いな。特にハンバーグとミネストローネは最高だな」
ハンバーグは肉と玉ねぎの絶妙なバランス。噛めばホロホロと肉が崩れ、甘い肉汁が流れ出てくる。
ミネストローネもトマトの甘みや酸味が程よく、大豆などのたっぷりと入った具材の旨みが舌を包み込んでくれる。
しばらく秋人は料理を貪っていたが、それを見ていた春歌が切り出した言葉を聞いて、秋人の手は止まった。
「ところで、アキくん」
「ん? なんだよ?」
「昼休み、 校舎裏で月島先輩と何を話したの? 」
「…………えっ?」
その言葉を頭の中で処理するには時間が掛かった。数秒間停止しつつ、言葉を噛み砕いてようやく理解する。
「な、なんで……だよ?」
何故だ。
言葉を処理して最初に浮かんだのは純粋な疑問だった。
あの場は人気のない校舎裏。確かに秋人と海実しか居なかった筈だ。学校で話していた時は誰にもバショヲ知られていない。……しかし、他に考えられるとしたら――
「――見て……いたのか?」
「ピンポーン! 大正解。アキくんの浮気現場はこの目でしかと目撃させてもらいました!」
「浮気って……別に俺は――っ!?」
秋人は春歌に顔を向けて目を見開いた。見開き、持っていた箸を思わず溢れ落とした。
瞳が。瞳が笑っていない。
いや、瞳だけではない。表情も、雰囲気も、彼女の太陽な笑顔はその姿を見せなかった。
いつもとは違うことは判っていた。だけど、こんなにも冷たい目をされるのはあまりにも想定外で、予想外で、身体が無意識に震え出す。
「どうしたのかな? アキくん?」
「い、いや。でも、浮気とかお前には関係ないだろう。俺とお前は付き合っていないんだし。それにそもそも――」
「――関係ないわけないッ!!」
怒号が、家に響き渡る。
春歌は声と共に立ち上がり机を強く叩いた。そのせいで、机の端に置いてあった料理は地面に落下し、生ゴミへと姿を変えた。
いったい、何がどうなっているのか秋人には処理が追い付かない。
「関係ない……? そんなわけないでしょ。いつもそうやってアキくんは私をはぐらかして……。本当は私の気持ちを判っていてやってるんでしょ嫉妬してほしくてやってるんでしょ私が好きだからやってるそうでしょ? ねぇ!?」
「は、る……か……」
「私はこんなにもアキくんが好きなのに見てくれない! 好きだからアキくんの為に料理も上達したのに……! なのにアキくんは私を置いてあんな女のところに行っちゃうんだね! アキくんは! 私を! 裏切った!」
途切れることのない怒号と狂気と狂愛。
春歌の度を過ぎた愛に秋人は嬉しさよりも恐怖の方が勝っていた。大切だった幼馴染からの告白だ。嬉しくないわけがない。
もし普通に告白されていたら、きっと一日熟考することだろう。考え、悩んで、彼女が求めている答えではないかもしれないけど、それでも自分の気持ちをしっかりと伝えていた筈だ。
でも、それは幻想に過ぎない。
「アキくんが私を好きにならないなら……アキくんが私を愛してくれないのなら……もう、アキくんの意思なんて関係ない」
「おい、なにを言って……。春歌……! 俺は……ぁ……!」
ふいに、瞼が落ちてきた。強烈な睡魔。身体がダルく、立ち上がった秋人は立ち眩みのような感覚に襲われ、思わず地面に膝を着いた。
そんなに疲れていたのだろうか。秋人は今日の自分の生活を思い出すが、別にそんな兆候なんてなかった。昨日も一昨日も、しっかりと睡眠は取っている。
つまり、この眠気は予期せず起こったということ。そして、秋人が目の前で倒れたにも関わらず歪んだ笑みを浮かべている春歌。
――答えは……一つしか、なかった。
「は、るか……お、っまえ……まさか……」
「そうだよ。料理に強力な睡眠薬を仕込んだの。アキくん、私の料理を美味しそうにたくさん食べるから効果も早かったみたいだね!」
先程までとは一転、頬を赤く染めながら春歌は秋人ではない何かを見つめている。
春歌の感情はよく判らない。手に入らないから、人の感情すら無視して手に入れようとする。それは『愛』ではない。
――春歌は、秋人自身を見ていないのだ。
「……は……ぅ……か……――」
声を洩らし、堪えきれず秋人は睡魔に倒れた。
「ぅ……フフフ……ァハハハハハハッ!」
寝息を立て始めた秋人を見下ろしながら、春歌は狂ったような笑いを上げる。
きっとその姿を見た人間がいたら、全員が口を揃えてこう言うだろう――
「これでずっと一緒にいられるね。愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してるから、私を――愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛してね、アキくん」
――『狂人』と。
◇ ◇ ◇
「――……ん、ここ、は……?」
秋人が虚脱感を感じながら目を開くと、そこは自宅ではなく見覚えのない暗い空間。周りには粗末にダンボールが置かれ、中央にただ一つだけある椅子に秋人は座っているようだ。
人の声も聞こえず、空虚な世界が秋人を包んでいた。
「ぅっ……なんだ……これ?」
秋人が立ち上がろうとすると、手足首が引っ張られるような感覚。
見てみると手首には結束バンド。椅子の肘掛けと連結するように拘束されている。
しかも隙間が少なく、少しでも腕を動かそうとすると結束バンドに肉が食い込んで痛みが生じる。
足にはそこらの販売店で買えるような手錠が嵌められていて、これも椅子と連結していた。手錠よりかは窮屈さは感じられないが、それでもしっかりと動くことは出来なさそうだ。
「いったい……何がどうなって――」
「――あ、気がついたんだね!」
無邪気な声。もう十年以上も聞き慣れ、親しみすら覚えるソプラノ声に誰が来たのか判ってしまった。
目に映る可憐な少女は秋人に満面の笑みを向ける。
「春歌……!」
「もう、しばらく起きないからどうしたのかと心配しちゃったよ!」
白々しい。秋人は自分がこうなった理由を思い出し、沸々と怒りが湧いてくるのが判った。
「おい、春歌。ここは何処だ? いや、先ずはこれを外せ! 言いたいことは山ほどあるが先ずはそれからだ!」
「嫌だよ」
「なんでだよ……!?」
確かにこの拘束は春歌によって行われたものだろうとは予測はできる。どんな理由で秋人を拘束しているのか、強制されているんじゃないか、理由が知りたかった。
拘束を解いてはくれないというのなら、話を聞くしかないのだろう。
「これを外したら、またアキくんはあの女狐の所へ行ってしまう……私を置いて、あの女に笑顔を向けてしまう……そんなのは耐えられない!」
女というのは月島海実のことだろう。問いただされた時も考えてはいたが、どうやら春歌は秋人と海実が付き合っているのだと勘違いしているのだ。
それが、今回の誤解を生んだ。
「ち、違う! 誤解だ! 俺は月島先輩とはッ――」
「――あの女の名前は出さないでよッ!」
怒りに任せて、春歌は近くにあったダンボールを蹴り飛ばした。ダンボールが崩れる音と、涙を流しながら顔に憎悪を浮かべる春歌に、秋人の言葉は遮られた。
荒い息を吐き、憎悪に顔を歪ませる春歌に、秋人は遅まきになって気付く。
彼女が、春歌がこうなってしまったのは自分にも責任があるのだ。少なくとも秋人が彼女の気持ちに気付いていれば、彼女の好意の対応が出来ていれば、こんなことにはなっていなかったのだ。
それを気付いても、もう遅い。
「は、春歌……」
「………………あはっ」
恐る恐るではあるが秋人が声を掛けようとすると、春歌はいつもの笑みを浮かべた。
秋人は思う。
「大丈夫だよ……アキくん」
「大丈夫って……?」
その笑みはあまりにも、
「――アキくんは私のもの。もう誰にも会わせないし会わない。アキくんと私はずっと一緒なんだよぉ?」
あまりにも歪な、狂気を含んでいた。
「おい……おい、どこに行くんだ! とにかくこの拘束を解け! 春歌!」
「大丈夫だよ、アキくん。ご飯を取ってくるだけだから。それじゃあ、ちょっと待っててね」
明らかに秋人とは違う空気を纏い、笑顔のまま春歌はこの暗闇の部屋から出ていこうとする。
その笑顔は、熱に浮かされる女性の笑みだ。
もう、彼女に秋人の言葉は届かないのかもしれない。
「春歌ぁあああああああ――ッ!」
秋人の声は、扉が閉まる音と共に掻き消された。
◇ ◇ ◇
――話は冒頭にさかのぼる。
どれだけ時間が経ったのか判らない。精神は摩耗し、身体もボロボロとなった秋人はぐったりと椅子にもたれ掛かるだけだ。
春歌は最初の日からなんでも世話と言う世話を全て行った。
料理を秋人の口に運ぶのも彼女。それはまだいい。まさか秋人も春歌に『下の世話』をされるとは思ってもみなかった。
死んでしまいたい羞恥が被さってはいたが、それが三回を超える頃には、既に諦めていたのだが。
取りあえず、今の彼は危険な状態であろう。手首の傷口も深く、しっかりと治療されていない。衰弱し、今に倒れてもおかしくない。
「――は……る、か……」
秋人が口にするのは幼馴染の名前。
この数日、秋人は春歌と一緒にいて、そして彼女がたまに浮かべる憂いの表情に気付いたのだ。
春歌は、秋人を束縛してもまだ悩んでいる。
それはそうだ。好きな人には自分の想いは伝わらない。それは当然のことなのに、春歌は本気で悩んでいるのだろう。
「お、れは……どうすれば……いい、のかな……?」
答えてくれる人は誰一人いない。春歌も今回は珍しく五時間も姿を現していない。いつもなら一時間も経たずに戻ってくると言うのに。
秋人に考える時間はそれだけ長くなる。
考えている途中、どこか凝りのように秋人の心に残っているもの。それはいったい、なんなのだろうか……?
その答えは、今の秋人には判らなかった。
ふいに、
「――――」
「…………な、んだ?」
どこからか声が聞こえる。足音も。それはこれまで聞き慣れた春歌のものではない。もっと多くの……慌ただしい音だ。
それは徐々にこちらに近付いてくる。なんだろうか。
その足音は秋人がいる部屋の扉の前で止まる。そして、
「――冬山君、無事か!?」
勢いよく扉を開けた月島海実の姿があった。
その後ろにはボディーガードのような人間の姿も。
「つ、き……島……先……ぱい」
「待ってくれ! 今助け出すから!」
海実は秋人を拘束している結束バンドを取り外そうとして息を呑んだ。
手首の傷は化膿し、血が止まらない。傷は深く、異臭が漂っていた。
手を触ってみると、やけに体温が熱い。傷口から菌が入って高熱を出しているのだ。
「ど、どうして……ここに……?」
「無理をするな! 私は生徒会長として無断欠席して連絡が取れない君の様子を見に来たんだ。そうしたら夏川さんと出会ってね……」
「は、るか……と?」
春歌と出会ったということは、彼女となにかあったのだろうか。
春歌は海実に対して憎悪を向けていた。もしかしたら、その牙が彼女にも――
「いや、大丈夫だ。なにもなかった。私は昨日彼女と会い、君の場所を知っていると思って跡をつけこの場所を見つけた。まさか廃工場に閉じ込められているとは思ってもみなかったよ」
秋人は納得した。廃工場に監禁されていたから他の人間の気配がないわけだ。
いや、待て。
――月島先輩がいるということは、春歌はどうしたのだろうか?
「あの……月、島……先輩……」
「夏川さんだね。彼女なら今日遭遇し、敵意を向けてきたから連れてきた護衛が拘束しようとしたが、逃げられてしまったよ」
確かに月島家は名家だから護衛がいてもおかしくはない。だが、それは問題ではない。
「春歌が……逃げ、た……?」
春歌が逃げた。つまり今もどこかにいるということだ。
寸前の彼女の様子から、海実を狙う確率は高い。もしかしたら今もどこからか海実に危害を加える機会を狙っているかもしれない。
「春歌……お前はいったいどこにいるんだよ……」
弱々しく呟き、秋人はそのまま意識を失った。
◇ ◇ ◇
秋人はその後、月島家と関係の深い病院で二日ほど入院することになった。
酷い衰弱と高熱。原因はやはり結束バンドによる傷口へ菌の侵入だった。
秋人が入院している間、春歌の海実への接触はなかったらしい。だが、油断は出来ない。
海実に危険が及ぶ前に、秋人は春歌を止めなければいけないのだ。
「それにしても……良かったのかい?」
「何がですか?」
秋人は退院した翌日、海実と共に学校へと登校していた。
春歌を止めるため、秋人が強く願ったのである。自分の幼馴染のケジメは自分がつけるという意思だった。
「いや、夏川さんがやったことを警察に報告すればいいものを、私達で隠蔽するなんて……」
そうだ。春歌がまだ捕まっていないのは月島家の力が大きい。海実の身の危険を考えれば、警察に報告して捜査させればいいだけなのだ。なのに、それをしなかった。
それは、秋人の我が儘だった。
「ただのエゴだってことは判ってます。でも、俺は春歌とちゃんと話したいんです。まだ被害者は俺だけですから……月島先輩の事を考えれば春歌は警察に捕まえてもらった方がいい。でも、俺はアイツを犯罪者にしたくない」
秋人はこの為に、海実の親にも頭を下げた。泣きながら、自分の思いの丈を叫んで、それでも頼み込んだのだ。
秋人にとって、春歌はそれほど大切な存在だから。
「……ふっ、どっちが依存しているのか判らないな……」
「えっ? 今なんて?」
「いや、なんでもない。ほら、学校に行こう!」
海実は走りだし、秋人の手を引っ張る。
急に走り出した事に秋人は困惑するが、先ずそれ以上に――
「俺、まだ怪我が治ってないのに引っ張らないでくださいよ……」
まだ走るのも覚束ない秋人を引っ張る海実には、秋人の不満が聞こえなかった。
「……なんで一緒にいるの? ソイツとは一緒に居たら不幸になるだけなのに……」
――その二人を見ている陰に、彼らが気付くことはなかった。
「ふぅ……今日もいないか……」
「まあ、そう簡単には現れないだろうね」
学校の帰り道、秋人と海実は今日も一緒に下校していた。
あれから三日が経った。春歌は未だ秋人たちの前に現れていない。
帰ってきた秋人の両親は顔を見せない春歌を心配してるし、春歌とは仕事の都合で離れて暮らしている春歌の両親も連絡が来ないことを不審に思っていた。
そろそろ、限界かもしれない。
「……ねぇ、冬山君」
「……はい? なんですか?」
急に立ち止まった海実に、秋人は怪訝な表情を向ける。
海実の顔は、とても真っ赤に染まっていた。
「…………あの――」
「――冬山君。まだ君は私を受け入れてくれないか?」
「……えっ?」
立ち止まった海実が発した言葉は、一週間前の告白の続きだ。
秋人は確かに断った筈だ。真摯に謝罪し、海実はそれは受け入れた。
だが、今の海実はそれが耐えきれなかった。
「君が夏川さんを大事に想っていることは判っている。私では到底敵わない程にね。――だけど」
強い意思を持った瞳。それに秋人は圧倒され、
「今の夏川さんよりも、私の方が君を大事にすることができる。断言できる。だから……私と付き合ってはくれないか?」
言葉が詰まった。
はぐらかそうとした秋人の言葉は、その真摯な告白には敵うことなど出来ない。
本気なのだ。彼女は。
秋人が春歌を大切に想う気持ちと同じように、彼女も秋人を想っている。
それは、秋人が一番否定してはいけないのだ。
「お、俺は――」
秋人は、頭に思い浮かんだ事をそのまま答えようとする。適当ではない。なにも考えていないわけではない。
それが一番、秋人の正直な言葉だから。
「俺は――」
「――ちょっと待て!」
返事をする直前、秋人達の背後から声が掛かる。
咄嗟に振り向くと、そこには秋人達の学校の制服を着た小肥りの男だった。
「えっと……なにか用でしょうか?」
秋人が海実の前に出て作り笑いを浮かべながら対応しようする。
だが、男は憎々しげに秋人を睨み付け、
「――うるさい! お前なんかが、海実ちゃんと一緒にいる価値なんて無いんだ!」
怒号を張り上げる。
その声に秋人と海実の思考はフリーズし、処理に成功すると、
「私……か?」
「そうです! 海実ちゃんは僕の大切な人なんだから……こんな奴と一緒にいない方がいいんだよ!」
男は怒号から一転、海実に向かって熱情をぶつける。
この表情。秋人には覚えがあった。
――まるで、春歌みたいだ。
「……悪いけど、私は好きで彼と一緒にいるんだ。君にそんなこと言われる筋合いはない」
そんな男の想いを、海実は一蹴した。告白の返事を中断させられたことも彼女の怒りの原因となっているのだろう。心なしか、彼の言葉も強く感じる。
そして、それは男にとっては予想外なことだったようで……。
「どうして? どうしですか? なんで……僕があいつよりも優先されるんだよ……」
ぶつぶつと呟き、現実を受け入れていないようだ。それを秋人と海実は不気味に思っていたのだが、徐々に男の焦点が合わなくなる。
「そうだな……そうだよ。僕よりもアイツが優先されるなら、アイツを殺してしまえばいいんだ……」
「…………はっ?」
「今、何を言って……」
秋人と海実は男の言った言葉が聞き間違いだと思っていたが、彼が懐からナイフを取り出したことから、それは本気であると悟った。
「おい! そのナイフを離せ!」
「うるさい! 消してやる……邪魔するやつは、僕を邪魔するやつは殺してやるんだよ!」
海実は悲鳴を上げ、大きく取り乱した。離れて待機しているであろう海実の護衛達も直ぐに集まってくるだろうが、この距離では間に合わない。
秋人は男の目が虚ろで焦点が合っていないことから、もう止めることは不可能だということが理解出来た。そして、自分が逃げる事が出来ないことも。
秋人がこの場から離脱すれば、海実に危害が及ぶ可能性が高い。だから、逃げるという選択肢は既にないのだ。
「うわぁあああぁぁ――っ!」
叫び、男はその凶刃を秋人に向けて走り出した。
秋人はその光景を、スローモーションに感じた。
今までの出来事が走馬灯のようにフラッシュバックする。
幼稚園、小学校、中学校、そして今。
色々と辛いことはあったけど、それでも楽しかった。それは何故なのか……春歌がいつも秋人の側に居たからだ。
『貴方の気持ちに正直になってほしい』
そうだ。そうなのだ。
自分は……俺は――
「――春歌が好きだったんだな」
そう呟き、秋人はその凶刃を迎い入れようとする。
――その寸前、見慣れた背中が視界を遮った。
◇ ◇ ◇
「…………ん? こ、こは……?」
目を開くと、知らない天井。
秋人はゆっくりと身体を起こし、周りを見渡す。どうやら、ここは病室のようだ。
「――――っ!」
そうだ。何を忘れていたのだろう。
なんで自分はここにいる。早く、彼女の元へと向かわないといけない……!
「……っ! 冬山君! 気が付いたんだね! まだ動いては駄目だ。頭を強く打ったんだから……!」
「――月島先輩。春歌は……どこですか?」
「――――っ!?」
焦燥を浮かべている海実に、自分でも信じられない程の低い声が出た。
でも、そんなの関係ない。秋人は気にせず、言葉を続ける。
「あの時……春歌は俺を庇ってくれました。だから、アイツが倒れたところもこの目で見ています。お願いします。春歌の居場所を教えてください……!」
秋人は土下座をし、海実に懇願する。
春歌はずっと秋人の側にいたのだ。だから、誰よりも早く秋人の危機を阻止することが出来た。
だけど、だからって春歌が血を流す必要なんてないじゃないか。
「……冬山君。君は、私を恨んでいるかい? 君たちを巻き込んでしまった、この私を……」
「そんなの、お互い様じゃないですか。少なくとも、俺にとって月島先輩は尊敬する先輩ということは変わりませんよ」
「……そうか、ありがとう。……夏川さんなら隣の病室だ。行ってあげるといい」
海実はそう言い、目を伏せた。
泣いているのだろうか。でも、秋人にはそんな先輩だからこそ伝えなければならない事がある。
「月島先輩……あの告白の答えですが……」
「…………」
「俺は、春歌の事が好きです。だから、貴方の気持ちは受け入れません」
この想いだけはきっと紛れもない真実だ。
秋人は、世界中で一番、春歌が好きなのだ。
「…………そうか……ッ」
今度こそ、海実の瞳から涙か零れ落ちた。
◇ ◇ ◇
扉の前に立つ。
この無機質な仕切りの先に、自分の好きな人がいるんだ。
秋人はノックなど考えなかった。ただ会いたかったから。
扉を開ける。
そこには、数日ぶりの幼馴染。少し顔色が悪いが、
「あ、アキくん。いらっしゃい!」
「……ああ、お邪魔します」
――好きな人との再会だった。
ただ、また会ったからといって何を話せばいいか、秋人は判らなかった。
自分を庇ってくれたことに対する感謝だろうか……贖罪だろうか……とにかく、声は出なかった。
吃った声しか出ない。そんな事に秋人は情けなく思った。
「――ねぇ、アキくん。私ね……」
そんな沈黙を破るように、春歌から切り出した。
なんのことだろうか。責められるのだろうか……想像すらできなかった秋人だったが、彼女の言葉はあまりにも予想外のものだった。
「私ね……死ぬかもしれないんだって……」
「――――えっ?」
聞き間違い? いや、違う。秋人は幼馴染故に、その言葉が表情から聞き間違いではないと理解出来た。
嘘だ。信じたくなかった。
だけど、春歌の瞳から、涙が止めどなく溢れ出す。
「ナイフが内臓を酷く傷付けたみたいでね……今も私、危ない状態らしいんだ……。だから、一応外国で治療を受けることになるらしいけど、成功する可能性は低いんだって……っ」
よく見れば、春歌の腕にはしっかりと点滴が打たれている。
それは彼女の容態が良くない事の表れではないか?
「……春歌……」
「……嫌だよ、私……っ! もっとアキくんと一緒にいたい! アキくんと大学も通いたいし、アキくんと結婚もしたい……なのに、なんで……なんでこうなっちゃうのよぉ……!」
ポタポタと涙が止まることはない。
春歌も怖いのだ。自分が死ぬかもしれないという恐怖に、彼女は今も脅え、戦っている。
責任は、秋人にあるというのに。
「――――好きだ」
「……ぅ……え……っ?」
秋人の言葉に、春歌の思考がフリーズする。それほど、彼のことは予想外だったのだ。
「俺はお前が好きだ。ずっと好きだった。お前の笑顔を一人占めにしたい。お前が泣いているのなら笑顔に変えたい。可能なら……お前と一緒にいたい」
純粋な愛の言葉。
歪みのないその言葉は、優しく春歌の心に浸透していく。
待ち望んでいた言葉の筈だ。今までその一言が欲しくて努力してきた。
でも、まさかその言葉を……諦めかけていた今、掛けてもらえるなんて……。
「俺はお前が好きだから……だから、必ず俺の元へ帰ってこい」
「いいの……? 私で、本当にいいの……?」
「お前しか嫌なんだ。俺には、お前の狂気染みた愛が必要だからな」
軽口を叩き、笑みを浮かべた秋人に釣られて春歌も小さく笑った。
彼らはどちらからともなく、唇を重ねた。
今だけは、愛を深く感じたいから――
◇ ◇ ◇
「ふぅ……今日も暑いな……」
秋人は流れ出る汗をハンカチで拭いながら、憎々しげに太陽を睨んだ。
いくら睨んでも、太陽はその光を弱めたりせず、秋人が断念するのはそう遅くはなかった。
「……もう、一年か」
そう、既に一年。
春歌が外国に手術を受けに行って別れてから、既に一年が経っているのだ。
あれから、彼女からの音沙汰もない。でも、秋人は彼女を待ち続けている。彼女以外に好きな人など居ないから。
「くそっ、どこでなにしてんだよ……」
愚痴を言っても仕方がない。秋人はため息を吐きながら歩みを再開させた。
「あっ、生徒会長! おはようございます!」
「ん? あ、おはよう。今日も暑いな」
「ですね。生徒会長も熱中症には気を付けてくださいよ。それではお先に失礼します!」
秋人は走り出した生徒会庶務の役割を持つ少女に手を振る。
一年生であり、しっかりとした後輩だと秋人は彼女に好感を持ち、よく話している仲だ。
――秋人は、この一年で海実の跡を継いで生徒会長に就任した。海実程とは言わないが、それなりに人望がある秋人はこの仕事に遣り甲斐を持っている。
春歌と会えない寂しさを仕事に注ぎ込んでいるようなものだが。
その海実は確か地元の有名な大学に進学したそうだ。毎日告白されてウンザリしているとメールで愚痴を送ってくる。
もしかしたら秋人を諦めていないかもしれないが、気のせいであろう。
とにかく、それなりに充実した生活を悪くないと思いながら、秋人は歩みを再開させた。きっと、これからもこういう日常が続いていくんだろ――
「――アキくん? 今の女の子、誰かな……?」
……久し振りに聞いた声。待ち望んだ声。大好きな声。
でも何故だろう……嬉しさよりも恐怖の方が勝っているのは……。
「これは……またお仕置きかな……アキくん。私以外の女の子に笑顔を向けるなんて許さない。その笑顔は私だけに向けるものだよね?」
秋人は振り向く。
振り向いて、大切な幼馴染の持っている結束バンドに寒気がしたのは余談だ。
秋人は、きっとこれからもそれなりに平和な日常と過剰な愛と共に過ごすんだろうと、思いを膨らませた。
まだ見ぬ、最高の未来のことを――
「――愛してるよ! アキくん!」