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短編

Daddy&Daddy~二人のパパと一人の娘~

作者: 白千ロク

【 まえがき 】


■E★エブリスタからの再掲です


■小説家になろうに掲載する前にモバスペBOOKの方で再掲をしておりましたが、最終的にこちらに移転させました。モバスペBOOKの方は、移転を終えたので2013/2/26に削除しました


2013/2/26

 ――相変わらず、この二人はいちゃついてやがる。


「あ、お前弁当ついてる」

「んあ? どこ?」


 あぁあぁー、吐きそう。というか、人の目の前でいちゃつくなっての! 当て付けか。


「どうしたの、夢ちゃん」

「は?」


 実の父親の向かいに座る父親の恋人――龍堂斎りゅうどういつきは、箸を振るわせるわたしに声を掛けてきた。


「別に、なにも」


 わたしこと相楽夢さがらゆめは、素っ気なく返事をし、茶碗の中のご飯を掻き込む。


「夢、あんま急いで食うとせるぞ」


 暢気に斎さんの口端に付いているご飯粒を取りながら言う、実父――相楽大紀さがらたいき。へらへらと笑っているが、これでも一児の父親である。しかも――五月蝿い部類に入る、が頭に付くけど。

 斎さんと父さんは高校の同級生で恋人同士でもある。二人とも所謂バイセクシュアル――両性を愛せる質で、好きになるのに性別は関係ないとか、好きになった人が好きな人とか言っていた。

 母さんは六年前に家を出ていった為に、この家には母親がいない。その時には斎さんは同居をしていたし、母さんには他に男がいたんだ。それでも時々家族ぐるみで会ってはいるけど。家庭問題なんか、どこの家庭でもあるだろう。要は『我慢する』か『我慢しない』かのどっちかだ。


「夢ちゃん、お弁当ついてる」

「え、」


 不意に名前を呼ばれ、声がした方――隣を見上げたら、斎さんの手が頬に触れた。離れた手を見れば、ご飯粒がある。それをなんの躊躇もなく口に入れてしまう。抵抗なんてものはなく、ノンストップ。どこのバカップルか。

 父さんから斎さんに。斎さんからわたし。わたしから――……。


「夢、父さんもご飯粒が一杯あるぞ」


 そう言いながら、父さんはご飯粒を口端に付ける。勿体無いことすんな。

 式でいくとわたしから父さんになるが、そんなことする訳がない。


「アホらし」


 言い放ち、少し冷めた味噌汁を口に含む。何時もの如く、ワカメに油揚げ入り。これまた何時もの如く、それは斎さんのお手製だ。


「反抗期か?」

「そう、反抗期。悪い?」


 わたしは只今、誰でもくるであろう反抗期に突入中だったり。


「反抗期はいいけど、その可愛さで反抗とか意味ないぞ」

「キモイこと言わないで下さいますか?」


 いくら子供が可愛いからって、親馬鹿にも程がある。


「大紀。夢ちゃんは可愛いんじゃなくて、ギザカワユスだよ」

「違いますーぅ」


 どいつもこいつも親馬鹿だ!

 大体、斎さんはしょこたん語をどこで覚えたのか。まぁ、バラエティー番組だろうけど。……いや、しょこたんのブログか……? ――まぁ、なんでもいいや。


「ごちそうさま」


 手を合わせて言い放ち、お茶を啜る。


「ごちそうさまでした」


 隣からは斎さんの声。どうやら彼も食べ終えたらしい。


「学校まで送るから」

「いや、いらないし」


 手を左右に振ったら、その手を掴まれてしまう。


「最近この辺りに髪切り魔が出るんだよっ? 危ないから、拒否は却下」


 わたしに拒否権はないらしい。心配性過ぎるってば。変質者に出逢ったら、めったうちにしてやるのに。主に罵詈雑言で。他に出来ることといえば、カバンに入れてある折り畳み傘を武器にすることぐらいかな。

 大体からして、斎さんの車は目立つから、あまり一緒にいたくはない。車種はよく解らないけど、右ハンドルの外国車らしい。よく盗まれないなと思うけど、セキュリティは完璧みたいだ。


「一人で行くから」

「今の僕の話、聞いてた?」

「聞いてた。でも、友達いるしさ、斎さんの会社が遠くなるよ?」


 斎さんの会社とわたしが通う学校は、まるっきり反対方向。それほど遠くはないけれど、遠回りになってしまう。


「やだな。夢ちゃんの為なら、それぐらいどうってことないよ」

「ごっそさん」


 あははと軽く笑いながら言い放つ斎さんの目前で、父さんは手を合わせる。ご飯粒を口端に着けながら。まだ着いてたのか。


「夢? どこに行くんだ?」

「歯磨きだよっ」

「なら俺も行くー。斎、片付けよろしくな」


 立ち上がった父さんは足を進めたわたしに寄ってきた。


「はいはい。行ってらっしゃい」


 斎さんは軽く手を振ってからその手を食器に伸ばす。家の家事は全部と言っていいほど、斎さんがこなしている。何故かといえば、わたしたち親子は不器用だから。食器を洗えばお皿を割り、掃除をすれば掃除をする前より酷い有り様で、洗濯をしようとすれば洗濯機周りが水浸しになる――。痺れを切らした斎さんは言った。これから家事は僕がやるから手をだすな、と。


「女としては終わったな」


 洗面所のドアを開けながら呟く。花嫁修行もなにもない。

 父さんが先にそこへと足を踏み入れて、嬉々として歯ブラシを手に取った。


「ほら夢、お前の分」

「自分で取れますから」


 差し出された歯ブラシを引ったくり、父さんを押し退ける。

 蛇口のコックを下に押して軽く水を出し歯ブラシを湿らせる。そうしてそこにシトラス香味の薬用歯みがき粉を付けて歯を磨き始めた。場所を開けてやれば父さんも同じように歯磨きを始める。

 シャコシャコと二重に聞こえる音を聞きながら、わたしは放課後を思案していた。今日は友人と寄り道をする日だ。学校近くにあるカフェで駄弁り、時間を過ごす。この近辺では、そこは安くて美味しいと有名で一週間に一回は行っている。そして――その周辺に髪切り魔が出没することも勿論知っていた。学校では全校集会が開かれる程で、知らない筈もない。


「夢、ぼーっとしてんな。歯みがき粉垂れるぞ」


 はっとして父さんを見遣ればどうやら歯磨きを終えたらしい。


「髪結うから早く来いよ?」


 そう紡いで洗面所から出ていく。恥ずかしい話、髪を縛るのは父さんと斎さんだ。父さんは不器用なくせに、髪を結いたいと駄々をこねた。それが小学三年の時。それからずっと自分では髪を縛っていない。

 急いで歯磨きを再開し、コップで口を濯ぐ。洗顔は起きてすぐにしているので二度もしないけど。


「自分で縛らないとね」


 鏡を見据えて呟いた。小さい子じゃないんだし、自分で縛らないといけないんだよね、本来は。


「でもなぁ……」


 父さんも斎さんも嬉しそうなんだ。それは嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、暑苦しくてウザい。

 開いているドアから『夢ー早くしろよー』と声が聞こえる。


「はいはい、いま行きますよー」


 返事をすれば今度は斎さんの『了解』という声が聞こえてきた。二人三脚のようで息がぴったりだ。

 洗面所を後にしてリビングに入れば、テーブルの上には食器はなく、替わりに櫛と焦げ茶色のリングゴムがあった。食器は食洗機に入れられ、洗われている。


「どうぞ、夢ちゃん」


 イスを引いた斎さんに近付いて、それに腰を下ろす。彼は櫛を手に取り髪をとかし始めた。リンスインシャンプーのお蔭か、はたまた日々のブラッシングのお蔭か、髪は絡まない。


「帰りに可愛いリボンを買おうか。よさそうな雑貨屋さん見つけたんだ」

「はっ? い、いらないよっ。大体、わたしには似合わないし」

「バカ言ってんな。俺の可愛い娘が似合わないわけねぇよ」


 それはどういう持論なんだろうか。ある意味すごい。さすが父さんだ。


「そうだね、似合うよ。夢ちゃんは可愛いもん」


 櫛を置いてリングゴムを手に取る。

 可愛い可愛いと連呼される身にもなってほしい。恥ずかしいからやめてくれないかな。


「かっ、可愛くないよ!」


 そっぽを向きたいが髪を結われている為にできない。替わりに唇を噛む。


「はい、できた。大紀はこれに合わせてね」

「あいさー」


 父さんもゴムを手に取って縛り始める。不器用なくせに、見本があればできるようにはなったから進歩している。

 今日の髪型はツーテール。というか、何時もツーテールな訳で。髪の量が多いので、ポニーテールは難だ。選択は自然とツーテールしかなくなる。


「できた。今日も上手くいったぞ」


 ガッツポーズをする父さんを尻目に、櫛と余ったリングゴムを片付ける斎さんを見据えた。本当に送られるのか……。いや、無理矢理にでも送る気だろうけどね。


「僕の顔になにか付いてる?」


 視線に気付いたであろう斎さんは、首を傾げて言った。付いていたら『〇〇が付いてるよ』とちゃんと言うからね。


「付いてない」


 ふるふると首を振り、急いで立ち上がった。そうしてリビングを突き進み、自室のドアを開ける。わたしの自室はリビングの奥にあり、そこを通らなければならない作りになっていた。実に厄介だ。しかも扉ではないので鍵はついておらず、替わりに取り外し可能なスライドする板で区切られている訳だ。――それでも開ける時にはノックをしてくれるけど。

 部屋に入り、隅の学習机のイスに置かれたカバンを手に取る。うちの学校はスクールバックだろうがショルダーバッグだろうが昔懐かしい手提げカバンだろうが、教科書とノートと筆記具が入れられるならなんでもいいらしい。ついでに、わたしはあるブランドモノのショルダーバッグである。カバンの隅にはワンポイントでブランドのロゴマークがいれられていた。


「どうしようか……」


 ショルダーバッグを肩に掛けて、ため息を吐く。その中には財布と携帯、それに課題の教科書とノート、筆記具しか入っていない。体育がある日はそれ等の他にジャージが入るけど。他の教科の教科書とノートは学校のロッカーに積まれている。所謂、置き勉ってやつだったり。


「困るんだよなぁ」


 困るなら困るとはっきり言えばいいのだが、うちは困ると言えば、泣きそうな顔になるのだ。……男二人が。見ていて気持ちのいいものじゃないし、変な気分にもなるので極力言わないようにしていた。そして今に至る。


「んー……んんー……」


 本当にどうしたものか。頭を働かせていればコンコンとノックが聞こえてきた。半開きのドアだから、ノックしなくてもいいんだけど。律儀だよね、斎さんは。


「夢ちゃん、そろそろ行かないと遅れるよ? それに、涼子りょうこちゃん待たせちゃってるよね?」


 その言い方はずるい。待たせてるから行かないとまずいよ、ともとれちゃうじゃん。


「わ、判った」


 結局は送られる羽目になるんだよ。わたしがどうこうしても、ね。

 部屋から出て足早に玄関へと向かう。わたしに続いて父さんと斎さんが着いてきていて、端から見れば怪しいかも解らない。


「忘れ物はない?」

「ない」

「ハンカチは持ったか? テイッシュはあるか?」

「ちゃんと入ってるから」


 昨日のうちに五月蝿いほど言われたし、ちゃんと確認もしている。それでも朝になればまた言われるんだけどさ。

 几帳面に揃えられた靴もといスニーカーを履いて玄関を開ける。そうすれば日の光が筋を作り、一面に広がった。眩しさに手を翳しながら通路へと足を踏み入れる。


「今日もいい天気だなぁ」

「大紀、感心してないで早く出て。僕が出られないから」

「はい、すみません」


 ドスの聞いた声をだした斎さんは、その通りにちょっと切れている。時間がないから。

 父さんは項垂れつつも靴を履いて急いで通路へと出た。斎さんも靴を履いて通路に足を踏み入れる。そうして鍵を掛け、にっこりと笑う。


「走るよ」


 エレベーターホールまで、と走りながら言うのは如何なものか。エレベーターがすぐ来なきゃ、取り戻した時間をロスするだけなのに。――と思ってたのに、エレベーターはすぐに来ました。運がいいのか、悪いのか。はたまた神様の悪戯か。


「自分で言っといてなんだけど……走るのしんどい」

「年だな、そりゃ」

「悪いけど、お前と同い年だよ」


 他愛もない話をしながらエレベーターは降下する。乗る度に訪れる浮遊感には、未だに慣れないでいた。それでもショルダーバッグの外ポケットから携帯を取り出して、サブディスプレイに映された時間を見遣る。午前八時。待ち合わせから十分が過ぎていた。


「うわ、最低だ」


 十分も待たせるなんて。涼子は時間にルーズだから怒ってはいないだろうけど、さすがに待たせるのは悪いだろう。

 携帯をポケットへと押し込んで、ため息を吐いて壁に凭れれば、ガタンとエレベーターが止まる。この時の、上に引っ張られそうな感じが一番嫌い。

 そうこうしているうちにドアが開いて、エントランスが顔をだす。うちのマンションは外壁は茶色だが、内装は白色に固められている。郵便受けさえも白い。

 エレベーターから出れば、背後で「じゃあな」と声を掛けられた。父さんは先に行くみたいで、走り去っていく。


「夢ーっ」


 父さんと入れ替わりに涼子が走り寄ってきた。セミロングの髪を揺らしつつ大きく手を振っている。多分、父さんの走る方向から推測したんだろうな。

 涼子こと小崎涼子こざきりょうこは、同じマンションの上階に住んでいる所謂幼馴染みの関係である。家族ぐるみで付き合いがあり、家庭のいざこざも筒抜け状態なもんで、気を使わなくていいのが楽だったり。


「夢ー、おはよー」

「おはよ。遅れてごめんね」


 勢いで抱きつかれ、肩で息をする涼子の背中を擦る。


「んー、大丈夫だよぉ。あ、斎さんもおはようございます」

「おはよう。涼子ちゃんは今日も元気だね」


 にこにこと笑う斎さんから顔を逸らしつつ、涼子はわたしから手を離す。


「いやー、大紀さんには負けますわ。さっきも爽やかに走ってったし」


 おばちゃんの井戸端会議よろしく彼女は手を上下に振る。


「あぁ、大紀は元気だけが取り柄だから」

「斎さんがそれを言ったら、父さんの立つ瀬がないからさ」

「そうかい? 本当のことだし、弁解はしないよ。さ、早く行くよ」

「はいっ」

「ちょっと、二人とも早いしっ」


 駆け出す斎さんの後を涼子が追う。その後を追うのはわたし。カルガモみたいかも。


「って、え、車で登校?」


 駐車場で止まった斎さんに涼子は問うた。


「うん。髪切り魔が出て危ないからね。車なら安全だから。はい、どうぞ」


 電子キーで施錠してあるドアを解錠し、それを開ける。涼子が後部座席に座ったのを見て、わたしも車内へと入り腰を下ろした。それを見届けた斎さんはドアを閉めて運転席へと回り、座り込んでドアを閉めてからシートベルトを着用する。


「斎さん、それって……」


 フロントガラス脇に置かれたパンダのぬいぐるみを指した。頭以外はあまり綿が入っておらずへにゃへにゃしているそれは、この間のUFOキャッチャーで取ったやつで首からは家族写真が提げられていた。


「これ見ると、絶対安全運転したくなるからね。一種のお守りかな」

「ふぅん……」


 安全運転を心掛けるのはいいことだけど、ちょっと恥ずかしい。


「じゃあ行くよー」

「はーい」


 涼子が手を上げて元気よく答えた後に、斎さんはキーを回してエンジンをかけ、チェンジレバーを弄りアクセルを踏む。少しずつ動く車体は、すぐにスピードをあげた。マンションの駐車場を出て、公道へと赴くのもすぐだ。横目で見る景色は流れていく。


「うわ、あの人見るからに怪しい」

「ん?」


 黒いパーカーを着て、それに付けられたフードを被りながら歩道を歩く人。その人は、両手をパンツのポケットへと突っ込んでいる。周りの人々はその人からは遠い位置を保っていた。まぁ、近付きたくないのも解るけど。怖いし。


「ホントだ、怪しい。あ、でもお日様が嫌いなのかもね」


 涼子の声が聞こえたのは、通りすぎてからである――。




 その男は黒いパーカーを羽織り、フードを被っていた。目深に被られたそれは顔に影を落とし、輪郭がはっきりとしない。

 周りを一瞥した彼は、浮いていることを自覚している。しかしそれでも直そうとは思わない。これは誇示だからだ。自分が現実リアルにいることが解る証。

 ダルそうに歩いている彼は、言わずもがな彼女が見た怪しい男であった。長身痩躯であり、外気に晒された腕は白く細い。

 追い抜く白い車を横目で見据えて呟く。


「見つけた。理想の――」


 アレこそ、求めていたモノ。早く触りたい。

 にやりと口角を上げた男の瞳に、炎が宿った。




 突如ぞわりと這い上がる寒気。誰かが変な噂話でもしているのだろうか。


「夢、寒い?」

「寒いならエアコン切ろうか?」

「大丈夫だから。てか、切ったら暑いじゃん」


 首を振って否定すれば、斎さんは伸ばしかけた手をハンドルへと戻す。ミラーを見遣ればにっこりと笑う姿があった。その鏡越しの笑顔には女性を落とす力があるな、と思う。まぁ落ちたのは父さんだった訳だけども。


「――もうすぐ着くよ」

「はーい」


 涼子の返事は元気がいいな。聞いていて清々しい気持ちになる。

 この信号を抜け、もうひとつの信号を右折すれば学校だ。二つの信号を抜けてゆるゆるとスピードを緩める車は校門から数メートル手前で止まる。


「はい、到着。終わったら電話してね。夢ちゃんも涼子ちゃんも気をつけていってらっしゃい」

「はいっ。ありがとうございましたー」


 会釈をして涼子はドアを開けて車外へと赴く。


「斎さん、じゃあね」


 軽く手を振ってから彼女に続いて外へと出てドアを閉めれば、登校中の生徒の視線が一気に集中した。え、やだ。これは恥ずかしすぎる!

 目立っているであろうその車が通り過ぎる五月蝿いエンジン音さえも気にならない。というか、気にしていられない。


「りょ、涼子、早く校舎入ろう」


 制服の裾を引っ張れば、涼子はへらりと笑った。


「えー、ここはお嬢様気分を味わわなきゃ損じゃない?」

「お嬢様じゃないからね! わたしは庶民だから。庶民も庶民だよ」

「庶民庶民五月蝿いよ。庶民庶民って噛まない?」

「涼子こそよく噛まないね」

「放送部ですから。あめんぼ赤いなあいうえおーってやってるし」


 わたしの手を引いて言う涼子は周りに視線を遣っている。


「夢、」

「うん?」

「走れぇー!」


 その声と共に彼女は駆け出した。ぐっと腕を引っ張られ、半ば強引に走る羽目になる。


「ちょっ、涼子っ」


 これも目立ってるからね。逆に。

 二人して昇降口に駆け込めば、周りからはまた視線が集中した。その半分はどうしたのかという驚きの視線で、半分は奇異の視線だろう。


「夢ぇー!」


 肩で息をするわたしの背後から友人の声が聞こえた。瞬間、背中に痛みが走る。


「おはよ、夢。りょーこも、おはよう」

「はい、はい。おはよ、きゆちゃん」


 本来は春野雪子はるのゆきこという名前だけど、『ゆきんこ』とあだ名を付けられた過去が嫌らしいので、親しい友人は雪子の一字『ゆき』の逆を新しいあだ名にした。本人には嫌がられたことがないのでこのままだったり。


「きゆ、おはよ。相変わらず髪の毛跳ねてるよ」

「走ってきたから跳ねるの! 風の抵抗だからねっ!」


 きゆちゃんは恥ずかしそうに乱れた髪を手櫛で直す。


「はいはい。早く行こう」


 涼子は笑みを溢しながらわたしときゆちゃんの腕を取った。そうしてクラスの靴箱へと赴く。


「あ、ねぇ、知ってる? 髪切り魔のこと」


 靴を上履きもといスリッパに履き替えた先、階段を上りながらきゆちゃんは思い出したように言い放った。彼女の一段先にいる涼子が振り返りながら問う。


「髪切り魔がどうしたの?」

「――その犯人ね、男の人なんだって」

「きゆちゃんそんなこと知ってるんだ」


 感心しながら言えば、思い出した。怪しい男の人を見たなと。


「昨日、家の近くで事件があってね、お母さんがスーパーの帰りに被害にあった女の子が警察に話してるの聞いたんだって。犯人は男だったって。その人は、黒いパーカーを着てたんだって」

「っえ?」


 思わず二段先の涼子と声と見開いた目を合わせる。

 垣間見た黒いパーカーの男。その人は連続髪切り魔の犯人かも知れない――。


「なるほど。危険が迫ってるわけね」

「危険?」


 涼子は顎に指を添えて頷く。わたしと涼子を交互に見遣り、きゆちゃんは首を傾げた。多分頭にはクエスチョンマークがあることだろう。


「きゆ。私たち、見たんだ。黒いパーカーを着た、怪しい男の人を。一瞬だったけどね」

「そうなの!?」

「うん。さっき、斎さんの車で学校に来る時にね」


 きゆちゃんはまだ口を開けている。よっぽど衝撃的だったんだろう。


「きゆ口開けすぎー」


 笑う涼子に気づき、すぐに口を閉じる。そうして恥ずかしいのか涼子の肩を叩いた。


「もう、すぐからかうんだから!」

「きゆはからかいがいがあるからねぇ」


 今度は口角を上げた笑みだ。にやり、という効果音が似合う。


「夢ぇ、涼子がいじめるー」

「涼子はからかいすぎ」


 抱きつかれたわたしはきゆちゃんの頭を撫でながら涼子にお灸を据えた。きゆちゃんの反応はからかいがいがあるのが本音だが、からかいすぎてもいけない。


「はーい。ごめんね、きゆ」

「しょうがないから許してあげる」


 そんな会話を繰り広げながら再度階段を上り始め、教室へと進む。そこに足を踏み入れれば、にんまりとした友人が立っていた。おはよう、と挨拶をするよりも早く、両腕を取られてしまう。


「夢ー」

「見たよ、私たち」

「見たってなにを?」

「あのカッコイイ人とどういう関係なの?」

「まさか夢がイケメンと知り合いだとは知らなかったよ。どうやって知り合ったのか吐きなさい、夢。吐いて楽になるの」


 二人が言うカッコイイ人って誰のことだろう。首を傾げれば、二人は声を揃えて言った。


『斎さんだよ! 知り合いなんでしょ』


 いや、知り合いじゃないし。父親だし――とは言えなかった。涼子がわたしの口を押さえ、フォローに回ったのだ。


「斎さんは夢のいとこだよ。っていうか、二人はどこで斎さんを見たの?」


 あぁ、そうか。父親が二人とか引かれちゃうかな。家はもうずっとこれだし、感覚が麻痺しているらしい。

 涼子の手を外して二人を見つめる。二人は目を合わせてから口を開いた。


「どこって、」

「駅前にある熊野くまの書店だよ。彼にお弁当作ろうと思って料理本コーナに行ったら爽やかイケメンが立ち読みしてて、「夢ちゃんにこれ食べさせたいなー」って呟いてたの」


 そういえば、二日前ぐらいに本屋に行ってくるって言ってたな、斎さん。でも夜の九時ぐらいだったんだけど、それ。あ、でもこの子たちは塾通いしてたような気がする。駅前に塾あった筈だし。塾通いじゃないからよく知らないけど。


「それで声を掛けたら夢の知り合いだって言うから、あたし達ビックリしちゃってさぁ」

「そうなんだ」


 斎さんは気を遣って知り合いだと言ったんだな。わたしが学校でハブられないように。まぁ別にハブられても涼子ときゆちゃんがいるからいいけど。きゆちゃんには洗いざらいって訳じゃないけど父親が二人いることは言ってあるし。


「夢、夢」

「なに、きゆちゃん」


 制服の裾を引っ張るきゆちゃんに視線を遣れば、彼女は笑みを溢しながら言葉を紡ぐ。


「私は大紀さんの方がカッコイイと思うよ」

「ありがとう。父さんに伝えとく」


 よかったね、父さん。一人味方がいたよ。

 きゆちゃんは父さんのカッコイイところをあげているが、纏めると「スーツ最高」である。とにかく父さんのスーツ姿が好きらしい。わたしもリーマンのスーツ姿はカッコイイと思うよ。けど、父さんのスーツ姿はなんとも思わない。多分、家族だからだろう。


「で、夢はいつから斎さんと知り合ってたの?」

「え? え~。いいじゃんそんなこと」


 詰め寄る友人を引き剥がせば、「夢のいじわる~」とか「ケチー」とか言いながら唇を尖らせている。君たちは知りたいのか。そんなに。知っても面白くないと思うんだけど。


「まぁ、ほら、いつかは話すよ」


 多分。そう思いながら話を切り上げて、自分の席へと歩く。ドアにたむろしてると邪魔だし。今更だけどね。

 わたしが離れてもう興味がないのか、二人は二人で話を進めている。興味薄れるの早いな。わたしも人のことは言えないけど。


「涼子、さっきはありがと」

「ん? 気にしなくていいよ。ねぇ、きゆ」

「私に振るのっ!? 私は夢を庇ってないんだけど」


 話を振られたきゆちゃんは自身を指差して首を振る。ついでに、きゆちゃんはわたしの前の席であり、涼子はその前の席だ。つまり縦並びに仲良く並んでいる。そしていまは、私の席を三人で囲んでいた。


「なにも言わなかったじゃない」

「だってややこしくなるでしょ?」

「ややこしくなるかどうかは解んないけどね」

「まぁねー」


 涼子は笑いながら言い放ち、カバンを置いてくると自分の席へと行く。きゆちゃんもきゆちゃんでカバンを机上へと置く。そしてわたしもカバンを机に置いて中身を出している。といっても、課題が出ていた教科の教科書とノートと筆記具だけだけど。


「あ、夢。これあげる」

「これって――」


 なにかと思い顔を上げれば、目の前にはシュシュがあった。水色と白色のボーダー柄のそれは二つ一組で透明な個包袋に入れられている。


「夢に似合うかと思って買ってきちゃった」


 語尾にハートマークがつきそうな程上機嫌にきゆちゃんは言った。わたしの髪で遊びたいんだな、そうなんだな。


「つけていい?」

「どうぞ好きにして下さいな」


 髪を弄られることは嫌いじゃない。むしろ、色んな髪型にしてもらえるので大歓迎に近い。まぁいまは、シュシュをつけるだけになるけど。

 中身を出したカバンを掛けてきゆちゃんに向き直れば、彼女はシュシュを取り出して指に嵌めていた。準備が早い早い。


「――涼子にも。はいどうぞ」


 近づいてきた涼子にひとつのシュシュを渡した後に、わたしの横に移動して髪を弄り始めた。


「ん、ありがとう。夢はシュシュとかつけないよねー。いつもゴムばっかりで」


 涼子は涼子で受け取ったシュシュを手首に嵌め、同じように髪を弄る。端から見たら小さな子供かと思われそうだ。


「いや、わたし不器用だしね」

「あ、そか。忘れてたよ」


 忘れないで下さいよ。なにかあってからでは遅いんだから。これまでになにもないけどさ。


「可愛いー。シュシュ似合うね」

「うん。可愛いよ、夢」

「可愛くないですー」


 父さん達と同じことを言うのはやめてくれないか。恥ずかしいから。やめてくれないだろうけど。

 シュシュに触れれば、いつもと違う触り心地にちょっとドキドキする。なんとなくふわふわしているような気が。この触り心地好きかも。そう思えば音が流れだし、躯が竦んだ。この音ならわたしの携帯だ。しかもメール受信。


「うぁー、しまった。マナーモードにし忘れてた」


 カバンを取って外ポケットから携帯を取り出して見れば、マナーモードの形跡はなかった。やっぱりだ。イスを引いて座り込み、携帯を弄る。マナーモードにしとかないと怒られるんだよね。授業中に鳴ったら没収の上、お説教が待ってるし。お説教は嫌なので、律儀にマナーモードに設定するわたし達である。

 ついでにメールも見なきゃと思い、メール画面にするが、ほぼ同時刻に二通も届いていたらしい。謂わずもがな父さんと斎さんからだ。というか、わたしのアドレス帳は、二人と涼子ときゆちゃんと母さんとその他数人の友人のしかなかったりする。

 一応メールを見れば、父さんは『会社に着いた。夢は元気か?』という内容で、斎さんは『会社に着いたよ。帰るときには電話をすること!』という内容だ。会社に着いたことを娘に報告しなきゃいけない訳でもないのに、父さん達からは毎日メールが届く。送ってくんな、とは言えないし送れない。理由は至極簡単。――面倒くさいことになるから。


「夢、眉間にシワ」


 涼子が指で自分のそれを小突く。どうやら、物凄く不機嫌な顔をしているらしい。


「なに、そんなに難しい内容なの?」

「違う違う。会社に着いたメールだし」


 二人はあぁと軽く頷く。そして憐れむような目を向け、肩に手を置いた。


「毎日は嫌だよね」

「そうだよね。毎日はちょっと、ねぇ」

「でも嫌だって言えないジレンマっ!」


 机に突っ伏してから横顔で携帯を見つめる。どうもこうも打つ手がない。……もういいや、気にしないでおこう。考えるのやめよ。どうせ明日もくるんだし。


「考えるのやめました」


 起き上がり、カバンに携帯を戻しつつ言い放つ。いやだって、考えても妙案は出ないし。諦めのよさはピカイチだったりするんだよ。自慢は出来ないけど。カバンも戻して腕を天に伸ばす。あー、清々しいわ。


「元気出た?」

「出た出た。今日はシフォンケーキ食べる」


 そう言えばきゆちゃんは小さく笑った。涼子は肩を震わせて笑っている。うんうん、思考変換が早いってか。素晴らしいことだよ。


「今日は私が奢るよ」

「いやいや、奢るのはわたしだから。フォローしてくれたし」


 きゆちゃんが奢るなんて変な話だ。言い放てば、「気にしなくていいのに」と肩を叩く。


「気にしてませんから」

「なら今度奢るね」


 理解したのか、きゆちゃんは小さく頷いた。本当に物分かりがいい子だよね。可愛い。わたしより可愛い。


「よろしく」

「じゃあ、先生来ちゃうから戻るわ」


 涼子のその声に壁掛け時計を見遣る。時刻は午前八時三十五分過ぎ。もう少しで先生が来る。楽しい時間は過ぎるのが早い。


「はいはい」


 ヒラヒラと軽く手を振れば、涼子ときゆちゃんも軽く手を振り返した。そうして各々席に着く。


「――はい。おはよう」


 席に着いた数分後、担任が教室に入ってきた。五月蝿かった教室は静まり、朝のHRが開始される。わたしは頬杖を付きながらそれを聞いていた。


「昨日、また髪切り魔が出たようです――」


 髪切り魔は髪を切るから髪切り魔なんだよね。なんなんだろ。なんで髪を切るんだろうか。女の子の髪って、結構重要度高いと思うんだけどな。


「――以上で連絡は終わるよ」


 どうやら髪切り魔について考えている内に連絡事項は済んだらしい。聞いてなかったし。後で涼子たちに聞こう。


「あぁ、そうだ。相楽、ちょっと」

「はい?」


 教室を出ていこうとする先生に呼び止められ、思わず頬杖を付く手が滑った。わたしなにかしたっけ? そう思いながら席を立ち、先生――谷川紗智たにかわさち――通称・さっちゃんに近づく。


「相楽の親から言付けを頼まれたんだ。『終わったら必ず電話をすること』だと。相変わらずだな、相楽の親は」


 言い放ち、先生は苦笑する。笑われたよ、恥ずかしい。顔から火が出そうだよ。というか、別れるときに聞いたんだけどその言葉。


「あー……それは、ありがとうございます……」


 俯きつつお礼をすれば、先生は「愛されていていいじゃないか」と肩を叩いた。先生それは違いますって。愛され過ぎるのもどうかと思います。言えないけど。

 先生と別れて席に戻れば、涼子ときゆちゃんが待っていた。


「先生なんだって?」

「いや、言付けを頼まれたってさ。『学校終わったら必ず電話をすること』って。朝も聞いたんだけどね」

「心配性だからねー」

「心配性過ぎるんだよ!」


 先生に言付けってどう考えても行き過ぎでしょう。いやまぁ、いちゃもんつけるよりはましかもしれないけど。けど! 朝の忙しい時なのに、先生に悪いことしたな。何時も何時も言付けだもん。職員室では完璧問題児と化してそうで行きたくないわ。それでも用事がある時には行くしかないけども。


「夢、一限始まるよ」

「おうっ、はいはい」


 落ち込んではいられない。だってそれが日常なのだから。

 朝から英語とか確実に寝てしまうわ。




 ――寝なかったけど。危なかったけど頑張って起きてたわたし偉いと自画自賛。二限も三限も四限も授業が過ぎて、今はお昼時だ。そう、所謂昼食タイム。


「購買行ってくる」

「はいな。いってらっしゃい」


 涼子ときゆちゃんは先に食べているからと言いながら教室を出るわたしに手を振った。わたしの昼食はといえば、月曜と水曜日は購買でパンを買って、火曜木曜金曜日はお弁当である。勿論、斎さんの手作りだ。で、水曜日の今日は購買。この学校の購買パンは外より幾らか安いので、近くのコンビニよりは学校ここで済ましている。学校を出てからはコンビニとかで買っちゃうけど。

 購買に行くために渡り廊下を進んでいれば、自販機が目に入った。購買帰りの人や自販機のみに来た人の列がある。足を進めようとした先、先生を見つけた。なにやら校門の方をじっと眺めている。


「――先生?」

「あぁ、相楽か」


 歩み寄りなにをしているのかと問えば、先生は前方に視線を遣った。


「さっきまで怪しい男がいたんだが、いまはいないみたいだ。入ってきては危険だから動きを見ていた」

「双眼鏡で?」


 先生の手には双眼鏡がある。野鳥とかを見る為に使われるそれで、曰く怪しい男を見ていたのだろう。


「でも先生が監視しなくても、用務員さんがいるんじゃ――」

「相楽、用務員さんは警備員じゃない。用務員さんは用務員さんだ。私は空手を習っていたから正しい選択じゃないか」

「そうなんですか」


 だから男勝りな喋り方なのか。そしていつもジャージ姿なのか。スポーツブランドの黒いジャージ。胸元にはそのブランドのワンポイントがある。似合うけど。


「早く行かないと、売り切れてしまうぞ」

「あ」


 忘れてた。購買に行く途中だったんだ。思い出したわたしは先生と別れて購買へと急ぐ。


「――よかった……残ってる」


 肩で息をしながら呟く。着いた先の購買には人だかりがあり、商品が残っていることが明白だった。というか、間からちらちらと商品ケースが見えるんだよね。並べられた商品ケースがないなら、それは売り切れの証拠。


「コロッケパンもサンドイッチもあるならいいや」


 ふぅと額に浮いた汗を拭い、人だかりへと向かった。列に並んでいれば、昼食を手にした人々が順々に消える。ようやくきた順番に、コロッケパンとサンドイッチ、そしてペットボトルのお茶を手に会計を済ます。

 鼻唄混じりに来た道を戻り、先程先生を見つけた場所を一瞥すれば、先生の姿はなかった。多分、職員室に戻っていったのだろう。

 教室に入れば、きゆちゃんと涼子は宣言通りに先にお弁当を食べていた。わたしの机と隣の机ときゆちゃんの机、計三つの机を並べて。


「あ、夢。お帰りー」

「ただいま」


 自分の席のイスに腰を掛けて買ったものを机に広げる。


「ほら、玉子焼きあげる。あーん」

「あー」


 きゆちゃんの差し出した玉子焼きは口の中へ。あーんなんていつもしてるから羞恥はない。


「ん、美味しい」


 ふわふわとしたそれは、ダシと醤油が絶妙な味を醸し出している。いつ食べても美味しい。

 玉子焼きを味わった後に、買ってきたコロッケパンの封を開ける。


「あ、そういえば、さっちゃん先生見たよ」

「どこで?」

「自販機近く。なんか怪しい男の人が校門にいたらしくてさ」

「へぇー」


 涼子の問いに答えれば、きゆちゃんの相槌が入る。


「その男の人髪切り魔だったりして」


 なんていう憶測を涼子が言った。それはそれで怖い話である。

 そんな他愛もない話で盛り上がりながら昼食タイムは終わりを告げ、午後の授業も華麗に過ぎていまは放課後だ。午後一の体育はキツイと思う。いつもながら。

 帰りのHRでは、「お昼休憩時に怪しい男の人がいたので、気をつけて帰るように」と連絡事項があった。


「うろついてたら怖くない?」

「確かに」


 のろのろと帰り支度をするわたしの横を通り過ぎるクラスメイトの声。うん。確かに付近に潜んでいたら怖いな。ついでに、いまわたしは一人だ。教室にただ一人。貸し切り状態な感じになっている。きゆちゃんは日直で日誌を置きに職員室に、涼子は教科委員なので集めたノートを教科担当に届けに行っているのだ。戻ってくるまでに二・三分は掛かるだろう。

 静かな教室に壁掛け時計の音と風に踊る木々の音が教室内に響く。この感じは好き。ゆっくりと時間が流れているような気がするから。まぁ、時は一秒一秒進んでいるんだけど。

 頬杖を付きながら窓の外を眺めれば、揺れた枝から幾重もの葉が舞った。




 ――時は遡り、お昼頃になる。彼は今朝見つけた彼女の元に訪れていた。元といっても、通っている学校である。垣間見た制服から、彼女の通っている学校を割り出したのだ。校門の端から校舎を覗くその姿は、誰の目から見ても怪しく映るであろう。

 現に、彼を見つけた谷川女史は双眼鏡を片手に外へと赴いたのだ。だが彼は気付き、一度身を潜めた。


「あの子だ」


 恐る恐る覗いた先に、彼女がいた。ここからではなにを話しているのかは解らないが、なにやら話をしているらしい。風に踊る髪が靡き、艶めく。


「やっぱり――」


 理想的だ。はやる気持ちを抑え、彼は来るであろう時に備えることにした。準備が疎かではいけない。迎えるのなら、完璧でなければ――。




 教室に響くのは、ドアを開ける音である。瞼を押し上げ、緩く開け放たれたドアに視線を遣る。


「あれ、一人なんだね」

「そりゃHR終わったし」


 涼子の声に答えれば、「まぁねー」と紡ぐ。帰りのHRさえ終われば用はない。帰るか部活か補習か、それぐらいだろう。わたし達は帰宅部だし補習もないので帰宅一択になる。まぁ、まっすぐ帰るのではなく、寄り道をするけどね。

 涼子は机に歩み寄り、帰りの支度を始めた。彼女はHRが終わってすぐにノートを届けにいったのだ。


「きゆはまだかね」

「先生がいないとか?」


 帰り支度を終えた涼子はイスに腰を掛けてこちらを見た。足を組んでいるその仕草は、様になっている。謂わずもがな、涼子の足は長いのだ。わたしにも分けてほしいよ。無理な話だけど。


「あり得るかも。さっちゃん先生校内見回ってるみたいだし」


 先生は見回りとかもするのか。いくら時間があっても足りない気がする。教師も大変だなぁ。


「あ、」


 大変そうだから教師になるのはよそう、と思えば、足音が聞こえてきた。こちらに向かってくるような。足音というか走る音か。耳をすましていれば、勢いよく開くドアときゆちゃんの声が重なる。


「――セーフ! 遅れてごめん」


 セーフと言って謝るのはセーフじゃないと思うよ。可愛いから言わないけど。


「さっちゃん先生が来ないから待ってたの。日誌渡してから急いで戻ってきたよー」


 慌てて経緯を説明。全然怒ってないから、そんな慌てなくてもいいのに。というか、どうやら本当に先生がいなかったのか。エスパー発揮しちゃったよ、いま。わたしスゴイ。


「じゃあ、支度するから、ちょっと待ってて」


 肩で息をするきゆちゃんは自身の机に足早に寄り、帰り支度を始める。わたわたと机の中のものをカバンに詰めていた。といっても、筆記具と課題の教科書とノートぐらいだけど。


「終わったよー」


 カバンを肩に提げたきゆちゃんはどこか誇らしげだ。


「じゃあ電話するから、ちょっと待ってて」


 そう言い残し、携帯を手に足早に廊下へと出る。そしてさっさと電話をかけた。

 メールでもいいじゃないかと思えるが、メールだと『どうしてメールなのか』としつこく問い詰めてくるのだ。答えは簡単で、「面倒くさいから」である。もちろん一回経験済みであるから、二の舞は避けたい。その時に「どうして電話なのか」と聞けば、「声が聞きたいから」という答えがきた。いや、わたしの声普通だし。

 コール音を聞きながら、憂鬱とした気分になる。本当に面倒くさい人たちだよな。でも、嫌いじゃない。


『――夢ちゃん、学校終わったんだ』

「うん。だから迎えにきて」

『解った。じゃあすぐに行くから待っててね』


 そう言った斎さんは通話を切った。わたしも通話を切り、携帯を折り畳む。


「すぐに迎えにくるって」


 カバンに携帯を戻しつつドアから教室内を覗き、声をかける。


「なら校門で待ってようよ」

「そうだね。斎さんの車は目立つから、さっさと乗ってさっさと去りたい」


 きゆちゃんの言葉に乗って言えば、涼子が「だからお嬢様気分を味わえばいいんだって」と助言をしてきた。いやだから、お嬢様じゃないんだってば。


「――もー、夢は頭が堅いよね。名前は夢なのに、少しも夢をみてないし。名前負けしてるよ」


 校門の前で涼子がわたしに向けて呆れながらに言葉を紡ぐ。ついでにここまで来るのに、涼子ときゆちゃん二人だけでお喋りをし、わたしは相槌をうっていた。内容は、お嬢様気分を味わうのはいいのか悪いのかとよく解らない話だ。いや味わえるもんなら味わいたいけど、生憎生粋のお嬢様はいないので解らないのだ。


「夢ー、人の話聞いてる?」

「聞いてる。名前負けでもなんでもいいよ。わたしはお嬢様じゃないから。何度も言ってるけど、庶民なの。そこらにいる一般人」

「なんて夢のない子っ」


 うぅ……、と涼子が手で口を覆いながら泣く真似をする。まだそのネタを引きずる気か。


「あ、ほら、斎さんが来たよ」


 タイミングを見計らったように来た白い車を慌てて指し示す。あー、やっぱり目立つな。人が疎らにせよ、視線はその車に向かっていた。乗っている斎さんの容貌の所為もあるだろうけど。


「夢ちゃん、迎えに来たよ」


 わたしたちの前に停まった車。運転席の窓が開き、斎さんが顔を出した。


「斎さん……」

「なに?」

「やっぱ、なんでもない」


 恥ずかしいからやめてと言いかけたが言わないでおく。機嫌を損ねられればウザイだけだから。


「今日は猫ハウスに行くんだっけ?」


 わたしたちは同時に頷く。猫ハウスとは、学校付近にあるカフェのことだ。ただしくは『猫の家』という。店長のおじさんと調理師のおばさんとその息子さんと娘さんが営む小さな喫茶店。四人とも動物が好きらしいけど動物アレルギーで飼えない為に、店内にはここぞとばかりに集めた動物グッズが並べられていた。猫グッズが多いので、猫の家と名付けたらしい。


「僕もお邪魔していいかな?」

「どうぞ」


 斎さんの思いつきにきゆちゃんが言葉を返した。後部座席に乗りながら。三人並べば車が動き出した。


「なるべく邪魔にならないようにするから」


 にっこりと笑う斎さんは、毎度ながら低姿勢だ。物腰も柔らかいけど、娘を溺愛すぎるのを直してほしいな。願望にしかすぎないけど。

 斎さんから視線を逸らして窓の外を眺める。深みに嵌まればネガティブ思考になりかねないのだ。

 真ん中に挟まれた涼子はなぜだか上機嫌であり、その向こうのきゆちゃんもにこにこと笑っている。まぁ、わたしも機嫌はいいんだけど。というか上昇中。猫ハウスのお料理は美味しいし!

 ――それでも。なんだろうか。この寒気は。よくないことが起こる前触れ?

 わたしは自身を抱きしめ、小さく息を吐き出した。




 迎えるのなら、準備を。その男は小さくそう呟いた。

 自身の部屋――1LDKの賃貸アパートに戻った彼は息を切らしながらも口角を上げた。その部屋は殺風景であり、必要最低限のものしかない。その一つであるこたつテーブルに置かれたハサミが陽の光を受けて輝いていた。青のグリップのキャップ付きのハサミ。近所にある百円ショップで手に入れたそれは百円ながら使い勝手がよく、髪を切るのに用いていた。――理想的な髪を手に入れる為に。


「絶対、手に入れる」


 二度とないであろうチャンス。だから、どうしても手に入れたい。

 彼はそれを手に握りしめ、パーカーのポケットへと忍ばせ部屋を後にした。




 相変わらず猫ハウスは今日も賑わっている。小さな店の駐車場はやはり少ないので、あと一台しかない。停めるかと思いきや、斎さんは肩越しに振り返って言った。


「荷物置いてくるから、先に行ってて」

「解った」


 小さく頷いて、車から降りれば颯爽と走り去る。言われた通りに店に入れば、店内は賑わっていた。


「いらっしゃい」


 店長さんに声をかけられ軽く会釈をする。


「いまはそこしか空いてないけど、いい?」


 掌で指し示されたのは、窓際奥のテーブル席。四人掛けのそこは禁煙席である。まぁ、ここは店内禁煙だけども。


「大丈夫ですよ」

「よかった。じゃあそこで」


 店長さんは小さく笑って席に案内してくれた。腰を掛ければお水が運ばれてくる。そうして常套句である「ご注文が決まりましたらお呼び下さい」と言って離れた。メニューを見ながら外を一瞥すれば、駐車場の端からこちらを覗く男が見えた。あれは――。


「こっち見てる……」

「え、どうした夢?」

「なに、猫?」

「違う。あれ、あれっ」


 メニューから顔を上げた二人に気づかせる為に窓の外に目を遣る。次いで二人は視線を追い、そこを見遣った。


「うわ、見るからに怪しいんですけど」

「あの人――朝に見た人と似てるような……?」

「わたしもそう思う」


 涼子の言葉に小さく呟く。


「まぁ、いまは安全だしほっとこう」


 結論は早かった。店の中に入る素振りはない。――ならいまは安全だ。好きなことをしよう。


「わたしはシフォンケーキのチョコレートソース添えを頼むけど、なに頼む?」

「チョコレートパフェ」

「私はシフォンケーキの生クリーム添え」


 決まった注文に呼び出しボタンを押した。すぐに店長さんが来て、それぞれメニューを読み上げる。

 伝票に書き込んだ注文の間違えがないかを確認する為に注文の品を読み上げる店長さんに、わたし達は小さく頷く。


「はい。少しお待ち下さい」


 そう言った店長さんは店の奥に消え、わたし達はメニューを元に戻した。途端、白い車が見えた。荷物を置いてきた斎さんの車。奇跡的に空いていたあの駐車場へと停める。


「無駄に爽やかだ」


 車から降りた斎さんは。いや、いつも爽やかだけども。


「あれ、あの人どこかに行っちゃった?」

「本当だ。いないね」


 涼子ときゆちゃんの会話に耳をすましていれば、斎さんが隣に腰を下ろした。


「お待たせ。大紀にも電話したからそのうちに来るよ」

「え、大紀さんもですか!? スーツでですか!?」


 一気にきゆちゃんのテンションが上がる。一気すぎだよ、きゆちゃん。


「そこは大紀のことだから直帰でスーツだと思うけど、違ったらごめんね。雪子ちゃんは本当に大紀が好きだよね」

「好きといえば好きです。でも私は、スーツ姿の大紀さん限定ですけど」

「あははは、限定か。アイツのへこむ姿が浮かぶよ」


 わたしも浮かぶよ。床に座り込んでのの字を書く父さんが。ウザイくらいにへこむだろうな。


「お待たせしました」


 声と共にふわりと香る甘い匂い。頭にはすでに父さんの姿はなく、視線はトレーの上だ。並べられたケーキ類に心が躍る。


「シフォンケーキの生クリーム添えとチョコレートソース添え、コーヒーになります。チョコレートパフェはもう少々お時間を頂きます」


 丸いトレーに乗せられたそれらがテーブルに並ぶ。並べ終われば店長さんは空のトレーを手にまた店の奥に消えた。

 ふわふわのシフォンケーキにチョコレートソースがかかっている『シフォンケーキのチョコレートソース添え』。あぁ、美味しそうだ。食べ始めようとした時に、一つの疑問がわいた。


「斎さんはさ、いつコーヒーを頼んだの?」


 目前に置かれたコーヒーを飲み始める斎さん。ミルクも砂糖も入れないならブラックか。


「お店に入ってすぐ。待ち合わせしてることと一緒にね」

「ふぅん。――ほら涼子、ひとくち」


 フォークで一口大に切ったシフォンケーキを涼子の口へと運ぶ。


「ん、美味しい」

「はい、こっちもひとくちどうぞー」


 きゆちゃんも自身のシフォンケーキを涼子にプレゼントだ。モゴモゴと動く口がどことなく小動物に似ている気がする。――つまりは可愛いということ。

 チョコレートソース添えを食べたあとの生クリーム添えってどんな味になるんだろうか。チョコレートが勝つのか生クリームが勝つのか。それとも、生クリームチョコレート味になるのかな。


「――生クリーム添えも美味しいよ。早くパフェ来ないかなぁ」

「もう来るんじゃないかな。ほら、あれ」


 斎さんは視線だけを店内の奥へと向けた。その先にはチョコレートパフェを運ぶ店長さんの姿がある。それが机に置かれ、注文の品が全て揃ったことを確認した店長さんは伝票も置いてそこから離れた。


「お返し」


 そういえば、チョコレートパフェもチョコレートと生クリームの芸術品だと確認した。今更だけど。口に広がるのは生クリームチョコレート的な味である。


「きゆにもお返し」

「ありがと」


 そうしてそれぞれの頼んだ品を食べながら他愛もない話が続く。気づけば五時を回っていた。約一時間は駄弁っていたらしい。


「そろそろ帰ろうか」


 空はまだ明るいが、所々茜がかっている。五時を過ぎればそんなものか。


「会計するから、先に車に乗ってて」

「え、でも……」

「お金――」


 渡された車の電子キーを握りしめたわたしと席から立ち上がる斎さんを余所に、涼子ときゆちゃんはカバンから財布を取り出そうとした。が、やんわりと斎さんは言った。


「いつもお世話になっているお礼だから、お金はいいよ」


 ――紳士だ。爽やか紳士がいる。目の前に。


「じゃあ……お言葉に甘えます」

「私もきゆと一緒に甘えることにします」


 二人は斎さんに軽くお辞儀をして席を立った。わたしも席を立ち、三人並んで入り口へと向かう。外に出れば涼しい風が通り抜けた。


「美味しかったー」

「やっぱ喋ってると時が経つのが早いね」

「喋ってなくても早いでしょ」


 駄弁りながら車に向かう途中、気づいた。店の中を覗いていた男の姿に。フードを目深に被ったその人物は足早にどんどんこちらに近づいてくる。


「夢!」


 はっとしても動けない。恐怖で足が竦んでしまったのか。もう目の前まで来た。これはヤバイ。


「お願いします!」


 どうしようかと思えば突如、その人は勢いよく土下座をした。三つ指を揃えて。


「えぇ~……?」


 なに、え、なにこれ。殴られるかと思えば土下座。思わず力が抜ける。

 罵詈雑言で負かそうとか折り畳み傘で攻撃とか全然出来なかった。目の当たりにすれば無力になるらしい。


「――貴女の髪を下さい!」

「はい?」


 なにを言っているのか意味が解らないにもほどがある。すっとんきょうな声を出しつつ首を傾げれば、フードが消えた。いや、男が迫ってきたのだ。その手にハサミを持ちながら。


「……っ!」

「なにをしてるのかな?」


 刺されるのかと身を縮めれば、声と共に後ろに引かれた。ハサミの先は空を切って刃を合わせる。


「僕の大切な娘になにをしてるか聞いてるんだよ」


 辺りに響くのは静かに語る声だ。だが色濃く怒りが滲んでいる。


「斎さん……」

「それ、危ないからこっちに渡しなさい」


 わたしの肩を掴みながら斎さんは手を差し出す。多分、睨んでいるんだろうな。斎さんは声を荒げることはないけど、怒りは隠さないから。


「五月蝿い! 邪魔をするな!」

「邪魔はそっちだっつの」


 ハサミをもう一度振り上げようとした矢先に、男の首根っこを父さんが掴む。動けない彼は肩越しに振り返った。父さんは気にも止めずに片手を上げる。


「遅すぎない?」

「悪い。企画部と営業がトラブって応援に呼ばれてた」

「それはそれは。いいからその手を離すなよ。糞ガキにハサミは、凶器にしかならないから」

「はいはい――っと! 暴れんなって」


 暴れだすその人のフードがずり落ちる。いやうん、目深だし、大きいとは思ってたんだけど。


「――うわ、見るな!」


 すぐにフードを被り直したけど、垣間見た顔は童顔だった。背丈に合わず。何歳なんだろうか。


「……君、何歳?」

「何歳でもいいだろ!」


 斎さんの言葉に逆上したらしい男は、父さんに肘鉄をくらわした。痛そうだ。現に、「ぐふっ」と声を出して首根っこを掴む手が離れた。鳩尾辺りに手を添えて丸まっている。


「手を離すなって言ったよね?」

「いや……斎……いまの、見てただろ……」


 丸まりながらも斎さんを見上げる父さんは目に涙を溜めていた。辺りじゃなくて、鳩尾にヒットしたのかな。だとしたら痛すぎるか。


「見てたよ。来るのが遅いわりに役に立たずに年下に打ち負かされてるバカな大紀をね」

「……毒舌だな……」


 怒っているから刺々しいのも仕方ない。それでも父さんはそれを受け入れるんだけど。


「いい加減にその子を渡してよ。――この子と交換」

「へっ!?」


 痺れを切らしたらしい男は、きゆちゃんに近づいて羽交い締めにした。それは一瞬の出来事であり、父さんも斎さんも涼子も、もちろんわたしも動けなかった。ぽやんとしているきゆちゃんを狙うなんてなんて奴だ。


「早くしないとこの子の髪の毛を切っちゃうよ?」

「え?」

「――ちょっ……!」


 なにを考えているんだ。素人が切れば変になることが丸解りなのに。いや、これは――解っているからこその脅しだ。徐々に刃先がきゆちゃんの髪に添わされる。


「待って! あなたの狙いはわたしだよね?」


 狙われているのはわたしだ。きゆちゃんじゃない。


「解ってるじゃん。そう、貴女だよ。でもさー、君が渋るからこの子が痛い目に遭うんだよ?」

「ふざけないで」


 きゆちゃんは男を睨み付けた。と同時に足を踏みつける。咄嗟の判断が出来るきゆちゃんは凄い。


「いっ……!」

「髪を切るなら美容院に行きます! 貴方に切られる筋合いはありませんからっ」


 怯んだ男に指を差して言い放つ。ぷりぷりと怒りながら言うが、論点がずれていると思うんだけど。


「それも違うよきゆ」


 すかさず涼子がきゆちゃんの腕を引き、前に出た。男を睨み、言葉を紡ぐ。


「危ないから、下がってて」

「君も邪魔。結構好きな髪だけど、あの子の髪を見たあとじゃ食指が動かないや」


 今度は涼子にハサミを向ける。ダメだ。もう我慢できない。

 斎さんを押し退けて男に近付き、思いっきり平手打ちをくらわす。身長が高いから、背伸び状態。辛いからすぐにやめたけど。その衝動でまたフードが落ちて、童顔が露になった。顔はいいのに、こんなことをするなんてもったいない。


「もうやめてよ。もしかしなくても髪フェチっぽいけど、それでもわたしの大切な人を傷付けていい理由じゃない。――ほしいならあげるから、もうやめて」


 髪フェチ男からハサミを引ったくって、縛ってある髪に添えた。長いそれは年月をかけてのばしてきたけれど、願掛けをしているわけじゃないから切る分には問題ない。わたし以外には問題がありそうだけど、無視を決め込む。


「ゆ、ゆゆゆっ、夢ちゃん!?」

「夢っ、おま、お前なにを――」


 案の定慌てる二人。涼子ときゆちゃんは唖然としているんだろうな。


「五月蝿い、外野は黙ってな。これはわたしと髪フェチ野郎の問題だから」

「夢ちゃん言葉が変だよ……」


 そりゃキレてますからね。あんなことをされてキレないでか。

 斎さんを見遣れば、額に手を添えながらため息を吐いていた。もう止めようがないと諦めているようだ。


「夢、夢っ、やめなさい。いいか夢、そのハサミを父さんに寄越しなさい。つか寄越せ! ダメだからな! 父さんはそんな風にハサミを使うことなんて教えてないからなっ」


 不承不承だが心を決めた斎さんに反して、父さんは慌てながら言うから、イケメンが台無しである。もったいない。


「五月蝿い、喚くな。髪なんてまた生えるでしょ」


 それに、ちょっとだけ鬱陶しいと思っていたから。まぁ、イメチェンだと思えばいいし。軽い軽い。

 勢いに任せてハサミを動かせば、パサリと髪が落ちていった。と同時に「うわぁあぁー!」と父さんが叫ぶ。絶叫と呼ぶに相応しい叫びを辺りに響かせてその場にへたりこんだ。どうやら大いにダメージを負ったらしい。真ん中辺りを切ったし、全部切ったわけじゃないんだけどなぁ。


「約束してよ。もう犯罪に走らないって。そうしないとあげないから、これ。本当は念書を書いて血判を捺してほしいところだけど、証言者はたくさんいるから念書はいいや」

「血判って……。物騒な物言いだね」


 斎さんが歩み寄り、肩を引き寄せる。


「当たり前でしょ。ターゲットはわたしなのに、きゆと涼子を危ない目に遭わそうとしたんだから」


 物騒でもなんでもない。そう紡げば、斎さんは「確かにね」と頷きながら目を輝かせる男を一瞥する。


「――でもね、僕と大紀は、夢ちゃんも危ない目に遭ってほしくはないんだよ」

「そ、それはただの親の欲目でしょっ」


 親だったら誰だって思うことだろう。自分の子供に危ない目に遭ってほしくないなんて。


「バカ。欲目でもなんでもねぇし。俺達は夢も涼子ちゃんもきゆちゃんも大切なんだ。三人を傷付けることは即ち――死を意味するんだぜ?」

「大紀、死はないよ。人間は死んだら終わりなんだから、半殺しで生き地獄を味わわせないと」


 一体どっちが物騒なのか――。


「父さんたちの方が物騒だからね! もうあっちに行ってて。ややこしくなるでしょ」


 第三者が入ろうものならまたおかしくなる気がする。そうなれば更に面倒だ。


「約束するよ。だから! だから早くっ!」


 なんか手の動きが危ないし息も荒いんだけど。好物を目にした動物にも見える。


「あ、えっ、はいどうぞっ」


 その迫力に思わず、髪切り魔の掌に切った髪を乗せた。


「あぁ……、美しい」


 うっとりとした目で髪を見据える男は、やはり髪フェチらしい。髪とわたしたちを見る目があからさまに違うのだ。唖然とするしかない。


「夢ちゃん、逃げるよ。野次馬も五月蝿いけど、警察サツが来ると事情聴取とかいろいろ面倒だから」


 髪フェチ男を眺めていれば、ぐっ、と肩を掴まれてそう囁かれる。警察のことをサツって呼ぶのか、斎さんは。


「大紀」

「はいはい」


 電子キーを手から奪った斎さんはそれを父さんに向かって投げ捨てた。父さんは父さんできゆちゃんと涼子の背中を押して斎さんの車に乗せる。わたしも斎さんに背中を押されて車内に乗り込めば、斎さんの手が切った髪に触れた。


「本当にもったいないな。綺麗な髪だったのに。夢ちゃんは美容室に行こうね。大紀は大紀で着いてくるから心配ないよ」

「はぁ……」


 展開に着いていけない。普通は事情聴取だかなんだかを受けなきゃならないはずなんだけど。ぼんやりと眺めていれば、斎さんが運転席に座っていた。すぐにエンジンをかけ、車は発進する。


「夢」

「きゆちゃん?」


 腕に手を回され、ぎゅっと抱きしめられる。これは。――アレだ。


「あの人、殴ればよかったな……」


 ぽそりと呟かれた言葉に、もう一度きゆちゃんを見遣る。その目は完全に据わっていた。あ、これキレてる。やっぱりだ。


「大丈夫だから。落ち着いて、きゆちゃん」

「そうだよきゆ。落ち着いて。夢は傷ついてないよ」

「……なら、いいけど」


 きゆちゃんがキレると厄介だ。いやまぁ、キレると厄介なのは父さんも斎さんも涼子も変わらないけど、それでもきゆちゃんよりはマシ。大人しい人がキレると恐いという言葉を地でいっているから。

 たぶん涼子はあの時に気づいたのだろう。だから、きゆちゃんをフェチ野郎から引き離したんだ。きゆちゃんはきゆちゃんで、あの時からふつふつと怒りがわき上がっていたんだろうな。そしていま爆発した、と。

 きゆちゃんはわたしの髪に手を伸ばして、小さくため息を吐いた。憤りが消えたのか、ほわほわと暖かな雰囲気で、きゆちゃんの顔はいつもと変わらない。やっぱりこっちのが好きだな。可愛いし。


「髪の毛、もったいない」

「切ったのは半分だから大丈夫。それより、せっかく可愛いシュシュを買ってもらったのに、ごめんね」


 髪をいてもらうだろうから、ムダになっちゃうか。いや、短くてもつけれることにはつけれるかな。


「ううん。夢が無事ならそれでいいよ。シュシュもシュシュらしくできて誇りに思ってるよ!」

「そうだといいけどね」


 シュシュの替わりだろうか、誇らしげに言い放つきゆちゃんがときどき解らない。


「三人とも、もうすぐマンションに着くから」

「あ、あぁ、うん」


 その言葉に頷けば、バックミラー越しの斎さんがふと笑みを溢した。


「雪子ちゃんは面白いね」

「え、えぇっ!? 面白くないですよっ」


 あわあわと手を振るきゆちゃんの顔は、恥ずかしいのか赤く色づいていく。やっぱり、きゆちゃんはきゆちゃんだ。そりゃ他人だから、解らないこともあるよね。だから話したりするんだし。


「斎さんの言う通りに、きゆちゃんは面白いよ」

「そうそう。まぁ、きゆは面白いというより天然だけどねー」

「面白くないからね! もー、夢も涼子も怒るよ!」


 きゆちゃんの言葉に、わたしと涼子は目を合わせて頷きあう。きゆちゃんはからかいがいがあるけど、キレられるのはごめんだ。


「ごめんごめん」

「きゆちゃんごめんね」

「謝ってくれたからいいよ」


 にこりと笑いながら、もう着くねとの言葉。促されて窓の外を見れば、マンションが目の前にあった。


「はい、到着」


 車をエントランスに横づけし、斎さんは振り返る。


「雪子ちゃんも涼子ちゃんも、今日はここまでで終わり。あとは僕と大紀の仕事だから」


 「ね?」と微笑む斎さんのオーラは半端ない。感じるのは、大人の余裕と苛立ち。半々ではなく、苛立ち八十パーセントといったところだろうか。これ以上は立ち入れないと踏んだのか、涼子もきゆちゃんも大人しく後部座席から下りていった。


「夢、明日ね」

「また明日」

「うん。明日」


 ドアを閉めれば涼子はエントランスに消え、きゆちゃんはエントランスの階段を下りて駆けていく。残念ながらきゆちゃんはこのマンション住まいではなく、ここからそう遠くない一軒家に住んでいるのだ。だから一緒に登校することもあったりする。

 窓から視線を外して運転席にいる斎さんを見遣れば、前髪を掻き上げて大きく舌打ちをした。


「とりあえずあのクソガキを殴り飛ばせばよかったかな」

「斎さんが殴り飛ばしたら相手が大変なことになるから、殴り飛ばさないで正解」


 というか、殴り飛ばしていれば、逆に斎さんが傷害罪だか暴行罪だかで捕まると思うんだよね。


「それはやってみないと解らないよ。あぁ、でも周りがうるさいか……。夢ちゃんの言う通りに、やっぱりやめて賢明かな」

「そうそう。賢明だよ」

「あ、そうだ。忘れてた。アイツの店に電話しないとね」


 ちょっと待ってて、と携帯でどこかに連絡をし始めた。どこかは「アイツの店」ということだから、行きつけの美容室だろうな。


「――じゃあ、大紀が来たら行くからよろしく」


 そう言って通話を切った斎さんは窓を眺めだした。釣られるようにわたしもまた外を見れば、そこには青い顔をした父さんがいた。来るのが遅いからなにをしているのかと思ったんだけど、なにをしてたんだろ。

 助手席のドアを開けて乗り込む父さんは、斎さんに向けて片手を上げる。


「まくのに手間取った」

「追いかけられたんだ? それは大変だったね」

「ああ見えて、アイツ走るの速いぞ。振り切れたからよかったものの、車に戻るのに体力使いすぎたわ」


 どこにそんな力があるんだよ、と父さんはげんなりとした顔をする。余程追いかけ回されたんだろうなぁ。


「興味ないからどうでもいいけど。店に電話したから早く行こうか」

「おう……」


 父さんがネクタイを緩める間、斎さんは父さんの頭を撫でていた。その甘い雰囲気に酔わないように両頬をつねる。飲まれたら終わりだからね。目の前でいちゃつかれたらいい気はしないけど、二人ともわたしの為に頑張ってくれたからご褒美をあげる。いつもは悪態をつくけど、いまはなにも言わない。――それがご褒美。思う存分、いちゃつけばいい。でも、早く終わってね。


「夢ちゃん、なにしてるの?」

「にらめっこか?」

「なんでもないから……」


 二人に見つめられて頬から手を離す。二人とも怪訝な顔でわたしを見ているから急に恥ずかしくなってきた。


「早く行こうかいますぐに!」

「夢ちゃんが言うなら」


 斎さんは小さく笑いながらすぐに車を動かし始めた。堪えきれずに視線を外して、また外を見る。薄い闇に覆われた空に三日月が浮かんでいた。ぼんやりと外を眺めているうちに、どうやら寝てしまったらしい。ふと意識が浮上したかと思えば、ゆっくりと瞼が上がる。視界に広がるのは二つの顔。


「……あ……、あ?」

「おはよう」

「おはよう、ございます……?」


 なにがなんだか解らずに、斎さんに挨拶を返す。徐々に鮮明になる頭で考えられる答えは一つしかない。もしかしなくても。


「寝顔――見てたよね?」


 ふたりして。絶対に見てたな。


「見てたよ。夢ちゃんが車の中で寝るなんて珍しいし」

「そりゃあ、寝顔を見せたくないから。恥ずかしいし」


 ああもう、寝るんじゃなかった。けど眠たくなってきちゃったんだよね。いろいろあって疲れたからかな。理由はどうあれ、これも全部フェチ男の所為だよね!


「俺はカメラに収めたぞ」

「なにしてんの! 消して! 消さないともう話さないから」

「消させていただきます」


 早っ。ちゃんと消したから、と携帯を見せられるけど、本当に消したかどうかは解らない。いや、父さんなら短時間でしっかりバックアップ済みだろうな。それを考えれば、なんかもうどうでもいいことかもしれない。どうせ夜中に寝顔を見られてるんだろうし。


「降りる」

「え、ちょっ、夢っ」


 慌てる父さんを無視して車から降りれば、心地好い風が頬を触った。


「夢ちゃん、こんにちは。遅いから迎えにきちゃった」

「あ、トモさん。こんにちは」


 わざわざ店から出てきたトモさんは、にこにこと笑いながら片手を差し出す。その綺麗な手を眺めてから首を傾げた。意味が解らないから。


「トモさん?」

「ん? カバン、持とうかと思って。リュウの言った通り、大変なことになってるね。夢ちゃんの髪」


 あーあ、とトモさんは心底残念そうに呟いた。トモさんは色男で、父さんと斎さんの同級生になる。確か高校からの友達だとか言ってた気がする。初めてここに来た時に。

 トモさんが店長をしている美容室『のくら』はこの辺りでは結構有名だったりする。なんせ店員が美男美女ばかりだから。しかも話しづらいとかはなく、皆気さくらしいし。そりゃあ、食いつくよね。


「あ、いや、持ってもらわなくても大丈夫です」

「そう? ならこちらへどうぞ」


 肩に手を置かれてエスコートされながら店内に足を踏み入れれば、カバンを貴重品ロッカーへと入れられる。いまや多くの店にあるであろうそれも、この店に合うようにデザインされていた。


「はい、カギ」

「ありがとうございます。あと、予約もなしにいきなりすみません」


 カギを受け取り頭を下げる。そうすれば、トモさんは小さく吹き出して笑い声をあげた。


「全然謝ることはないよ。いまはお客さんも少ないし大丈夫。それに、断ったら後でリュウとガラに嫌みを言われるからね」


 トモさんが言うリュウとガラとは斎さんと父さんのことである。『龍堂斎』だからリュウで『相良大紀』だからガラ。初めて聞いたときに安直だと思ったのは内緒。


「トモ、俺ら奥に行ってていい?」


 いつの間にか追いついていた父さんは店の奥を指し示した。斎さんは父さんの後ろで様子を窺っている。


「いいけど、汚さないでね。あと手を出したら殴るよ?」

「誰が汚すか」

「そうだよ。手もださないし。僕たちは嫌というほど解ってるしね」


 やれやれといった感じに斎さんが肩を竦める。だよなー、と父さんは同意したように頷いてから斎さんを連れて店の奥に消えていった。ここは美容室であるけども、その奥と二階が住居スペースとなっているのだ。奥には行ったことがないから、どうなっているかは解らないけどね。


「まぁ、リュウとガラなら大丈夫か。夢ちゃん、待たせちゃったね。今日はどうする?」

「切った髪に合わせて切り揃えるのと、髪を梳いてください」

「シャンプーはしなくていい?」

「はい。大丈夫です」

「解りました。こちらへどうぞ」


 一度頭を撫でられて、席に案内される。一番奥のイスに座れば、すぐさま散髪のセッティングがされた。シュシュもゴムも外され、垂れる髪が鏡に映る。


「あれ? トモさんその指――」


 左手薬指にはシルバーのリングが光っている。細いそれは二ヶ月ほど前に来たときにはしてなかったから、その間になにかがあったんだろう。


「ん? あぁ、これ? ちょっと厄介ごとに巻き込まれそうだったから」

「言い寄られてる、とか?」


 トモさんならあり得るな。いや、トモさんじゃなくても、この店の人たちなら誰でもありそうか。


「はっきり言うね」


 苦笑するトモさんを見るに、やっぱりそうなんだ。トモさんなら女の人のひとりやふたりや三人に言い寄られていても不思議じゃないし。むしろ、ハーレム状態でも納得してしまう。


「まぁ、どうこようとも、俺は一番大切な人しか見えてないんだけど」

「え!? トモさん恋人いるんですか!?」

「いるよー。最近は冷たいんだけど、そこがまた可愛いんだよね」


 柔らかな笑みを浮かべるトモさんを見て解った。これは言い寄られても仕方がないと。確かにこの顔を見せられたら、落ちるしかないかも。――いや、わたしは落ちないけど。恋人がいることを知ったし。それに、恋人がいる人に落ちたら危ういことこの上ないしね。


「美容師になったのも、その人の髪を切りたかったからなんだよね。散髪代って意外にかかるし。まぁ、いまは格安店もあるけど。資格を取ったときに、浮いたお金を好きなことに使ってほしいからって言ったら、バカかって罵られたよ」


 次々に作業をこなす間も、トモさんは笑みを溢していた。うーん……、トモさんは天然なのかな。この顔を向けられっぱなしは体温が上がってきちゃうんだけど。でも――。


「トモさんは恋人さんのことが本当に好きなんですねー」


 この顔は恋人さんを想っているからだよね。父さんといい斎さんといい、想う相手がいて羨ましいかも。


「――うん。大好き。あ、いまの内緒だよ。世間話でも、誰かに自分のことを話したなんてバレたら怒られるし。夢ちゃんもそういう人に出逢えればいいね。いや……、あの二人がいるから難しいかな?」

「父さんと斎さん?」

「そう。俺が言うのもなんだけど、親バカすぎるよね。彼氏ができた、なんて知れたら泣きながら愚痴を言ってきそうだし。まぁ、大抵の親はそうかもしれないけど」


 ハサミを動かしながらくすくすと笑うトモさんに、「店長ー、電話が入ってます」と声がかけられた。美女で美声のオプションはズルいと思います。


「ちょっとごめんね」


 作業を中断し、その場から離れたトモさんを一瞥して、鏡を見据える。肩を越していた髪は、いまや肩ぐらいになっていた。髪の量も減って、動きやすくなったかも。

 それにしても、いまはお客さんも店員さんも女の人の率が高いな。トモさんは黒一点か。それでもトモさんが放つオーラはなんら遜色がなかった。さすがイケメン店長。


「夢ちゃん、お待たせ」

「電話……、大丈夫ですか?」

「うん。友達だったから適当に切り上げた。大した用事でもないから大丈夫だよ」

「そうですか」


 作業をし始めるトモさんに視線を遣れば、トモさんは首を傾げる。その少しの動作でも、フェロモン垂れ流し。


「なに? 俺の顔になにかついてる?」

「いえ……カッコイイなぁって思って」

「ありがとう。夢ちゃんも可愛いよ」


 囁くように言われたその言葉に、顔に熱が集まった。こんなの意識しない方が無理だから! トモさんは無意識に異性を振り向かせる天才か。


「――でも別にカッコよくないからね。俺よりカッコイイ人なんてたくさんいるし」


 紡がれたのは謙虚。こういうところが、モテる要因なんだろうな。きっと。

 その後も他愛もない話をすること五分弱。カット作業が全て終わった。首に巻かれたタオルとカットクロスを外され、鏡に映るトモさんが笑う。


「はい、お疲れ様。後ろはこんな感じだけど、大丈夫?」


 渡された手鏡に後頭部が映る。というか、映るようにイスを動かしていた。肩の少し下辺りに髪が切り揃えられている。前までは余裕で肩を越えていたから、すごく軽い。


「大丈夫です」

「あ、一応髪が結えるようにしてあるからね。好きにアレンジして楽しんで」

「はい。ありがとうございます」


 カウンターの上に置かれたゴムとシュシュを手首に嵌めてイスから立ち上がれば、頭を撫でられる。


「あの……?」

「あ、ごめん。雰囲気が似ているからつい……」


 ふたたび「ごめんね」と謝るトモさんに、気にしてないですよと頭を横に振る。恋人さんとそんなに雰囲気が似ているのなら仕方がないし。


「トモー、お前コーヒーなに派――って、あぁ、終わったのか?」


 奥から顔を出した父さんは、一度引っ込んでまた顔を出す。今度は斎さんも一緒に。奥からこちらに歩み寄る二人はうんうんと頷いていた。


「可愛くなってるね」

「可愛くないから」


 斎さんは一言言って、レジに行く。父さんは父さんで頭を撫でながら、目に涙を浮かべていた。たかだか髪を切っただけなのに、ちょっと大袈裟すぎるって。


「一時はどうなるかと思ったけど、よかった」

「帰るよ。って、なんで泣いてるの? いい大人なのに、涙脆いのは変わらないね」


 会計を終えたらしい斎さんが深く深くため息を吐きながら父さんにハンカチを渡す。斎さんのその言葉にトモさんは噴き出して、父さんは「うるせぇな」と乱暴に涙を拭った。


「はいはい」


 さらりとかわす斎さんは、それでも目を細めていた。返されたハンカチを仕舞い、父さんの腕を引いて店を出る。「ありがとうございました」というトモさんを含めた店員さんの声を聞きながら、わたしも二人の後を追った。

 帰りの車の中で、なんだかんだ言いつつも、関係性は斎さんの方が強いんだなと改めて思う。まぁ、父さんは少々ヘタレた部分があるから、必然的に斎さんが強くなるのも解るけど。それに、家事もできないわたしたちにとっては、斎さんはお母さん的なポジションにいる。縁の下の力持ち――謂わば影の一番強いポジションである。逆らえば雷を落とされるというね。


「夢ちゃん?」

「んー……なに?」

「なにか変なことを考えてるでしょ?」

「まさか。斎さんはカッコいいなって考えてた」


 やばいやばい。勘が鋭いのを忘れてた。慌てて言い繕えば、斎さんは肩を竦める。


「あまりへんなことを考えてると、頭がパンクするよ?」


 「夢ちゃんは考えすぎる癖があるんだからね」と注意をされてしまう。うやむやにされて、わたし的には大勝利である。雷を落とされたら堪らないし。


「短くなったけど髪は縛れるし、やっぱトモは巧いな」

「そりゃ、美容師だし」

「そう言われりゃそうだけど」

「今度大紀も切りに行ったらいいよ。髪も伸びてきたし」


 片手をハンドルから離し、父さんの髪に触れる。それはそれはさりげなく。


「そうするわ」


 ああ、そう。そうですか。どちらが強くても、結局二人はイチャイチャするんだね。目の前でさ!

 呆れつつ視線を逸らして、また窓の外の景色を眺める。いつしか空は、茜色が少し混じる紫色に覆われていた。綺麗だなとごちりながら、ふたたびそのままぼんやりと視線を彷徨わせれば、そうこうするうちに駐車場に車が止められる。運転席と助手席から同時に降りる二人のタイミングのよさに、辟易した。そこまで見せつけなくてもいいじゃないですか。

 ため息をつきながらのろのろと後部座席を降り、さっさとエントランスへと向かう。これ以上仲のよさを見せつけられたら、虚しさが募るだけだからね。後をついてきているであろう二人を見向きもせずに、そのまま進み続ける。エレベーターに乗り、素早くボタンを押すのは、二人が乗り込んできたら嫌だからである。

 浮上するエレベーターに苦い顔をし、そうして降りる階で降りた。もう少しなんとかならないかな。あの浮き上がる感じを抑えるとかさ。まぁ、なんとかならないことは解ってるけど。そう諦めて、いつものように廊下を進めば、部屋の前に人影を見つけた。近づくにつれて解るのは、それが彼女だということだ。


「夢、おかえり」

「涼子? なんでここに――」


 「いるのか?」と問う前に口を開いた。


「心配できちゃった。イメチェン成功だね、可愛いよ」


 揃えられた髪を撫でる涼子は、ふふふと笑う。


「ありがと」

「きゆに写メ送っていい?」

「いいけど。――って、わっ!?」


 腕を引かれて涼子を見れば、「せっかくだからツーショットにしよう!」とはにかんだ。


「はい、笑って」


 釣られて笑えば、シャッター音が響く。


「うん、可愛く撮れてる!」


 涼子はそう言いながらタッチパネルを弄る。タッチパネルということで、涼子の携帯はスマートフォンだ。


「送信っと……。じゃあ、夢、明日ね」

「はいはい」


 携帯をしまい、ヒラヒラと手を振りながら駆ける涼子に手を振り返す。本当に元気だよね。かくいうわたしは、どっと疲れがでてきたらしい。肩がどことなく重く感じる。


「まぁ……いろいろあったし」


 しかも一日で。まさかのジェットコースター並に。

 欠伸あくびをしながらドアを開けて、さっさと自分の部屋に行く。いやなんか、また眠くなってきたから。

 カバンを学習机のイスに置けば、扉が開かれる。肩越しに振り返れば、父さんが立っていた。携帯を片手に持ちながら。


「夢」

「なにか用?」

「いま下に警察来てんだけど、被害届出すか?」

「はぁ? 警察って、なんで?」


 父さんの言葉に眠気は飛んでしまう。というより、吹っ飛んだ。


「いや、猫ハウスの店長が呼んだらしくてさ。俺たちが『のくら』に行っている間にあのクソガキは捕まったよ。お前の髪を離さないんだと」

「髪フェチだからじゃないの? だから、髪切り魔なんでしょ」

「フェチすぎんだろ。――って、そうじゃなくてだな……。被害届だよ、被害届」


 「どうするんだ?」と問う父さんに頭を振る。被害届を出すなんて、いろいろ面倒くさそうなんだよね。ぶっちゃければ。なら――。


「別に出さなくていいよ。被害なんてないし」

「バカ野郎! 髪を切られただろ?」

「いや、切られてないからね」


 わたし自身が切ったのであって、誰かに切られたわけじゃない。父さんは記憶を書き換えている。目の前で見ていたのに。いや、目の前で見ていたからこそ、書き換えたのだろう。叫んでたしね。


「そりゃあそうだけど……」


 ありゃ、違った。記憶を書き換えているわけじゃないみたいだ。怒りの矛先を捜している感じかな。


「わたしはどこもケガをしてないし」


 「大丈夫」と言えば、観念したのか、父さんは耳元に携帯を押し当てた。どうやら斎さんと話をしているらしい。「被害届は出さないんだと」と聞こえてくるから。


「斎、すぐに来るから。俺は着替えてくるわ」


 そう言って扉を閉めた父さんから視線を逸らして、ベッドを見遣る。そこにあるのは畳まれたジャージだ。朝脱ぎ捨てて畳んだそれに手を伸ばす。


「わたしも着替えよ」


 いつまでも制服は煩わしいからね。

 さっさと着替えを済ませてリビングに赴けば、斎さんがリビングのドアを開けて足を踏み入れた。


「夢ちゃん聞いてよ。警察サツに、『勝手なことするな』って怒られたんだよね。髪の毛を切ってしまったから証拠がないとかなんとか……。だったら早く来いって話なんだけど」


 眉を寄せて軽く舌を打ちながらネクタイを解く斎さんは、すぐに顔を戻した。


「ま、僕たちにも多少の否があるし、怒られるのも仕方がないか。じゃあ、僕は着替えてくるから、ちょっと待っててね」

「はいはい」


 リビングから出ていく斎さんに軽く手を振り、イスに腰を下ろす。そうして、片手で頬杖をつきつつ片手でテレビのリモコンを弄る。適当にチャンネルを変えれば、ニュース番組がやっていた。この時間帯はほぼニュース番組しかないし、チャンネルを変えるのも面倒臭いからとそのまま眺めていれば、ラフな格好へと着替えた二人がリビングへと戻ってきた。


「待たせたな。あー、腹減った」

「すぐに用意するから待っててね」


 斎さんはイスに掛けてあるエプロンを片手に取り、冷蔵庫を開ける。昨日の残りのモヤシ炒めやスーパーで購入した諸々をテーブルに並べだした。


「昨日の残りでいいかな? そうしたら冷蔵庫が片づくんだけど」

「わたしはいいよ。なんでも」

「俺もなんでもいい。腹に入れば一緒だろ」

「ありがとう。すぐに温めるね」


 くすりと笑みをこぼし、ふたつの惣菜を電子レンジで温め始める。何度かテーブルとレンジを往復し、机上には温められたおかず類が並べられた。パックのままや、お皿に移し変えたものと色とりどりの。

 温められている間にわたしが洗ったお茶碗に斎さんがご飯をよそい、「いただきますと」箸を手に取る。いくら不器用だからって、お茶碗と箸ぐらいは洗えるからね。

 駄弁りながらの夕食は三十分とかからない。話の内容は他愛もないことだ。「今日は大変だった」や「クソガキが逮捕されてよかった」や「明日の夜はなににしようか」など。一瞥したテレビから流れるニュースは、いつの間にか天気予報に変わっていた。天気予報士のお兄さん曰く、明日も晴れるらしい。


「ふはぁー、いいお湯だった」


 一服したあとのお風呂は気持ちいい。いや、一服しなくても気持ちいいけども。

 リビングに戻れば、父さんはソファーで寝ており、斎さんは電話口に立っていた。誰かと話をしているようだ。なるべく音をたてないように一人がけ用のソファーへと歩み寄り、そこに腰を下ろした。テレビの音もふたつぐらい下げてやる。

 数分すれば、「じゃあまた」と受話器を戻す。振り返った斎さんと目が合えば、斎さんは冷蔵庫へと歩を進めた。その中からお茶を取り出して、コップに注いでいる。そうしてそのコップを手に、わたしが座るソファーへと歩み寄ってきた。


「お風呂気持ちよかった?」


 はい、と渡されるコップを受け取りながら小さく頷いて、口をつける。


「トモから電話がきたんだ」

「トモさんから?」

「どうやらトモの店にも警察が行ったらしくてね、トモも注意されたんだって。この年で怒られるとは思わなかったって、笑ってたよ」

「嘘でしょ……。迷惑かけちゃったな」


 警察め。余計なことをしおって。


「大丈夫。僕たちは高校時代から多少なりとも迷惑を被ってるからね。たまにはこっちから迷惑をかけても、バチは当たらないと思うな」


 そう言って笑う斎さんは、父さんに近づいた。


「大紀、僕はお風呂に行くから」


 軽く揺すりながらそう一言放ち、リビングを出ていく。

 斎さんが戻ってきたのは、二十分近く経ってからだ。タオルで髪を拭きながらも、仄かに赤い顔が未だ寝ている父さんに向く。


「さっさと起きなよ。それとも、お前朝風呂派になるの?」


 斎さんは父さんを足蹴にし、今度は足で揺さぶっている。


「朝風呂は、面倒だ……」

「なら、早く入ってきな」


 足を退けた斎さんのタイミングに合わせたように父さんは起き上がる。一度躯を伸ばし、頭を掻いた。


「風呂、行ってくるわ……」


 ソファーから立ち上がり、欠伸をしながらふたたび頭を掻く父さんはのろのろと歩き出した。のろのろなのは、まだ寝起きだからだろう。

 スーツ限定ながらも、きゆちゃんが好きな父さんはこんなんだ。見たら幻滅するんだろうな。それか、ギャップ萌えというやつでどうにかなるかも。いや……ならないか。


「夢ちゃんが見てるドラマ、もうすぐ始まるよ?」

「うわ……、大変だ!」


 チャンネルを変えて、小さくした音量も元に戻す。いま見ている学園モノの連続ドラマは、所謂青春謳歌ものだ。視聴率が低いらしいけど、なんだかんだでなかなか丁寧に作り込んであって、見ていて面白い。

 ぼんやりとではなく真剣にドラマを見ていれば、父さんが戻ってきたようだ。リビングのドアを開ける音を聞いただけだから、後は知らないわけで。CM中に一瞥すれば、また寝転がっている。腰を下ろしている斎さんの隣で。寝転がっているから、足が膝枕をされている状態だ。


「やべぇ……眠くなってきた」


 そう小さく漏らした父さんの尻を斎さんが叩く。


「こんなとこで寝ないでよ。運ぶの面倒だから」


 冷たいなと口を尖らせながらこぼす父さんは、ふたたび尻を叩かれる。


「冷たくない、普通」

「そうだな。高校時代から変わんねぇよな、俺の扱いは」

「今更いちいち変えるのも面倒じゃない。大紀は大紀だし」


 バカだしアホだしと紡ぐ斎さんは笑みを浮かべた。「変わってないな」と。


「バカとアホは余計だからな」

「ごめんごめん。つい、ね」


 二人のやり取りを尻目に、ドラマに向き直る。危ない危ない。CM終わりを見過ごすとこだった。

 後半も真剣に見て、次回予告が流れたあとにチャンネルを変える。またいいところで終わってしまった。まぁ、ドラマやアニメは大抵引きで終わるから、しょうがないけど。


「ん~、面白かった」


 躯を軽く伸ばして、ソファーから立ち上がる。


「歯磨いてくるから」


 見たいドラマは見たし、あとは寝るだけだ。ドラマは十時から始まるしね。


「俺も行くわ」


 わたしの声に父さんも立ち上がり、二人で洗面所へと向かった。素早く動いたのは斎さんに怒られない為だと察する。しかし何度も小言を言われているから、今更だけど。

 洗面所の鏡に映る自分を見ながら、歯ブラシを手に取った。


「夢」

「なに?」

「今日はお疲れさん」

「父さんもね」


 頭を撫でられてその手を払えば、父さんは苦笑いをする。「昔は自分から撫でてほしいって言ってきたんだけどなぁ」と。


「それ、いつの話よ? わたしは覚えてないからね」

「嘘!?」

「嘘じゃないよ。そんな驚くこと? 父さんだって、小さいときのことは覚えてないでしょ?」

「まぁな」


 そこは、「俺は覚えてるけど」と言ってほしかった。まぁ、大概の人は覚えてないと思うんだけどさ。


「父さんだって覚えてないなら、問題ないじゃん」


 歯磨き粉を歯ブラシに出しながらそう紡いで、歯を磨き始める。そこを退けば、今度は父さんが歯ブラシに歯磨き粉を出して歯を磨き始めた。二人ともに数分で終わらせ、リビングに戻っていく。シトラスミントの爽やかさを口内に残して。


「あ、お帰り」


 ドアを開ければ、テレビを見ていたらしい斎さんがこちらを向いた。


「明日も晴れるらしいよ」


 言いながら近づいてきて、すれ違う。わたしの頭を撫でて。


「ちょっとっ」


 果たして、ドア向こうに消えた斎さんに「やめてよ!」という言葉は聞こえているのかいないのか。子供みたいで恥ずかしいからやめてほしいんだよね。言っても聞いてくれないけど。


「寝るから! わたしは寝る! おやすみっ」


 わきあがる羞恥を蹴散らす為に、大股で自室へと歩み寄る。そのまま板をスライドさせて足を踏み入れた。それを閉める際の「おやすみ」という父さんの声を無視する。なぜって二回目だからだ。

 明日の用意をして、ベッドに入って瞼を閉じれば、すぐに睡魔に襲われた。やっぱり疲れてたんだね、わたし。




 「夢、おはよう」という父さんの声で起きた翌日。父さんと斎さんは一日置きにわたしを起こしに来る。イライラしている日も、憂鬱な日も、土日も関係なく。

 父さんはカーテンを開けてわたしの頭を撫でた。撫でなくていいと手を払いのけてから躯を伸ばす。

 「夢はケチ臭いなぁ」とこぼした声に、なら笑顔の大安売りをしてあげようと笑みを浮かべながら「おはよう」と紡いでやった。これで文句はないよね。面倒くさいよ、本当に。


「可愛いなぁ、夢は」

「可愛くないから」


 可愛いという言葉には睨みを利かせてやる。


「夢ちゃん、今日はスクランブルエッグだけど、パンとご飯どっちがいい?」

「パンで」

「解った。大紀は?」

「俺もパンで」

「はいはい。じゃあ、みんなパンだね。大紀、手伝って」


 父さんの腕を掴んで部屋から出るなり、ひとこと言った。


「忘れ物がないようにね」

「はいはい」


 「解ってるから」と言えば、ドアが閉められた。もうドアにするわ、この際。忘れ物があっても、連絡をすれば届けてくれるんだけどさ。

 さっさと布団から出て着替えをすませ、リビングに顔を出す。


「斎さん、おはよう」

「おはよう、夢ちゃん」


 そう笑顔で挨拶をし、顔を背けた斎さんはふたつのコンロの火を止めた。父さんが持ち上げた皿にはレタスとミニトマトが並び、その手前に一人前のスクランブルエッグが乗る。隣で焼いていたウインナーは、その端に乗せられた。辺りを漂ういい香りに、お腹が鳴り出す。

 父さんはその皿を並べて、次の皿を持った。


「ちょっと待ってね」


 トースターで焼いた食パン二枚が置かれていた平皿に乗ると同時に、席に着いた。因みに、父さんと斎さん用は焼いていない食パンである。

 テーブルに用意されていたイチゴジャムの個袋を開けてパンに乗せ、バターナイフで伸ばす。きつね色の焦げ目に赤が混じったところで、また小さくお腹が鳴った。腹がへってはなんとやら、だ。


「いただきます」


 我慢の限界だとお腹が訴えてきたので、パンを食べ始めた。イチゴジャムの甘さが口の中に広がり、咀嚼を始めれば香ばしいパンの味と香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。ご飯もいいけどパンも好きだな。


「いただきます」


 数分遅れて父さんの声と斎さんの声が重なり、二人とも朝食に箸――もといフォークをつけた。父さんは今日は珍しく、新聞を読みながらだ。


「クソガキ逮捕の記事が小さく載ってら」


 ほら、と見せられたのは区切られた記事欄だ。そこは本当に小さく、『髪切り魔御用』と書かれていた。というか、あの人二十八なんだな。あの顔で。


「アイツ二十八かよ」

「嘘……。僕はてっきり十代だと思ってたよ。あの顔だし」


 斎さんは目を瞬かせた。どうやら思うことは皆一緒らしい。


「つうことは、あと二年で三十路か。あの顔でなぁ」

「あの顔でね」


 あの顔で三十路か。どう見ても見えませんよ。まぁ、童顔の人は結構いるから、なんとも言えないか。


「――ま、顔のことはどうでもいいか。やっと平和になったんだ、夢も安心だろ?」

「まぁ、そうだね」


 これからは怯えなくていいし。


「ということは、送り迎えいらないじゃん!」


 不安因子がいないのなら、送り迎えもしなくていいわけだ。学校は歩いて行ける距離だし、なくてもなにも問題はない。なにより目立つから嫌なんだよね。


「夢、それ本気か!?」

「嬉しそうな顔をしているところ悪いけど、それとこれとは話が違うからね、夢ちゃん」

「えぇ~……」


 一気にテンションが落ちた。ジェットコースター並みに落ちたわ。

 残念ながら、二人にやめる気はないらしい。一ミリもない感じだ。わたしはもう諦めるしかないのね。……諦めきれないけど!


「ならさ、毎週二日間だけとかは?」

「却下」


 諦めきれずに譲歩した提案をしてみれば、即却下された。虚しいです。


「過保護は不良になる要因らしいよ」

「夢ちゃんは不良にならないでしょ」

「そうそう。反抗期だけど、それは誰でもあるしな」

「なっ……!」


 反抗期ってバレてるし! バレたら面倒くさくなるから、バレないように反抗していたのに! アレもコレもバレバレだったのかー! 不覚っ。

 これは「反抗期か?」と聞かれても、「反抗期だけど」と敢えて肯定していたのが仇になっちゃった感じでしょうか。あー、わたしのバカ。


「なんで解るのかって顔してるな」

「…………そりゃあ、ね」


 父さんと斎さんは顔を見合わせて、肩を震わせるわたしに口端を上げた。それは全てお見通しだという風にも見える。あぁ……なんかムカつく!


「そりゃあ、解るよ」

「俺らは夢の父親だからな」


 ――不覚にも不覚。そんな嬉しそうな顔されたら、なんにも言えなくなる。あ、「あと顔に出てるし」は余計だから。わたしは顔に出るタイプなんだね。よし、これからはポーカーフェイスで生きるわ。

 そう決意して、残りの朝食を掻き込んだ。途中、噎せたけど。しかし、笑わなくてもいいでしょうが。大笑いした父さんに蹴りを入れたのは咎められないよね。




 涼子と一緒に今日も学校に送られたのは言うまでもなく、きゆちゃんは短くなった髪を「可愛い」と誉めてくれた。

 ホームルームが終われば、さっちゃん先生には「怖い思いをさせてすまなかった」と抱きしめられてしまった。どうやらさっちゃん先生にも話が伝わっているらしい。いやまぁ、学校の先生だから、話が伝わっていてもおかしくないけど。

 午前の授業とお昼休み、そして午後の授業と、今日もつつがなく放課後になり、いまはマンションに着いた車の中にいる。


「今日もありがとうございましたー」


 涼子の後ろについて降りれば、涼子は振り返って頭を下げた。


「気にしなくていいって」

「じゃあ、気にしません。夢、明日ねー」


 父さんが頭を撫でれば、涼子は顔を上げてわたしに手を振る。相変わらず走っていってるけど、余所見してると危ないよ。


「……なにしてんの?」


 答えは、わたしの手を握っています。


「たまにはいいだろ?」

「よくないし!」


 恥ずかしいことこの上ないんだけど!?

 手を振り払おうとした矢先に、肩に手を置かれた。背後から。


「大紀、ズルくない?」

「うっわ……! いいいっ斎さんっ!?」


 背後から声をかけないで! ビックリするから!

 肩越しに振り返れば、斎さんが笑って立っていた。笑っているが、空気はどす黒い。ちょっとキレてるね、コレ。


「大紀。僕を差し置いて一人で夢ちゃんと手を繋ぐなんて、どういう了見をしているの?」

「どうもこうもないだろ。繋ぎたかったからしただけだっつの」

「なら僕も、繋ぎたかったから繋ぐよ」

「あー……これアレだわ」


 どう見ても、捕らわれた宇宙人の図じゃないですか。恥ずかしいんですが。


「離してっ」


 「無理」と重なる声は大きい。いや無理じゃないし!

 ああもうっ、なんでこの二人はわたしを溺愛してるんだか。謎だけど、その謎は解きたくない。


「離してくれないと口聞かないから。三日間でも一週間でも一ヶ月でもお好きなのをどうぞ」


 そう放てばすぐに手が離された。


「夢、悪かった」

「夢ちゃん、ごめんね」


 謝る二人に「解ればいいの」と吐き捨てて、エントランスへと走り去る。

 ――謎は謎のままにしてあげる。

 解ってるから。わたしたちは親子なのだ。だから愛するし、愛されてもいる。

 でもね、わたしからは言ってあげないよ。――嫌いじゃないなんて、絶対に言ってあげないからね!




―了―


【 あとがき 】


最後までお付き合いありがとうございました。


◆ 執筆時期 ◆

執筆開始 : 2009/6/15 - 執筆終了 : 2012/11/7

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