脳の観る世界
最近になって、よく図書館に出かけるようになった。別に理由は何てことない。単に金がないんだ。無料で暇が潰せるといったら図書館くらいしか思い付かなくて、行ってみたらそれなりに楽しかったという、ただそれだけの話。
考えてみれば、僕は子供の頃のある時期から、それほど人付き合いを好まなくなって、よく一人で本を読んでいたんだ。学校の図書館にもよく足を運んでいた。いつの間にかその習慣はなくなっていたけれど、だから元から読書好きなのだと思う。
休日の度に図書館へ通うようになって、僕はある女性と知り合いになった。いや、この表現は正確じゃない。もうずっと昔、小学生の頃に軽く知ってはいたから、久しぶりの知人に再会したといったところだろうか。ただし、小学生の頃は、彼女とそれほど話した事はなかったが。
彼女の名前は、鈴谷凜子といった。民俗関係が好きで、彼女は図書館でそういう本ばかりを読んでいるようだ。僕の方は、適当に色々な本を読んでいた。久しぶりに会った彼女は、子供の頃とは違って、やや厚いメガネをかけていた。僕はそれでこう言ってみた。
「子供の頃はかけていなかったよね。どうだろう。メガネをかけて、世界の見え方は何か変わった?」
図書館といっても、声を抑えれば普通に会話できる雰囲気だったんだ。それを聞くと、彼女は少し笑ってこう返す。
「ちょっとばかり、本を読み過ぎちゃってね。後悔していないと言えば嘘になるわ。でも、人間って本当は目で光を捉えているのはそれほど多くなくて、後は脳で補っていると聞いた事がある。そういう意味では、脳で補う世界を広くしてくれた、読書にはやっぱり感謝するべきかもしれない」
僕はそれを聞くと、「知識が、視覚にも影響を与えるかな?」と、そう尋ねた。すると彼女は、「もちろん」とそう言う。
「人間の脳ってそういうものらしいわよ。あらゆる経験、知識で世界を観るの。ま、私の読んだ本によれば、だけどね」
その言葉にどこまで信憑性があるのかは分からなかったが、何かしら感じるものがあったのは確かだった。それで僕は、子供の頃のある体験を思い出したのだった。
子供の頃、僕にはある友人がいた。いつも一緒に遊んでいて、親友といってもいいくらいだったと思う。
ある時僕らは二人で金を出し合ってカラーボールを二つ買った。一つずつ買うより二つ一度に買う方が、安かったんだ。よくある安物のやつだったけど、子供にとっては高級品だった。色は僕がブルーで彼はピンクを選んだ。男のくせにとは少し思ったけど、好みは人それぞれだ。僕は何も言わなかった。
僕らはそれでよく遊んでいた。ただし、いつもそれを使っていた訳じゃない。偶には何処かにボールを置いて、他の遊びをしていた事もある。他の皆も一緒に遊ぶ時なんかは特にそうだった。
あの日。
そして、あの日もそうだった。
僕らは皆で一緒に遊んでいて、それで僕はボールを置きっぱなしにしたまま忘れてしまったんだ。そして、そのまま家に帰って、夕食を食べ終えた辺りでそれを思い出した。僕は慌てて、それを取りに行った。ところが、その時には既にボールはなくなっていた。僕のだけじゃなく、二つとも。
それから少し経って、ボールは戻って来た。どうやら近所の小さな女の子が、持ち帰ってしまっていたらしい。ただし、それは僕の分じゃなかった。ピンク色の、僕の友人の分だけだったんだ。そして、僕の分は意外な所から出て来た。
……僕の分は、僕が親友だと思っていた、その友人の自宅から出て来たんだ。自分の分を見つけられなかった彼は、どうやら僕のボールを盗んだらしい。僕はそれにショックを受けた。もちろん、信頼していた彼が犯人だったからだ。それで僕は軽い人間不信になったかもしれない。考えてみれば、それからだったような気もする。僕が人付き合いを避けて、よく読書をするようになったのは。
次の年には、その友人とは別のクラスになり、家がそれほど近所じゃないという事もあって、僕と彼とはどんどん疎遠になっていった。彼が僕のボールを盗んだ事に、何も言い訳をしてくれなかったのが、その決定的な要因になった気もする。
彼の自宅から、僕のボールが見つかった時、彼はどことなく悔しそうな、それでいて悲しそうな顔をしていたけど、何も喋ってはくれなかった……
「どうして、そんな話をしたの?」
その話を終えた後、鈴谷さんは僕にそう尋ねた。
「いや、全ての経験や知識で、脳が世界を観るというのなら、あんな体験をした僕の世界は、どんな風に変わったのだろう?と思ってさ」
「少し寂しくなったとか?」
「そうかもしれない」
それを聞くと彼女は、「ふーん」と声を発し、それからこう訊いて来た。
「ね、もしかして、その子、帰りにボールを取る時とか、あなたが取るのを待っていたりしなかった?」
「ん? どうして? よく覚えていないけど」と、僕は返す。
「なら、時々、あなたのボールと自分のボールを間違えて取ったりとか」
「あ、それならあったよ。何回か。よく覚えている。僕はふざけているのじゃないかと思っていたけど」
それを聞くと鈴谷さんは数度頷く。それからこう言った。
「ね、飽くまで、もしかしたらって話なんだけど、その子、色覚異常だったのじゃないかしら?」
「え?」と、僕はその発言に驚いた。
「どうして、そう思うの?」
「実は、近所に色覚異常の子がいるって、昔に噂で聞いた事があったのよ。その話を聞いていて、思い出したのだけどね。
それでね、その子が色覚異常だとするなら、どうしてそんな事になってしまったのか、想像が付くと思わない?」
僕はそう言われて、よく考えてみた。
彼が選んだボールの色は、男なのにピンクだった。よく間違えて僕のボールを取っていた。そして…
鈴谷さんは言った。
「そう。ボールがなくなった日、彼もボールを忘れていた事に気付いて、取りに戻った。自分のボールは既に盗まれていて、一つだけになっている。ところが彼には色の違いが分からない。それで、一つ残されていたそれを自分のボールだと思い込んで、そのままあなたのボールを持って帰ってしまった……」
僕はそれに驚く。
「ちょっと待って… なら、どうして、彼は僕にその事を言わなかったんだ? それを言ってくれさえすれば…」
それに彼女は、「言えなかったのじゃないの?」と、そう返した。
「その子にだってプライドはあるでしょう。もし、その子が、自分の色覚異常というハンデに劣等感を感じていたなら、話したくはないという気持ちはよく分かるわ」
「そんな。でも、僕らはとても仲が良かったんだ……」
「仲が良かったからこそ、だと思うわよ。あなたにだけは、蔑んだ目、或いは憐れみの目で見られたくはなかった……。感情が未発達な子共なら、なおさらそうかもね」
僕はそれを聞いて思い出していた。あの時の彼のなんともいえない表情を。そして、その気持ちを察して胸が熱くなってきた。きっと、彼は酷く辛かったに違いない。
「彼は、僕を裏切ったのじゃなかったのか……」
その後で僕はそう呟いた。そんな僕に向けて鈴谷さんはこう言う。
「どう? 少しは、世界の見え方が変わったかしら?」
僕はそれにこうお礼を言った。
「ああ、ありがとう。確かに、変わったよ」
ずっと僕の目にかかっていた靄が、その時晴れた気がした。
CeVIOで、朗読も作ってみました。
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