神馬
月明かりに白く照らされた公園は、夏の夜の蒸し暑さに加えて、昼間の太陽の熱をまだ仄かに残していた。
家々の扉という扉の前には、ガッチリと錠がしてあって、台風に備えて窓も閉められている。
この街に唯一の児童公園は、道路に面しているためか、厳重な檻のようなフェンスが張り巡らされていた。
錆びた鉄の匂いが、夏の夜風によって運ばれる。
台風が上陸するのは明け方で、穏やかな風に湿った空気が混じる以外には、天候は平穏なままだった。
キィキィと不況和音を立てるブランコの塗装は禿げかけていて、物哀しい。
遊んでいた子供が忘れていった砂場遊びの道具や、丸いゴムでできたボールが取り残されている。
そして、取り残されているものが一つ。
縦縞のラガーシャツを着た少年と、黒いサッカーのユニフォームに身を包んだ青年だ。
「そろそろ来るぞ」
背の高い青年が、滑り台のステップに腰掛けて煙草をふかしている。
少年は、滑り台の緩やかなカーブの途中で背中を汚しながら寝っ転がっている。
月は相変わらず、気まぐれに雲の隙間から顔を覗かせる。
少年は無邪気ながらも顔を硬くしている。
カサカサと木々の揺れる音がして、ゴムボールがリバウンドして上空に跳ね上がる。
上を見ていた少年が、口を空けて。
「あ、来た。」
と言う。
青年は落ち着いた動作で煙草を消した。
「見たか。」
「見てない。」
「見たら焼けるぞ」
「目が」
「焼ける」
唄うように、二人が交互にしゃべる。息の合ったリズムが、まるで音楽のように広がる。
ぎゅっと目を瞑る少年。
青年も軽く瞼を閉じる。
一気に重厚感の増した夜が、月を侵食していく。
怪しげに光っていた月は、雲の中にひっそりと忍び。
完全な闇が支配する。
ボールがリズムよく弾ける。
最初は大きく跳ねていたボールが段々と早く、小さく跳ねる。
小刻に揺れる地面に、正確なボールの真心を当てて、八月の空に満月を作り出す。
フェンスの上には無数の烏が止まり。中心を向いてオブジェのように動かない。
ただ、高低の調律を合わせて泣き、奇妙な音楽を奏でる。
「神馬よ。私の一番大事な物を神のもとから返しておくれ。」
青年が頭を垂れて膝まずき、
宙に向かって言った。
「神馬よ。僕の一番大切なものを神の元から奪い返しておくれ。」
少年は掌を合わせて祈った
二人は、掌にビーダマのような玉を握り締めていた。
神馬との取引きするためだ。
神馬の目は魔力を秘めていて、見たものは白髪になり目が焼ける。
二人が持っているのが、まさしくその眼球だ。
代々、子孫に伝わってきたこの玉を神馬に捧げることで一つ願いを叶えることができる。
しかし、それは神馬が神を裏切ることになるので、神が唯一眠る瞬間に儀式をしなければならない。
月が完全に隠れている内に全てを終わらせる必要がある。
「俺の」
「僕達の」
「母さんを返してください。」
二人が声を揃える。
神馬は、黙っていたがやがて口を開き
「私の目は持っているか?」
「はい」
青年が言う。
「片方を私に投げろ。そうすれば願いをかなえてやろう」
少年は躊躇うが、玉を放り投げた。真上に向かって投げられた玉は青く不気味に発光してやがて神馬の右目の窪みに飲み込まれた。
青年は
「さぁ、願いをかなえろ」
と言った。
「願いを叶えたら直ぐに、もう一方の玉を投げろ。謀るなよ、そんなことをすれば二度と母親とは会えなくなる。」
そう言った神馬は、大きな風を起こしたかと思うと、砂場の粉塵を集めて人の形を作り出した。しかし、それはただの人形であり、
母親の姿とは似ていなかった。
人形は、少年の体を抱き締めた。そこにはしっかりと体温があった。
神馬は、母親の声を使って
「コウタ、ありがとう。あなたのおかげで生き返ることができたわ。」
と真似て言った。
少年は、やっと母親に会えたのが嬉しくて、母の姿を見ようと目を開けた。
目の前には、ただの粘土の固まりと神馬の目があった。
少年の網膜は内側からただれ焼けて、体の中から熱が生まれた。
そして髪はパサパサの白髪になり、少年の肌は渇ききった老木のように変わり、倒れた。
悲鳴と奇声ともとれる声が響いた。
熱が空気を媒介して青年のほほに熱風を起こした。
「弟よ、あれほど神馬の目を見るなと言ったのに…。」
青年は、微動だにせず冷静に言った。青年の顔はどこか暗く、少年が果てたことも気にしていない。
青年からは、少年の体に起こった様子が見えなかった。ただ、熱が自分の見えないはずの網膜に広がってきたので、察しがついたのだ。
「コウキ。大きくなったね。あたしはあなただけのものよ。」
同じように人形が抱きついたが、青年は目を開けたりはしない。
「コウタは、あんたに会いたがってたみたいだけど。俺はあんたのことが嫌いだった。」
そういって青年はナイフを取り出した。
「何を言ってるの?コウキ。馬鹿なことは止めて。」
「馬鹿?馬鹿だって?」
何がオカシイのか青年はクックとあざけ笑う。
そして、ナイフを声の方に突き立てた。
「あんたは、僕達を見捨てて男と逃げた。それなのに勝手に死ぬなんてずるいだろう。コウタはずっと会いたがってたのに…。」
神馬の左目にはナイフが綺麗に刺さっていた。
「ほらよ、神馬。約束の玉だ。母さんをどうしようと俺の勝手だろ?」
青年は、玉を投げたが、急所である目を突かれた神馬は事切れていて、リバウンドした玉は満月のように天高く上がった。
そして、神の馬はそれを受け取ることはなかった。
神馬の目はゴムボールのように跳ねて転がった。
すると烏達が急に目の色を変えた。
本来は神馬に遣えるはずの烏達は、知恵を得るために神馬の眼球に群がった。
台風が黒い羽を巻き散らしながら去っていくと、石になった少年の像がオブジェのように建っていた。
神は裏切った神馬への怒りと、少年への慈悲で母親の形をした石像を少年のすぐ横に建てた。