休日の過ごし方─『乱数、雨ときどき晴れ』─
(こちらは、武 頼庵(藤谷 K介)様の『みずに纏わる物語』企画参加作品になります)
──「急な休みに何をしたい?」
そう聞かれて、すぐに答えられる人は、案外少ないのかもしれません。
仕事でも勉強でも、「正解」を探すことには慣れている。けれど、休日には正解がない。
どこへ行くのか。何を食べるのか。何をして過ごすのか。全部、自分で決めていい。
だからこそ、何を選べばいいのか分からなくなることもあります。
大事件は起こりません。
けれど、人生にはきっと、そんな一日が必要なのだと思います。
何かを成し遂げなくてもいい。
上手に過ごさなくてもいい。
ただ、大切な人と笑っていられるなら。
そんな「何もない一日」を、楽しんでいただけたら幸いです。m(_ _)m<8/15にこっそり描写追加修正しました(笑)
──目覚ましは鳴らない。時計も見ない。
彼女は、化粧っ気のない顔で、寝癖の残った前髪を指先で払いながら、画面を覗き込んできた。
その仕草ひとつに、彼はいつも参ってしまう。
「押していい?」
声のトーンが、いつもよりわずかに高い。
ボタンを押す指先は小さくて、爪の形まで見慣れているはずなのに、見るたびに新しく感じる。
「うん、『分からない』を楽しもう。」
彼が笑う。
彼女も笑う。
彼の作ったアプリが、乱数を画面に広げる。
窓の外では、休日の朝が、ゆっくりと始まっていた。
✩★☆
「来週、三日間休め。」
部長のその一言に、会議室が静まった。
「……え?」
「代休がたまってる。いい加減、休め。」
「やっとですね。」
「どこか旅行でもどうです?」
「温泉とか。」
仕事の同僚たち、誰もが拍手した。
「考えておきます。」
彼は曖昧に笑った。
けれど、本当は困っていた。
──何をすればいいのか、分からない。
子どもの頃から、何でもできた。
スポーツも、勉強も、楽器も。
プログラムを書けば賞を取り、料理を作れば店より美味しいと言われる。
休日があれば、新しい言語を覚えたり、資格を取ったり、論文を読んだり。
何かを始めれば、たいてい人より早く形になった。
だから、「やりたいこと」が育つ前に終わってしまう。
──家へ帰る。
「おかえり。」
ソファで本を読んでいた彼女が顔を上げた。
「休みになった。」
「えっ?」
「三日。」
彼女は目を丸くした。
「じゃあ旅行!」
「どこへ?」
「うーん……。」
彼女も止まった。
二人で地図を見る。
海。山。温泉。海外。
候補はいくらでもある。
けれど決まらない。
「ねえ。」
彼女が笑う。
「あなたって、何したいの?」
彼は答えられなかった。
考えたことがなかった。
何でもできる。
だから、何を選んでも「できる未来」しか想像できない。
胸が高鳴らない。
彼女は少しだけ考え、立ち上がった。
「じゃあ、決まり。」
「え?」
「何も決めない。」
「それは計画とは言わないだろ。」
「いいの。」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「明日起きて、お腹が空いたら朝ご飯を食べる。」
「うん。」
「晴れてたら歩く。」
「うん。」
「雨なら映画。」
「うん。」
「眠ければ昼寝。」
「……うん。」
「あなたは、何でも上手にできる。」
彼女は彼の手を握る。
「でもね。」
「休日まで上手に過ごさなくていい。」
その一言だけで、彼は笑ってしまった。
「そういうものか……。」
休日は、攻略するものじゃない。
正解を出すものでもない。
点数も順位もない。
あるのは、一緒に過ごす時間だけ。
☆★☆
──乱数アプリ。
アプリの名前は、まだない。
コード名は「random_holiday.apk」。
三十分で組んだにしては上出来だと、彼は自分で少し満足していた。
窓の外では、もう蟬が鳴き始めていた。まだ朝の九時だというのに、油蟬の声が層になって降ってくる。
「ホントに押していい?」
「ああ。」
彼女がボタンを押す。画面に文字が浮かぶ。
【徒歩5分。自販機の前で、10円玉を積め。何段積めるか記録せよ。】
──沈黙。
「……何、これ。」
「乱数だから。」
「範囲、広すぎない?」
──近所の自販機の前で、大の大人が二人、しゃがみこんで10円玉を積む。
アスファルトはすでに熱を持ち始めていて、自販機のモーター音に混じって、コインが触れ合うチリ、という乾いた音だけが響いていた。
通りがかりの視線が痛い。
彼は真剣な顔で、コインの縁を指先で微調整していた。眉間に皺を寄せたその横顔を見て、彼女は小さく噴き出した。
──六段で崩れた。
「あのゲームと違って、へたっぴね。」
「うるさい。君がやれ。」
彼女がやると、二十段いった。
「これが私の才能。」
「……納得いかない。」
得意げに振り返ると、彼が本気で悔しそうな顔をしていたので、余計におかしくなった。
「いつも何でもすぐできる人が、こういう時だけ子供みたいになるの、好き。」
さらりと言われて、彼の方が固まった。
──【次。半径500m以内の、行ったことのない道へ。】
彼女は彼の袖を、指先だけでちょんと摘む。
日陰に入ると、少しだけ蟬の声が遠のいた。
どこかの軒先で風鈴が鳴っている。
ちりん、と一度だけ、風の気まぐれに応えるように。
「私は、これにするね。」
風鈴の音色に誘われ、古い喫茶店に入ると、彼はメニューを三十秒ほど無言で見比べていた。
豆の産地、焙煎度、値段のバランス。
彼女はその真剣な眉間を見て、また笑いそうになる。
「どう? 決まった?」
「……たぶん。」
「たぶんって。」
「君と同じのにする。」
「それ、ただの真似っこじゃん。」
彼は少し黙ってから、認めた。
「……今日はそれでいい気がする。」
先に運ばれてきた氷水のグラスが、カラン、と涼しい音を立てる。
遅れてコーヒーが運ばれてくる。
彼女がカップを両手で包む。
「気持ちいい。」
語尾が、いつもより少し甘えるように伸びていた。
正直、コーヒーはあまり美味しくなかった。
二人とも顔には出さなかったが、目が合うと分かった。
「……絶品。」
けれど、一緒に頼んだ桃のタルトを一口食べた瞬間、彼女の表情が変わった。
白い皿の上、淡い黄桃の断面から、果汁がうっすらと滲んでいる。
「……夏って、いいね。」
冷たいクリームの下から、桃の香りだけがふわりと立ち上った。
「ケーキの感想じゃないのか。」
彼は首を傾げる。
「だって、桃だよ?」
彼にはよく分からなかった。
何が「夏」で、何が「桃」で、それがどう繋がって「いいね」になるのか、筋道が見えなかった。
「大げさな。」
「本当に。ほら、あなたも。」
彼が返事をする前に、フォークが伸びてくる。
「はい、あーん。」
「……自分で食べる。」
「いいから。」
抵抗する間もなく、口元に運ばれる。
断るタイミングを逃した彼は、仕方なく口を開けた。人前で、こんなことをされるとは思っていなかった。
隣の席の視線が気になったが、彼女は気にした様子もない。
「……美味い。」
「でしょ。」
彼女は満足そうに、残りのタルトを平らげていく。その勢いのまま、テーブルの端に置いてあったメニューをもう一度手に取った。
「ねえ、たい焼きも食べたくない?」
「今、タルト食べ終わったばかりだろう。」
「入る場所は別。」
彼にはまったく理解できない理論だったが、反論する気も失せていた。
彼女が本当に嬉しそうだったので、それで十分だった。
──【次。路地裏の生き物と、二十秒間見つめ合え。】
「意味、分かる?」
「……たぶん、猫を探せってことだと思う。」
「予測できるんだ、そういうのは。」
「状況から判断できる。」
日陰のブロック塀の上に、案の定、一匹の猫がいた。
茶色の、綺麗な毛並みをした猫だった。
彼女がゆっくりと近づき、見上げる。
「こんにちは。」
猫は彼女をじっと見つめ返し――そして、すっと塀の向こうへ逃げてしまった。
「……振られた。」
「早い。」
「三秒も待った。」
「猫基準だと短いと思う。」
彼女は逃げた先を眺め、それから、ふいに指をさした。
「あっち。」
「分かるの?」
「なんとなく。」
彼は何か言いかけて、やめた。
彼女が歩き出したので、そのままついていく。
細い路地を曲がる。
その先、古い木箱の上に、さっきの猫がちょこんと座っていた。
「……よく分かったな。」
「女のカン。」
彼女が微笑む。
「それに、さっき一瞬だけ見つめ合った時、なんとなく通じるものがあったんだよね。」
「通じるもの?」
「うん。」
彼女は答えず、もう一度しゃがみ込んだ。
猫はしばらく彼女を見ていた。
それから、木箱から静かに降りる。
けれど――向かったのは、彼女ではなかった。
「にゃ〜〜。」
甘えるような、小さな声。
猫は彼の足元まで歩いてきた。
彼は固まった。
動けば逃げる気がして、ただ息を潜めて立ち尽くす。
猫は一度だけ、彼のズボンに身体を擦りつけた。
柔らかな毛が、足首をかすめる。
それから、ゆっくりと彼女の方へ歩いていく。
猫が顔を上げる。
彼女が見下ろす。
その横顔に、陽の光が落ちた。
彼女の茶色の髪が、猫の毛並みと一瞬だけ重なって見えた。
二秒。
三秒。
不思議なくらい静かな時間が流れた。
今度は、逃げなかった。
「にゃ。」
猫は、一度だけ短く鳴いた。
そして、塀の向こうへ消えていった。
彼は、しばらく動けなかった。
「……今の、何だったんだ。」
彼女は答えない。
「何か分かった?」
ただ、少しだけ笑っている。
「……分からない。」
そう答えると、彼女は満足そうに笑った。
そして、彼の腕に自分の腕を絡める。
「じゃあ、いいじゃん。」
「何が?」
「分からないままで。」
彼女はそのまま歩き出した。
彼もついていく。
数歩進んだところで、彼女が振り返る。
「ね?」
「……何?」
「なんでもない。」
また笑った。
彼は首を傾げる。
けれど、聞き返すことはしなかった。
自分の足元に残った、かすかな毛の感触。
彼女の腕から伝わる体温。
そして、さっきの猫が最後に見せた、あの目。
それだけが、妙に印象に残っていた。
何があったのかは、結局分からない。
ただ――彼女は、少しだけ嬉しそうだった。
──【空模様、下降中。傘、非推奨。走れ。】
最初の一滴が、アスファルトに黒い染みを作った。
アプリが天気予報まで読んでいたことに、彼は少し引いた。作った本人が一番驚くという逆転現象。
熱いままの地面に落ちた雨が、じゅっと小さな音を立てて蒸発する。むっとした土の匂いが、一気に立ち上った。
小雨──というには、すぐに本降りになった。
二人で走る。
──彼女の方が速い。
「待って。」
「待たない。乱数だから。」
軒先に転がり込んで、息を切らして顔を見合わせる。
屋根を叩く雨音が、ざあ、と一枚の幕のように二人を囲っていた。
「たまには、濡れてみるのも楽しいね。」
濡れた前髪の下から見上げてくる彼女の目が、悪戯っぽく細められていた。
彼は一瞬、言葉を失う。
可愛い、と思う。
同時に、こんな些細な表情ひとつで自分の呼吸を止められる人間が、この世に他にいるだろうかとも思う。
彼女の方も、彼の呆けた顔を見て、内心にんまりしていた。
言わずに、しまっておくことにした。
──【たい焼き、二匹買え。一口かじって交換して食べよ。】
奇しくも、次の指示は彼女の胃袋を後押しするものだった。
「ほら、乱数もそう言ってる。」
「……都合よすぎる。」
発見した たい焼き屋の店先に並ぶと、思ったより時間がかかった。
「……本格派だね。」
覗き込むと、店主が一匹ずつ、型を返しながら丁寧に焼いている。
「二匹頼んだだけなのに、こんな待つ?」
二人焼き、三人焼きの型ではない。正真正銘、一丁焼きだった。
「一匹ずつ人生をかけて焼いてるんだと思う。」
彼が真顔で言うので、彼女は噴き出した。
「随分、たい焼きの人生観、詳しいのね。」
「知らない。今考えた。」
ようやく手渡された一匹は、皮がパリパリと音を立てていた。
想像していた『たい焼き』の何倍も、ちゃんとしていた。
尻尾から齧る彼女の口の端に、あんこが少しついていた。
「ついてる。」
「え、どこ。」
彼が指で拭うと、彼女は一瞬きょとんとして、それから耳まで赤くなった。
「……不意打ちずるい。」
「乱数だから。」
「今の、あなたの仕業でしょ。」
図星だった。
尻尾と頭の無い たい焼きを交換する。
彼は何も言わなかった。
──【十分間、無言でいよ。】
これは、おしゃべりな彼女が一番苦手な項目だった。
喋る代わりに手を繋いだ。
「無理!」
三分で崩壊した。
「乱数の指示だぞ。」
「知らない。喋る!」
彼女がペラペラと、今日食べたものの話を続ける。
彼は黙って、その声を聞いていた。
内容はほとんど覚えていない。
ただ声のリズムだけが、耳の奥に残っていく。
「……ねえ。」
「ん?」
「何か考えてる顔してる。」
「してない。」
「してる。何か考えてた?」
彼は少し迷って、正直に言うことにした。
「君の声、録音できたらいいのにって。」
彼女は目を丸くしてから、噴き出すように笑った。
「変なの。」
そう言いながらも、握った手に少しだけ力がこもる。
それだけで、考えていたことを忘れた。
「……行こう。」
「うん。」
──【最後の指示。海を見に行け。】
「海まで一時間半あるじゃないか。」
「作ったの、あなたでしょう?」
「……そうだった。」
車で海へ向かう道。
厚かった雲が、少しずつ薄くなっていく。
彼女が窓を少し開ける。
「晴れてきたね。」
「……偶然だ。」
潮の匂いが流れ込んだ。
「乱数だから?」
「たぶん。」
海へ着く頃には、雲はほとんど切れていた。
車を降りると、蟬の声はもう聞こえなかった。
代わりに、寄せては返す波の音が、規則正しく空気を満たしていた。
ざあ、と引いて、しばらくの静寂のあと、また、ざあ。遠くでウミネコが一声鳴く。
水平線の向こうから、一筋の陽光が落ちる。
雲の隙間から伸びた光が、真っ直ぐ海へ降りていた。
波がその光を砕き、無数の欠片になって、音を立てるように揺れる。
彼女は何も喋らず、波打ち際へ歩いていく。
風に髪がほどける。
白いスニーカーの先を、波がさらう。
冷たい水しぶきに、彼女が小さく声をあげた。
その瞬間。光の柱が、彼女を包んだ。
彼は息を止めた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
何かの通知だった。
彼は見ない。
ただ、その景色だけを見ていた。
──帰り道。車内は静かだった。
「今日、一番楽しかったのはね。」
「うん。」
「あなたが、次は何が出るんだろうって、本気でワクワクしてた顔。」
「移ったんだ。」
「え?」
「君がドキドキするたびに、俺もドキドキしてた。」
しばらくして、彼がぽつりと言う。
「失敗した。」
「ん?」
「写真。」
「撮ってないの?」
「忘れた。」
彼女は少し驚いて、それから笑う。
「あなただったら、絶対撮ると思ってた。」
「……うん。撮ることを忘れるくらい、見てた。」
信号で車が止まる。
彼は彼女の手を握った。
言わなくても、もう分かっていることだった。
今日一日、彼女の表情、声、仕草、その全部が、とっくに答えを出していた。
それでも、彼は言うことにした。
「君で良かった。」
彼女は少し涙ぐんで、笑う。
「私も。あなたで良かった。」
分かっていたはずの言葉が、口に出した瞬間、また新しく胸に落ちてくる。
信号が青になる。
──【本日の記録終了。次回起動時、本日のデータは学習されません。すべて忘れます。】
「せっかくの思い出、忘れちゃうんだって。」
「アプリはな。」
彼はハンドルを握り直しながら、静かに言った。
「俺は忘れない。」
彼女は返事をしなかった。
親指がもう一度、軽く重なる。
彼女はいつも、彼の予測から半歩だけずれた反応を返してくる。
だから、明日もきっと退屈しない。
窓の外を、街灯が一つずつ流れていった。
それだけで、十分だった。
(了)
今回は、「休日」をテーマにした、とても小さな物語を書いてみました。
主人公は、何でもできる人です。
仕事もできる。勉強もできる。料理もできる。何かを始めれば、すぐに上達する。
そんな人が、いざ三日間の休暇を与えられた途端、
「……何をすればいいんだ?」となってしまう。
何でもできる人にとって、「できないこと」は案外少ない。
けれど、「何もしないこと」や「結果を求めないこと」は、意外と難しいのかもしれません。
そこから考え始めたのが、このお話です。
だから彼には、乱数アプリに休日を決めてもらいました。
十円玉を積む。
知らない道を歩く。
(猫ちゃんとガールズトーク追加w)
美味しくないコーヒーを飲む。
美味しいチーズケーキ→タルトに変更(夏成分追加!w)を食べる。
更に たい焼きを食べる。
雨の中を走る。
海を見る。
どれも、人生を変えるような出来事ではありません。
でも、後から思い返すと、そういう何気ない一日の方が、妙に鮮明に残っていることがあります。
そして今回、一番書きたかったのは「写真を撮り忘れる」という場面でした。
何でも記録し、何でも最適化できる彼が、海で写真を撮ることを忘れる。
それは、記録することよりも、その瞬間を見ることを選んだからです。
アプリは、「本日のデータは学習されません。すべて忘れます」と言う。
けれど彼は、「俺は忘れない」と答える。
便利になればなるほど、記録することは簡単になりました。
写真も、動画も、メモも、クラウドもある。
それでも、記録できないものがある。
声の響き。ふとした表情。雨上がりの匂い。手を握ったときの温度。
そういうものは、データにはならない。
だからこそ、大切なのかもしれません。
最後まで読んでくださった方の休日が、少しだけ「何もしなくてもいいもの」になれば嬉しいです。
そして、もし次の休日に何をするか迷ったら。
乱数に任せてみるのも、案外悪くないかもしれません。
……ただし、十円玉を積めという指示が出ても、自己責任でお願いします(笑)。(*´艸`*)




