03.解答
スマホを握りしめたまま、私はSNSの写真やメッセージを一つずつ確認していった。
そこに映っていたのは――
私と藤田颯太が“夫婦として”過ごした七年間の記録だった。
笑顔で寄り添う写真。
旅行先の海辺。
高級レストラン。
別荘のテラス。
そして、次第に減っていく二人の写真。
七年目の倦怠期。
触れ合いの消えた夫婦生活。
長い夜を一人で過ごす専業主婦の孤独。
私は、ずっと疑っていた。
藤田颯太が外で女を作っているのではないかと。
彼は私に触れなくなり、
「仕事が忙しい」と言っては深夜に帰宅し、
酔ったままベッドに倒れ込む。
その満足げな寝顔を見るたび、
胸の奥に黒い感情が渦巻いた。
――なぜ私だけが、こんなにも渇いている?
嫉妬、怒り、焦燥。
肌の奥が焼けるように疼き、
夜ごと、私は孤独に押しつぶされそうになった。
そしてある日、私は探偵を雇った。
藤田颯太の浮気現場。
ホテルに入る姿。
白人女性と抱き合う姿。
証拠は十分だった。
婚姻中の不貞。
裁判では確実に勝てる。
私は彼に家財をすべて放棄させ、
本来私のものであるものを取り戻すつもりだった。
事実を突きつけられた藤田颯太は激怒した。
怒鳴り、脅し、罵倒した。
だが私は、不思議なほど冷静だった。
その後の手続きは、すべて離婚弁護士のトーマスに任せた。
トーマスの助言で、私は一時的にアメリカを離れ、日本へ戻ることにした。
――その帰国の日。
飛行機を降りる直前、スマホに一通のメッセージが届いた。
「櫻井結菜、どこにいる?迎えに行く。
――桐生悠真」
桐生悠真。
大学時代、私をずっと想ってくれていた男。
休みのたびに一緒に電車に乗り、
図書館で隣に座り、
告白する勇気を持てなかった、あの不器用な青年。
私は彼を利用していた。
他の男を避けるための“盾”として。
藤田颯太と付き合い始めてから、
桐生悠真は私を避けるようになり、
アメリカへ行ってからは完全に連絡が途絶えた。
――なぜ、今になって迎えに来る?
答えはすぐに分かった。
姚蜜(大学時代の友人)が、私の帰国を彼に伝えたのだ。
疲れ切っていた私は、迷わず返信した。
一時間後、黒いアウディA8Lが私の前に停まった。
運転席から降りてきた男は、
大学時代の面影を残しつつも、
驚くほど洗練されていた。
清潔感のある顔立ち。
落ち着いた物腰。
自信に満ちた眼差し。
――これが、本当にあの桐生悠真?
私は思わず微笑んだ。
彼は紳士的にドアを開けてくれた。
車内での会話で、
彼が今や会社を経営する成功者になっていることを知った。
昔の彼とはまるで別人だった。
ホテルに送ってもらった夜、
私は久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
その後、同級生の集まりに誘われ、
私は自然と桐生悠真に送迎を頼んだ。
そこから、私たちは頻繁に連絡を取り合うようになった。
電話、メッセージ、ビデオ通話、そして対面。
私は気づいた。
――桐生悠真の想いは、あの頃から何も変わっていない。
胸の奥に、忘れていた甘い虚栄心が芽生えた。
だが、彼にはすでに妻と子供がいた。
それを知った瞬間、
私は自分でも驚くほど強い不満を覚えた。
――どうして?
――私のものだったはずなのに。
彼の成功した姿を見るたび、
後悔が胸を締めつけた。
――なぜ、私はこの“将来性のある人”を見逃したのか?
同級生会から数週間後、
桐生悠真は私を夕食に誘った。
その夜、私は少し酔っていた。
部屋まで送ってくれた彼の手が腰に触れた瞬間、
体の奥に眠っていた渇望が一気に燃え上がった。
――欲しい。
その衝動に逆らえなかった。
私は彼を誘惑した。
桐生悠真は、私のものになった。
長い間忘れていた“勝利”の感覚が戻ってきた。
大学時代に叶わなかった関係が、
ようやく現実になった。
――これが、私の人生で最も幸福な時間だったのかもしれない。
しかし、幸福は長く続かなかった。
桐生悠真の妻が、浮気に気づいたのだ。
彼女は私を探し出し、
公の場で罵倒した。
醜い言葉を浴びせられても、
私は怖くなかった。
ただ、彼女の無知と下品さが露わになっただけだった。
そして――
桐生悠真は、私の前に立って私を庇った。
その姿に、私は本気で心を動かされた。
彼は妻と離婚した。
離婚の日、私は役所の外で彼を待っていた。
妻は私を睨みつけ、呪いのような言葉を吐いた。
私は冷笑した。
――道化はどっち?
だが、その呪いは本物だったのかもしれない。
離婚弁護士トーマスは、藤田颯太に買収されていた。
偽造された証拠によって、
私は逆に敗訴し、
家財をすべて失い、
わずかな扶養料しか得られなかった。
凍結された口座。
残高の少ないカード。
未来が真っ暗になった。
そのとき、桐生悠真だけが私のそばにいた。
「結菜、俺が一生守る」
彼はそう言った。
――幸い、彼がいた。
だが、精神は限界に近づいていた。
記憶が曖昧になり、
思考が途切れ、
自分が誰なのか分からなくなる瞬間が増えた。
病院で告げられた診断。
《心因性記憶喪失》
《ヒステリー性同一性障害》
――私は、壊れていくのだろうか?
そんな私を、桐生悠真は献身的に支え続けた。
だが、神は残酷だった。
ある午後、彼は交通事故に遭い――
帰らぬ人となった。
唯一私を愛してくれた男が消えた。
私はまた、一人になった。
後悔が胸を締めつけた。
――なぜ、あの頃、彼を選ばなかった?
もしあの時、彼を選んでいたら。
もしあの時、手を伸ばしていたら。
今ごろ、私は幸せだったのだろうか。
その後、記憶の混乱はさらに悪化した。
時には、自分が桐生悠真だと思い込むことさえあった。
「俺が愛しているのは、櫻井結菜だ」
そう呟く自分がいた。
ホテルのベッドに座り、
散らかった部屋を見渡しながら、
私は乾いた笑いを漏らした。
――どうして私は、こんなにも哀れなのだろう。
そのとき、ドアを叩く音が響いた。
「身分確認です。ホテルの者ですが――」
私は服を整え、ドアへ向かった。
ドアを開けた瞬間、
四、五人の警察官が雪崩れ込んできた。
床に押し倒され、頬が痛みに焼ける。
「桐生悠真。あなたを逮捕する」
荒々しい声が耳元で響いた。
――桐生悠真?
私は、誰だ?




