02.逆転
ベッドの上で小声で電話を続ける“櫻井結菜”を眺めながら、私は昨夜の記憶を必死に探った。
だが、何一つ思い出せない。
冷たい水で頭を冷やす必要があった。
シャワールームへ向かう途中、クローゼットの鏡に映った光景に思わず足が止まった。
シーツの隙間からのぞく、女性のしなやかな胴体。
その美しさに、胸の奥がざわついた。
――昨夜、俺たちは……?
部屋の惨状を見れば、激しい夜を過ごしたと考えるのが自然だった。
だが、湧き上がる興奮を冷水が一瞬で打ち消す。
「冷たっ……!」
水を止め、タオルで顔を拭きながら鏡を見た瞬間、息が止まった。
そこに映っていたのは――
**櫻井結菜の顔だった。**
「……は?」
理解が追いつかない。
鏡の中の女は、確かに櫻井結菜。
だが、ベッドにいた女は“似ているだけ”で、本人ではなかった。
「……あの、使ってもいいですか?」
振り返ると、シャワールームの入口に、胸を腕で隠した女性が立っていた。
ベッドにいた女だ。
私は呆然と頷き、彼女に道を譲った。
シャワーの音が響く中、ベッドに座り込む。
そのとき、スマホの通知音が鳴った。
画面にはこう表示されていた。
「料金 80000円
※小道具は各自用意
顧客情報:XXX
電話:XXXXXXXXXXX
住所:XXXXホテルXX02号室」
背筋が凍った。
――この女、まさか……風俗嬢?
思考が追いつかないまま、白い足が視界に入った。
見上げると、シャワーを終えた彼女が立っていた。
「……それ、返してもらえます?」
私は慌ててスマホを差し出した。
彼女は紙幣を数えるような目で私を見つめ、薄く笑った。
「お姉さん、昨日は追加オプションしたから、プラス10000円ね。
あのコスプレのやつ。あなたに扮して……ふふ。
お客さん、趣味が独特だね」
頭が真っ白になった。
財布から紙幣を取り出し、震える手で渡すと、彼女は満足げに頷いた。
「また呼ぶときは、最初から趣味を言ってね。他の子は嫌がるから。
私に当たったの、運が良かったよ」
ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
私は両腕で自分の胸を抱きしめた。
――固い。
――形が違う。
――これは……女の身体だ。
鏡を見る。
そこに映るのは、紛れもなく櫻井結菜。
「……俺は、櫻井結菜なのか?」
混乱のままクローゼットを開けると、グッチのレディースバッグが目に入った。
中には財布、鍵、化粧品。そして――
**病院の診断書。**
震える手で取り出す。
《氏名:櫻井結菜
年齢:31歳
診断:①心因性記憶喪失
②ヒステリー性同一性障害》
「……人格障害……?」
理解が追いつかない。
テーブルの上のスマホに手を伸ばし、電源を入れる。
ロック画面が表示される。
無意識に指が動いた。
「940814」
――解除された。
「……なんでだ?」
俺の誕生日でも、櫻井結菜の誕生日でもない。
連絡先には見覚えのある名前が並び、SNSの友達もほとんど知っている顔だった。
まるでこれは――
**俺のスマホだ。**
写真フォルダを開くと、英語で書かれた大量の書類の写真があった。
拡大すると、それは離婚後の財産分与契約書だった。
女方:櫻井結菜(1994年11月26日生)
男方:藤田颯太(1994年8月14日生)
――藤田颯太。
かつて櫻井結菜を妊娠させ、アメリカへ連れて行った男。
その誕生日を、俺はなぜ“知っていた”?
頭に激痛が走った。
視界が白く弾け、断片的な映像が流れ込む。
ウェディングドレスの自分。
手を握る男。
キスをする藤田颯太。
海辺、ショッピングモール、別荘――
どの場面にも、彼がいた。
そして、浮気現場。
離婚の要求。
怒鳴り散らす藤田颯太。
冷静に見つめる“私”。
――俺は……櫻井結菜なのか?
膝が震えた。
鏡の中の女が、笑っているように見えた。
「……俺は、誰なんだ……?」




