01.始まり
ホテルの一室は、まるで昨夜の記憶そのものが形になったように荒れていた。
床には服が散乱し、女性ものの下着まで無造作に転がっている。
硬い床の上で目を覚ました私は、しばらく天井を見つめたまま動けなかった。
頭が割れるように痛む。ゆっくりと身を起こすと、テレビでは意味の分からないアダルト番組が流れ、ミニバーの扉は半開きで、中身はすっかり空になっていた。酒と汗の混じった、鼻を刺すような匂いが部屋にこもっている。
ベッドのフレームにつかまりながら立ち上がると、そこには一人の女性が横たわっていた。
背中をこちらに向け、白い肌がシーツの隙間からのぞいている。長い脚。上半身だけを布団で隠し、静かに寝息を立てていた。
そのとき、甲高い着信音が部屋に響いた。
女性はゆっくりと身を翻し、枕の下からスマホを取り出す。そして「もしもし」と短く答えた。
その瞬間、彼女の視線が私に向けられた。
大きな瞳が二度瞬き、驚いたように見開かれる。
私の中途半端に上げたズボンを見て、彼女はふっと口元をゆがめた。嘲るような、どこか見下すような笑みだった。
布団を胸元まで引き寄せると、何事もなかったかのように電話の相手へ話を戻す。
そして私は気づいた。
――櫻井結菜だ。
大学時代、誰もが振り返る学園の女王。
完璧な容姿と気品を備え、入学初日から注目の的だった女性。
そして、私の初恋の相手。
いや、正確には片思いだった。
私は口下手で、女性と話すとすぐに緊張してしまう。だから彼女を遠くから眺めることしかできなかった。告白しては振られていく男たちを見て、羨ましいと思ったこともある。少なくとも彼らには、想いを伝える勇気があった。
そんな私に、奇跡のような出来事が起きたのは大学一年の冬だった。
十年に一度の大寒波の日、帰省の電車で偶然隣の席に座ったのが、櫻井結菜だった。
本を読んでいた彼女は、私に気づくと驚くほど明るく話しかけてきた。
甘く澄んだ声。柔らかな笑顔。
外国語学科の同級生である私のことを覚えていて、名前こそ曖昧だったが、それでも胸が高鳴った。
会話の中で、私たちの故郷が同じだと分かった。
それが、彼女と私の人生が交わる最初の点だった。
連絡先を交換し、冬休みが終わる頃には、彼女から「帰りの切符を買ってほしい」とメッセージが届いた。
そのときの喜びと興奮は、誰にも言えない。
しかし、私は不器用だった。
二度目の電車の中でも緊張し、言葉が詰まり、彼女の質問に答えられないこともあった。
それでも彼女は笑ってくれた。優しく、包み込むように。
学校に戻ってからの数週間、私は現実を疑った。
彼女は私を授業に誘い、図書館に誘い、週に三度は必ず一緒に勉強した。
――もしかして、彼女は私に好意を?
そんなはずはない。
容姿も平凡、家も平凡、性格は内向的。
雲の上の女神が、地上の凡人に手を伸ばすはずがない。
ある日、私は勇気を出して聞いた。
「どうして、いつも僕を誘うの?」
彼女は少し考えてから言った。
「あなたといると、気が楽なの。何でも話せるし、安心する」
その言葉の意味は分からなかった。
でも翌日には、ただ嬉しかった。
一学期が終わる頃には、彼女の求愛者は相変わらず多かった。
他校の男子が告白に来たとき、彼女は私の腕を取り、
「彼氏がいるので」
と笑った。
その瞬間の誇らしさは、今でも忘れられない。
だが、運命は残酷だった。
二年の後期、私は告白を決意した。
新しい服を買い、映画のチケットを二枚用意し、ハート型のブレスレットを選んだ。
一生分の勇気を振り絞った。
――しかし、告白は中止になった。
その日、彼女は別の男の手を握っていた。
「一週間前に告白されてね。すごくロマンチックだったの」
そう言って笑った彼女の顔は、あの日の冬の陽だまりのように眩しかった。
私の心は、再び凍りついた。
その後、私と櫻井結菜の人生は交わらなくなった。
一本の線が二つに分かれ、遠ざかっていくように。
一年後、彼女から突然連絡が来た。
妊娠四ヶ月。相手の男は逃げた。
私は怒りよりも、ただ静かに彼女を支えた。
病院を探し、手術に付き添い、十日間、ホテルで看病した。
ドラマなら、ここで恋が芽生える。
だが私は主人公にはなれなかった。
数ヶ月後、あの男は戻ってきて、彼女はその腕に飛び込んだ。
そして二人でアメリカへ行った。
そのとき私は悟った。
――現実の私は、ただの道化だ。




