第41話 盲目の女性
五秒。
俺は、オルミアからもらった精霊の力で、五秒間だけ世界の流れを“遅く”できる。
呼吸を整え、意識を集中する。
次の瞬間、世界が粘つくように重たくなり、空気そのものが固まるように動きを失っていく。
街の喧騒が、遠のく。
人々の動きが、ゆっくりと静止する。
自由に動けるのは、俺だけだ。
俺は盲目の女性のもとに全力で走った。
俺は、彼女の手を強く掴んだ。
「っ!」
声を発するより早く、俺は彼女の手を引いて走り出した。
世界がゆっくりと動く中、俺たち二人だけが疾走する。
まるで絵画の中を駆け抜けているようだった。
足の裏が石畳を叩く音だけが、世界に響く。
喉が焼ける。脳が圧迫される。
疲労困憊の状態で精霊の力を使ったことで、体の芯がギシギシと軋んだ。
もうすぐ、五秒が終わる。
世界が一気に流れを取り戻す。
「……あ、あれ?」
女性の腕を掴んでいたはずの男が、空を切った自分の手を見つめて呆然としている。
「ど、どこ行った!」
「消えちまった……!?」
取り巻きの二人が狼狽する声を背に、俺たちはすでに人の群れの中を抜け出していた。
「……え!?あ、あの……!?」
俺に手を引かれていることに気づいた女性が、走りながら戸惑いの声を上げる。
「今はとにかく走ってくれ!」
盲目の女性は、何が起きたのか分からないまま、俺の言葉を信じてそのまま走り続けてくれた。
俺たちはいくつかの角を曲がり、やがて人気のない裏通りに出た。
建物の石壁に囲まれた細い路地。
昼でも薄暗く、地面には水が溜まっている。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
肩で息をしながら、俺は壁に手をついた。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
グランヒル山脈を越えて限界が近い今の俺には、全力疾走は酷すぎた。
「はぁ……はぁ……ありがとうございます……!」
彼女も息を整えながら言った。
エメラルドグリーンの髪が、光を受けて柔らかく輝いている。
整った顔立ち。静かに閉じられた瞼。
簡素なグレーのマントに身を包んでいるが、彼女の仕草のひとつひとつには気品のようなものがあった。
(見たところ、どこかの貴族か、高位の家の娘ってところだな……)
「……いえ。いいんです。さすがに、放っておけなかったですし」
「……お優しい方なんですね。本当に、ありがとうございます」
そう言って彼女は、目を閉じたまま微笑んだ。
その笑顔は、驚くほど柔らかく、見惚れるほど美しかった。
「き、綺麗だ……」
「え?」
「い、いや!何でもないです!」
思わず漏れた本音に慌てて否定する。
彼女はくすりと笑った。そして、おもむろに口を開いた。
「あ、あの!貴方様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?ぜひお礼を……」
「え?あーいや、俺は名乗るほどの者では……」
女性の申し出に俺は躊躇った。
この人はおそらく、高貴な家の人間だ。そんな人が、自分と関わってろくなことになるはずがない。
俺は、石壁の窓ガラスに反射した自分の姿を見る。
過酷な旅のせいで、なんとも見窄らしい格好をしている。
この惨めな姿をこの美しい女性に見られなくてよかった。俺はそう思った。
「いえ、あなた様が助けてくださらなければ、私は今頃どうなっていたか……」
「そ、そんな大袈裟な……」
女性は胸に手を当てながら言った。
俺は、あの騒ぎを見た時、もちろん「この女性を助けてあげたい」と思う気持ちはあった。
だが、それ以上に、自分を山脈で襲ってきた盗賊達がこの街でも狼藉を働いているのを見て、奴らの傲慢な態度が許せなかったのだ。
女性からの感謝に、俺は複雑な思いを抱いていた。
「申し遅れました。私は、イリスと申します。見ての通り、目が不自由でして……杖を頼りに歩いていたのですが、セリオンは人が多いですから、たまにああやってぶつかってしまうのです……」
「イリス……」
彼女の名を反芻する。どこか響きの美しい名前だった。
俺は名乗るか迷った。だが、向こうが名乗ったのに、こちらが名乗らないのは失礼な気がした。
「俺は、ローガン・アー……」
そう名を告げかけた、その時だった。
「あ!!団長ー!!見つけましたっ!こっちです!!」
鋭い声が路地に響いた。
振り返ると、路地の出口、大通りの光の中に男が一人立っていた。
両手に剣を携え、精悍な顔立ち。そして、交戦的な目つき。
だが、身なりからして賊ではない。
濃紺の革鎧に、漆黒のマント。
胸元にはテルヴァニア王家の紋章──"大地の環と七つの星"。
「な、何だ……?」
「この声は……近衛師団のジークさん?」
イリスが小さくつぶやいた。
「……近衛師団?」
俺が聞き返した瞬間、男が怒声を上げた。
「おい、テメェ……!イリス様を離しやがれッ!!」
ジークと呼ばれた男は、俺めがけてものすごい勢いで走ってきていた。




