第39話 それでも進むんだ
凍てつく風が、頬を裂くように吹きつけた。
砂混じりの灰色の風が舞い上がり、目の中に入り込む。
俺は思わず顔をしかめ、袖で目をこすった。
グランヒル山脈を越えた。
だが、まだセリオンの姿は全く見えない。
濃い霧が一帯を覆い、あたりの輪郭を曖昧にしている。
俺は、重くなった足を一歩ずつ前へ出した。
歩みは遅い。けれど、止めてはいない。
止まれば、もう二度と立ち上がれない気がしていた。
腰の水筒は空だった。
食料袋の底には、乾いたパン屑が少し残るだけ。
昨日から、まともなものを口にしていない。
道中で見つけた虫や雑草を噛んではみたが、胃を刺激するだけで何の力にはならなかった。
手と足が鉛のように重い。
身体中の筋肉が悲鳴を上げ、頭がぼんやりと霞んでいく。
視界の端が揺らぎ、地面と空の境界がわからなくなる。
(あと、どれくらいだ……?)
グランヒルの頂上を越えてから、どれほど歩いたのか。
数えていた日数も、もうわからなくなっていた。
ただ、太陽の昇り沈む回数から察するに、もう十日以上は経っている。
残された時間は、おそらく、あと二日ほど。
それまでにセリオンに着けなければ、俺は近衛師団の入団試験を受けられない。
だが、体はもう限界に近かった。
疲労が骨の奥まで染み込んでいる。
盗賊や魔物に襲われるたび、全身の神経が磨り減っていった。
戦う度に生き延びたが、それは“勝った”というより“生き残った”だけだった。
俺は、霞む意識の中でぼんやりと考えた。
(みんな、今ごろどうしているだろう……)
オルミア。
あの不思議な女性は、今どこにいるんだろう。
カレンソで再会してから出発までの数日、彼女は俺と共にいた。
起きている間は、ベッドでずっと交尾をしていた。
まあ、彼女のことだからまたひょっこり現れるんだろう。
精霊の行動は、人間の俺には予測できない。
フィン。
あいつはどうしてるか。
口は悪いし無愛想だが、不思議と憎めない奴だった。そして、優しい男だ。
俺がリアナたちを救えたのも、あいつのおかげだ。
久しく友人と呼べる存在がいなかった。あいつとは良い友人になれそうな、そんな気がした。
あいつも、今頃はどこかに向かう旅の途中だろうか。
リアナ。
彼女は……。
事件から一ヶ月ほど経っている。
エルドリッジでは、彼女が心を閉ざして家にこもっているという噂が流れていた。
あの誘拐の夜が、どれほど彼女を傷つけたのか。
人の心配をしている場合ではないが、俺はリアナが心配だった。
でも、リアナのことを思うたびに、彼女が俺に投げかけた「あの言葉」と、恐怖に慄く表情を思い出してしまう。
彼女が俺を見たあの目。俺が十数人を殺した、あの瞬間を見た目。
彼女の笑顔を、俺はもう思い出せなかった。
身体を刺すような風の中で、俺は歩き続けた。
しかし、次第に足がもつれ始めた。
倒れそうになる度に、地面を蹴って立ち上がる。
それでも、意識が薄れていく。
瞼が重い。
思考が遠のく。
──もう、いいんじゃないか?
そんな声が、どこかで聞こえた。
もう、諦めてもいいかもしれない。
別に、近衛師団に入りたいと強く思っているわけでもない。
セリオンに着きさえすれば、別に良いんだ。急ぐ必要はないんじゃないか?
でも。俺の胸の奥で、何かが静かに拒んだ。
──それでも進むんだ。
俺が掴んだ「入団試験を受ける」権利は、誰かが喉から手が出るほど欲しかった権利なはずだ。
武芸大会で戦った者の中には、人生を変えるため、家族や夢のため、自分の全てを投げうって出場した者が大勢いたはずだ。
俺がその権利を容易に手放すことは、彼らの決意や人生を踏みにじることになる。
俺は、精霊の力というズルをして優勝した。正直、後ろめたさがあった。
だからこそ、俺はこれからの自分自身の行動でそれを払拭したかった。
そのときだった。
目の前を覆っていた濃い霧が、少しずつ晴れていく。
雲の切れ間から、陽の光が差し込んだ。
まるで天が、俺に進むべき道を示しているかのように。
そして、"それ"ははるか遠くに見えた。
灰色の大地の先に、巨大な壁に囲まれた、光り輝く街。
「……あれが、セリオン……」
言葉が、自然と口をついた。
エルドリッジの比ではない。
まるで城塞そのもののような都市が、陽の光を浴びて静かに佇んでいる。
その光景を目にした瞬間、
胸の奥からこみ上げるものがあった。
安堵。そして、恐れ。
俺は、震える脚に再び力を込め、セリオンへ向かって、歩き出した。




