第38話 盗賊と魔物
俺は崖の縁に指先をかけ、最後の力を振り絞って体を引き上げた。
荒い息を吐きながら、膝をつく。
固い地面に腰を下ろす。呼吸が乱れ、しばらく動けなかった。
肺が焼けるように痛い。指先からは血がにじみ、掌の皮は痛々しく剥がれている。
木製の水筒を取り出し、喉へと傾けた。
冷えた水が、喉を潤し、身体の奥へと落ちていく。
息を整えると、俺は立ち上がり、歩き出した。
まだ先は長いのだ。
入団試験の日まで、もう時間がない。
この山を越えなければ、すべてが水の泡になる。
だが、グランヒル山脈の道は想像を遥かに超えていた。
ただ険しいだけではない。
夜になれば凍てつく風が吹き、朝になれば陽射しが容赦なく肌を焼く。
道らしい道はなく、岩と泥ばかりが続いていた。
その上、俺は何度も"賊"に出くわした。
この山は、普通の人間ならまず来ない。
だからこそ、盗賊や無法者たちが隠れ家を作り、身を潜めている。
彼らは、通りかかった旅人を見つけると、獲物を見つけたように目を光らせた。
俺も何度となく襲われた。
日中に堂々と道を塞がれることもあったし、夜眠っている間に首筋に刃を突きつけられたこともある。
最初のうちは、恐怖しかなかった。
剣を握る手は震え、呼吸は浅くなり、頭が真っ白になった。
けれど、いつしか体が勝手に動くようになっていた。
不思議な話だが、俺には"敵の動きがなんとなく予知できる"ようになっていた。
曖昧だが、相手の動作の“次”が直感で分かるのだ。
度重なる戦いの中で経験を積んだから、そのようなことが可能になったのか。
あるいは。
ルシアンたちを殺した時の"あれ"以来、俺の中の何かが変わってしまったのか。
俺にはよく分からなかった。
"五秒間だけ時をゆっくりにする"精霊の力はあまり使わなかった。
戦いで窮地に陥って、他に選択肢がない時の切り札として温存していた。
大会の時のように連続して使うと、急速に体力を消耗してしまう。
そうなれば、山脈を越えるなんて絶対に不可能だ。
何より、精霊の力を使うと、交尾によって貯めた"精"が減る。
出発前、家のベッドでオルミアと数えきれないほど交尾をしたから、かなり"精"は貯まったはずだが、次いつオルミアと会えるかわからない以上、迂闊に精霊の力は使えなかった。
次第に俺は、相手を殺さずに戦闘不能にすることも覚えた。
刃を致命の一点から逸らす。打撃の角度を変える。
それらができたとき、俺は自分が"安心した"ような気がした。
ルシアン達を倒したとき、俺は“殺す”ことしか知らなかった。
だが今は、違う。
何か大切なものを、掴みかけている気がした。
だが、そうも言ってはいられない存在が、グランヒル山脈には巣食っていた。
"魔物"だ。
浅黒い肌、光る眼。獣と人の中間のような異形。
犬ほどの大きさから、熊ほどの巨体まで、種類も形もさまざまだ。
奴らの牙に噛まれれば、ただちに肉が腐り、骨が露わになる。
人智を超えた恐ろしい存在。それが魔物だ。
グランヒル山脈を越える途中、俺はそいつらと何度も遭遇した。
最初は、俺は逃げた。だが二度目からは、逃げられなかった。
戦わなければ、死ぬ。
そう理解してからは、迷いは消えた。
剣を握り、息を整え、ただ魔物の心臓を狙う。
俺は、数えきれないほどの魔物を殺した。どれも犬くらいのサイズだったが。
そして気づけば、俺は魔物に怯えなくなっていた。
恐怖の代わりに、静かな集中があった。
俺は、旅の最中に、ふと故郷のカレンソを思い出していた。
俺はもう、カレンソには戻らないだろう。
カレンソ。
生まれ育った村。
家族と過ごした小さな家。
父が残した畑。
どれも、俺にとっては懐かしいもののはずなのに、今はただ辛い記憶だけが蘇る。
畑を捨てることに悩んでいた俺に、オルミアは俺に優しい言葉をかけてくれた。
「あなたは十分やってくれましたよ、ローガン。毎日欠かさず畑を耕したあなたのおかげで、この土地は豊かになった。土地に縛られ続けるのは、お父様の本意ではないはずです。あなたには、"あなたの生きたいように生きる権利"があるんですよ」
あの言葉を思い出すたびに、心が少し軽くなった気がした。
カレンソを出る前、畑の土を触った。
ひんやりしていた。
そして、どこか「頑張れ」と俺を励ましてくれているような気がした。




