第26話 お疲れ様でした
■ローガンside■
夕暮れの光が闘技場の砂を赤く染めていた。
観客席を埋め尽くす人々の歓声が、地鳴りのように響いている。
目の前には、ルシアン・ヴァルデック。エルドリッジ最強の男。
俺は、木剣を強く握りしめた。
(……ついにここまで来た。)
身体はかなり重い。右腕も上がるかどうか分からないほどだ。精霊の力の使い過ぎで、頭が破裂しそうなくらい痛い。
だが、ここまで勝ち進んできた。いや、"勝たせてもらった"のだ。精霊の力で。
ルシアンは相変わらず無表情だった。
まるで何の感情もない、空虚な像のように。
それが逆に不気味だった。
審判が大声で名を呼ぶ。
「エルドリッジ武芸大会、決勝戦!!ローガン・アースベルト対ルシアン・ヴァルデックっ!」
歓声が爆発した。観客の熱気が押し寄せてくる。俺は息を飲む。
ルシアンが強いのは分かっている。だが、俺には精霊の力がある。
"時を遅く"さえれば、勝てる。勝てるはずなんだ。
試合開始の鐘が鳴る。
カァン!——という澄んだ音が、茜色の空に響いた。
俺は静かに木剣を構える。ルシアンがどう出るかを見極める。
俺の間合いに入りさえすれば、そこが俺の勝機。
「まさか、あなたが決勝まで来るとは思いもよりませんでしたよ」
「……え?」
ルシアンは、構えも取らずに喋り出した。その声音は静かで、どこか礼儀正しかった。
「剣術の経験がないにも関わらず、見事な一撃で敵を屠り去るさま。敵ながら、敬意を表します」
「な、なんだ……?」
ルシアンは、ほんのり微笑んだように見えた。
「この前は、握手を無視してしまい、大変申し訳ございませんでした。お互いの健闘を祈り、どうか正々堂々戦いましょう」
そして、右手をすっと差し出してきた。
(握手……?)
あり得ない。だが、敵意は感じない。
俺は一瞬迷ったが、観客が見ている中で握手を拒むのも不自然だと思い、数歩前に出て手を伸ばした。
その瞬間だった。
ドゴッ——!!!
「ぐ、ぐああっ!!!」
ルシアンの右手が、信じられない速さで俺の目を殴りつけた。
裏拳だった。視界に閃光が走る。頭の奥まで鈍い痛みが響く。
「っ、ぁあ……!!」
俺は思わず後ずさった。ルシアンは無表情のまま、こちらを見ていた。
「……素人のあなたが、どのような芸当であのような戦いができるのか、私には検討がつきません」
ルシアンは静かに言い放つ。
「ですが、どうやらあなたは随分と“目がいい”ようだ。相手の攻撃を正確に見極めている。反撃のタイミングも完璧です。……なので、まずは先に目を潰させてもらいました」
「う、うう……っ!」
燃えるような痛み。流れ出る血と涙。視界が揺れる。焦点が全く合わない。
ルシアンの輪郭が、朧げに消えていく。
(まずい……!これじゃ、やつの姿が見えない……!)
今まで俺は、相手が間合いに入ってきた瞬間に精霊の力を使って勝ってきた。
でも今は、その間合いすら分からない。見えなければ、"時を遅く"するタイミングを計れない。
砂を踏みしめる音がした。ルシアンが近づいてくる。
(や、やられる……!)
もう考えている暇はない。
これが最後だ。最後の一回。
時を遅らせる……!
俺は目を強く閉じ、意識を研ぎ澄ませた。
次の瞬間、世界が、粘つくように遅くなる。風が止み、風に舞う砂が空中に止まる。
時がゆっくりになる。
「……っ!」
木剣を構える。自分の間合いを確認する。
次の瞬間、視界の端に赤い影が見えた。ルシアンだ。そう見えた。
「っ!!」
渾身の力で、木剣を振り下ろす。
が、手応えが……ない。
「……え?」
世界が元に戻る。時間が動き出した。
宙に止まっていた砂が落ちる。観客のざわめきが戻る。
俺の木剣の先には、破れた真紅のジャケットだけが残っていた。
ルシアンの姿は、ない。
「な、なんで……?」
背後から声がした。
「……やはり」
振り向く。そこにルシアンが立っていた。無傷で。冷たい目をしたまま。
「あなたは、自分の間合いに入った者に対してのみ必中の一撃を放てる。だが、自分から仕掛けることはできない。今の攻撃で確信しました」
ルシアンが一歩、また一歩と近づいてくる。その足音が、やけに大きく響いた。
「そして、もう体力も限界のようだ。これまでのような一撃は、もう撃てないでしょう」
呼吸が乱れ、心臓が破裂しそうになる。
頭が割れそうに痛い。
世界がぐにゃりと歪んでいる。
「はぁ……はぁっ……は……」
やっと、ルシアンの姿が見えた。
その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「……おや。どうやら、そろそろ時間のようです。あとはせいぜい頑張ってください。お疲れ様でした。」
「……っ?」
どういう意味だ。俺がそう思った次の瞬間。
闘技場中央の大時計が、突然爆ぜた。凄まじい爆発。
轟音とともに、砂塵と金属片が宙を舞う。
観客の悲鳴が、夕焼け空に吸い込まれていった。




