第17話 自分の世界に戻る
武芸大会当日の朝が来た。つまりそれは、オルミアとの不思議な生活の終わりでもあった。
「二週間で二百回」という交尾のノルマは、とっくに達成していた。というより、一週間ほどで終わっていたような気がする。交尾に夢中で、途中から数えるのをやめてしまったから、最終的に何回交尾したのか、俺もオルミアもわからなかった。
結局、精霊の力の"訓練"と呼べるようなことは、何一つできなかった気がする。けれど、この二週間で、俺の中には確かに何かが芽生えていた。
説明のつかない、不思議な自信。力を、掌で静かに包み込むような感覚。これが、オルミアの言う“精が高まった状態”なのだろうか。
出立の支度を終え、俺はオルミアと向かい合った。彼女は、家の裏手にある漆黒の扉を指差した。
「あの扉を開けたら、元の世界に戻れます。おそらく、私たちが出会った場所――あなたの畑に出るはずです」
「……わかった。ありがとう、オルミア」
そう言うと、オルミアは少しだけ俯いた。表情がどこか暗い。
「……本当に、行っちゃうのですか?」
「え?」
思わず聞き返す。
「もうちょっとここにいたらいいのに……」
オルミアは、唇を尖らせて言った。普段の落ち着いた雰囲気からは想像できないほど、子どもみたいな顔だった。
「も、もしかして……俺が行くのが寂しいのか?」
そう冗談めかして言うと、オルミアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「う、うるさいですねっ!せ、精霊だって寂しくなることくらいありますっ!そりゃ、毎日一緒に交尾して、ご飯食べてた相手が……いなくなるなんて、寂しいに決まってるじゃないですか!」
涙を堪えながら訴えるオルミアの姿は、初めて出会ったときの気丈で神秘的な“精霊”ではなく、一人の心優しい女の子に見えた。
「……俺も、正直寂しい。けど、行かなくちゃならないんだ」
オルミアとの生活は楽しかった。心が安らぎ、満たされる日々だった。その……交尾も頭がおかしくなるくらい気持ちよかった。
でも、俺がいるべき場所は、"ここ"じゃない。俺の現実は"あっち"なんだ。
あっちの世界で、自分の力を試し、自分で道を切り開かなくちゃいけない。そのために、俺は武芸大会に出る。優勝して、王都セリオンへ行く。リアナの期待に応える。
オルミアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、「……そうですね」と呟いた。
「気をつけてくださいね、ローガン。“精”が高まっているとはいえ、人間のあなたが精霊の力を意図的に使うのは、非常に集中力が要ります。“時をゆっくりにする”のも、一度に……五秒が限界でしょう」
「一度に、五秒……」
俺はその数字を反芻した。五秒。剣の素人である俺は、それだけの時間で勝負を決めなければならない。
「……そういえば、オルミア」
「はい?」
「その力を、その……試合でどう使えばいい?俺は相手とどう戦えばいいんだ?」
俺の問いに、オルミアは拍子抜けしたような顔をした。
「ああ、そんなことですか。簡単ですよ」
「え?」
「試合が始まったら、相手があなたに向かってくるのを待ってください。相手があなたの“間合い”に入った瞬間、精霊の力で"時をゆっくりにする"んです。そして、相手の首筋に思いっきり木剣を叩き込めばいいんですよ」
「な、なるほど……?」
あまりにも単純な戦法に、少し拍子抜けした。けれど、剣術の心得がない俺には、それ以上の策もない。
オルミアは自信げに言った。
「人間なんて、首筋を思いっきりぶっ叩いたら、誰でも倒れますから」
「ま、まあ、そうかもしれんが……」
オルミアは続けた。
「あ、でも気をつけてくださいね。思いっきりとは言いましたが、“精”が高まっているあなたが全力で振るえば、木剣といえど首の切断くらいは簡単にできてしまいますから」
「わ、わかった……」
脅しではないことは分かっていた。あの日、村の男たちに投げ返した石が、まるで弾丸のように遥か彼方に飛んでいったのを覚えている。
オルミアは俺を真っすぐに見つめ、静かに言った。
「ローガン」
「?」
「……ご武運を」
その言葉には、祈りと、寂しさが混じっていた。
「……ああ。行ってくる」
俺は、黒い扉に手をかけた。扉の向こうには、、眩しい光が満ちていた。
振り返ると、オルミアが静かに微笑んでいた。その姿は、光の粒となって少しずつ滲んでいく。
「ありがとう、オルミア」
俺は、最後にそう言って、扉を開け、元の世界へと戻った。




