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藤に隠すは蜜の刃 『上』

痛いのかどうかもわからなくなったけど。

憎いのも好きなのも、全部あなただった。


世界で一番いとおしいのはあなたなの。

私は幸せになれなくていいの。――あなたが私を生かしてくれるから。


***


 岩場から足が浮き、私は落ちていく。白銀の星屑が目の前を過った気がした。

 

 山道を駆けのぼり、木の影に隠れて弓を構える。この世にはあやかしと呼ばれる生き物がおり、中には人の営みに害を与える者もいた。

私たち巫女の務めは、あやかしを幽世へ送ること――。

「そっち! 右、道をふさいで!」

あやかしを倒すために弓を構えて足止めをする。弓をもつ巫女があやかしを倒すなか、私はサポートに徹していた。無能の私にあやかしは倒せない。鋭い爪が眼前に襲いかかっても、私に弾く術はなかった。

「およずれごと、射るが務め! かくりよへ帰れ!」

ひときわ凛とした声が私の横を通過する。まばゆい光とともに蓮の花が咲き、あやかしを飲み込んでいく。あやかしの叫び声もむなしく、たった一矢で巨大なあやかしはかくりよに送られた。

 山道を駆けぬけた疲労に汗をぬぐう。一人、息も乱さず琥珀の髪を背中に流し、スタスタとその場から去ろうとする巫女がいた。私はその巫女の背を追い、浮ついた気持ちで彼女に手を伸ばす。

瀬織せおり!」

「触らないで!」

 触れることなく、私の手は薙ぎ払われてしまう。弓を握りすぎて皮の厚くなった手がおろし、目尻をとがらせる瀬織にへらりと笑いかけた。

「ごめん。つい……」

 冷ややかに私を一瞥すると、すぐに瀬織は弓を背に担いで他の巫女の元へ向かう。

「後始末はまかせるわ。お願いね」

「「はい! 瀬織さま!」」

誰もが見惚れる端正な顔立ちに、艶のあるきらめく琥珀髪。凛とした横顔は、左側から見れば美しい瞳が見えなくなる。右目の藤色は世界で一番清らかな色。瀬織への気持ちが高まると、つい手を伸ばしてしまうのが私の悪い癖だった。

 さっさと山を下りていく瀬織の後ろ姿をぼんやり見送っていると……。

菊里きくりさま。ご指示をいただけますか?」

「あっ……はい。まずは――」

あやかし退治の後始末は私に出来るまともな役目だ。指示をあおぎにきた巫女にテキパキと対応を教えていると、後ろからひそひそとした声が聞こえてくる。

「本当に瀬織さまはステキね。対して菊里さまは……」

「本当に双子なのかしら? 出来があまりに違うのではなくて?」

――そのような言葉はもう慣れたもの。

私と瀬織は双子の姉妹。瀬織は歴代巫女の中でも圧倒的に優秀だ。対して私はあやかしを倒す力をもたない無能巫女。私たちは“あやかしを退治する巫女家系”に生まれ、弓を武器に戦っていた。巫女の筆頭家門は三つ。そのうちの”弓巫女”にあたる私たちは生まれながらに明暗が分かれていた。弓巫女筆頭家門の娘でありながら、私は巫女としての能力がなく、笑いものでしかなかった。

(強くなりたい)

瀬織と肩を並べられるくらいに。

欲をいえば瀬織を守れるくらい強く、たくましく……。

 私の願いは昔からずっと同じだ。双子の妹・瀬織を守ること。お姉ちゃんなのだから、妹を守るんだと母に意気込んでいたことも懐かしい。

右目を覆う眼帯を指でなぞってみる。私と瀬織は両目の色が異なる”オッドアイ”を持っていた。それくらいしか私たちを双子たらしめる繋がりがない。オッドアイであることを隠すために私は右目、瀬織は左目に眼帯をつけていた。

表に出るのは藤色の瞳だけ。隠れた色はお互いに見せあったことのない秘密の色。


***


「ただいま戻りました」

瀬織と並んで畳に手をつき、上座に腰かける当主に頭を垂れる。白峰 道頼、私たちの父であり、弓巫女筆頭家門の現当主だ。厳格な顔つきの道頼は眉間にシワを寄せ、私と瀬織を見比べてため息をつく。

「あやかしの出没が報告にあがった」

 その言葉を受け、“またか”と息を吐く。ここ十数年で徐々にあやかしの出没数が増えている。加えて弓巫女の人数も減っており、忙しない状態だ。手が追いつかないので、必然的に強い力を持つ瀬織に仕事が集中していた。まったく気にする素振りも見せず、瀬織は淡々と道頼に向き合う。

「どちらへ向かえば?」

「ここから東に一刻ほど、白岩山のふもとに現れるそうだ。今、回せる巫女が少ない。菊里を連れて向かってくれ」

 白岩山は霊山であり、あやかしが現れることは滅多にない。ふもととはいえ、神聖な領域にあやかしが出るとなれば看過できないこと。あやかしの危険が少ない場所のため、私は白岩山に出向いたことがなかった。

「何度も申し上げていますがわたくし一人で十分です。能無し巫女なんて足手まとい」

「そう言うな。筆頭家門の者が出ないわけにはいかん」

 辛辣な言葉に胸が苦しくなる。畳の目に視線を落としたまま、道頼と瀬織の会話に耳を傾けていた。何度も私は足手まといだと、道頼に訴えているが聞き届けられたことはない。瀬織はぐっと不満を飲み込み、深呼吸をして背筋を伸ばした。

「明日、陽が昇り次第向かいます。山となれば暗さが増しますから」

瀬織は父に頭を下げると、スッと立ち上がって部屋を出る。私も瀬織を追いかけるため、急いで立ち上がり父に礼をして駆けだした。足早に歩く瀬織に私は息を弾ませて隣に並ぶ。

「瀬織! 弓の手入れはしておくからゆっくり休んで!」

巫女として役立てない分、出来ることは何でもする。瀬織の力になりたい。今は守れる強さがなくても、いつか必ず。瀬織の負担を軽減したい。苦しい運命も一緒に背負いたい。その一心に笑っていたが、瀬織にとっては腹立たしいことのよう。険しい表情をして瀬織が振り返り、私の手を打ち払った。

「父上が言うから仕方なくよ。お前は無能らしく引っ込んでなさい」

棘を含んだ声で私を拒絶する。いつも瀬織は私を見ようとしない。辛くあたって、私に役立たずの烙印を押す。話すことはないと先へ進んでしまう瀬織に、私はハッとして追いかける。だがギリギリのところで間に合わず、瀬織は荒々しく襖を閉めて私室に入ってしまった。

残された私は張りつけた笑顔のまま、視線だけ落とす。何もない手のひらを見下ろし、弓を想像して握ってみたがしっくりこなかった。皮だけ厚くなり、巫女としての役目は何一つ果たせない無能の手だ。

「強くなりたい……」

その想いだけは一途に変わらない。

(弓巫女として適正がないのはわかってる。だったらどうすればいいの?)

刀巫女、槍巫女、弓巫女。三大巫女の種別であり、私は弓巫女の筆頭家門に生まれた。弓だけを握り、双子の妹・瀬織を追い続けた。細い肩にのしかかる負担を少しでも分けてほしい。孤高な目をして先頭に立っているが、隣に並んで二等分になりたかった。

誰よりもいとしい妹。

誰もが私の愛情を異常だと言う。無能だから引っ込めばいいのにと囁かれても、私は絶対に引かない。瀬織のためならば。瀬織といたいから。私の最愛は瀬織だ。

隣に並んで恥じない姉となるにはどうしたらいいのだろう?

 弓巫女の家門に生まれた以上、弓以外を握ることはできない。無力な手を見下ろすしか出来ず、あやかしと戦う巫女たちを憧憬のまなざしで見る。

筆頭家門の者が軸となる弓を握らない。道理に背く行為となるため、弓だけが私の武器となる。瀬織が弓巫女として戦って、隣に並べるなら私は何を武器にしてもいい。

……それなのに枷ばかりが増えて、私はたった一歩を踏み出すことが出来ずにいた。


***


翌朝、外様とざま巫女を連れて白岩山のふもとに訪れた。外様巫女とは筆頭家門以外の巫女をさす。現状、弓巫女は瀬織のカリスマ性で保たれているようなものだ。

「あーぁ、どうせ巫女をやるなら槍巫女の適正がほしかったなぁ」

「弓巫女はこれからよ。実質、全巫女のなかで瀬織さまが一番お強いんだから」

「刀巫女は当主が変わったものね。元当主の親戚かなんだかが継いだとか……」

 外様巫女たちがぼやきながら瀬織の後に続く。弓巫女の適性者が増えないこと、あやかしの出没が増えていること。体感として巫女たちは不信感を抱く。

 私も同じように疑問はあった。だが現状、可視化されておらず、体感だけでは説得力に欠ける。あやかしが増えているのだから手が追いつかなくて当然だと、巫女たちは不満に感じながらもお役目に徹していた。

「あなたたち」

「「キャッ⁉」」

ひそひそ話をする外様巫女たちに瀬織が艶やかに微笑みかける。

「弓巫女はあなたたちが頼りなの。力を貸してちょうだい」

「「は、はいっ!」」

瀬織は外見も非の打ち所がない。艶やかに微笑めば誰もが見惚れてしまう。つまり私も例外ではなく、心の中でキャーキャーはしゃいでしまうので中々の重症だ。私の世界は瀬織を中心に回っており、一喜一憂するのも瀬織が起因する。

家族愛、恋、友情。そんな枠組みにはめこめないし、はめこみたくもない“愛”だ。

「能無し巫女では何の役にも立たないのだから」

 それがたとえ、一方通行の想いでも……。

軽蔑のまなざし。髪と同じ琥珀色のまつ毛が表情に影を作る。

これは私を傷つけるためだけに存在する言葉だ。大好きな妹が発する言葉は刃物のように鋭くて痛い……はずなのに、求めてやまないのは甘い蜜のせい。

 痛い。痛くてたまらない。だけど諦めるより痛いことはない。

空虚な手のひらを見下ろして、ぐっと握りしめる。弓以外に握ることは許されない無力な身。どうすれば瀬織のとなりに並べるのだろう。堂々とあやかし退治をする自分。空想に耽ってはもの寂しい気持ちになった。


***


ふもとの住人に話を聞くと、あやかしは白岩山から下りてくるそうだ。霊山に潜むあやかしとなれば、相当な強さだろう。警戒体制を維持しながら瀬織を先頭に山に登った。

発展した都市ならば、あやかしは目立って行動しない。ちょっと離れた田舎では、害のないあやかしをちょこちょこ見かける。襲いかかるあやかしは巫女が退治することで、このあたりの治安は守られていた。

山は典型的な生息地だが、霊山にあやかしが潜むのは異常だ。それこそ神聖の高い存在でないと居つくことが出来ないのに何故? と首をかしげても答えはでない。最後尾についていると、前方から生い茂る草をかきわけて小さなあやかしが飛び出してきた。

「およずれごと、射るが務め! かくりよへ帰れ!」

刀や槍が距離を詰めてあやかしを倒すのに対し、弓は一撃でしとめる、または複数人で囲むことで射る。一撃で仕留められる実力のあるものは瀬織くらい。あやかしと戦うたびに、刀巫女や槍巫女と連携ができればいいのにと思い悩む。弓巫女は遠距離戦が得意なため、互いの得意で戦えば効率もいい。残念ながら各家門は不仲のため、協力関係を結ぶのはそう簡単な話ではなかった。

(瀬織が当主になれば変わるのかしら)

弓巫女として適性のない私では、白峰家を継ぐことが出来ない。瀬織は当主を目指しているらしい。他の巫女たちが噂していたので間接的に知った情報だ。

(将来的に当主になるのは間違いない。まだ当主になれないのは、水弓を継承できていないから? 父上は身を引く気はあるのかしら?)

 水弓とは弓巫女に伝わる最強の武器だ。世代交代の際に受け継がれるらしいが、今はその水弓が行方不明となっている。先代当主が亡くなったことで、口伝が途切れて継承されなかったそうだ。

父の考えがわからない。今後、弓巫女をどう導きたいのか。無能な私に話すことでもないし、父の話に耳を傾けたいとも思わない。ハッキリ言ってしまえば、私は父が好きではない。戦うことも知らず、弓巫女の当主の座にしがみつくように存在しているとしか見えないからだ。

とはいえ、わからないことがあって瀬織に聞いてもそっぽを向かれてしまう。双子なのに瀬織にばかり負担がいく。無能巫女だと嫌悪するのも無理のないことであった。


「かくりよへ帰れっ‼」

ハッと顔をあげると、瀬織の放った矢で複数体のあやかしが消えた。通常は一矢につき、一体のあやかしをかくりよに送る。瀬織の巫女としての力は高く、一矢で複数体を倒すことが出来る。まさに”最強”だ。

”およずれごと、射るが務め。かくりよへ帰れ”

この言霊を発すれば力が集約して、強力な一撃となる。言わなくても力は宿るが、言霊の力は偉大、瀬織がつかえば怖いものなしだ。

だからこそ、なおさら悔しかった。圧倒的に強いからこそ、瀬織の負担は大きくなる。圧倒的なせいで……と言い換えてもおかしくない。弓巫女の適性がない私に出来ることは、せいぜいあやかしの足止めだけ。肝心なところは他の巫女に頼るしかなかった。

「! そこっ‼」

茂みの向こう側から禍々しい気配がして、あたりへの警戒を強める。近くに親玉のあやかしがいるのだろう。キィキィと鳴く小物のあやかしたちの奇声に混じって、頭上から風を殴る音がした。

「ギャアギャアッ‼」

巨大な鳥の姿をしたあやかしが、小物たちを吹き飛ばして木をなぎ払う。風が巻き起こり、急ぎ木の影に逃げこむ。このままではすぐに巨大鳥によって一帯が丸裸にされるだろう。いち早く動きを止めなくてはならない。気配を押さえ込み、あえて言霊を口にして矢を放った。

「ギャッ!」

 矢は翼に刺さるだけで、簡単に落とされる。他の巫女たちも一斉に矢を放つが、巨大鳥はものともせず空に飛びあがって強い風で抵抗をみせた。人里を襲うほどに邪気まみれなあやかし。なんとかしてかくりよへ帰したい。まずは矢を放てる開けた地が必要だと、私は思いきって飛び出すと、風を避けながら囮となった。

「向こうの岩場に追い込んで! あとはあたしがなんとかする!」

 私が前に出ると、瀬織はすぐさま活路を見いだし、坂をのぼった先にある岩場を指す。そこで巨体鳥を射抜く気のようだ。瀬織の指示に外様巫女たちは動き、私は一心不乱に巨大鳥注意を引こうと走った。

 岩場まで追い込むと、ようやく巨大鳥は誘導されたと気づき、怒り狂って翼を大きく開閉する。羽根が抜けて葉も散るので、視界は悪い。だが瀬織の立ち位置なら一撃で仕留められる。風が止まった瞬間が好機。私は道を切り開く覚悟で前に飛びだした。

「およずれごと、射るが務め! かくりよへ帰れ!」

言霊を口にしてもやはり巫女の力は宿らない。だが矢は巨体鳥の眼に直撃し、視界を奪うことに成功した。

(やった!)

あやかし退治に真っ当に貢献できたと、爽快な気分にガッツポーズをとる。

それも一瞬のこと、巨大鳥は絶叫をあげながら血を振りまき、私に一直線に向かう。

「菊里⁉」

「キャアアアアアアッ‼」

目ん玉一つつぶしたところで巨大鳥は簡単に怯んでくれない。何の力も持たない私の渾身の一矢はしょせんかすり傷だ。巨大鳥のかぎ爪が岩場に衝突し、足元が崩れて私の身体は岩とともに落下する。瀬織の急いた叫びを聞いて、皮肉にも私の口角は緩んでいた。

――落ちていくなか、真っ白な光が巨大鳥を飲み込むのを見た。瀬織が巨体鳥を倒したとわかり、私は安心して目を閉じる。

「ごめんなさい。お母さま……」

遠ざかる瀬織に想いをはせ、母と重なる顔立ちを思い描いた。

私と瀬織を繋ぐのはオッドアイ。眼帯で覆った右目が熱くなり、焼け死ぬような感覚に光は閉じた。


***


私の好きな甘く爽やかな香り。瀬織と母は同じ香りがする。

たゆたう意識のなかで穏やかに微笑む母の姿を見た。

「菊里。お願いがあるの」

「なあに? お母様」

母様の膝に座り、上目に首を傾げると固い指先が耳に触れる。弓を握り続けて皮膚が固くなった努力の人。それが私たちの母であり、慈しむ心をもったやさしい人だった。

「瀬織を……。妹を守ってあげてね」

「瀬織を?」

瀬織は双子の妹であり、弓巫女としての能力が高く、母屋で育てられていた。私は無能として、敷地内にひっそりと建つ離れで母様と二人で暮らす。はじめて瀬織を見かけたとき、同じように眼帯をしている姿に胸が弾んだ。あんなにもかわいらしい子が血を分けた妹だと思うと、いとおしくてたまらなかった。

瀬織は琥珀色のサラサラ髪に藤の瞳。私は漆黒の髪で瞳は瀬織とおそろいだ。おぼこい顔立ちの私より、ずっとキレイで大人っぽい瀬織に憧れを抱いた。

「私は能無し巫女なんでしょ?」

私の問いかけに母様は泣きそうな顔をして、強く抱きしめてきた。

「弱くない。あなたは瀬織のお姉ちゃんよ」

「強くなれば母様は喜ぶ?」

――それは願いであり、呪いのはじまりだったかもしれない。

「強くなれる。瀬織のそばにいてくれたらとっても安心するわ」

「私ね、瀬織が大好きだよ」

特別な背景をもたない、なんとなくの感覚だった。

「妹を守るのがお姉ちゃんだから! 早く強くなって瀬織とお話がしたい!」

「……えぇ。母様はずっとそれを願っている」

母に抱きしめられると、いつもあたたかくて胸がぽかぽかする。

「私、瀬織を守るよ!」

「ありがとう。大好きよ、菊里」

このやさしい気持ちを瀬織と分かち合いたい。親子三人で笑って過ごせるようになりたい。母様が亡くなり、想いだけが生きた。――ようやく顔をあわせた愛しい妹は、私を嫌っていた。

***


水が落ち、波紋する。頬に冷たさが触れ、驚き目を開く。目を細めて岩肌の天井を眺めていると、何があったかを思い出し、慌てて身体を起こした。

「あ……」

額にのっていた濡れタオルが膝に落ちる。冷たさの原因はこれだったのかと拾い、あたりを見渡した。

岩場に直接寝転がらないよう、下に男性用の着物が敷いてある。直前まで人がいた気配。ランタンの灯りが洞穴を照らしている。それがなければ暗くて天井も見えなかっただろう。

(不思議な場所……。とても澄んだ空気だわ)

ランタンを片手に歩きだし、激しく水を叩きつける音に向かった。洞穴を抜けると滝があり、その先に足場となる滝つぼ石が並んでいる。滝つぼから抜け、開けた空を見上げると、青みを帯びた淡いグレーにまん丸の月が浮かんでいた。まだ夜になりきってはいないが、すぐに更けるだろう。

しばらく月に見惚れ、ふと後ろに振り返る。巨大鳥との戦いで足場を失い、落ちたのだが傷一つない。暗くてはっきりと見えないが、相当な高さがあったはず……。

(こんなところまでどうして……。誰かが助けてくれた……んだよね?)

看病の形跡もあった。不可解なのは崖から転落した私をどうやって助けたのか。

(普通、ムリだよね。生きているのが奇跡……)

「意識が戻ったならここから出ていけ」

「!」

前方を見ればいつのまにか人が立っていた。ランタンの灯りで相手を確認すれば警戒の眼差しが突き刺さる。ピリピリした空気をまとってはいたが、それさえも美しさに変えてしまう輝きがあった。

(怖い……けどキレイ)

シルクのような白銀の髪に、紅玉の瞳。人の域を超えた精錬された顔立ちで、印象的なのは切れ長の目だ。目尻の赤みが色っぽいとつい見惚れてしまい、彼が嫌悪むき出しにしているのを忘れてしまう。まさに目を奪われた状態だ。

不思議な空気をまとう人だと息を吐けば、彼は舌打ちを返してくる。機嫌を損ねてしまったと、慌てて目を反らして唇を丸めた。

「他の巫女なら去った。あやかしも退治され、お前は残された」

 青年の低音でありながらもよく通る声が響く。

「そう、ですか」

 ランタンを持つ手を寄せ、反対の手で腕を擦る。

置いていかれることには慣れていた。瀬織が私を優先することはない。そんなのは最初からわかりきったことだ。それでも現実になればどうしたって苦しい。こんなに好きなのに、想いは通じない。強要したくないのに、欲張りになってしまう自分がキライだ。

(名前を呼んでくれた気がしたけど、きっと気のせいね)

私は足手まとい。助ける価値もないと見切られてしまったのだろう。

無力は悔しい。情けなさに両頬を叩き、意地で肩を張った

(この程度、慣れてるもん! 瀬織の姉を名乗るには強くなるしかない!)

どうすればそれが実現できるかはわからないけれど……。

「助けていただきありがとうございました」

気持ちだけはめげてたまるかと踏ん張って、青年に深々と頭を下げる。おぼつかない足取りで青年の横を抜け、空想に瀬織の姿を描く。

母とよく似た大好きな妹。同じ色の藤色の瞳が、私と瀬織を姉妹だと認識させてくれる。母の遺言を思い出すも、それはそれだと首を横に振った。

(関係ないわ。私が瀬織といたいから)

こんなにも嫌われているのに、私の中にある瀬織への愛情はちっとも減らない。

報われない想いを抱いて辛いだけのはずなのに、よっぽど私はふてぶてしいのだろう。未来への期待は捨てられなかった。

「待て」

声と気配を同時に察知し、振り返るよりも先に右の手首を掴まれた。右側は眼帯のため、どうしても反応が一歩遅れてしまう。振り返れば紅玉の瞳がまっすぐに私を映していた。ガラス玉に切り抜かれたかのように私の輪郭がランタンの灯りに浮かんでいる。

「お前、何なんだ?」

「えっ?」

「なぜ弓を握っている」

彼には”弓巫女”という認識がない。ならば答えるべきは巫女についてだ。

「あやかし退治です。私は巫女で、その務めを担うもの……」

そこまで口にして言葉が止まった。かくりよへ送るべきあやかしは”人に害を成すか”で決まる。そのため邪気のないあやかしに縁がなく、気配を読み取るのに時間がかかってしまった。

「あなた、あやかしなの?」

サァーッと風が吹く。滝つぼの水が波になって奥に広がった。木々から落ちた葉が風にのり、白い泡立つ場所に集まっていく。私は目の前のあやかしをどう見ればよいかわからなくなり、身動きがとれなかった。

人に害する気配はないが、彼からは私への嫌悪が見てとれる。とっさに足を引いて定位置にある弓を手に取ろうとする……が弓はなかった。

(ない⁉ どうして……)

崖から落ちた時に手放してしまったのか。あれは大切な母の形見であり、私が全うに戦うために必要なものだ。

(どうしよう。あれがないと私……)

 頭が縄で締めつけられたかのように、鈍い痛みに眉をひそめる。泣きたい気持ちをこらえ、ぐっと唇を丸め「冷静になれ」と自分に訴えた。それでも簡単に焦りは消えない。

青年はしばらく黙っていたが、やがて呆れたと言わんばかりのため息を吐く。

手のひらから風を巻き起こすと、母の形見と数本の矢が現れる。鮮やかな技に目を見張り、大事なものが返ってきた動揺に顔をあげる。青年は雑に弓と矢を私に押しつけると、肩を落として紅玉の瞳を向けてきた。

お礼言わなくては、と声を出そうとして青年が先に口を開く。

「その手が剣を握ったことは?」

唐突な問いに目を丸くし、首を横に振った。

「いえ、ありませんが……」

「そうか」

質問したわりにあっさりと引く。何だったのかと訝しげに青年を目で追っていると、青年はさっさと石をまたいで洞穴に入ろうとする。重力なんてないように軽く飛ぶ姿はまるで鳥のよう。白く繊細な美しさだが、腰にさげられた黒い鞘の剣だけ歪に見えた。

(って、違うでしょ!)

 青年の美しさは置いておき、助けられた身なのだからすべきことがあるだろうと、自身を叱咤した。

「あの! 助けてくれてありがとうございます!」

青年が私に良い感情を持たないのは仕方のないこと。そもそもあやかしと人間が相容れるはずもない。あやかしをかくりよへ送る巫女のことは苦手なはず。あやかしにしては、澄んだ空気をまとう……と気にはなるも、これ以上は深追いするのはやめようと背を向け、場を去った。

***


滝の音から離れ、ランタンの灯りを頼りに山を下りていく。急いで下りなくては真っ暗になってしまう。空は明るさを保ちながらも、月が浮く程度には夜が近い。

(なんだか……右目が変)

眼帯で覆い隠す右目が熱い。まるで心臓になったみたいだ。木々の隙間から見える色素の薄い月、まん丸さにホッと息を吐く。

どうせこんな山の中なのだから誰に見られる心配もない。眼帯をつけっぱなしでは蒸れて気持ち悪いと、後頭部に手を回して紐を解いた。

金色の瞳が表に出ているはず。何度か瞬きをして視界を馴染ませた。ずっと眼帯をしているせいで視力が右と左で異なる。左目はぼんやりして、輪郭は不鮮明になりがちだ。

(私と瀬織、似てるのがこれだけなんてね)

うれしいような、さみしいような。他があまりに共通点がなさすぎて涙が出そうになる。ポジティブなとらえ方をすれば、自分に似ていないからこそ愛おしさが増した。比例して自己嫌悪もいっしょに推移していくが。

「戻ろう!」

そう言って私は左目に眼帯を付けなおす。瀬織はもう白峰家に戻っているはずだ。

責任感の強い瀬織は、外様巫女たちの安全を優先するとわかっている。

瀬織の優先順位に私は候補に入っているか。いや、きっと入っていない。それでもいいと、覚悟して私は瀬織を一途に想っている。虚しさを覚えてしまうのは、目標があまりに遠すぎるから。

(このままでいいの? こんなに弱いと……)

いつまで経っても瀬織と肩を並べられない。ましてや守りたいなんて、どれほど無謀なことを口にしているのか。

不安は閉じ込めて、口では自信があるように不屈を語る。そう簡単には割れない強化ガラス、一度割れれば修復が難しかった。

(剣……か)

他の武器を持てばもしかして……と期待して雑念をはらう。弓巫女の筆頭家門である以上、私は弓以外を握れない。筆頭家門としての矜持、他の家門に隙を与えないため。

かろうじてバランスをとる三大家門。厄介な芽は最初から摘まんでおかなくては、対立のきっかけになってしまう。期待しても無駄なことだ。

弓を使うたびに傷つき、皮の厚くなった手を見下ろして、から笑いをした。

***


もうすぐ山のふもとまでたどり着く。ランタンの灯りでよく下りれたと自分を褒めつつ、今夜はふもとの村に泊まらせてもらおうとぼんやり考える。

家に帰れば、瀬織はきっと苦虫を噛み潰したような顔をするだろう。その顔を想像するだけでも、かわいらしいと頬がゆるむ。罵られても早く会いたくて、空に浮かぶ満月に向かって駆けた。

「キィッ! キイィッ!」

「! これは……!」

さきほどの巨大鳥とは異なる金切り声が響いた。

視界は悪いが、気配は近い。弓を構えて意識を集中させる。

(どうする? 私だけじゃあやかしは倒せない)

 だからと言ってここで逃げれば、あやかしも人里に下りてしまう。それだけは絶対にダメだと、巫女の矜持で足止めに徹しようと決めた

(見えた!)

「私は弓巫女! この先は行かせない!!」

空に向かって矢を放つ。さきほどの巨大鳥よりは小さいが、十分禍々しいカラスに似たあやかしだ。矢を放てば胴体に突き刺さったが、決め手にはならない。

満月を的にすれば、影が浮かんで戦いやすい。矢の残り本数は少ないため、あやかしの動きを封じることに徹しよう。頭をフル回転させ、無能な私にできる立ち回りを必死で考えていた。

「キエエエエエエッ!」

(あっ……! ダメだ……!)

 いくら考えても手が追いつかない。加えてここは足場の悪い山道だ。足の速さには自信があっても、ここでは役に立たない。このままでは足止めにもならず敗北する。

(瀬織――‼)

眼前にまで迫ったあやかしの爪に涙がこぼれた。


――びゅうっ!

目を開くと、新緑の爽やかな香りとともに白銀の髪が揺れる光景が見えた。

一瞬、赤い瞳と視線が交わり、心臓が跳ねる。あの美しい青年が、あやかしと戦い、圧倒している。しなやかな身のこなしに目を奪われるが、ハッとして急ぎ弓を構えた。

「およずれごと、射るが務め」

出来る、出来ないじゃない。

今、なんとしてもこのあやかしを止めなくてはならない。

 無能だとしても、私は巫女だ――‼

「かくりよへ帰れぇぇえ‼」

いつもは震える指先も、今はまったくぶれない。まっすぐに矢があやかしに向かい、翼に刺さって黒い血が吹き出た。――それだけだった。肩で呼吸をし、無力さに爪を手のひらにたてる。あやかしを祓う力はない。どれだけ強い気持ちで挑んでも、土俵にさえ立たせてもらえない。この悔しさに何度涙したか。

 強くなりたい。強くなりたい! 強くなりたい‼

 渇望して、叫んで、現実に打ちのめされる。瀬織が遠い。

大切な妹なのに、どうして私はこうも役立たずなの?

青年が器用に風をまとい、あやかしと戦う姿に憧れを抱く。あやかしを倒すとかくりよの道を開くのは、同じようで別物だ。青年はあやかしを戦闘不能にさせようとしているのだろうが、相手は小賢しく、キリのない状態だ。青年は舌打ちし、地面を蹴り飛ばして後ろに大きく下がった。

「お前、この剣をもってみろ」

 青年が腰にさげていた剣を私の手にのせる。

「えっ⁉ わっ⁉」

ズシっとした重みに、慌てて弓を腕にかける。弓よりずっと重いそれを渡されたところで扱い方がわからない。その割に気持ちが逸り、刀身を見てみたいと鞘に手をかけた。銀色の刀身が現れ、輝きが私の左目を刺激する。

「キレイ……きゃっ⁉」

剣の美しさに目を奪われていると、青年が私の腕を掴み、木々を越えて高く飛び上がる。山の上空で止まると、腕から弓が落ちて剣だけが残された。

「あっ……」

「その剣を振れ。俺がサポートする」

「えっ! 待って……。私、剣なんて振れ……!」

私の返事を聞くより先に、青年はあやかしに向かって急降下する。悲鳴をあげるも、もはや戸惑っている時間はない。唾を飲みこみ、どうにでもなれとやけくそに剣を振り下ろした。青年の支えもあり、切っ先に風をまとってスムーズにあやかしに斬りかかる。

あやかしの身体を袈裟懸けに斬れた。血が飛び散り、青年のうるわしい頬を汚す。

今までない手ごたえにあっと驚き、脈が速くなるのを感じた。

(うそ……。こんなのはじめて……!)

「もう一度。かくりよへ送れ」

 不安よりも期待が上回る。私は出来る、その確信があった。

青年の言葉にうなずくと、風のスピードを利用して剣を振り上げる。勢いの足りない分は青年が風で後押ししてくれた。

「およずれごと、斬るが務め。かくりよへ帰れぇえっ‼」

「ギィエエエエッ‼」

真っ黒な血が吹き出て、雨となり髪を濡らす。断末魔をあげてあやかしは光る蓮の花にのまれ、あっさりと消えた。私は肩で呼吸をしながら、頬に付着した黒い地を拭う。

(倒した……。かくりよへ送った?)

興奮そのままに青年に振り返る。麗しい青年は眉をひそめ、あやかしのいた場所を睨んでいた。見事なまでの白銀の髪が、炭をかぶったみたいになっている。ツゥーンとした匂いに、不機嫌となっているため。私は背伸びをして、汚れてしまった青年の頬に指を滑らせた。

「ありがとうございます」

 着物の袖で拭うしかないので、必死に青年の汚れを落とそうとした。もういい、と青年が突っぱねたのでおずおずと下がり、刀身が出たままの剣を鞘に戻す。

「あの、これ……」

青年に返そうとしたが、受け取る気配がない。首を傾げて青年の顔を除けば、しかめ面に剣を見下ろしているだけだった。

(ランタン……ない。村、すぐそこにあったんだ)

 それでも灯りは心もとない。その不安は剣を持っていることで強くなった。

(あまり長く持っていたくない)

これを握っていると心臓がドキドキして思い悩んでしまう。叶わぬ願いに光がさしたと期待する気持ちがソワソワさせてくる。

(私が持っていたらダメ。弓巫女の娘だから……)

私は弓巫女であり、他の武器を握ることは禁じられている。

いずれにせよ刀も槍も握る適性はないはず。……なかったはずなのに、私は弓ではなく剣であやかしをかくりよに送ってしまった。

後ろ髪を引かれる想いに蓋をして、私は巫女らしい仮面を顔にはりつける。

「巫女の務めが果たせました。あなたのおかげで私は戦えました」

「剣は不要か?」

その問いに、私は凝り固まった微笑みを浮かべるしか出来ない。青年は短くため息をつき、剣を受け取ると鞘から抜くしぐさをした。

(なんで?)

青年が剣を抜こうとしても、刃は鞘から出てこなかった。再び私が剣を持ち、鞘を引いてみればあっさりと銀色に輝く刀身が現れる。

「お前は刀巫女なのだろう。この剣は適正のある者にしか抜けん」

「待って、私は弓巫女で……」

「だからわからない。お前は誰なんだと……」

整理のつかない状況に青年は滅入った様子で額をおさえる。私の藤の瞳を見つめ、また悩ましげにため息をついていた。

「少なくともお前は刀巫女なんだろう。その証明はされた」

「そんな……。私、弓巫女で、瀬織のお姉ちゃんなのに」

瀬織と双子なのだから、このように適性が分かれるはずがない。筆頭家門から他の巫女が生まれないはず。私が刀巫女、瀬織が弓巫女であることは矛盾でしかなかった。

「適性が刀巫女である以上、そのまま弓を握っても強さは得られない。前線から去らねばすぐに命を落とす」

「……わかってます。そんなことは」

悔しさに歯を食いしばる。

泣くに泣けない想いは、青年に八つ当たりとなってぶつかっていく。

「その剣をとったら私は瀬織のそばにいられない! ずっと弓巫女として戦ってきた!」

禁じられている剣を手にとれば、より居場所はなくなってしまう。弓巫女の筆頭家門が他の武器を手に取ることは、前代未聞。家に背く行為だ。

一番怖いのは瀬織のそばにいられないこと。瀬織のそばにいたいから強くなりたい。愛を越えた愛情があるから守りたいんだ。

(そばにいたい……。そばにいれなかったら私……)

 きっと壊れてしまう。そばにいたまま強くなれるなら、私は瀬織に嫌われたとしても何にでもなる。いまさら嫌われることに恐れはない。肩を並べることが、強いお姉ちゃんであることが、私のすべてだから。

そうして自分の気持ちを一つひとつ確認してみれば、弓巫女でなくても瀬織を守れる可能性を知る。問題はそばにいれなくなること……。本当に怖いのはなに……?

(私は弓巫女にこだわってない。それよりも……)

「あれ……?」

目の前がぐらついて、見え方の異なる二つの視界が閉じていく。身体に力が入らず、気怠さに襲われて立っていられなくなった。

「つよく……なりたい」

それだけが不変の想い。弓巫女として戦わなくてはならない。それは父や祖母に言い聞かされ守ってだけであり、私自身は強くなれればなんでもよかった。

ただ禁じられた。瀬織に不快な思いをさせたくなかっただけ。弓を握り続けたが、剣を知った今、道は一つでないと知ってしまった。私に弓巫女でなくてはならないという矜持はない。瀬織のお姉ちゃんになれれば、私はプライドなんて捨てる――そこまで考えて私は青年の腕の中で意識を失った。


***


幼い私が父に呼ばれ、広い畳の部屋で正座をしていた。たしか父とまともに対面するのははじめてで、緊張に身を強張らせていた。

ふすまが開き、さらさらの琥珀髪が揺れるのに目を奪われる。この子はずっと会いたかった双子の妹だと気づき、視界は星がまたたくようにキラキラ光りだした。ようやく話をする機会が出来たと、うれしくなって手を伸ばす。だけどその手は……。


「ん……」

視界がかすむ。ぼやんぼやんだ、とバカみたいに幼くなって笑う。頬に指を滑らせてみれば、ほんの少しだけ指先が濡れた。身体を起こし、今いる場所は白峰家の母屋、片隅にある私の部屋だった。

「私、どうやって帰って……?」

あやかしと戦って、そのあとの記憶がない。だがこの手で握った剣の感覚は残っている。弓とは違う。はじめからこの剣は私のためにあったと錯覚する馴染み方だった。

「あの人は……」

剣を握り慣れていない私をサポートしてくれた青年。あやかしだと思われるが、

その分類にしてもいいのか迷うほどの美人さん。私に寄り添ってくれた不思議な男性。

ドキドキとズキズキ。二つが入り混じり、思い浮かべるだけで複雑な心境だ。彼がいなければ私は死んでいた。だからといって、刀巫女だと言われてもしっくりこない。

弓巫女の血筋から異なる適正が生まれるはずがないのに……。知りたくもなかった。

 このままではダメだ。腑に落ちないモヤモヤに感情を飲まれそうになる。ただの雑念だと首を思いきり横に振って、頭から振り払おうとした。

(ダメダメ! 巫女たるもの、自分を律しなさい!)

「そうだ。水浴びでもしよう」

 それがいいと手を叩き、心急くまま立ち上がる。部屋を飛び出し、白峰家の敷地内にある泉へ向かった。

あやかしと戦う巫女は水で身を清める。あたたかい湯に入るのもいいが、今の気分は滝に打たれたい。外へ出れば夜が深いようで、静かな風が葉を鳴らす音がした。

月はまん丸から少しだけへこんでいる。月に手を伸ばしては何もつかめない手のひらを見下ろす。この手はいつも空っぽだと、唇を丸めて足を速めた。


泉のまわりには規則正しく並んだ灯籠がある。その明かりを頼りに巫女装束を脱ぎ、肌着になって眼帯を外す。視力の異なる視界では足元まで不安定になるので、そっと泉に足をつけ、ゆっくりゆっくりと深いところまで進んだ。

月が照らす黄金の波で足を止め、水面に映る顔を見下ろす。まるで鏡のように、オッドアイの冴えない私と目が合った。――キライ。

 水面を叩き、泉に潜って膝を抱える。冷たさに慣れてしまえばゆりかごのよう。目を閉じ、乱れる思考をかき消そうとした。

(私、あやかしを倒せた。あの剣があれば私は瀬織と……)

――これ以上はダメだ、と泡を吐き出す。白峰家の巫女が弓以外に手を伸ばそうとするなんて、恥でしかない。一族に顔向けできないことはしない。正々堂々と、瀬織を守れるお姉ちゃんになる。……弓でそれが達成できるか、いつまでも不安に揺れた。

「バカ野郎‼」

グイッ――と、突然腕が引かれ、水面から飛びだす。唐突な急上昇に驚き、鼻の奥に水が入ってむせてしまった。目に水が入り込み、大げさに瞬きを繰り返していると、視界に白銀の糸がきらめいた。

「えっ?」

「バカか、お前は! 死ぬ気なのか⁉」

「え、ええ⁉」

「気配が動いたと思い来てみればこんな……」

 顔が近い。国宝級の美しさが目の前にあり、気が動転して言葉が詰まる。早口にせまっていた青年だが、ふと我に返ったようでポカンと口を開いて固まった。

視線を落として、ゆっくりと手を引いていく。硬直した青年の意図をたどろうと視線を追いかける。

(あっ……!)

途端に恥ずかしさを覚え、青年から退いて両手で胸元を隠した。清めのために水浴びをしていたが、濡れると肌襦袢は透けてしまう。痴態をさらしてしまったと、青年に顔向けできずに背を向けた。

「ごめんなさいごめんなさい! あのっ……これは‼」

「いや、俺こそ悪かった」

お互いに恥ずかしがって目を合わせられない。尻目に青年に目を向けると、灯籠の明かりに染まった横顔があった。こうも端正な顔をした人でも、照れて頬を染めると知れば可笑しく見えてしまう。かわいらしさにクスクスと笑ってしまった。

「……笑うな」

「ふふっ……ごめんなさい」

少し言葉を交わすだけでわかる。彼は純粋で真っ直ぐな心の持ち主のようだ。

出会ったときの軽蔑する眼差しはもうない。今は慎重にうかがっているだけで、私への嫌悪を抱いているわけじゃない。そう理解すると、胸がポカポカして、やさしさに頬がゆるんだ。

「ここは白峰家の敷地にある清めの場所です。身体を清めていただけですよ」

「そうか。それはすまなかった」

「いいえ。あなたがここまで運んでくれたのですか?」

私の問いかけに彼は頬を染めてうなずいた。一つに結った白銀の髪が乱れ、前に流れる。うっとおしそうに耳にかけるしぐさは艶めかしい。じっと眺めていると、居心地悪そうに視線をさまよわせていた。シャイな人だと思いつつ、助けられたのだから誠意をもって向き合いたいと背をシャキッと伸ばす。

「ありがとうございます。助けてもらえなかったら死んでいました。ほんの少し、夢を見れてうれしかった……」

嘘、本当は夢になんてしたくない。剣を握ったとき、未来が切り開けるような気がした。あやかしをかくりよへ送るための言霊に、力がこもる。弓を握っているときには感じられない力が湧きあがる感覚があった。

この手で剣を握りたいのに。弓巫女の縛りが私を素直にさせてくれない。

「俺を傍におけ」

「えっ?」

突然の申し出に面を食らい、足で水を弾いてしまう。紅玉の瞳はあまりに魅惑的で、吸い込まれそうだと多少の怯えもあった。

「傍におくって……あなた、あやかしですよね? 巫女に協力するなんて」

 聞いたことがない、と言いたかったが声にならず。

「あやかしだが、人に害を与える気はない。むしろ俺は……」

 同じように言葉に悩んでいる。喉のフタは互いに頑丈なようで、最短の言葉を見つめられずに喉元をさすった。灯籠のあかりだけでは頼りなく、声で彼の所在を知りたかった。

「名前を聞いてもいいですか?」

「――静芽しずめ。天狗のあやかしと人の間に生まれた半端ものだ」

 息をのんで、静芽は何者かを語った。山の守り神とも呼ばれる高貴なあやかし・天狗。まさに摩訶不思議な生き物で、静芽が神々しいのも納得だ。意外性で考えれば、鼻は高いが人外に伸びているわけではない。顔立ちも人と同じで、常に怒った表情ではなかった。

名のあるあやかしは、むやみやたらに人を襲わない。害を成さないと言いきれて当然だ。おそらく静芽は人に近しい価値観で育ったのだろう。少しだけ会話に不慣れなように見えた。

(そんな人がどうして剣を……)

しかもあれは刀巫女が持つための剣だ。巫女それぞれに特別な武器があり、その入手方法は当主になったものにしか知らされない。弓巫女にいたっては途中で口伝が途切れたようで、現当主である父はそれを知らなかった。当然、私はそのことに腹を立てている。(“瀬織が”困るの! 口伝が途切れるなんて、前代未聞なこと……)

そう思いはしても、無能の私が口に出せることでもなかった。

「あんたは刀巫女だ。この剣がそう言ってるんだ」

静芽の手が私から離れると、宝玉のついた剣に移動する。戸惑い混じりの触れ方に、つい私まで手を伸ばしたくなった。ダメだ、と私は静芽に背を向け、唇を噛みしめる。

「あんたが刀巫女の理由。俺にはわからない。だがこの鞘から抜いた事実がある」

「わ、私は弓巫女です! 白峰家の娘で、瀬織の双子の姉で……!」

「瀬織……。あぁ」

あの娘か、と静芽が呟いたので急ぎ振り返って静芽の腕を掴む。

「瀬織を知ってるの⁉ 瀬織は私の妹で……!」

「白岩山にいた娘だろう? 弓をもっていた眼帯の」

じっと静芽が私の顔を見つめる。

「あんたと同じ、オッドアイの巫女だ」

そこでようやく、眼帯を外していたと気づく。忘れていたと焦り、右目を手で覆い隠す。信じがたい現実に必死で、自分を顧みる余裕がなかった。

くわえて肌着でも接することも頭の中から飛んでおり……。今更ながらに羞恥心を抱いて身体を水に沈めた。左目の藤色で静芽にうかがいの眼差しを向ける。

「言わないで。私も瀬織も、目が見えないことになっているの」

「別に、誰にも言わない」

ホッと安堵して胸をなでおろす。静芽は一向に目を合わせようとしなかった。

「俺はあんたにこの剣を握ってほしい」

「どうして……」

「この剣があんたを呼んでいるから。それに……」

いや、と静芽は口をつぐんで首を横に振った。その場にしゃがみこみ、ようやく私と目を合わせる。水に浸かった私の手を掴み、重たい剣を手のひらにのせた。手に馴染む感覚。一人で持つと身体が火照って、熱さに息を吐く。――脳裏に瀬織の顔が浮かんだ。

”妹を守ってあげてね”

 ――残された私にお母さまが託した願い。

「――この剣をとったら私は強くなれる?」

私をがんじがらめにする鎖。この問いに対する答えが鎖を破壊する。

「必ず」

世界の音が消えて、頬を撫でる風に鳥肌が立った。指を折り、剣を握る。鞘から刀身を出してみれば、まるで月の鏡みたいだった。

「私、強くなりたい」

妹を守れない情けない姉。能無し巫女と呼ばれることは平気だった。

なによりも辛かったのは瀬織のとなりに並べないこと。

妹を守れるだけの強いお姉ちゃんになれないこと。

「胸をはって瀬織のお姉ちゃんだって、言えるようになりたい!」

見透かされる。これはひとりよがりな欲望だ。

誰にバカにされようとも、私は瀬織のために生きているから。

「俺をそばにおけ。あんたが自由に戦えるように。俺が全部、教えてやる」

「自由に……」

堂々とあやかしを倒す。

今まで感じたことのない解放感に、私は剣を胸に抱き寄せた。

「私は白峰 菊里。これからよろしくお願いします、静芽さん」

「あぁ」

静芽は水に濡れた私の頬を親指で撫でる。そして剣を持つ私の手を取り、小指にスッと冷たさを触れさせた。小指にはまった拘束を見下ろせば、珊瑚の指輪が光っている。

(指輪……)

 となれば、相応に照れくさい理由があるはずだ。男の人から指輪をはめられるなんて、短すぎる決断に恥じらって目を反らす。

「あ、あの……。これってどういう……」

「俺なりの誠意だ。……大切なものなんだ。とても大切な」

 それはそうだな、と想像したものと異なりホッとする。いくらなんでも男女の恋で指輪を贈られるのは早すぎる。……そもそも静芽に好意を寄せてもらえる器量の良さはない。私にとって優先事項は瀬織であり、まずは瀬織の役に立てる巫女となり、肩を並べられるようになって、最終的には「お姉ちゃん、カッコイイ」と言われる強さを得たい。そう考えると、私に恋は早いというもので、瀬織にもいつかは相手が出来るのだろうが、それさえも不安であり、私の認める相手でなくては絶対に渡したくないし、だいたい――。

「あんた、忙しい頭してるんだな」

「ほぁ……?」

 忙しいというより、瀬織のことで頭がいっぱいなだけだが……。

 一旦落ちつこうと、あらためて静芽と向き合い、珊瑚の指輪を観察する。静芽にとっての意味あいは信頼の証だろうか。大切なものを会ったばかりの私に渡すなんて、彼の距離の寄せ方は不思議なものだと微笑する。変だと思いつつ、真摯に向き合う姿勢はうれしいものだ。一瞬でも男女の指輪交換を想像した私が恥ずかしい。赤っ恥をかいた気分だ。

咳ばらいをし、左目を隠す手を下ろして静芽を見つめた。

“能無し巫女”と呼ばれる弓巫女は、母の形見を手放して刀を握る。強くなりたいと叫び続けた私が、天狗のあやかしと未来に向かって戦う日々のはじまりだった。









*** 二 ***


 人間が生きる世界を現世うつしよ、あやかしが生きる世界を幽世かくりよと呼ぶ。人間とあやかし。生きる世界が分かたれていたが、歪みは現世にあやかしを呼び寄せた。すべてのあやかしが人間に害を成すわけではない。だがあくどいあやかしは存在する。それをかくりよへ送り帰すために巫女が生まれた。

三人の巫女からはじまり、現在の筆頭家門に繋がった。弓を持つ巫女の家系に生まれた、オッドアイの双子。片目を眼帯で隠し、別々に育てられた。

母の死をきっかけに双子は対面。優秀な妹、無能の姉。悲惨な能力差に、能無し巫女は蔑まれ、肩身の狭い想いをしていた。――そのはずだが、姉は妹を溺愛していた。


朝、目を覚まして早々に私は瀬織に会いたくなった。狂おしい愛情に直行したかったが、冷静になろうと長く息を吐く。どんなに好かん相手であっても、当主を無視するわけにもいかない。父としての顔もない。ただ白峰家の当主だと座りこむ姿はくそくらえ。男性のため、前線に出られないのは仕方ないとしても、瀬織をコマのように扱うのは胸くそ悪い。それで他家に弓巫女は安泰だと鼻高くしているのだから、余計に顔面を引っ掻きたくなる。

(あぁ~もう。だめだめ。落ちつこう。お父様はキライだけど、瀬織が怒らないなら私も怒らない。うん、平和に生きないとね)

悶々と自分に言い聞かせ、そそくさと縁側を歩く。

静芽をそばに置くと、当主に伝えなくてはならない。それが巫女としての最低限の礼儀だ。さすがにこれから刀巫女として務めに励む、とは言えないので隠す方面に進める。口にすれば白峰家から破門されるだろう。それだけは勘弁願いたいと、結論隠すことが最善であった。

瀬織のそばから離れたくない。その一言に私の想いは集約される。同時に強くなることは諦められない。葛藤していくうちに、段々と足取りが重くなった。

「菊里」

 前方から耳にスッと届く心地よい低音に名を呼ばれる。眉をひそめる静芽は不機嫌そうでも麗しい。おそらくしかめっ面はデフォルトであり。実際の機嫌は関係ないのだろう。

「剣のことは話すな」

「えっ?」

 足を止めた静芽が首をくいっと傾け、重たい息を吐く。

なぜ、と問いたくてもやわらかい言葉が出てこない。ここはとりあえず笑っておいた方がいいのではと試みるも、口角が引きつるだけで自虐的になってしまった。どうしたものかとたじろいで、ゆっくりと静芽が目を反らす。静芽の向こう側は廊下の曲がり角。その先からバタバタと足音が近づいてきた。

「! 瀬織!」

瀬織の色白い顔を見て、私の口角は嬉しさにゆるむ。冷静沈着な瀬織が珍しく肩を上下させ、呼吸を乱している。私と目が合うや、ぱっちりとした猫目をさらに大きく開いた。悩ましげに眉根を寄せたあと、間に立つ静芽をジロリと一瞥する。同じように静芽も振り返って瀬織を凝視した。

「……はっ、そうくるか」

瀬織はため息を吐き、くるりと元来た道を戻ろうとする。会話も出来ずに瀬織を見つめるだけはイヤだと走り出し、誰よりも皮の厚い手を掴んだ。

「ごめんね、瀬織! あやかしは退治したって聞いたわ! 私が至らないばっかりに全部任せちゃってごめんね!」

「別に。あんたがいない方があたしは楽なの」

 振り返ってもらえない。そんなことは慣れているが、いつだって瀬織の力になりたいと思っている気持ちは伝えたい。届くことがなくても、届けることはあきらめない。

「それでもまた瀬織に会えてうれしい」

他の巫女がいたのだから、私に構っていられるはずもない。岩場から落下したのはあくまで私のヘマ。瀬織が気負う必要はないと、微笑むことでしか伝え方を見いだせなかった。静芽に命を救われた。こうしてまた瀬織に会えたのも、静芽が寄り添ってくれたから。私の一番大切な想いに、応えてくれた人……。

「その人、なに? あやかしよね?」

 瀬織が尻目に振り向いて、静芽を指さす。あやかしとして曖昧な気配の静芽は、瀬織にとっても不思議なものらしい。上から下まで観察し、目を細めて眉間のシワを深くした。

「この人は静芽さん。崖から落ちた私を助けてくれたの」

「……その剣は?」

「あっ! うん、これね!」

急いで私は腕に抱えていた剣を両手で持ち直す。

「この剣があれば戦えたの。あやかしをかくりよへ送ることが出来たんだ」

「は?」

 気持ちが浮ついて、私は瀬織の表情を見ることなく早口に語った。

「まだ扱い慣れないけどがんばるね。弓巫女ではいられないけど、瀬織の力には――」

「バカじゃないの‼」

ガシャン! と音をたてて手から剣が落ちる。歯を食いしばり、藤色の瞳がギラギラと私を睨んでいた。また空気が読めなかったと、私はもの寂しさと動揺に剣を拾えない。

「そこまでしてあんたは巫女に執着するの⁉ お母さまの形見を持っているくせに、それを捨てるというの⁉」

「違うよ! 私はただ強くなりたいだけで!」

「弓巫女でいられないならやめなさい!」

 知っている。これは弓巫女としての矜持だ。責めとして当然のもの。怒りを買うことはとっくに慣れているから。どうか心だけは見て見ぬふりをして……。

「刀巫女なんて……あんたはしょせん能無しなんだか――!」

「それ以上はやめろ」

低音の声にハッと顔をあげる。静芽が冷ややかな視線を落とし、瀬織の手首を掴んでいる。挑発的になる瀬織の肩を押し、私の腕を引く。私たちの間に立たれると、瀬織の顔が見えない。居ても立ってもいられず、慌てて剣を拾うと静芽の袖を引いた。

「あなた、なに? あやかしが巫女のことに口出ししないで」

「お前の態度は見苦しい。同じ巫女だろう? ただの侮辱にしかみえないが」

「しっ、静芽さん! いいんです!」

止めにかかると、バチバチにぶつかっていた赤と藤の瞳が同時に私に向く。美しい鋭さに肩がすくんでしまう。板挟みに影響を受けたのか、現状が変わるかもしれないと恐れを抱いた。

「私、それくらい酷いことを言ってる。ちゃんとわかってます。弓巫女に背く行為」

私の言葉は瀬織には裏切りに聞こえているはず。そもそも弓巫女の血を引くものが剣を扱えるはずもないのだから、こいつは頭がおかしくなったのでは? と思うのが正常。バカげたことを言っている一喝するのが、筆頭家門の責務でもあった。

「……納得はできない」

 私を映さない藤色の瞳。瀬織は呆れ果てたのだろう。背中を向け、曲がり角で姿を消してしまった。離れるときに、甘く爽やかな香りだけを残して。

 追いかけたくても、嫌われているがゆえの恐れが足を床に縫いつける。

(本当は……)

――弓巫女になりたかった。

瀬織の細い肩にのった重荷を分けてほしかった。

弓巫女の家門に生まれ、強い弓巫女を目指してここまできた。能無し巫女も、いつかは開花するかもしれない。光も見えぬ希望を抱いて、瀬織の背中を追いかけた。

――剣なんてほしくなかった。

強くなるには必要だったから、自分の中で必死にかみ砕いて腑に落とした。

弓巫女として強くなれるならそうしたかったよ……と、情けない想いを抱いて手で剣を胸に抱き寄せた。

「お前の妹は誰にも言わない」

静芽が明瞭に、私の繊細な心に斬りこみを入れる。私の恐怖を理解して、その上でハッキリと言いきるのだろう。瀬織が好きだからこうなるのは仕方ない。誰が見ても異常な想いなのだから、あきらめてしまえばいいのに。二つの気持ちに葛藤する私はきっと、見た目でわかるほどに顔が赤い。静芽の真っ直ぐな目は、見透かされているようで怖かった。

「家門を裏切ってるのに瀬織が許すはずな……」

「あの妹はお前が目の届かぬ場所に行くことは望まないはず。だから剣のことは言わない。……当主にも」

(あぁ、そっかぁ……)

私はどこにいっても役立たず。瀬織が望むのは巫女をやめることであり、弓以外を握ってほしいわけではない。厄介者が巫女を辞めるまで、目を光らせたいだけ……。

瀬織の力になりたいだけなのに、想いが届かない。自己嫌悪が私を飲みこんでいく。すがれるのは縁もゆかりもない剣だけだ。

(瀬織のそばにいたい。私だって、それは譲れないから)

 涙をぬぐって前を向く。

私の生きる意味。世界で一番いとおしい妹。母の形見に守ると誓った。弓を握れないのは悔しくて、生き恥をさらすようなものだが、それよりも優先すべき想いがある。

瀬織を守れるくらい強くなれるなら、命を賭す覚悟で剣を握るだけ。


当主への挨拶として、静芽とともに畳の間に入る。父は静芽を見て目を見張るだけで、言及しようとはしなかった。静芽がここに住まうことを了承し、さっさと部屋を出るよう振り払われてしまう。

あっさりと許され、私は拍子抜けして部屋までの道を歩く。剣は静芽が持ち、父にばれないように隠した。娘がいきなり天狗のあやかしを連れ、一緒にがんばりますと言って何も言わないとは、よほど私に興味がないらしい。父の関心事項は弓巫女の当主として鼻高々に生きられるかどうか。無能な私の行動は瀬織のおまけ程度。

(別にいいわ。私だって父上のこと、どうでもいいもの。プライドだけ高い)

 何代にもわたって続いてきた家系だからこそ、周りに特別視され、目に見えないものが肥大した。それが父という当主に執着する化け物を生み出した。

「あれは本当に父親か?」

静芽が困る疑問を投げてくるので答えに悩んでしまう。とりあえず笑顔をはりつけておくかと、お得意の誤魔化しで頬をかいた。

「そうですよ。私は離れで育ったので父上とあまりお話する機会がなかったんです」

「それであの態度か?」

「……父上は口下手なので」

最初は父に愛されていないことに心を痛めた。それも今は過去のこと……。

今の私は父に対して軽蔑しかない。ただの”当主”という装置でしかないので、お互いさま。能無し巫女は当主にも見放された存在。私もとっくに見放しているので、おあいこだと割りきれるが、外様巫女に指をさされるのは負けに近い感覚がある。静芽がいたところで、彼らには何の変化もないのだと嘲笑われている気分だった。

それでも静芽がいてくれるのは心強い。周りの認識と、私の心は別物だ。

(心配してくれている。とてもうれしい。うれしいけど……)

 一つ、静芽の心配には欠けているものがあると、頬をふくらませた。

「父には、貢献度の高い瀬織のこと、もう少し労ってほしいです」

「は?」

「まさに巫女の鏡! あんなにすごい妹を持てて私は幸せ者ですよ!」

私は誇らしい妹を思い浮かべて穴を塞ぐ。

”最低な娘”であっても、私には”最高の妹”がいる。感謝一つ述べるとするならば、私を瀬織のお姉ちゃんにしてくれて「ありがとう」だけ。

「私が前を向いていられるのは、瀬織が頑張っているからです」

母の遺言がきっかけだったとしても。

「私、欲張りなんです。瀬織にお姉ちゃんって呼んでほしい。ただそれだけですよ」

この想いは誰に命令されているわけじゃない。私の誇りだ。

「ありがとう、静芽さん。頑張れって。静芽さんがそばにいてくれたら頑張れる」

静芽は希望の光。月に照らされた静芽の美しさは、まるで私の背中を押してくれるようだった。

「……盲目だな」

「え?」

「いや、いいんだ。それがお前のいいところだろうから」

意外と剣だこだらけの手。固い指先で私の眼帯に触れ、前に流れでた髪を耳に戻す。

不意打ちの至近距離に頬が燃えるように熱くなった。

(静芽さんって天然⁉ 距離感に悩むわーっ‼)

ドキドキと心臓が騒がしい。男性に免疫がないだけでなく、美しさにあてられてどう反応すればいいかわからない。繊細な美しさは月の女神を連想させる。男性への褒め言葉として適切かは疑問だが、男性らしく大きいな手にはもじもじしてしまうのも当然だ。

(静芽さんはもう少し自分の美しさを理解した方がいいわ!)

 免疫がない立場として、やきもきしてしまう。

ほんの少し、イタズラに微笑む姿が眩しい。無自覚の色気だと、照れ隠しにそっぽを向く。お腹がソワソワし、恥ずかしさの限界だと静芽を押してそそくさと逃げた。

(もおおぉぉ! 静芽さんに失礼だわ!)

熱くなった頬を両手でおさえ、うぬぼれそうな自分を叱咤する。

(さっきの私、よく平気だったわ。瀬織と静芽さんが並ぶと目が焼けちゃう)

瀬織は母によく似ている。儚そうに見えて芯の通った美しさだ。瀬織はそこに孤高のかげりが出来、目を離せなくなる。誰もが見惚れる姿は、瀬織と静芽は同格。双子の姉と名乗っても、私はとうてい瀬織に並べる美を持ちあわせていなかった。

丸っこい目におちょぼ口。不健康に見える青白い肌は、鏡で見るたびに目を反らしたくなる。盛りに盛って褒めても私は”しおらしい”の枠でおさまるだろう。

一度くらいキレイだと言われてみたい……なんて。そんな素敵なことを言ってくれる殿方はいないと鼻で笑った。


***


夕暮れ時、かかさず続けてきた弓の特訓に代わり、剣の練習がはじまった。

「静芽さん! よろしくお願いします!」

刀巫女としての第一歩を華々しく飾ろう。情熱を燃やしていると、静芽がジィッと私を見下ろして肩に手を置いてくる。

(あ……)

相当、身体に力が入っていたようだ。触れられてはじめて緊張していたと知る。

恥ずかしさにへらへら笑うと、静芽が眉をひそめて小さく首を横に振った。

「すまない」

なぜ静芽が謝るのだろう? 理解できずに首を傾げると、静芽は不自然に口元を隠して赤い目でチラチラ視線を投げてきた。

「どうすればお前が笑ってくれるかわからない」

一瞬、何を言われたのか理解できずにポカンと口を開く。だんだんと理解に至り、静芽のきまりが悪そうな姿に笑い声が漏れた。

「あはっ……はは! 静芽さん、おかしい……!」

「笑うことか?」

「ううん、ごめんなさい。あははっ……!」

静芽なりの気づかいは不慣れであいらしい。ムッとして口を一文字に結ぶのも、不器用さが垣間見えてつい笑ってしまった。

(私より静芽さんが固くなっているわ)

強張らなくていいと言う割に静芽の表情は堅苦しい。元々表情を作るのが苦手なのだろう。静芽の歩み寄り方に目頭が熱くなった。

目元ににじんだ涙を指で拭っていると、眼前に影ができる。顔をあげると、距離感の壊れた静芽の顔があった。

「どうすればいつもそうやって笑う?」

大した意味はないだろう。歩み寄りにひどく悩んでいるだけで、明確な方法を知りたいわけではない。目を見張る静芽に、私も同じように歩み寄ろうかと考えていたので安堵した。

「そうですね」

お互いに近くにいることに慣れていない。静芽に抱えられて剣を振った時は必死だった。あやかしを退治する同じ目的があったからぶっつけ本番で乗り越えたが、これからは違う。触れる距離が当たり前になる。私が一人前に戦えるようになるまで、静芽はずっと力を貸してくれるだろう。根拠はないが、生真面目な姿を見ていると確信に近いものを抱いた。

今は手を取り合って、壁を壊すことからはじめようか――。

「名前を呼んでください」

「名前?」

「菊里、と。あまり呼んでくれる人、いないんです」

たまに自分の名前を忘れそうになるほどに。私がここにいると実感したいがために、ハチミツのような願いを口にした。

「菊里」

薄い唇がやさしい低音で名前を奏でた。その響きだけで、日の目を見なかった私はがんばれる気がした。空に手を伸ばして、掴めなかったものも今なら収まりきらないくらい手に入るだろう。涙があふれてくるのは、それだけ私が飢えていたから。

「はい。ありがとう、静芽さん」

寄る辺ない想いに対し、胸にあたたかいものが込みあがる。ずっと一人で想い焦がれてきた。瀬織への想いに対し、はじめて”私”が存在することに気づく。

誰かに認めてもらわなくては、張り裂けそうなものだった。想いは本物だったが、しょせんは独りよがり。足元がぐらついていた。

名前を呼ばれたことで、私は前を向いてもいいと許された気分になれた。不器用な手つきで涙を拭ってくれる姿に、やさしさを感じずにはいられない。一方的な私の想いを支えてくれる実直な対応に私は安らぎを知った。

「剣の扱い方、教えてください」

胸をはって、私は強さに突き進む。静芽は下手くそに口角をあげて微笑んだ。

剣を持つにはまだ早いからと、木刀で素振りをする。構え方、姿勢、足の踏み出し方。ゆっくりでもいいからと静芽はこまめに声をかけてくれた。丁寧な教え方に、私はリラックスして楽しんだ。


***


静芽と出会って半月ほど、かろうじて誰にも見られることなく剣の特訓が出来た。問題は今後のあやかし退治において、他の巫女に言及されることだ。

筆頭家門の巫女が弓以外を握ることは許されない。そもそも適正のない巫女が筆頭家門にいることがおかしいと、他家に足元をすくわれかねないからだ。異例の事態は伏せておきたい。それが白峰家の本音だった。

「およずれごと、射るが務め! かくりよへかえれ!」

瀬織が矢を放つと、複数のあやかしを巻きこんで退治される。他の巫女を寄せつけない圧倒的な強さ。剣や槍に比べて攻撃数に制限があるのが弓。戦い方に工夫が必要だが、瀬織ほどの力があれば前線で身軽に戦えた。

(弓巫女はサポートが基本。複数で囲むのがベター。瀬織は例外だわ)

木の裏側に隠れ、あやかしの動きを狭めていく。私はかくりよへ送る力がない分、矢を放って誘導する役割を担っていた。

無能を痛感する日々に今こそ別れを告げ、剣を握って戦おう。他の巫女の目を盗んで走り出し、あやかし目がけて剣を振り下ろした。

「やあっ‼」

スカッ……。虚しい空振りに私は硬直する。

瀬織を狙ってあやかしが集中しているので、私がターゲットに定めたのは中心から反れたあやかしだ。静芽に教わったとおりに斬りかかってみたが、爽快なほどに回避されてしまう。剣の重さに慣れず、もたもたした動きでは相手にもならない。子どものお遊びみたいな攻防が続いた。

「菊里、右だ!」

何体もあやかしがいる以上、いつまでも一対一でやっていけない。やがて瀬織たちに歯が立たない弱小のあやかしたちがこちらに目をつけだした。不利な状況に焦るがつのり、アタフタしていると、ついに見かねた静芽が私の腰を引き寄せ、空高く飛びあがった。

「ひゃっ⁉」

「このまま。勢いで振り下ろせ」

「はっ、はい!」

あやかしに斬りかかろうと急降下し、意識的に刀巫女としての言霊を口にして刃を振るった。

「およずれごと、斬るが務め! かくりよへ帰れ!」

斬りつけると蓮の花びらが舞い、渦を巻いてあやかしを飲みこんだ。幻想的な光景に私ははじめての手柄だと、喜びにはじけて静芽に振り返った。

「静芽さん! ありがとうございます!」

静芽もおだやかに微笑みを返したが、何度見ても慣れない雅な美しさだ。恥ずかしくなって静芽から目を反らす。視線の先で瀬織があやかしを退治しきったのが見える。無事にあやかしを退治しきったと、ホッと息を吐いた。

(よかった。だけどやっぱり、あやかしが増えてきたよね)

筆頭家門は帝都を基準として守る範囲が決まっている。あやかしは山や森を拠点とし、周辺の過疎化した村を襲うのが醍醐味だ。帝都を中心とし、囲むようにして筆頭家門が配置されているが、ここ数年であやかしの神出鬼没さは増しており、疑問の声もあがるようになった。

「昔ってこんなにあやかし多かったの?」

「ううん。長いこと弓巫女やっているけど年々増えている気がするのよね」

(他の人たちもそう思っているんだ)

あやかしの出没数に関しては、具体的な数字は出していない。それでも体感として「増えているのでは?」と巫女たちは違和感を口に出すようになった。こういった現場での声は、なかなかトップにまで届かない。つまり当主はのうのうとしているだけであり、現場が見えていないということだ。瀬織が最前線で戦い現状をわかっている、にも関わらず、いっさい父に現場のことを報告していない。筆頭家門の巫女として、瀬織は常に気を張っており、すまし顔で対処していた。私も見習う必要がある。……あるけれど。

(父上なんてどうでもいいわ。私はそのすまし顔を永遠に見つめていられる……)

「菊里」

静芽が手を差しだし、私から剣を受け取る。その後もジッと私を見下ろしてくるので、にこりと笑って首を傾げた。

「今日は新月だな」

「うん?」

いつも以上に静芽は気難しい顔をしていた。何かを言いたいのだろうが、視線をさまよわせて言葉を決め兼ねる。「どうしました?」とこちらからたずねるべきだろうが、察してほしいわけではなさそうなので口をつぐむ。

空を見上げれば夕暮れ色。太陽は一刻もしないうちに沈むだろう。静芽と出会ってからもう半月が経過したのだと、感極まるものがあり胸に手をあてた。

「ありがとう。また静芽さんに助けられちゃった」

まだ一人で倒しきれないが、静芽のサポートでかくりよへ送るまでの流れはできた。

弓で遠距離攻撃をしていた時と圧倒的に異なる達成感。目に見える手ごたえは、沈んでいた私の気持ちに笑顔を咲かせるくらいの余裕を与えた。


ジャリ……。風が吹き、砂利を踏む音がした。

静芽の向こう側で、瀬織がテキパキと後始末に奔走している。何体ものあやかしを倒しながらも、息一つ乱さずに立つ姿は私の心をウットリさせた。

(はああ、素敵。かわいいわぁ)

「瀬織!」

 名前を呼ばずにはいられない。凛とした横顔がこちらに向けば、片割れの藤色が表にでる。同じ色を左右に持つことが私にとっての喜びで、目が合うと甘いハチミツのようなものを舐めた気分になった。

「あのね、瀬織! 私、ちゃんとあやかし退治できたよ! これからは瀬織の手を……」

「触らないで!」

 勢いに瀬織が私の手を振り払う。つい幼心に瀬織に寄ってしまったと反省し、振り払われた手を見下ろす。指先に赤い液体。手が血まみれになっていると、今さら気づいた。

木刀を握りすぎて出来た血豆がやぶれたようだ。こんな手では瀬織に触れられないと笑って、両手を後ろに引っ込める。瀬織は眉をひそめ、バカらしいと背を向けた。

「待て」

静芽が棘を含んだ声を投げる。冷めた目をして瀬織が振り向くと、静芽が詰め寄って挑発的に見下ろしていた。

「お前のために姉が頑張っているのに労いの言葉一つなしか?」

「! 静芽さん⁉」

 静芽の挑発に瀬織は目を鋭くする。

「あたしは刀を握れなんて言ってない」

「愛情に対しその答えだと?」

「……そうよ」

うんざりとした様子で瀬織は肩を落とす。私に凍てつく眼差しを向け、わざとらしく舌打ちをした。

瀬織と静芽の両方を不快にさせてしまったと想像し、とっさの自己防衛に唾をのむ。

「し、静芽さん、違うの。私が戦うのはちゃんとしたお姉ちゃんになりたいからで……。悲しくなんてないわ」

「嘘を吐くな!」

静芽にしては苛立ちの強い声だ。私の言葉を断固として否定する。圧倒される激情に視界がチカチカし、恐れおののいて砂利を擦ってしまった。

「大切な……。大好きだとあんなにも言ってるくせに、相手から邪険にされて悲しくないはずがないだろう!」

「あ……」

感情の波に支配され、頭が真っ白になる。顔は熱くなるので、過剰に頬がけいれんした。返答のない私に静芽は歯を食いしばり、傷ついた顔をしてうつむいてしまう。

「好きな奴にはやさしくされたい。やさしくしたい。……そういうものだろう」

(あぁ、そっかぁ……)

 怒っている理由がわかり、熱いものがこみ上げてきた。

静芽はやさしいのではなく、やさしすぎる。生真面目で、すべてをストレートにぶつけてしまう距離感の下手な人。決して相手を貶めるものではなく、相手を想っての正論なのだ。静芽の不器用さを知っているから、余計にやさしさが痛いと胸が詰まった。

「嫌いを投げられて、好きでいるなんて難しいんだよ」

「……だったら私は普通じゃないんです」

正論は悪くない。

ただ、ほんの少し私が歪んでいるだけ。

ひどく驚いた様子の瀬織が視界に入り、少しでも私のことで動揺しているのがうれしいと思ってしまうどす黒さがある。ちょっとでも、瀬織の心を占める割合が私に傾いてくれたらいいのに。そんなことを考えてしまうくらいには妹狂いだ。

「自分でも変だと思ってます。気持ちを返してもらえたらうれしい。見返りがほしいと思ったりもする。だけど瀬織がどう思うかは瀬織の自由だから」

私はワガママかもしれない。

静芽の心配も、葛藤も、心を向けてもらえるだけで幸せだ。

(言葉にすると痛いから、抱きしめてほしい。そんな距離を静芽さんに望むのは……ズルいね。そんなの想いの強要だもの。瀬織にも、静芽さんにも、それぞれの想いがあるのだから)

「瀬織ってやさしいの。だから私が受け止めるだけです」

――自分を嫌悪するしかない。

静芽が手を伸ばそうとして、視線をおとす。決まり悪そうに距離を縮め、瀬織を一瞥した後、すぐに私に目を向けた。

「わかった。菊里が誰を想うかも、自由だから」

赤い瞳に情けない顔をした私が映る。こんな淀みは見られたくないのに、静芽は”正論を正して”私との向き合い方を変えた。

私の勝手さを肯定してくれる異性に涙が零れ落ちる。ハラハラと。

静芽の着物にしがみつき、声を押し殺して泣いていると、背後から特別いとしい片割れの声がした。

「あたしにはわかんないのよ……」

息と同化しそうな小声。瀬織は虚ろな目でこちらを見つめてくる。

(私じゃない。静芽さんを見てる……)

いつも瀬織は私を見ようとしないのに、静芽のことは藤色に映すのか。対等な視点はある種、私に向けられた拒絶に見えた。

「愛情が正しいなんて思わないで。あたしが求めてもいないのに愛情を盾にするならそれはただの押しつけよ」

「押しつけ……」

目の前が真っ暗になる感覚だ。いや、足元に真っ黒な穴が空いたともいえる。

この愛情は瀬織にとって、重たいものでしかない。過剰な愛だと自覚はあるが、それを返してほしいとは口にしない。したりするものか。

愛がかえってくればうれしい。強くなりたいという願いが叶えばそれで十分なこと。

だから押しつけなんて言わないで。これだけは私の自由な想いだから。

「押しつけと感じさせたらごめんね。でも許して」

答えを返すことは求めていない。通じたらうれしいだけ。

弓を手放してでも強くなりたい。母上に恥じない私になるために。

静芽の袖を掴んだまま、瀬織の目をきちんと見て話す。

隠し事をしたり、言い控えたりはしない。

「恥知らず」

歯がこすれる音と、一息溜め込んでの冷めた声。

太陽が傾きはじめ、これから黄昏に染まって、群青に溶けていくだろう。

「刀巫女になるくらいなら巫女をやめなさい。あやかしに頼るなんて本末転倒なことよ。それこそ母上が悲しむわ」

母によく似た瀬織の言葉は、母本人に「悲しい」と言われている気分だ。母ならば私の想いを肯定してくれるだろうが、本人がいなければ所詮くちなしだった。

気持ちを落としていると、瀬織はうっとうしいと背を向け、外様巫女たちのもとへ歩きだし、見向きもしないで私に刺しにかかった。

「もう余計なことはしないで。白峰家に、巫女に、あなたは必要ないんだから」

誰にも頼らない孤高の背中。琥珀色の髪を二つのハーフアップにし、藤色のリボンは高潔な瀬織によく似合う。今の私は瀬織の心を溶かす言葉を見つけられなかった。


「言いすぎた。すまない」

瀬織が去り、静芽が今にも消え入りそうな声で呟いた。私は首を横に振り、恥じらいはそのままに背伸びをして静芽の滑らかな頬に触れてみる。

「私もごめんなさい。言ってくれるのはありがたいです。でも……」

それだけでは静芽の気持ちを誤解してしまいそうだから、温もりを添えてほしい。

「念のため聞くが」

「?」

静芽はよく罰が悪そうな顔をする。そういう時は言葉にしてくれないと伝わらないので、バランスが難しい。

「抱きしめるのは、いいのか? その……仮にも異性であって……」

ポカンと拍子抜けしてしまう。さんざんあやかし退治として密着してきたのに、静芽が恥じらうのは意外だった。照れくささを隠していた私が鈍感みたいで面を食らう。

なぜ、このタイミングで言うのかと、赤っ恥に対してワナワナ震えた。

やけくそに静芽の胸にグーパンチを食らわす。

「察してください! なんでそんなときだけ迷うんですか!」

「わかるかっ! これでも菊里に嫌がられないよう考えてるんだ!」

直球な言葉は心臓をわしづかみにされる。熱に浮かされアタフタしてしまう私がおかしいのか、と暴れて引っ掻きたい。それこそシャーシャー猫のように。

(穴があったら入りたい……)

「妹のことは正直わからない。だが菊里が頑張りたいと願うなら応援する」

静芽の言葉はありのままだから、心に沁みた時の喜びも大きい。

深い思いやりは、心細さに染みわたる。強くつよく、私を支えてくれる不器用さだ。

「がんばりたいです!」

何度でも瀬織を好きだと叫ぼう。

強くなりたい。となりに並べるようになりたい。

母に託された想いを胸に突き進むために。

自分の感情が報われることより、妹の幸せを願う。

「だから静芽さん、絶対に私から離れないでください」

この想いは絶対に間違いなんかじゃない。そう思っていても他人は否定してくる。

だから静芽だけはこの気持ちを肯定して――。

「菊里……」

紅玉が私の頬に移る。心臓がドキドキしはじめて、これはダメだと笑顔を用意した。

「強い刀巫女、目指してますから!」

べったりと満面の笑みを貼りつけ、静芽の肩を押す。

陽気にくるりと回って空を見上げた。

「今日は新月でしたね」

あやかしの出没は月の満ち欠けに影響する。

満月のときは弱く、新月だと強くなるが、今宵はどうなるのだろう?

顔色を隠すため、わざと静芽に背を向けて大きく伸びをした。

不安定さも、いつか必ず私が剣で斬り飛ばしてみせる。

自分で自分を鼓舞しなくて誰がする?

群青に染まりきった空に、私は星を掴む勢いで不敵に笑った。


***


白峰家に戻ると、巫女たちが順に泉で身を清めていく。私の地位は外様巫女より上だが、最後に使用するようにしていた。誰の目も気にせず、水浴びを出来る方が好ましい。月のない夜は泉の深さがわからなくなるので、身体の感覚で深いところへ進み、ちょうどいいところまで着くと身を沈めた。

灯籠のあかりがゆらゆらしている。眼帯で覆った瞳は視力がないに等しいが、生まれたときから片目で生きてきたので生活に支障はない。瀬織と同じオッドアイは照れくさいが、自分の中で最も特別なものだった。

(結局瀬織は刀巫女のこと、父上に話してなさそう。……信頼関係、かな)

 父に知られたらどうなるだろう? 破門にされるのは目に見えている、と考えてほくそ笑む。同時に私の勝手で、瀬織が咎められるのは嫌だと眉根を寄せた。

家門を離れればいい話かもしれない。それでも私はしがみつく。瀬織のそばにいたいから。本当は父を嫌悪することなく、瀬織の隣に立つのが当たり前な強さが欲しかった。

「白峰家……か」

白峰家はやや複雑な状態にある。先代は父の姉だったらしいが、亡くなってしまい口伝が途切れた。祖母もとうに亡くなり、詳細は闇の中。継承されるはずだった”水の弓“の所在も不明なまま……。

「オッドアイは不吉。双子の巫女……。私たちは二人とも生きている」

 眼帯で隠した左目を指でなぞり、肩を落とす。父と母の間に生まれたのは私たちだけ。瀬織は跡継ぎとして育てられ、母が亡くなったことで確実なものとなった。私が無能のため、すべての重責が瀬織にのしかかる。父が後妻を迎えれば、もう少し瀬織の負担も減ったかもしれない。二人の間に愛があったようには見えなかったので、愛の美談ははじめから期待していなかった。

父のプライドはいまいちわからない。素晴らしい世継ぎを得たと、人前では自慢するくせに普段は見向きもしない自己愛の強い人。私は建前上、弓巫女の務めを果たさなくてはならないため、渋々父は私を戦場に出す。厄介ごとを背負うのはいつも瀬織。”能無し巫女”と称されるがゆえの、罪悪感に打ちのめされそうになっていた。

(ダメだ、悲観的になっている)

今、流れが来ているだから、立ち止まっていられない。立ち止まりたくもない。

手のひらに水をすくって顔面に叩きつける。冷たい水はぐちゃぐちゃになった思考を冷静にさせてくれた。真っ黒なだけの髪を肩によせ、手で梳きながら空を見上げる。

「今日は満天の星空ね」

 月がないから星がより一層きらめきを増す。光の波が波紋して、泉から出る。肌着に小袖をかけ、下駄をはいて玉砂利を鳴らす。私の部屋は奥まった位置にあり、正門よりも離れの方が近い。白峰家の敷地はやたらと広いので、どこを歩いているのかわからなくなる造りだ。今でこそ慣れたが、子どものときは何度も迷ったと思い出す。

(風……)

甘く爽やかな香りが鼻をくすぐった。この香りは引力が強い、と追いかけてみると、しなやかに舞う静芽を見つけた。橙色に火をともす灯籠に風があたり、何度も影をかけては真っ直ぐに火を立て直す。白銀の髪がキラキラと流れ、まるで星粒をまとったみたいだ。

美しさに惹かれて静芽に近づくと、玉砂利で足が滑る。グッとこらえて前を見ると、静芽が舞いを止めて赤い瞳をこちらに向けてきた。

「菊里。どうした?」

もう夜も遅いと言いたいのだろう。私は小袖をたぐり寄せ、前髪を指で触りながら照れ笑いをして静芽に近づいていく。

「素敵な舞ですね。まるで天女様のよう」

その言葉に静芽はぎょっと目を見開く。

「俺は男なのだが?」

 褒めたのに静芽は不服そうで、それもそうかとクスリと笑った。

「あはっ……そうね、男の人だったわ」

ムスッとそっぽを向く姿は少し子どもっぽい。私も私で魅了された気持ちを抑えられず、声が躍っているように弾んだ。

「本当に、とっても綺麗でした。静芽さん、すごくキラキラしてて」

神秘的のような、幻想郷を見ているかのような。天狗ほど名の知れたあやかしで、神聖があれば美貌も研ぎ澄まされていくのだろう。誰もが羨望のまなざしを向ける尊い美しさだった。

「こんな感じですかね?」

見よう見まねで指先で風をきり、舞ってみる。静芽はあんなにもキレイに舞っていたのに、私が舞うとちんちくりんだ。足がもたついてしまい不安定さが目立つ。軸のないままにターンをすると、足が絡まりバランスを崩してしまった。


「きゃっ⁉ うぅ……」

「菊里は意外とドジなんだな」

「あっ……! ご、ごめんなさい!」

静芽に支えられると力強さを意識してしまい、いそいそと背中を反らして両手を前に突き出す。恥知らずな行為だったと笑って誤魔化そうとした。

「やっぱり私には難しいですね」

立ち上がって静芽に背を向けると、濡れた髪をかきよせて火照る顔を隠す。

(男の人って全然女の人とちがうなぁ)

巫女には女性しかいない。女性にしか、かくりよを送るための力が備わっていないからだ。接点がある男性といえば父しかおらず、その父も私にはほぼ関心がない。私も父を見るたびに不愉快な気持ちになるので、お互い様だ。

異性なのに、しっかりと会話が成り立ったのは静芽がはじめてだ。

この不慣れな恥じらいにはどんな名前がつくのだろう? 

大切な人ではあるが、それが親愛なのか異性愛なのか。まだハッキリと決めれずにいる。そもそも出会ってからさほど時間が経っていない。私が勝手に意識しているだけで、その感情が好奇心か、単なる不慣れからくるものなのか。意識するのが早すぎるので、私は尻軽だったのかと、破廉恥な気がして両頬を二回叩いた。

「……静芽さんみたいにキレイに舞えたらな」

欲をいえば、私が舞ってそれを瀬織にキレイと言ってほしい。少しでも瀬織に向いてもらえるなら舞いでもなんでも身につけたいと期待にうずく。ささやきのような欲に、静芽はピクリと耳を震わせて首を傾げた。


「やってみるか?」

「えっ⁉」

どうやら天狗は聴力も優れているようだ。聞いてほしかったような、聞かれたくなかったような、曖昧な期待にまごついていると、静芽が持っていた剣を前に出す。鞘の抜けない刀巫女のための剣だった。

「やってみたらいい」

「いっ……いえ! あんな風には出来ませんから……」

「菊里が望むなら教える」

 躊躇のない善意だ。サラッと了承されると、人が良すぎると苦悶に頭を抱える。

(そんなこと言うなんて……。静芽さんってちょっとズルいよ)

いつも私の欲しいものをくれる。正直すぎる言葉、言いすぎたと思えばすぐに思い悩む生真面目さ。ストレートすぎる面もあるが、今は私と目線をあわせて接し方を考えてくれている。口調は淡々としているが、一切傷つける意図はないと態度が示していた。

そんなズルいことを言われれば後ろ髪を引かれるもの。欲しいものは欲しいと手でたぐり寄せるよう、あっさりと静芽に振り向いた。

「私、出来るようになりたいです」

剣を受けとれば、ズシっとした重みに母の顔が過ぎる。少しずつ母の形見が遠ざかっていく。弓から離れるほど、私の意志は確固たるものに変化した。

(強くなれるなら刀でも槍でも、なんでもよかったから)

瀬織のそばにいられなくなるという枷さえなければ、おそらくもっと早くに刀を握っていた。意識的に”出来ない”を”出来るかも”に変えていけるなら。私は勇気を出して静芽の手を取る道を選ぶ。剣を握りしめ、精いっぱいの強がりを表情に作った。

「まだまだ重いですね」

「一人で扱えるようになればすぐに渡す。どうせ俺には扱えない代物だ」

「……どうして私はこの剣を」

これは刀巫女のトップが得るべき特別なもの。瀬織と双子なのに一方は弓巫女、もう一方は刀巫女。不可解な現実に、いつまでも目を背けてはいられない。だけど知るのが怖いと思うのは、私が受け止められるだけの余裕がないからだろうか?

(それにどうしてこれを静芽さんが……)

「天狗は風の眷属。山神とも呼ばれる。それが俺の父だった」

 私の疑問に答えるよう、静芽が澄んだ空気に溶けこむ声で話しだす。

静芽の父はすでに亡くなっているそうだ。人との間に生まれた静芽には、山神の感覚はなく人間と何ら変わりないと語る。私と同じように喜んだり悲しんだりするごくごく普通の殿方だ。剣をたくさん握ってできた潰れたタコ。瀬織と同じように皮の厚い手をしていた。

「父は海で亡くなった」

ハッとして、急ぎ静芽に振り返る。静芽の指先が私の珊瑚の指輪に触れ、物思いに沈んだ微笑みに胸が痛くなった。

「海って……」

 天狗は山に住まう生き物だ。海とは相性が悪い。下手をすれば命取りにもなるため、よっぽどのことがなければ海に近寄ろうともしないはず。

「亡くなった父が持っていた指輪なんだ」

「そんな大事なもの、私が持っていていいんですか?」

「いい」

遠目に空を見上げる。月のない夜、星のまたたきに酔いそうだ。

「菊里が大事にしてくれるなら、いい」

「……はい」

その先の言葉が見つからず、私はズシッと指輪の重たさに頬を強張らせた。海で亡くなった父親を想い、今までどういう気持ちでこの指輪を持っていたのだろう。

その大切な指輪を私に預けたのはなぜ?

静芽はもの切なそうに微笑むだけ。

パッと手を離すと、私から剣を受け取り白銀の髪を揺らす。

「もうすぐ夜も更ける。また別日に教えるから今日は眠れ」

「わかりました。……ねぇ、静芽さん」

身体を離し、じっと紅玉の瞳を見つめる。視線はそのままに、左手をあげて小指を伸ばすと静芽の小指に絡めた。

「約束、です」

珊瑚の指輪は灯籠のあかりに触れると、炎のように光る。

きっと私の頬も負けないくらいに赤いだろう。

「おやすみなさい」

「あぁ」

指がはなれ、私は静芽に手を振って部屋までの道を進む。静芽は同じ部屋にいることを嫌がったので、離れを使っていた。母が亡くなってからはそのまま放置されている。

(別に、私はいっしょの部屋でもいいのに)

こればかりは価値観の違いだと、静芽の望むまま受け入れた。

――そうしようとした足を止めて振り返る。私にとって離れは幸せと別れの象徴。悲しい時に一人で泣いた場所。そこに静芽がいると思えば、胸が締めつけられる。

先ほどの憂い混じりの微笑みが忘れられない。月明かりのないので陰って見えたのかも。だがもし、なにか悲しい思いをしているなら寄り添いたかった。

「ちょっとだけ」

一方的に支えられる関係ではなく、私も静芽の力になりたかった。ウジウジ悩んでいるくらいなら行動に移せ、と自分を叱咤して縁側を駆けた。

離れに続く庭の飛び石を歩いていると、灯籠の灯りが遠くなる。足元がハッキリ見えないが、夜目が効くようになるのを待ってはいられない。息せき切って静芽に会いたいと走る。はやる気持ちに、足止めをさせる泥水が飛んできたと気づいた頃にはもう、私は全身びしょ濡れになっていた。

「えっ……きゃっ⁉」

 呆然としている間もなく、今度は腕を掴まれ、身動きを封じられる。力任せに引きずられ、抵抗もままならずに手首を縄で縛られた。ようやく解放されたと思えば、光の差さぬ蔵に突き飛ばされ、砂利に肌を擦ってしまう。

クスクスとした笑い声、おそらく外様巫女たちのイタズラだ。それにしてはずいぶんと過激で悪質。黙っていられず扉の向こう側を睨みつけると、甘く爽やかな香りが鼻をくすぐった。覚えのある香りに身動きを止める。

「……瀬織?」

暗くて顔は見えない。だがこの香りだけは間違えない自信がある。息をのむ音がして、すぐに静かな声が蔵に響いた。

「ムカつくのよ」

 やはり瀬織だと、縄で縛られた身体を前によじり、顔を見ようとする。だが月明かりもない暗闇では表情さえ見えない。カッカとわざとらしい足音のあと、瀬織は私の胸ぐらをつかんで揺さぶった。暗くてもわかってしまう。瀬織の血走った瞳が私に向いている。

「能無し巫女なんだから引っ込んでなさいよ。刀なんて握られたらうっとうしい」

「ふ、不愉快な気持ちにさせてごめんね! でも私、あきらめられない! 瀬織を守りたいって想うのは私が決めたことだから! だからがんばりた――」

「そういうところよ」

いつもと異なる強烈な否定。煮えたぎるような怒りが私の肌を突き刺す。

「大人しくしていればよかったのよ。そうすればあたしは一人で楽だった」

(楽だった?)

 そんな悲しいことを言わせる自分が腹立たしい。私が一人前に戦えれば、一人で背負った方が楽なんて言わせることはなかったのに。

「たくさん迷惑をかけたのはわかってる。だから今、強くなれる自信があるの」

「それが迷惑なのよ!」

 激情。おさまらない瀬織の葛藤が、私の返事はいらないと早口に叫ばれる。

「うざったいのよ! あたし、アンタが大嫌いなの! あやかしなんて連れて、惑わされて巫女失格よ!」

今日はどうしてか、いつも以上に瀬織のトゲが突き刺さる。瀬織が不愉快な気持ちになる行動をしている自覚はあった。だが今日は違うと、受け止め方がわからずに困惑する。

「静芽さんはあやかしの血を引いてるけど、とても優しくて素敵な人だよ! ちゃんと話せば瀬織だって……!」

「どうでもいい! 視界に映るだけでイライラするの!」

 瀬織は私の上から立ち退くと、すぐに外様巫女から桶を受け取り、勢いで水をかけてきた。袖を通り越し、肌着までびしょ濡れになってキモチワルイ。前髪から落ちる水が私の心を凍てつかせていく。

「そうしていれば少しは頭が冷えるでしょう? 立ち位置を自覚しなさい」

「せ……」

バタン、と乱暴に蔵の扉が閉められる。施錠される音に私は膝を丸めて目を閉じた。

(あーぁ。瀬織を怒らせちゃった)

 この自己嫌悪はいつまで続くだろう。私よりもずっと強く、周囲にも尊敬され、父にも一目置かれている最高の妹。崇高で完ぺきな巫女だ。妹だと誇りに思う反面、憧れが強すぎて私は自分を卑下することをやめられない。

強くなりたい。妹を守りたい。口ではそう言いながらも、その強さとは一体どのようなものかわかっていない。具体性に欠ける上っ面の言葉だ。

たしかにそう思ってるのに、一向に実らないのはどこかであきらめているから? 

瀬織の心が少しでもわかればいいのに。

静芽に出会ってようやく答えに近づけた気分だった。

それも所詮は空回りだったのかもしれない。

(あきらめられたら楽だった……)

涙がとまらない。前髪から落ちる水がより一層私を情けなくさせる。

これだけ苦しくて悲しいのに、中身のない目標だけで立ち上がる自分が時々おそろしい。不屈の根性と言えるかわいさであればよかった。これは執着、瀬織に追いつきたい一心でバカになれる異常者だ。

(どうすればこの想いは捨てられる? 何度だって私は瀬織を見てしまうのに)

このモヤは晴れないまま。母の遺言もあり、瀬織を守ると強く心に決めたのに。

嫉妬心は口にしない。大好きな母でさえ、死ぬ間際に気にかけたのは瀬織だった。

(時折、お母さまは鏡を見ては瀬織を呼んでいた)

いつもは布をかけて、大事にしている鏡があった。それに触ろうとすると母はひどく怒った。理由を語ろうとしないで、ただ「ダメだ」と、最後は物思いに沈んだ微笑みで私の頭を撫でてくれた。今、その鏡は父の管理下にある。どんな鏡だったかも、もうぼんやりとした記憶になった。

 私を膝に抱き、母は離れからずっと母屋を見つめていた。

瀬織を想い、遠くから見守る姿。まったく嫉妬しなかったわけではない。それでも私は絶対に口に出さない。そんなちっぽけな我よりも、瀬織を守りたい気持ちが上回っているから。ただ、私は瀬織をあいしている。

【お姉ちゃんとして瀬織を守る】

私の生きる指針。この世界でたった一人の妹。

瀬織が大好きでおかしくなりそうだ。いや、この感情はすでに歪んでいる。

愛情、依存、憧憬、嫉妬、救い、親愛、友愛、孤独、温もり。

想いは一つであらわせない。愛を越えた”瀬織”のための感情だから。

「ごめんなさい」

泣きたくないのに。かけられた水にまぎれる熱さに、さらに身を丸くした。


ガサガサ……と、蔵の奥から音がした。じめっとした蔵だ。何がいても驚きはしない。瞼をあげてみても、暗闇で何も見えない。身体にふわふわした感触があたる。時々ひんやりとした感覚があり、私の匂いを嗅ぐ何かがいると顔をあげた。

「猫……いいえ、犬かな?」

 鳴き声をあげないが、スリスリと私の腕に頭を擦りつけてくるので、あいらしい行動に頬がゆるむ。

「なあに? 慰めてくれているの?」

甘くてやさしい香りだ。瞳は何色だろうか? どれくらいの大きさだろう?

見えなくてもやさしい目をしている気がした。

今は気持ちの乱れと暗がりに、判断能力は欠けている。夜は更け、身体は水に濡れて冷えてしまったせいか、すっかり弱気になっていた。

「ごめんね。ちょっとだけ……」

一人では抱えきれない痛み。ふわふわした毛並みに抱きついた。目を閉じ、琥珀の髪をなびかせる少女の後ろ姿を思い描く。

(弱くて足でまといのせいだと思っていたけど、それも違うの?)

「ごめんなさい、お母さま……」

今日も瀬織に気持ちは届かない。超えられない壁を見て、まどろむ世界に落ちた。


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