第8章
「……さて、ロバート君。魔法薬の件は、そういうわけだ。理解してくれたかな?」
マルドゥークは、なおも聖人のごとき微笑みを浮かべてロバートさんに問いかける。
その声には、一片の悪意も感じられない。
だが、その言葉の内容は、悪魔の囁きそのものだ。
三倍の価格、そしてそれは「教育」なのだと。
ロバートさんは、顔面蒼白のまま、かろうじて言葉を絞り出した。
「そ、それでは、マルドゥーク様……今回の、我々への護衛の報酬も……」
「ああ、それなんだがね」
マルドゥークは、待ってましたとばかりに頷く。
「それも、君たちへの指導の一環として、半額にさせていただこうと思う」
「なっ……! なぜです! それでは、あまりにも……!」
さすがのロバートさんも、これには声を荒らげた。
護衛の俺たち――俺とフィーネがいる手前、引き下がれないというのもあるのだろう。
しかしマルドゥークは、そんなロバートさんの悲痛な叫びを、柳に風と受け流す。
「もちろん、これも君たちのためを思ってのことだよ。対価というものを安く感じさせることで、我々魔法使いに対する感謝の念を、より深く君たちの心に刻みつけていただくためだ。素晴らしい教育だろう?」
その顔には、やはりあの、貼り付けたような笑みが浮かんでいる。
こいつ、本気で言ってるのか……?
目の前の人間がどれだけ苦しんでいるか、全く見えていないのか?
それとも、見えていて、それを楽しんでいるのか……?
「それ、どう考えても理不尽だよっ!」
今まで黙って話を聞いていたフィーネが、ついに我慢しきれなくなったように叫んだ。
その手には、いつの間にか取り出した測定器が握られている。
おい、お前、こんな時までデータ取る気か。
マルドゥークの視線が、初めてフィーネに向けられる。
その瞬間、彼の纏う空気が、ほんのわずかだが、冷たく変化したのを俺は感じた。
「……お嬢さん、大人の会話に口を出すものではないよ」
先ほどまでの穏やかな声とは打って変わって、低く、威圧的な声。
笑顔は消え、その顔には冷酷なまでの無表情さが浮かんでいる。
「私はね、善意で、この愚かな商人『ども』を教育してやっているのだ。感謝こそされ、文句を言われる筋合いはない。我々魔法使いにこうして指導してもらえるだけでも、ありがたいと思うべき存在なのだよ。それが理解できないから、いつまで経っても劣等なのだ」
ついに、化けの皮が剥がれた。
「善意」「教育」「指導」「感謝」「劣等種族」。
それらの言葉が、マルドゥークの口から発せられるたびに、俺の腹の底で、マグマのような黒い怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じる。
ロバートさんが、震える声で必死に訴える。
「マルドゥーク様……お約束が、お約束が違います! 我々は、あなた様を信じて、ここまで……!」
その言葉を聞いたマルドゥークは、心底馬鹿にしたように、鼻でフンと笑った。
「約束? 下等種族との口約束に、一体何の意味があるというのだね?」
そして、彼は続けた。
その声は、もはや何の感情も含まない、ただただ冷たい響きを伴って。
「もしこの条件が気に入らないというのなら、君はここで死ねばいい。代わりなどいくらでもいるのだから。そうだろう?」
サイコパス。
その言葉が、俺の脳裏をよぎった。
こいつは、正真正銘のサイコパスだ。
自分以外の人間を、人間だと思っていない。
自分にとって都合のいい道具か、あるいは虫ケラ程度にしか認識していないのだ。
「……いい加減に、しろよ」
俺の口から、自分でも驚くほど低い声が漏れた。
気づけば、俺の右腕が、淡い青白い光を放ち始めていた。
怒りに呼応するかのように、ピキピキと微かな音を立てている。
マルドゥークが、その光に気づき、興味深そうに俺の腕に視線を向けた。
「ほう……その右腕、魔道具の類かな? それとも、まさか魔法のつもりかね?」
その目は、まるで珍しい虫でも観察するかのように、俺の腕を品定めしている。
「どちらにしても、君もまた、私による『指導』が必要なようだね」
マルドゥークは、ゆらりと立ち上がると、その右手を俺に向けた。
「私が、愛をもって、君を正しい道へと導いてやろう。少々痛みを伴うかもしれんが、これも教育だ。慈悲深い私に、感謝したまえよ」
その言葉と共に、マルドゥークの右手から、ボッと音を立てて紅蓮の炎が吹き出した。
炎は瞬く間に勢いを増し、部屋全体を威圧するように燃え盛る。
室温が急激に上昇し、肌がチリチリと焼けるようだ。
これが、こいつの言う「愛の指導」か。
ふざけるな。
俺の中で、何かがブチリと切れる音がした。
もう我慢の限界だった。
「偽善者がッ!!」
俺の絶叫と同時に、右腕の魔砲が、これまで以上の輝きと雄叫びを上げて、その姿を完全に現した。
狙うはただ一人。
目の前の、腐りきった偽善者ただ一人だ。