第7章
俺とフィーネは、商人護衛の依頼で、隣町のベルグラードという都市へ向かう馬車に揺られていた。
窓の外には、のどかな田園風景が広がっている。
穏やかな日差し、心地よい揺れ。
うん、たまにはこういうのも悪くない。
今回の依頼主は、ロバートさんと名乗る恰幅のいい商人だ。
歳は四十代半ばくらいか。
人の良さそうな笑顔が印象的な人で、道中も俺たちに色々と親切にしてくれている。
「リクさん、フィーネさん、退屈ではありませんかな? ベルグラードまではまだ半日ほどかかりますが」
「いえ、大丈夫ですよ、ロバートさん。それより、ベルグラードでお会いになるマルドゥーク様というのは、そんなに凄い方なんですか?」
フィーネが、口の周りをクッキーの食べカスだらけにしながら尋ねる。
行儀悪いな、お前。
ロバートさんは、その名前を聞いただけで、パッと顔を輝かせた。
「ええ、それはもう、素晴らしいお方ですとも! 我々のような平民にも分け隔てなく接してくださり、魔法の素晴らしさを広めるために、魔法教育の普及に尽力されておられるのです。まさに聖人のようなお方ですぞ」
へえ、魔法教育の普及ねえ。
あの、クソ選民思想の塊みたいなアルベルト博士とは大違いだな。
この世界にも、ちゃんとした魔法使いがいるってことか。
「マルドゥーク様はね、魔法使い協会の中でも特にリベラルな思想の持ち主で、魔法は一部の特権階級だけのものではなく、広く民衆に開かれるべきだ、というお考えをお持ちなのよ」
珍しくフィーネが、口をもぐもぐさせながらも真面目な顔で補足する。
「へえ、お前も知ってんのか」
「魔法理論研究者として、魔法使い協会の要人の名前くらいはね。まあ、私はアカデミーを飛び出した身だから、直接お会いしたことはないけど。噂では、非常に穏やかで知的な紳士だって話よ」
ふうん。聖人で紳士ねえ。
俺の苦手なタイプじゃなきゃいいけど。
そんなこんなで、馬車に揺られること数時間。
やがて俺たちの目の前に、アルトベルクよりもさらに大きな城壁都市が見えてきた。
あれがベルグラードか。
ロバートさんの案内で、俺たちは街の中心部にある、ひときわ立派な商館へと通された。
大理石の床、磨き上げられた調度品、壁には高価そうな絵画。
いかにも「豪華」という言葉が似合う内装だ。
応接室に通され、ふかふかのソファに腰を下ろして待つこと数分。
「やあ、ロバート君。よく来てくれたね」
穏やかで、鈴を転がすような心地よい声と共に、一人の男性が部屋に入ってきた。
年の頃は三十代後半だろうか。
純白の、汚れ一つないローブを身に纏い、優しげな微笑みを浮かべている。
プラチナブロンドの髪は肩まで届き、知的な青い瞳は、まるで全てを見透かすかのように澄み切っている。
この人が、マルドゥーク・ヴェイン。
ロバートさんが言っていた、聖人のような魔法使いか。
確かに、第一印象は完璧だ。絵に描いたような、理想の魔法使いって感じ。
「マルドゥーク様! この度は、お忙しい中お時間をいただき、誠にありがとうございます!」
ロバートさんが、深々と頭を下げる。
「いやいや、気にしないでくれたまえ。君との取引は、私にとっても有益なものだからね」
マルドゥーク氏は、ロバートさんににこやかに応えると、その視線を俺とフィーネに向けた。
「そちらの若い方々が、今回の護衛の冒険者だね? 私はマルドゥーク・ヴェイン。魔法教育普及協会の理事を務めている。以後、見知りおきを」
丁寧な自己紹介。
その物腰は柔らかく、威圧感など微塵も感じさせない。
「は、はい! リクです!」
「フィーネ・ルメリアよ!」
俺たちが慌てて挨拶すると、マルドゥーク氏は満足そうに頷いた。
「うん、元気があってよろしい。魔法の道を歩む若者として、心から応援しているよ」
その言葉に嘘偽りはないように感じられた。
少なくとも、今のところは。
簡単な挨拶が済むと、早速商談が始まった。
「マルドゥーク様、例の魔法薬ですが、約束通りご用意いただけましたでしょうか?」
ロバートさんが、少し緊張した面持ちで切り出す。
どうやら、これが今回の主な目的らしい。
「ああ、もちろんだとも。最高品質のものを、君のために特別に取り揃えておいたよ」
マルドゥーク氏は優雅に微笑むと、執事らしき老人に目配せする。
老人は静かに一礼し、奥の部屋へと消えた。
すぐに、小さな木箱を盆に乗せて戻ってくる。
木箱の中には、色とりどりの液体が入った小瓶が、丁寧に並べられていた。
これが魔法薬か。
「ただ……一つ、君に伝えなければならないことがあるんだ、ロバート君」
マルドゥーク氏が、申し訳なさそうな表情で切り出した。
「価格なのだがね、先日伝えた額から、少々見直させていただくことになった」
「え……?」
ロバートさんの顔が、みるみる青ざめていく。
「具体的には……そうだな、以前の三倍、といったところかな」
「そ、そんな……マルドゥーク様! 当初のお約束では、そのような話は……!」
ロバートさんが悲痛な声を上げる。
彼の顔からは、先ほどまでの人の良さそうな笑顔は消え失せ、絶望の色が浮かんでいた。
しかし、マルドゥーク氏の表情は、穏やかな笑顔のまま、全く変わらない。
「もちろん、君を困らせたいわけではないのだよ、ロバート君。これはね、君のためを思ってのことなんだ」
「わ、私のため……ですか?」
「そうだよ。魔法薬というのは、非常に貴重で、神聖なものだ。その真の価値を、君たち平民にも正しく理解していただくための、いわば教育の一環なのだよ」
教育……ねえ。
「我々魔法使いは、神に選ばれし存在として、魔法の恩恵に浴することのできない、恵まれない境遇の方々を、正しく指導する義務があると考えている。感謝の気持ちというものを、心の底から学んでいただくために、あえて少し厳しく接しているのだよ。全ては、君たちのためなのだから」
その言葉は、どこまでも優しく、穏やかだった。
だが、俺の腹の底では、何かが急速に冷えていくのを感じていた。
「……それ、おかしいじゃないですか」
気づけば、俺はそう口走っていた。
マルドゥーク氏の青い瞳が、初めて俺を真っ直ぐに捉える。
その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、氷のような冷たさがよぎったのを、俺は見逃さなかった。
「……ほう、君は、まだ世界の真実というものを理解していないようだ」
マルドゥーク氏は、それでも笑みを崩さずに言った。
「我々魔法使いは、神に選ばれた特別な存在なのだよ。そして、神の慈悲によって、我々はその大いなる力の一部を、君たちのような者にも分け与えてさしあげている。我々が君たちを指導してさしあげるのは、それ自体が慈悲深い行いなのだ。わかるかな?」
その言葉は、もはや説得ではなく、有無を言わせぬ宣告のようだった。
こいつ、思ってた以上に……ヤバい奴かもしれん。
俺は、目の前の聖人面の男の、底知れない胡散臭さを感じながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。