来世はもういらない
「貴方はもう私を好きになるしかないのよ」
そう言われて早四百年、俺は一向に姫様を好きになれる気がしない。
四百年以上生きていれば最初の百年なんて余りに遠すぎて思い出せることも段々少なくなってきた。
姫様は俺が仕えていたもう名前も思い出せない侍大将の所のお姫様だった、はずだ。
どうしてそうなったのかももう忘れてしまったが、姫様は俺を大層気に入ってくれて、何かと傍に置きたがった。
ある日姫様は俺を真っ直ぐ見つめ笑った。
確か向かい合っていたし、侍女もいなかった。
机を隔てていたような気もするが定かではない。
「私死なないのよ」
これは間違っていない。
一字一句絶対だ。
声の調子すら再現できる。
その音は今も身体を駆け巡る。
四百年使い切ったこの身体を。
俺は何と返したのか全く覚えていない。
「御冗談を」とでも言っただろうか。
俺のことだから「そうですか」とでも言ったかもしれない。
姫様は俺の頬を両手で包み俺の唇と自らの唇を合わせられた。
「これで貴方も死なないわ。私と一緒よ」
俺は最初そんなこと信じなかった。
だが合戦に出て矢が俺の喉を貫き、血は出て痛みを感じたがすぐに傷が塞がった時にこれは本物だと悟った。
合戦に出るのは怖くなくなったが、一生生きるというのは恐ろしいことのように思われ、俺は姫様に直談判した。
「元に戻してください」か「普通に死にたいです」かそんなことを言ったと思う。
何しろ死なないため腹も空かなかったし、喉も乾かなかった。
俺は体がデカく大飯ぐらいだったので、食べなくなったら都合はいいかもしれないが、食べるのが大好きだったので、単純に寂しかったのと、あの頃はまだ二十年も生きていなかったので、もうあの頃の気持ちは思い出せないが子供らしい漠然とした恐怖だったのだろうと思う。
「駄目よ。貴方は私と一緒なの」
「呪いを解くには貴方が私を好きになるしかないわ」
「貴方が私を好きになれば貴方は死ねるわ」
「貴方はもう私を好きになるしかないのよ」
こうして俺は呪われた。
姫様の父親の侍大将は誰に負けたのか忘れてしまったが、あっさり自害した。
美しい姫様は敵の御大将の世話になるということに決まったが、死なないだけで姫様は怪力であるわけでもなく足が特別速いわけでもない、普通の美しい娘だ。
このままでは可哀想になることは明白だったので俺は姫様を背負い逃げた。
夜通し走り続けた。
死なないはずなのに、何故か苦しかったし、心臓を拳で叩き続けられているようだった。
朝日が昇るのを見て俺はやっと足を止められた。
姫様は俺の背で笑っておられた。
「こんなにしてくれるのに私のこと好きになれないの?」
俺は何も言えなかった。
近くを流れる川の音がやけに心地良かったことだけは憶えている。
後は知らん。
ここから俺と姫様の長い長い旅が始まった。
名前はコロコロ変えたのでもう最初の名は覚えていない。
死なないのだから合戦に出ればさぞかし有利であっただろうと思う。
関ケ原も大坂の陣も結果は変わっていたかもしれないが、姫様を連れてそんな所へは行けない。
腹は空かないので食い扶持を稼ぐ必要はないわけだが、姫様を濡らすわけにはいかないので雨露をしのぐ必要だけはあった。
死なない身体だが、寒いのは感じるし暑いものは暑く、何だかんだと不便だった。
色んな仕事をした。
年を取らないのが怪しまれるので三年以上は同じ所に留まれなかった。
「どうして私を好きになれないの?」
死ななくなって何年後かは忘れてしまったが大雨の降った夏の夜に姫様は俺に尋ねられた。
どうして好きになれないか俺自身もさっぱりだったので、素直に「わかりません」と言った。
姫様は天女のように美しい。
その声は澄んでいてこの世のどんな音より魅惑的だ。
ずっと聴いていたいとすら思わされる。
姫様は全てにおいて少しも濁ったところなどない。
なのに何故好きになれないか。
「好きになるまで死ねませんからね」
呪いは続く。
時はいつのまにやら過ぎてゆき徳川の世が終わる。
何やら俺の与り知らぬところで浮かれた時代が来てそれも終焉を迎えたが、俺と姫様は何も変わらない。
そして俺は姫様を好きになれない。
今年の夏は異常に暑い。
死なない身体だが感覚はあるので外に出るとうんざりする。
家賃を払うため働きに出る。
今は近所のスーパーのデリカで働いている。
朝七時出勤のため六時四十五分に家を出る。
食品センターから来た総菜を棚に並べていく。
終わったら作業場に入りコロッケを揚げる。
ひたすら暑い、熱い。
そして油くさい。
作業場ではわからないが、同僚のあとトイレに入るとわかる。
姫様は何も言わない、この匂い好きと言う。
十一時に仕事をいったん終え、買い物をして帰る。
別に食べなくてもいいのだが、貯蓄する必要がないのでその時食べたいものを買って帰る。
今だったらアイスは毎日、たまにスイカ。
十七時にもう一回出勤するので十六時四十五分まで家でゆっくりと過ごし、二度目の勤務に備える。
夕方は値下げと後片付けだ。
値下げ機をぶら下げていると常連客の老人達に背後から纏わりつかれるが考えてみれば皆俺より随分と年下だ。
家に帰ると姫様がエアコンの効いた部屋で大きなクッションに身体の半分を乗せて寝ころんでいた。
「ただいま」
「おかえりなさい。暑かったでしょう?大丈夫?」
「姫様こそ大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まっているでしょう。私死なないのよ」
「そうでしたね」
俺は冷凍庫にアイスを入れる。
姫様が屈んだ俺の背にピタリとくっつき俺の肩に顎を乗せる。
「貴方が帰って来たからやっとアイスを食べられるわね」
姫様はバニラ最中ジャンボの袋を開けひとかけらだけ手に取ると残りの最中の袋を俺に差し出す。
姫様は昔から小食でアイスは一個食べられないし、500ミリリットルのペットボトルのジュースも一本飲めないが新作の炭酸ジュースが出ると飲みたがるので、炭酸の抜けかけた残りを飲むのは俺の役目だ。
「明日やっとお休みね。イオンに連れてってね」
「イオンに着くまで暑いですよ」
「家にいたって暑いでしょう。イオンのソファ大好きなんだもの」
「ソファ買いましょうか?」
「うち置くとこないじゃない」
「そうですね」
姫様はフードコートが大好き。
ハンバーガーもドーナツも一口しか食べず残りはいつも俺が食べる。
アップルパイも全部食べられないし、バニラシェイクのSサイズすら全部飲めない。
電車で六駅、駅からバスに乗り姫様大好きイオンタウンへ。
「電車から見る景色ってどうしてあんなに素敵に見えるんでしょうね」
「さあ、わかりません」
姫様は電車から見る空が好き。
だからいつも乗るのは快速。
「空と曇って凄いわね。何時みても違うんだもの」
「そうですか?」
「私が窓際ばかり座るから貴方見れないのね」
「別にいいですよ。これからもいくらだって見れるんですから」
「そうね。まだまだいっぱい見れるわね」
姫様が映画を見たいと言ったのでハリウッドのアクション超大作みたいなのを見た。
とんでもねぇ高さから主人公が落下していったが、俺はこれをパラシュートなしでやっても死なないんだよなぁとぼんやりと思ったが目まぐるしく派手なシーンが続くので最後まで飽きずに見れた。
映画を見た後は買いもしない服や靴を見に行った。
姫様は無印良品とユニクロが大好き。
何も買わず本屋に行き雑誌の表紙を二人で水族館の魚のように眺め、フードコートのマクドナルドへ行き夏限定のハワイアンバーガーのセットを頼み姫様は珍しく頑張り三口も食べ俺に寄越した。
ノースリーブのワンピースから伸びた腕は恐ろしい程白い。
姫様は顔も白いので遠くから見たら唇のピンクだけ見えてそういう花みたいに見えるだろうと思う。
フードコートは喧しいが、俺達だけ時間から切り離されている。
姫様はますます美しくなり、絶世の美女だとかいうよりまるで透明な美しい移動する何かみたいになりつつある。
本当に俺以外に見えているのかはなはだ疑問だ。
姫様は物産展が大好き。
東北物産展をやっていたのでずんだ餅を買って帰った。
案の定一口しか食べなかった。
もうすぐ三年が経つのでここでの暮らしも終わりだろう。
こんな狭い国だが行っていない土地はまだ山ほどあった。
この間テレビを見ていた姫様が野球場に行ってみたいと言ったので久しぶりに関東で暮らそうと思った。
言葉の壁はあるがそれこそアメリカに渡ってもいいかもしれない。
まあ年内はここにいて節分が終わったら本格的に考えよう。
八月最初の土曜日に花火大会があるので姫様と行ってみることにした。
去年も一昨年も仕事だったのでこの土地では初めてだが、花火はもう何度見たかもわからない。
たこ焼きを買って珍しく姫様は二つ食い、かき氷も三分の一くらいは食べてくれた。
紫色の浴衣は随分前に買ったものだがまだ綺麗で朝顔の模様が姫様によく似合っていた。
家に帰り風呂に入った。
姫様がもう寝ると言ったので灯りを消して二人で並んで横になった。
「まだ私のこと好きになれない?」
「わかりません」
「どうしたら好きになれるの?」
「さあ、知りません」
「貴方人を好きになったことはあるの?」
「ありませんよ」
「私美人でしょう?」
「この世の者とは思えんくらいには」
「それなのに好きになれないの?」
「姫様はどうして俺ですか?」
「さあ、どうしてかしら」
「どうして俺をこうしました?」
「さあ、わからないわ」
「わからんのにしたんですか?」
「そうかも」
「俺みたいな甲斐性なしですみませんでしたね。もっと向上心の有る男にしといたら天下を取ったかもしれなかったのに」
「どうしたの?急に」
「嫌、考えたら死なないって無敵だったのになって、ゲームチェンジャーになれたのになって」
「映画の影響?」
「そうかもしれません。あれ見てたら、あ、俺これできたなぁって」
「私がいたら無理よ。あんな生活してたらお家に帰ってこられないわよ」
「確かに」
「さっきの話だけど、貴方をそうしたのはずっと傍にいて欲しかったからじゃないかしら」
「じゃないかしらって、確定じゃないんですか?」
「だってもう随分昔のことだもの。あの頃私達子供だったでしょう?」
「まあ、確かに」
「一番嬉しかったのは貴方私を抱えて逃げてくれたでしょう?父が自害した時も空襲の時も、いつでも。死なないんだから私に覆いかぶさる必要なんかなかったのに」
「そうでしたっけ?」
「でも貴方ってホント頑固。私以外好きになる選択肢なんかないのに四百年たってもこんななんだもの」
「すみません」
「私を置き去りにするって選択肢はなかったの?」
「あるわけないです」
「それは何故?」
「心配だからです」
「死なないのに?」
「死ななくても包丁で指切ったら痛みを感じるし暑いし寒い。誰も姫様のことが見えなかったらいいですけど、世の中には悪い人間がいっぱいいるので一人になんかさせておけません」
「そうね、私何もできないものね。足も遅いし、重いものも持てないし」
「重いものは俺が持つからいいです。もう逃げることもあんまりないでしょうから足も速くなくていいですよ」
「私貴方が好きだわ」
「そうですか」
「貴方も早く私を好きになって」
「まあ、そのうちに」
八月第二週の土曜日に俺の勤務するスーパーのある商店街で夏祭りがあった。
屋外なので暑かったが大盛況で焼きそばもフランクフルトも足りないくらいで主任がもっと発注しておけばと悔やんでいた。
帰りにキンキンに冷えたアクエリアスと冷凍パインを貰って姫様と涼しい部屋で二人で食った。
八月最後の日仕事は休みだったが今年最後のスイカを食べたいと姫様が言ったので朝から買いに出かけた。
涼しく快適な部屋で二人でスイカを貪るように食った。
スイカだけは姫様もよく食う。
「貴方スイカが一番好きじゃない?」
「姫様こそ」
「貴方の方が好きよ。貴方きっとこの世でスイカが一番好きよ」
「スイカも梨も桃も好きですよ。あ、エアコンの効いた部屋限定で。暑い所は何食っても暑いんで」
「そうね。今年は本当に暑いわね」
「エアコンの効いた涼しい部屋で食べるピザ、ラーメン、餃子、カレー」
「焼き鳥は?」
「好きですよ。炬燵に入って冬食う蜜柑」
「お雑煮、ぜんざい」
「キムチ鍋、豆乳鍋、すき焼き、シチュー、おでん」
「もう、すぐ冬が来ちゃうわね」
「秋刀魚は年々高くなりますしね」
「シジミもね。そういえば貴方いつだったかシジミを取っていたわね。憶えてる?」
「そんなことありましたっけ?」
「あったわよ」
「よく覚えてますね」
「そうね」
スイカを食べると並んで昼寝をした。
眠らなくても死にはしないが気持ちがいいので眠るのは好きだ。
涼しい部屋でうとうとするのは何物にも代えがたい。
目を覚ますともう夕方だったがまだ日は高く、空は青さが残っている。
姫様がお散歩したいというので二人で川沿いの道を当てもなく歩く。
「私ここ好きだわ」
「そうですか。でも来年には引っ越さないと」
「そうね。次は何処へ行くの?」
「関東の方がいいかなぁと。姫様野球場行きたいって言ったでしょう」
「だってスタジアムグルメ美味しそうだったでしょう?」
「そうですね」
「始球式してみたいわ」
「それは無理があるかと」
「バッターボックスに立ってみたい」
「バッティングセンターなら連れてってあげられますよ」
「貴方私がしたいって言ったら何とか叶えようとしてくれるのね」
「俺にできることならですよ」
「それなのに私のこと好きじゃないの?」
「不思議ですね」
「ホントね。貴方ってホント不思議」
「でも今気づいたんですけど、好きになる必要なかったんですよ。俺はすでに姫様のことが好きだったんですから」
「唐突ね」
「ホントですね」
「どうしてこのタイミングで言うの」
「ホントですね」
「指先消えかけてる」
「姫様も」
「最後だから力いっぱい抱きしめて」
四百年以上にわたる恋の結末としてはあまりにあっけなかっただろう。
だがそれでいい。
俺達は恐らく世界で一番長い恋を楽しんだ。
楽しみ過ぎたから来世はもういらない。