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しあわせのたぬき  作者: 月美てる猫
2/81

第一章 光と影 ① (本編の章管理)

第一章を三分割して再掲しました。

①ではタヌキ達との運命的な出会いを描いています。

 まるで精霊の泥沼だった。もう誰が味方なのか敵なのかさえもわからない。よこしまな人間にそそのかされた者たちがまがまがしきモノにまみれ、次々に倒れ、魔物と化していく。最後の月舟が沈んだ。最後の一体が魔物になるまで戦いは続く。ここでみな精霊たちは魔物となって土の中へ吸い込まれるのだ。

「シーマ、シーマ、しっかり」

「ハクレイすまない。シーカーは、シーカーを救わねば」

「シーカーはもう助からない、肩につかまって、川から海へ出るんだ」

 二体の精霊は茂みに足をとられ、岩につまずきながら、霧の中、川へ向かった。霧の奥ではまだ激しい戦闘が繰り広げられている。開けた平地の中央ではそのシーカーと呼ばれた大きな精霊の下半身が溶け、上半身は猛たけり声をあげながら襲おそい掛かる魔物たちをはねのけていた。あたり一面に無数の精霊が横たわり折り重なっている。

 川辺では数匹のキツネが「こっちへ」「早く」と手招きをしている。一艘(いっそう)の小舟には傷ついた精霊が二体横たわっていた。シーマが転げながら駆け寄り舟をゆすった。「ライディン、オジロウ」

「シーマか、シーマか、よかった、私は大丈夫だ。オジロウも無事だ」

 ライディンは()めきながら起き上がり、たもとから巾着袋(きんちゃくぶくろ)を取り出すと両手でシーマの手を握りながら、

「シーマ、月影と月光だ。これを頼む、すまない」

「わかった」シーマはライディンの両手を抱き包むようにその巾着を受け取った。ライディンは、無念そうに、

「シーマ、私はシキシマウサギのもとに身を隠す。シーマは」そう問うと、舟に乗っていたキツネが、

「シーマ様とオジロウ様は私達がシレトコへお連れします。そこでお休みいただきます」

 舟に横たわっていたオジロウが頭を持ち上げゆっくりうなずいた。

 観念したかのようにシーマが、

「しばらくの別れだ。時をまとう。次の戦いに備えるのだ」そう言って霧深い空をあおいだ。

 キツネはそれぞれに麻布を覆いかぶせ、静かに川をくだった。時折月が霧のすきまから道しるべとなって川面へ光を届けた。




         しあわせのたぬき


                    月美 てる猫



  かずみが語る



第一章 光と影 


  それから30年後。


 車を走らせながら義明は春美のことを考えていた。

「今日も少し遅くなるなぁ」

 2年前に結婚したふたり。春美は生まれつき病弱な身体であり、特にここ1、2週間は体調を崩していて、寝たり起きたりしながら義明が仕事から帰るのを待つ日々だった。

「え、店長、またお客様からですか?」

「そうなんだ」

 提供する商品に満足できないという顧客からの問い合わせに対応することは日常茶飯(にちじょうさはん)なことであり、大切な業務のひとつであると、スーパーに勤めている義明は自覚している。商品不具合対応の基本は「お詫びと原因究明」であり、(じか)にお詫びをしてそのご満足いただけなかった品を回収するのが解決への近道だと教育を受けているし、自身そのように確信している。


 義明は顧客からの問い合わせに対して、お詫び対応をするために車で2時間ほどかかる市外の町へ向かっていた。店内が夕方の買い物客で混み合う時間帯ではあるが、すぐにその問い合わせをしてきたご主人のご自宅まで出向いて行ってその品を回収し、同時にこちらから持参する代替えの品をお渡しすることがベストと即断したのだ。

「さっきの電話ですね?」

 事務所に入ってきた補佐役と一緒にそのお問い合わせ対応をしに行く先を、事務所の壁に張り出してある地図で確認した。

「ずいぶん遠くないですか?」

「うん」と短い返事をする。電話でご住所が遠いことを義明は既にわかっていた。職場を離れて行き帰りする時間を無駄と思うかどうか、判断は微妙なところであるが、この件に関しては義明に迷いはなかった。

 ご自宅までの順路をメモしていると、鮮魚担当が白衣姿でやってきて、頭を下げながら、

「すみませんでした。これ、代替えの品です」

「おっ、ありがとう。でも珍しいねえ、昨日入荷したばかりだったよね」

 よく吟味したのであろうお詫びの品を、事務所まで持ってきた鮮魚担当は、

「いやあ、そうなんすよ、納品元に文句言わなくちゃあ。真空パックですからピンホールってやつかもしれません。空気が入って鮮度が落ちていた可能性あります」

 そう釈明した。信じられません、という顔をしてみせる鮮魚担当をなだめるように、

「そう、まずは行って見てからだね」

 義明はそう笑って見せた。鮮魚担当は、

「いやあ、申し訳ありません。店頭に出すときもっとちゃんと見るようにします」

 と、もう一度「すみませんでした」と頭を下げて事務所を出た。


 義明はユニフォームを脱ぎ、ジャケットをはおって通用口を出て従業員用駐車場へ向かい、店舗で使用している社用車で出発した。

「僕が行きますよ、だって奥様具合悪いんでしょ?」

 出がけに更衣室前で補佐が気を利かせてそう言ってくれたが、

「いや、いいんだ、これは店長の仕事だから」

 義明はそう補佐役に「ありがとう、留守を頼むね」とにっこり笑って見せた。


 部下に留守を任せてはきたが、お客様対応後に帰店して部下に任せた仕事の残務を引き継いで、その残務をこなしてから店を出て帰る。いつもの帰宅時間では済まないことは明らかだ。細心の注意を払っても商品不具合は起きる。今回は、購入した魚が傷んでいる、という電話でのお問い合わせだった。


 お店の問題点を再確認して真摯に改善をすることで顧客満足度をあげる。お客様からのお問い合わせ対応は売上向上につなげるチャンス、そう、義明は前向きに考えていたし、一般論的にも小売業はそうなのだ。

 ただし、一日8時間勤務の間のその数十分、数時間の外出は当然にも日常業務に支障をきたし、全体の労働時間に付加がかかることになる。鮮魚は鮮度、一般食品は品揃えや品切れ、店内作業中は接客、と、課題はいろいろあるが、いま顧客対応に向かう義明にとっては、帰宅してからの妻への対応も課題としては大きく重い。

「今朝も少し微熱があったしなぁ」

 帰宅が遅くなると春美は出迎えもせずしばらくは冷めた空気が流れるのが常だ。駄々っ子のように晩御飯も食べず、すねて寝ている春美の横に沿って義明は童話を読んで聞かせたり、即興で作る昔話などで機嫌をとった。


「むかしむかし、えーつと、そう、龍が住むお寺の和尚おしょうさんがね」

「うん」

「和尚さんが」

「なに?」

「和尚さんが、龍の首に鈴をつけたんだよ」

「ふーん、どうして?」

「龍がいるとご利益りやくがあるから、その、鈴のプレゼントで龍をなつかせたのさ」

「なるほど、それで?」

「鈴が気に入った龍はそれからお寺の軒先で涼むようになったんだって。風が吹いたら鈴がリンリン鳴るから」

「へーっ、そうなの?」

「うん、でも、お寺を訪れる人が龍のしっぽを引っ張って、鈴を鳴らすようになったんだ。龍が嫌がるもんだから和尚さんは、鈴に紐をつけるようにして、鈴をならしたい人はお金をその箱に入れてくださいってことにしたのが、いまのお賽銭箱(さいせんばこ)の始まりなんだとさ」

「鈴やお賽銭って、お寺よりも神社じゃないの?」

「あ、そうか、うーん、そう、かもね」

「まあ面白いよ、あれ鈴緒っていうしね。尾っぽの『お』の字じゃないけどね」


 義明が帰宅後に即興でつくる昔話は動物が登場することが多い。 


「むかしむかし、あるところにウサギが住む村がありました」

「メルヘンチックなお話し?」

「ある日ウサギは金の玉子を産む鳥がいるという噂を聞きました」

「金の玉子?それどこかで聞いたことある。雲の上?」

「いやそのあたりの野山。ウサギはいろいろな動物に金の玉子を探してほしいと頼みました。金の玉子を売って荒れた土地を開拓する資金にしようと思ったから」

「動物のネットワークがあるのね」

「ウサギは弓矢で乱暴もののオオカミやシャチからみんなを守ってくれていて信頼されていたから、みんな協力してくれました」

「弓を引くウサギねぇ・・・」

「ある日、アザラシが海から双眼鏡で陸のほうを見ていると、高い崖の上に、金の玉子が乗っているのを見つけました」

「よく見つけたね。アザラシって水中メガネって感じするけど」

「アザラシは友達のモモンガにウサギのために取ってきてほしいと頼みました」

「ふんふん」

「モモンガは、クマやシカやキツネやイヌやネコに頼んで肩車をしてもらうことにしました」

「ウサギも肩車に加わればよかったのにね」

「崖の上に着いたモモンガは金の玉子を見つけるんだけれど、金の玉子を抱いていた鳥に、ダメって言われるんだ」

「あらあら」

「モモンガはウサギに事情を説明しました。それは仕方ないね、とウサギがあきらめかけたそのとき、崖の上で金の玉子が割れて中から・・・」

「神様が出てきたんでしょ・・・」

「そうそう、神様はみんなが協力して地域を活性化しようとしていると、とても感心して・・・」

「・・・」

「行いのようものにはこれをあげようって、大判小判ざくざくと」

「・・・」

「ねえ聞いてる?寝ちゃった?」


 そんな他愛ない話を帰宅が遅くなるたびに考え、春美に聞かせるのが行事のようになっていた。長編になり、だいたいの結末が見えてくると春美は寝てしまうことが多かった。寝かしつけるという意味では成功だが、義明にとってはなんとなく達成感が薄い結末である。


 札幌市内を抜けるのに少し時間がかかった。大通公園のテレビ塔を見たのが15時頃、国道を進んで定山渓(じょうざんけい)温泉を通過して、中山峠を上りきって下り始めたのが16時頃、正面に見えた蝦夷(えぞ)富士と呼ばれる羊蹄山(ようていざん)はまだ山全体が真っ白で、青い空を背に日没前の稜線(りょうせん)を鮮やかに映していた。

 長かった冬が終わり訪れた春の喜びをかみしめ、春の美しい風景を楽しむ、そんな余裕もなく、これから向かう顧客との対話のこと、そして、「今日のお話しを考えておかないと」と、義明の頭の中は落ち着きがなかった。


 峠を下りながらの山道が続く。動物注意、シカ横断注意の看板をたて続けに見たと思ったら、前方の道路わきで草を食べているシカを見、車のスピードを落とす。4月ではあるが例年に増して積雪が多い、山々の木々にまだ葉はない。ただ、時折ぽつぽつ、と気の早いこぶしが白い花を咲かせているのを見かける。もう一週間もすれば一斉に木々達は芽を吹こうかというところ。北海道は一番美しい時季を迎える。 

 ただ、山間を抜ける道路周辺の残雪は高く深く春まだ浅い。舗装道路上には雪はなく、アスファルトへの太陽の照り具合で気温が高いのだろうか、路肩の芝生は山の残雪とは裏腹に青い。ふきのとうも、ぽつぽつと、出てきている。野生の草食動物はそれらを食べに危険を冒して山から道路へ寄ってくるのだ。

「今夜はシカやウサギの話でもしようか」

 と、春美に聞かせる今夜の昔話をなんとなく考える。

「シカは神様の使いとか言うからな、シカに献上する草をウサギが選んで運んでいたら、リュックサックの底に穴があいていて、それで困っていたらシカが現れて、あなたが落としたのは金の草、銀の草、いや、これはまた『それ聞いたことある』とか言われるか」


 アイヌ民族はシカもウサギも、草も木も、川も山も、風も火も、みなカムイと呼び、それぞれを『神』として尊重しているという。義明は、動物や植物は神々の世界から舞い降りてきた神達のこの世の仮の姿であり、神が宿る動物や植物と人間が共生する、というアイヌの考え方が好きだった。動物や植物は食糧にもなるが神の恵みとして身体に取り込む。それは自分が子供のころから躾しつけられた、食事をする際に「いただきます」と言う、その考え方に共通するものがある。

 それぞれの命を尊重し、動物同士も助け合い、みんな仲良く暮らせる世の中は理想であり、肉食も草食も協力し肩車をして金の玉子を取りに行くような姿が日常的に人間社会にも見られたら平和だと義明は思う。

 妖精であったり妖怪であったり、精霊、生霊(いきりょう)、魔物など、神話やおとぎ話に出てくるような神秘的存在は世界中のいたるところで伝えられている。動物が擬人化された民話や言い伝えも世界中にあるが、義明が発想する即興のお話しは、和風、洋風、古典、マンガ、アニメと、あらゆるものを引用するため神秘性に欠けることが多い。


 ようやく峠道を抜けて平な農地が続き目的地手前の町を通り抜ける。民家やガソリンスタンド、コンビニを見たと思えば、また起伏のある、上る下るを繰り返しの山道に入る。さきほどの峠よりも木々は高くそびえ、道をトンネル状に覆うような威圧感がある。まだ葉はつけていないが、木々の梢は密集して薄黒く、その彼方に茜の雲がそよいでいて、

「おや?」

 木々のすきまから銀色の何かが一瞬見え隠れした。

「何だろう、こんなところにリサイクル処理場か何かだろうか?」

 たまにしか走らない道ではあるが、あのような大きな建造物らしきものが、この山中にあっただろうか、と少し首をかしげ、しばらくすると目的の集落が見えてきた。 

 ショッピングセンターもスーパーマーケットもない。だからこのあたりの人々は車で2時間もかけて、たまの買い物を札幌で楽しむ。その買い物のひと品が傷んでいた、というクレームだ。クレームといっても苦情でも文句でもなく、ご意見の域であり、電話口からの声は優しかったから、義明のほうが恐縮し店長自身による本日中の対応を判断したのだった。

「松の木とサクラの木が目印、あ、あれかな」

 地図で見ても実際に現地へやって来ても民家がまばらにぽつぽつとしかなく、まっすぐにそのご自宅までたどり着けるのか不安であったが、その目印はいかにも目印としてふさわしかった。西向きに建つ屋敷前には赤松が枝ぶりよく日に映えていた。


 玄関口に立って呼び鈴を鳴らす。もう夕暮れ時だ。カラスが道路沿いの電線に、びっしり群れをなしてこちらを見ているようだ。引き戸にカギはかかっていなかった。少し戸を開くと奥行のある広い玄関の向こうから電話をかけてきた家主と思われる人物がこちらをうかがっているようだった。

「ごめんください」

「いやあ、すまないねぇ」

 農家を営んでいるのであろうか、土間のわきには十数人分の靴を格納できそうな下足箱があり集会場のようでもある。ご主人は閥悪そうに義明へとむかってきた。50歳前後と思われる、小太りで人なつっこそうなやわらかい表情の男性だ。手に持っていたのは(しめ)サバの切り身で、なるほど痛みかけの姿をしていた。

「すみません、勘違いしていました。お宅で買った品じゃあなかったんですよ」

 パッケージは義明の店のものではなかった。まれにあるお客様の勘違い。ひとしきり電話で怒鳴られてレシートを確認していただくと、「あらごめんなさい、よそのお店の品だったわ」というパターン。失礼にあたるので「本当にうちの品ですか?」などと電話中に質問することはまずない。「かしこまりました申し訳ございませんでした」とお詫びをし、ご自宅まで出向いてはじめて気が付き、笑い話になったり、引くに引けない電話の主が「あなたの店は品切れが多いし、店員は態度が悪いし」など、別件で責めてくることもある。そんな声に耳を傾け、お客様との距離を縮めるのもスーパーで働く者の務めと思ってはいるのだが、今回は少しご自宅までの距離が遠すぎた。

 義明は脱力感を見せぬよう、精いっぱいの明るい笑顔でこう切り返した。

「いいですよ、ただ今お持ちしました当店の品を使ってください。私がその品をそのお店に返してきますから」

「いいのかい、すまないなぁ、来てもらって、僕は〆サバが好きでねぇ」

「いいんです、うちの店も今後ともごひいきにお願いしますね」


 そんなやりとりをし、しきりと恐縮してすまなそうな顔を見せる主人を制しながら車へと戻った。そこまで見送りに、と、主人は義明のあとをついてくる。

「あの松の木、立派ですね。わかりやすい目印でした」

「ああ、あの松ね」

 そう言って主人は松ではなくサクラのほうを見た。玄関に通じる歩道からの小道の右わきに松、左にも大きな木が立っているが、春まだ浅いせいか、あるいは弱っているのか、芽吹いてはいないようだ。

 車のそばまできて義明が向き直って挨拶をしようとすると、そこら中に集まっていたカラスが一斉に飛び立って、山のほうへと向かった。

バサバサバサ、カーカーカー、

「うわ、すごい」飛び立ったカラスを見送りながら義明はカラスの数と迫力に圧倒されていたが、その主人はまるで「いつものこと」という感じであいかわらずサバの件で恐縮の姿勢でいる。

「いやあ、ほんとこんなところまで来ていただいて」

 カラスのほうが気になる義明は、

「このあたりはカラスが多いんですか?」と尋ねると主人は、

「ああ、カラス、そうだね、町長がさ、鳥好きでね、カラスをいじめたり悪口を言ったりしたらとんでもない剣幕で怒るんだよ。カラスは自然界になくてはならない生き物なんだ、なんて力説したりしてさ。そのせいかな、うん、カラス、多いね。向こうのドームのあたりをねぐらにしているんだと思いますよ」

 そういってご主人は目をほそめカラスの飛んでいく方向を見やった。

 義明もカラスは嫌いではなかった。というよりも思い入れがあった。過去、通行人に痛めつけられていたカラスを守りきれなかったという苦い経験があるのだ。

「ドーム、って、国道を少し行ったあのあたりの建物ですか?」

 義明は今きた道の向こうを指さした。さきほどみかけた建造物があった方角だ。

「そうそう、隣村のお荷物物件。昔、大手のゼネコンさんがさ、建てたんだよ、テーマパークなのか、野球場なのか、中途半端なことするから、いまじゃ廃墟さ。きれいなお花畑もあってね、観光客が来るって、みんなちょっとは期待していたんだけどね」

 それでは、と言って義明は車を出し、帰路についた。ご主人は丁寧なおじぎをして、車が見えなくなるまで義明を見送っていた。



  このご主人、タヌキ達の運命に深くかかわる人なの

  ですが、タヌキ達がこの人と出会うのはまだずっと

  先のことです。



「はあ、うちへのクレームではなかったんだね」

 そうつぶやいて助手席に置いた魚のパッケージを軽くなでた。ご主人との話にあったドーム跡地に近づいてきた。何となく気になる。春美へのみやげ話になるかもしれないと、義明は車を道路わきにとめ、ハザードランプを点滅させて車を降り、車のドアをロックして細い山道を分け入った。

 うっそうとした木々を頭上に見ながら進むが、やがて背の高い冬枯れしたススキやオオイタドリなどの野草が侵入者を拒むかのように足元から生え広がり茂っているのをかき分け進み、ようやくその建造物全体が見えるひらけた場所に出た。

「大きい、広い」

 札幌ドーム球場ほどもあるのではないか、と思わせる巨大な建物と、広大な敷地だ。ドームの前にはドームよりもさらに広い広場があったようだが、背丈の低い木々が雑草のように生え、広がり、付近の林は周囲の山も空も隠すかのようにうっそうと茂って、背筋が寒くなるような不気味さだった。足元からドームまではコンクリートのプレートが敷き詰められているが隙間すきまから雑草が伸び、その石畳はゆがんで波打っていた。

 ドームの外壁はまだ現役で使えそうな美しさを保って見えるが、夕闇が迫っているためか付近の荒れ方のせいもあって、廃墟と呼んで差し支えはなさそうだ。

「どうしてこんなところに、もったいない」

 何等かの公算があってここに建てたものであろうが、いまとなっては村にとっても、無用の長物でお荷物であろうか。

 そんなことを思いながらドームの中が見えそうなゲートの近くまで歩いていく。カラスなど一匹もいない。静かすぎる、風のない夕闇迫る頃の廃墟。薄暗くて静かというだけではない何か得体のしれない重々しさを感じながら、恐る恐る近づく。と、

「うわっ」

 何かにつまづき、もんどりうって義明は、地面に敷いてあった金属の鋼板にオデコを強打しながら倒れた。チカッと、目から火花が出たような、その刹那せつなに義明は気を失ってしまった。目から火花が出たのではなかった。義明は気が付いていないが、転んだときに足元にあった金属バットと、地面に敷いてあった鋼板が光ったのだ。

 少しして義明は眼をさました。あたりはすっかり薄暗くなっていた。国道を走る車の音を頼りに草木をかきわけ地面の凹凸につまづきながら、どうにか路肩に停めていた車にたどり着いて、そこでやっと左手に握っていたものが何かがわかった。

「これ、キレイな石だなあ」

 転んだときに無意識につかんだのであろうその石。満月が上っていた。月の光に照らすといっそう輝きを増すように見えた。

 打った頭は腫れもなく痛みもなく、めまいなどもしていない。車の運転は大丈夫だ。

「この石は帰ってから春美に見せよう」

 そう思いながら、エンジンをかけ、スタートしようとすると、目の前を何かがトコトコ走っていき、立ち止まってこちらを見ている。エゾタヌキだ。夕方を過ぎると道路には野生動物がよく出てくる。人目につきにくい日没後は行動しやすいのだろう。ただし車を運転する人間にとっては夕方を過ぎた時間は視野が狭くなり注意が散漫になりやすい。しばしば起きるシカと車の衝突事故は、北海道では珍しくない。キツネやタヌキやリスが車にひかれて無残な姿をさらしているのもまれに見かける。特にタヌキは走るのが遅く臆病で、向かってくる車を避けられずに立ち止まってしまうことがあると聞く。義明はゆっくり四輪をころがし、ルームミラーにそのタヌキが映っているのを確認してからスピードをあげ、帰路を急いだ。


 あらためてポケットの石を左手にとり、「これはタヌキからの贈り物だな」そんなことをつぶやきながら、今夜春美のご機嫌をとるストーリーを組み立てていた。

 北海道に生息するタヌキはエゾタヌキ。本州に住む本土タヌキとは少し体つきがちがうという。降雪に対応するためだろうか、エゾタヌキは本土たぬきに比べて足が長い。ただ、目のまわりが黒いとか、しっぽがふさふさしているとか、トコトコ走るとかいう愛らしい特徴は共通するものがある。

 タヌキは連れのタヌキが死ぬとその遺体を草むらに隠す習性があるらしく、車にひかれた身内のタヌキを引きずって道路脇へ運ぼうとしてまたひかれる、ということもあるらしい。散歩がてら郊外をドライブすると季節によっては道路をトコトコと親子で走っている姿をみかけることがある。大きいタヌキを先頭に2、3匹の小さいのが必至に走る姿は何ともユーモラスでかわいらしい。

 義明は北海道に生息する動物の中でもエゾタヌキが一番好きだった。人をだますとか、ばかすとか、カチカチ山のお話しのように、悪役になることもあるタヌキだが、義明のイメージでは家族愛が強く、ほのぼのした家庭を築くような優しい動物であった。

「この宝物はタヌキのものだった。宝物を探しにタヌキの兄弟がたずねてくる。そして、タヌキはその家にいすわることになって、・・・」と義明は帰路の車中で物語を組み立てていった。


 お預かりしたサバを競争店舗へ届ける。競争店舗の店長さんが「いやあ、申し訳なかったですねえ、お茶でもいかがですか」と、誘うが固辞(こじ)し、世間話もそこそこにして自店に戻るともう閉店時刻に近かった。部下から作業の進行状況を聞き、部下を先に帰して残務を整理し、通用口のシャッターを閉めて家路についた。


 月は煌々(こうこう)と高く、夜の街は人通りもまばらだった。義明の自宅は、札幌市郊外のベットタウン的な閑静な住宅地の、そのまた郊外にある。住所に番地はあるが一番近い隣まで50メートルはある。親から譲り受けたその家屋は築40年以上にもなりあちこちガタはきているが家も土地もふたりには贅沢(ぜいたく)すぎるほど広くありがたい我が家であった。

 春美は義明と相談しながらその広い庭に好きな植物を植え、わが子のように大切にしていた。庭には両親が大切にしていた大きなサクラがあるほかはチューリップやグラジオラスなどの球根類がたまに花を咲かすような素朴ないでたちであった。 

 結婚して間もなく園芸市でナナカマドやカエデなどの木、フクジュソウやエンゴサクなどの多年草、ユリや水仙などの球根、そしてディジーやパンジーなどの一年草と、空いているところに少しずつ植え込みをし、四季折々、花が庭を彩るのを楽しみにしていた。秋枯れしては縄むしろをかけるなどの『冬囲い』をして次の春を待っては、ふたたび芽吹いた木や草の成長を喜ぶ。子が授からない二人にとって園芸は共通の趣味であり生きがいになりつつあった。

カーポートに停めた車を降りると、満月に照らされた春まだ浅い庭の草木が義明を出迎えた。こっちを見てよと言っているかのようなクロッカスやチューリップのつぼんだ花を少しちらちらと見ながら義明は玄関へ急いだ。


 ただいま、と扉を開き、一階の居間にあがるとひと気がなく、二階の寝室に入ると春美は赤い顔をしてうらめしそうにこちらを見ていた。熱があるようだ。

「薬は飲んだの、何か食べた?」

 怒っているとわかっていたので低姿勢でゆっくり尋ねると、春美はつぶやくように「大丈夫だよ、さっきおかゆ食べて薬飲んだから、義明も何か食べてきて、そして寝かしつけて」と言って、布団にもぐりこんだ。


 居間に戻りキッチンを見るとコンロに味噌汁があり、炊飯器にはごはんが炊けている。テーブルには焼き魚と玉子焼きと小鉢に漬物、それぞれにラップがかかっていた。キッチンは洗い場が島になっていて、つまりキッチンと居間は一体になっている。壁面に食器棚、つぎにアイランドキッチン、つぎに食卓テーブル、その前が居間、という間取りである。居間にはソファがあり、庭を眺められるよう配置されている。キッチンのダウンライトと居間の常夜灯のみ点灯しているほの暗い室内に満月の光が差し込んでいる。居間のストーブは火を入れたままにしてくれていた。春とはいえまだ夜は肌寒い。

 義明はテーブルに置いてある玉子焼きを見て更に心が温まった。春美の玉子焼きは、見てくれは悪いがとてもおいしい。義明にとってはいまや大好物だ。残業しての帰宅だったこともあり腹もすいていた。


 灯りをつけ、炊飯器からごはん、コンロの鍋から味噌汁をよそって食卓テーブルへ運ぶ。箸を取りごはんと味噌汁と焼き魚と、最後まで手を付けずに残しておいた玉子焼きを、まず一口おいしそうにほおばる。二口目、何だろう。一瞬、箸でつまんだ一口大の玉子焼きを、口に入れずに口元で止めた。食卓テーブルのむこうに春美、ではなく、タヌキがこちらを見て、その口元の玉子焼きを食べたそうに見ている、そんな姿を見た気がした。単に自分がイメージしただけ、という意識はありつつ、何かタヌキと一緒に食事をしているような錯覚を覚えた。

 義明が物語として想定していたメインのタヌキは5匹だ。それぞれの名前や特徴も考えていた。食卓テーブルにはイスが義明のものと春美のものと、2脚、更に左右に余分なイスがある。1脚には当然にも義明が座っていて、向かい側には春美、ではなく、2匹のタヌキがイスに座る、ではなく、後ろ足で立って、前足2本ずつ4本をテーブルに置いて、義明が玉子焼きを食べるのをだまって見ている、あとの2匹は左右の余分なイスに坐って義明の膝元ひざもとを観察している。あとの1匹はなんとなくそのあたりをうろうろする、そんなような錯覚だ。

「おいしかった」

 独り言を義明は、誰もいない誰も座っていない食卓テーブルの向こう側になんとなく誰かがいるような気がしながら、

「ごちそう様」

 そう言って立ち上がると、食器をキッチンのシンクへ持って行って、水道栓を開いて洗う。洗剤をとり、スポンジをとり、何となくだが、タヌキ5匹が興味津々で水道栓から出る水や、義明の動作を観察しているような錯覚を覚えた。


 食器をフキンで拭いて食器棚の定位置に戻す。キッチンの電気を消して、居間の窓辺に立って月をながめた。タヌキたちも月を一緒にながめている、また、そんな錯覚を覚えた。少しおでこに手をやる。あの施設で転んで、頭を打ったせいだろうか。あとから後遺症が出てくるということも考えられるが、目をぱちぱちさせ正気であることを確認するように、

「いや大丈夫」

 そうつぶやいて居間を出て、義明ひとりで二階にあがる。

 階段の途中で義明は階段の上、下をなぞるように眺め、ひとりで階段を上がっていることを確認する。「ちょっと疲れているかな」そう思いながら苦笑する。

 この家は義明が子供のころから社会人になるまで両親と一緒に過ごした住み慣れた家である。幽霊のような異質なものを感じたことなど以前も世帯主になってからも一度もない。その自分が何かしら異質なものを感じていることを悟った。ただ、不気味とか怖いとかいうものではなく、受け入れがたいような異物でもなく、自分以外の自分が一緒にいるような、何か、であった。


 寝室は二階の和室にある。身体の弱い春美からの希望で、ベッドを使うことはせず、布団を毎夜、毎朝、床から押し入れに、押し入れから床へ、と上げ下げしていた。ベッドを使うと寝たきりになるかもしれない、という春美の考えだった。

 寝室に入ると布団がふた組並べて敷いてある。窓のほうが春美、入口近くが義明の布団で、窓の方の布団に膨らみがあり、膨らみの主が義明の気配に気が付いたのか、少し左右に揺れた。

 寝室に入った義明は、義明と春美の布団の間に座りその膨らみに、

「晩御飯たべたよ、おいしかった」

 と話しかけると、布団から顔を出した春美は待っていましたとばかりに、

「じゃあ、今日のお話し」

 と言う目はうつろで、いかにも具合が悪そうだった。

「大丈夫か、明日は病院に行こうか?」

「いいよ、もう」

「いいよもう、じゃないよ、このところずっと体調悪いだろう」

「いいの、それより早くお話し」

 毎夜ではないが毎週のように春美は微熱を出しては早寝をしていた。高熱ではないがその微熱のせいか「起きていられない」と言って晩御飯もそこそこに二階へあがって先に休む。


 郊外の外れの一軒家ではあるが、歩いて行ける距離にコンビニもあり、スゥイーツのおいしいカフェもある。バス五区間ほどで雑貨や衣類のテナントを併設したスーパーマーケットにも行ける。家にはテレビがあり、ネットワーク回線の備品もそろっているが、春美は世の中のトレンドを追うことはなく、テレビドラマに夢中になることもなく、インターネットで買い物や情報収集に興じるような様子もなく、カフェや雑貨店で息抜きをするようなこともない。日中は家の中でぼんやりと過ごし、庭の草花を手入れし、夜は義明の帰りを待つ。

 近所に友達や親戚知人がいるわけでもない。郊外の静かな一軒家でただひとりでの留守番は不安で退屈ではないかと思う。もともと甘えん坊の性格だったのだろうか、義明の帰りが遅いと機嫌が悪くダダをこねる。義明の帰りが遅いとわかる夜はなおのこと、居間の電気を消し、二階にあがり、布団をふたり分敷いて、うらめしそうな顔をするはいつものことであった。

 顔色のよくない春美ではあるがお話しをせかされ、義明は用意してあったお話しを語り始めることにした。


 まず今日のクレーム処理中に立ち寄った施設で偶然キレイな小石を『ある動物』から譲ってもらった、と話して、その小石を見せ、春美の手に取らせた。

「ふーん」

 おみやげに小石を持ち帰ったのは正解だった。気持ちがほぐれたようだ。そう義明は思った。義明が昼間は仕事に専念する一方、ちゃんと奥さんのことを思っている、それは春美には理解をしてほしいところだ。ふだん家にこもりがちな春美にとっては単なる小石もエピソードが加わると外界からの不思議な宝物に変わる。

「ムーンストーンね、本物かしら?」

「ムーンストーン?」

「けっこうメジャーなパワーストーンだよ。でもちょっと変わってる。とてもきれい」

「タヌキがくれたお守りなんだよ」

「へーそうなの、どんなタヌキ、二本脚で立って、石を手渡ししてくれたわけ?」

「そうなんだ、とてもかわいかった」

「あ、そこにいるのがそう?」

「え、なに?」

 振り返って布団ひと組と壁と床と扉しか見えなかったが、「うん、そうそう」と春美に調子を合わせた。そして物語をいつもの調子で始める。

「むかしむかしタヌキさんがね」そう義明が語りかけたのを無視するように、

「タヌキは何匹いたの、3匹、いや、4匹、5匹ね」

「うん、そうそう」

 まるでそこにタヌキがいるかのような春美の目の動きに、義明は不安を感じていた。病状が悪くなっているのか、さっきの「いいの、もう」は何なのか、何か隠しているのか。

「ふさふさだね、触ってみたい」

 春美は少し起き上がり、義明が正座している横あたりに身体を寄せて、手を伸ばし、

「いないね」と、笑って顔と身体を伏せ気味に布団へ戻った。身体にふれた春美の身体が熱を帯びていた。義明は心配になり、

「もう寝なよ。顔赤いよ、タヌキさんのお話しはまた明日ね」

 そう促すと、

「はい」

 素直にそう言って春美は枕に頭を乗せ、まぶたを閉じた。


 春美は幻を見たのか。春美の空想か演出だったのか。義明が正座していた横に2匹、3匹と座っていたような感じか、そう思ってそういうイメージをすると、何となくふさふさのタヌキが2匹、3匹と、その辺りにいるような気がする。

 春美が義明の空想していた通りの5匹と言い当てたのは偶然だろうが、それは似た者夫婦だからか、と、そのときは義明もその偶然を気にとめなかった。

 天井のあかりを消して義明も布団にもぐり、タヌキ達が活躍する物語をもう一度組み立ててみる。窓からは月あかりがさし、ふた組のふとんを照らしていた。


 義明はルーティーンの仕事をこなしながら、タヌキのエピソードを考えていた。勤務中に不謹慎ではあるが、こんなタヌキがいたら、という想像をし、春美が喜びそうなタヌキ像を創造することに楽しさを感じていた。

「店長、ご機嫌ですね」

「ううん、まあね」

 知らず知らず、ニヤけてしまっていたのだろうかと、気持ちを引き締め仕事に専念しつつも、タヌキをイメージした。

 ふと、店内をみやると、タヌキ5匹が買い物をしている。小さなカートを押して歩くタヌキ、低い位置の商品を品定めするタヌキ、タヌキの店員に値下げの交渉をする客のタヌキ、バナナのたたき売りをするタヌキ、と、いろいろなパフォーマンスを思い浮かべる。タイムセールの時間が近づくと、大売出しのハッピを着たタヌキが「店長、時間です」と腕時計を指さすようなしぐさで義明に伝える。レジで行列ができると、店長大変です、客が並んでいます、と5匹がレジの方を向きながら知らせる。従業員とうちあわせをしていると、向こうでタヌキたちもテーブルを持ち出して打ち合わせをする、など。


「今日一日、タヌキと仕事をしていたよ」

 そんな報告を晩御飯の食卓テーブルで義明は夢中になって春美に話す。帰りの車の中では助手席で「シートベルトをして」と言われ、赤信号で止まっていると横断歩道を渡る人達を交通安全の旗を持って誘導するタヌキが現れ、玄関前ではコマ犬のマネをして2匹があうんの姿勢で居たり、と、ごはんを食べながら次々にネタを披露した。ふつうそんな話をしだすとあきれる奥さんもいることだろうが、春美はそんな義明をにこにこと見ながら、いちいち、うんうん、「あらそうなの」と聞き入っていた。

「実はねえ、私も今日は家の中でタヌキを見たよ」

「え、そうなの?」

「うん、そんなパフォーマンスみたいなことはしてくれなかったけど、ぬいぐるみみたいにおすわりしたり、ついてきたり、なんか、かわいくて。癒いやされるんだぁ」

「いまは?」

「うーん、いまはいないのかな。でくもいるような気がする。私にもパフォーマンス見せてほしいなあ」

 春美はまるでタヌキがそこら辺にいて、そのタヌキ達に聞こえるように呼びかけるような独り言を言った。義明が、

「うちに住んでくれたらいいね」

 そう言うと、

「うん」

 少し大きい声でそう答えた。


 ふたりは晩御飯を食べるほうに少し集中した。「これおいしいね」「今日ね、そこのお店で安かったの」などと日常的な会話をし、「ごちそうさま」をして一緒に食器の片づけをし、

「さあ、歯をみがくぞぉ。良い子は寝る前に歯磨きするんだぞぉ」

 と、またタヌキに聞こえるような独り言をいいながら、春美は洗面所へと向かった。


 ソファに座ってその大きな独り言を聞き、義明は「子供に言い聞かせているみたいだ」そう思った。空想のタヌキは子供の代わりにもペットにもならないが、義明が留守中に孤独な春美には、孤独をいやす何かが必要だと思っていた。

 ペットを飼おうかとふたりで話したこともあった。ペットショップをめぐったこともあった。だが、動物は死ぬと悲しいから、という春美は進んでペットを飼いたいという話をしなくなった。春美が子供の頃、春美の家ではネコが飼われていた。両親が亡くなって、春美が叔母に引き取られて間もなく、そのネコが他人に預けられ、すぐに死んでしまったという知らせを受ける。そんな悲しみの連鎖に遭って、そのことがあってか、春美は動物を飼うことをためらうようだ。

 植物の世話が趣味となり心のよりどころとしているようだが、どこか物足りなさを感じている、ということは義明が感じていた。タヌキの空想は現実逃避のようであり、あまり長く続けるものではないとも義明は思った。しかし、タヌキの妄想(もうそう)は膨らむ一方で、やがて妄想を超えて現実味を帯びてくる。


 翌日、義明はタヌキのイメージをどんどんと膨らませていた。義明があのクレームの際に空想していたタヌキの物語には『仕事中や通勤途中のパフォーマンス』などのくだりはなかったが、まるで妄想上のタヌキのほうが出たがりで、それゆえに仕事中でも義明の前に出てくる、かのように次々と義明の目の前に思い浮かんでくるのだった。

 朝、出勤すると清掃作業のかっこうをして床みがきをしている。コーヒー飲料の広告のそばで、広告に出てくる俳優と同じかっこうをしてコーヒーを片手にポーズをとっている。鮮魚コーナーでは魚のふりをしてケースに寝ている。

 すってんころりんと、客が転んだマネをし、「あっちあっち」と5匹が指をさした。ちょうど店内通路を歩いている方向だったが、通路をまがると客が転んで動けないでいて、数名のお客様が「大丈夫?」と介抱している。

「あ、店員さん、そのお客さん転んだみたいなの」

 と、来店客が義明の腕を引いた。義明は転んでいるお客様に「大丈夫ですか」と声をかけ、近くの病院へ一緒に行くことにした。タクシーを呼び、その足をくじいたお客様を乗せて病院へお連れし、ご家族に連絡をとって、

「それではお大事に」

 と言って病院を出て店の方へ歩いた。歩きながらふと、その転んで足をくじいたお客様を見つけて病院へお連れするまでのことを考え、不思議に思った。

「客が転んでいるのを教えてくれたのはタヌキだった」

 妄想上のタヌキが義明へ店内事故の一報をしてくれたということなのか。


「いや、そうかな、まさか」

 義明は歩きながら、義明と一緒に首をかしげながら歩いている5匹のタヌキを想像していた。わざと道を間違えると、「こっちこっち」と、正しい道を示す。道がわからないふりをすると、「そっちそっち」と、正しい道を示す。それはそうだ、自分が妄想したタヌキなのだから、正しい道を知っているのはあたりまえ。

「ちょっと想像力を働かせすぎかな」

 そう義明は苦笑し、信号のある横断歩道を渡ろうとしたその時、5匹のタヌキが義明の前にたちふさがり、それぞれが両手を広げている。トラックが右から左にけっこうなスピードで通りすぎた。危なかった、赤信号だった。

 信号が青になっても義明は動かず、「いまのは一体」と考えていた。イメージのはずのタヌキ達はすでに横断歩道を渡り終え、手招きしているように見える。まじまじと見つめていると、イメージは消えて、職場へ続く歩道がまっすぐに伸びているだけ。信号が赤に変わった。義明はしばらく横断歩道の向こう側をみつめ、動かなかった。


 店に戻ると仕事に集中した。トラブル発生でまた残業になってしまいそうだ。タヌキのことを妄想する余裕はなく、また、タヌキたちが出てきてほしい、という欲求も起こさなかった。仕事をこなし、定時より一時間すぎた。また春美はすねているだろうか。

 玄関に入る前に今日のことを振り返るが、仕事中、勤務時間中の妄想はさておいて、ともかく昨夜用意していたタヌキばなしの続きは春美に聞かせようと思った。ほのぼのとしたよい話だと、義明は思っていた。


 少し遅めの帰宅だったが、春美は居間にいて、「遅かったね」とちょっとふくれて見せたものの、

「おかえりなさい」

 と言って、晩御飯の仕上げをはじめた。あたたかい汁物にコロッケ、野菜サラダが食卓テーブルにそろうと、

「いただきます」一緒に食事をはじめた。

「今日も少し顔が赤くない?熱はないの?」

「平気」

 微熱も、時々咳を我慢する様子も見慣れてきている。やはり一度病院へ行かなくてはと思う。ただ、今日の春美はいつもよりも少し明るい表情に見えた。


 昨日は義明ひとりでタヌキの話をたくさんしたが、今日の義明は言葉少なに、もくもくと晩御飯を口に運んでいた。春美が、

「今日ねえ」と切り出した。

「タヌキちゃんたちいっぱい見たよ」

 という。ちょっと義明の箸が止まり、春美をじっと見た。春美はニヤニヤしながら、

「あのね」春美は夢中になって義明に話し始めた。

「義明にいってらっしゃいしたあとね」お洗濯をするのに洗濯物を洗濯機に入れてスタートボタンを押して、入れ忘れた靴下一足を入れようとふたを開けたら、タヌキが目をまわしていた。洗濯物と間違ってタヌキを入れちゃったかと思ってよくよく洗濯機の中を見たら、タヌキはいなくなっていて、洗濯機が止まって洗濯物を外に干そうと思ったら、タヌキが物干しに引っかかってぶらさがっていた。お昼にテレビを見ていたらバレエをやっていて、外を見たらタヌキがバレリイナのかっこうをして踊っていた。大相撲が始まったらタヌキたちも庭で土俵入りをしていた。外の鉢に水やりをしようと思ってお庭に出たら、タヌキの置物のふりをしたタヌキが5匹立っていた。洗濯物を取り込もうと物干を見たらタヌキが平行棒や平均台の練習をしていた。一匹はまだ干されているままだった。洗濯物を取り込んでお庭を見たら、タヌキの置物は天使や女神のオブジェのマネをしたタヌキに変わっていた。

「タヌキたちねえ、お庭のサクラが好きみたいなの。しばらくじっと抱き着いていた。もうすぐ満開になるよね。お花見も好きかなあ、ねえ聞いてる?」


 あっけにとられて聞いていた義明の目の前に手の平を左右に振り春美が「目が覚めているの」とばかりに確認する。

「うん聞いてる。ずいぶんいっぱい出てきたんだね」

「そう、そうなの」とにっこり笑う。

 間違いなく妄想であろうとは思うが、何となく本当のことのように話す春美に相変わらず義明はあぜんとしている。

「でもね、不思議なことがひとつ」

「なに?」

「洗濯物を干しているあいだ、ちょっとの間だったけど雨が降ってきたの」

 そういえば札幌市内も午後に夕立の雨がふった。短い時間だったが、来店客が出入り口で雨宿りをしていた。

「雨が降るちょっと前に、タヌキがね、雨、雨、って空から雨が降ってくる動作で教えてくれたの。お日様が出ていたから雨なんて降るのかな、と思ったら本当に降ってきて。あわてて外に出て洗濯物を取り込もうかと思ったんだけれど、でもちょっとの間だったから、お洗濯ものとタヌキ一匹はそのまま干しておいたの」

 そう言って春美は「あれはなんだったのかな」と不思議そうな顔をして天井をみあげた。


 同じだ。空想とは違うリアリティ。空想ではないタヌキが存在するのか。それとも、雨も客の転倒も潜在的に人間が持っている予知能力のようなものなのか。想像力を働かせているうちにふたりとも感性が鋭くなっているのかも、そんなふうに義明は思った。春美が、

「ねえねえ、タヌキの話をもっとたくさんしたい。義明の知っているタヌキの話をあとで聞かせてね」

 もとよりそのつもりだったが、あんまりこんな話ばかりしていると、気が変になった、と周囲から思われないだろうか。むろん、そんな話は周囲にするつもりもないが、それより自分たちが気が変になりはしないかと思う。現に昨日は従業員からいぶかしい目で見られている。横断歩道のことや、来店客が転倒したときのことは春美にはしないつもりだったが、しておいた方がいいだろうか。などと義明は思考を巡らせていた。


「お箸が止まっているよ」

 春美に言われ、我に返り食事を続け、あとはタヌキとは関係ない普通の会話が続き、晩御飯の時間が終わってあとかたづけをし、春美は「先に布団に入っているから」と言って寝室に向かった。

 今日も少し微熱があるという。昼間の雨に打たれたのだろうか。体調は回復の兆しが見えず、そこへ妄想を膨らます春美のタヌキばなし。「どうしたものか」と、ひとり居間のソファに座り考え事をする。

 いままでの日常の中にはなかった妄想の世界。あのドームの重苦しい雰囲気から道路に出てきた野生のタヌキ、そして左手に持っていた石。あの石は居間のサイドボードの上、小皿の上に鎮座ちんざし義明たちを毎日見つめている。


 就寝の時間となった。寝室では寝床で春美は義明が来るのを待ち構えていた。今日も少し赤い顔をしている。

「顔が赤いよ。熱は?薬は飲んだの」そんな義明の昨日と同じ質問には「いいの」とだけ答え、

「義明の知っているタヌキさんのお話しをお願いします」

 かしこまった言い方でせかされる。義明は春美のそばに座って、あたためていたそのストーリー、続きを語ることにした。


 昨夜、話の途中で終わっていたタヌキが宝物をくれるところから始める。クレームの帰り道に寄った林の中で、

「タヌキさんが出てきて、その石をくれたんだ。トコトコトコ、って走ってきて、二本足で立っていてね、とてもかわいかったんだよ」

 実際はそうではなく、転んだ拍子に手にした石ではあるが、あの石はタヌキからの贈り物である、と義明は半ば決めつけていた。そこまで「入信」しなければ物語が続かないと思うからだ。

「あのタヌキたちはね、幸せな心の隙間を埋めてくれるタヌキなんだ。出てきてはなごませてくれるし、人を幸せにしようと頑張ってくれるんだ」

 春美の顔が沈んだ。

「私が病気で不幸だ、って言うの?」

「あ、いや、そういうわけではなくて」

「もういい」

 春美は布団を頭からかぶり、布団の中ですすり泣いた。

 もともとの概要(がいよう)話には続きがあり、「主人公の女の子を見守る」と、いうものだった。これまで職場や通勤途中で出現していたタヌキ達のパフォーマンス的行動の妄想は物語本編とは軌道が異なる。「主人公の女の子」というのはタヌキ同様、仮想の設定だった。ただし義明自身、可哀そうな境遇の主人公を、春美に重ねていたのかもしれないし、義明がタヌキのパフォーマンスを語るのを聞いて、春美も義明が春美自身の可哀そうな状況を慰めようとしていると感じていたのかもしれない。そんなことを省みた。


 義明は、春美は自身のことを不幸だと思いながら、幸福になりたいといつも思っているように感じていた。例えば散歩のとき、帰宅した自分を迎えるとき、寝床でお話しを聞くとき、その時々で何かひとつでも良いことをつかもうと探しているような気配がする。それを手伝うのが自分の務めだと義明は思う。だが春美は、「自分はこれで充分」「これ以上は無理」と決めつけているようなところがある。自身が不幸であることを認めながらもまだまだもっと幸福になりたいという気持ちを強く持たなければ病気には勝てないだろう。

 春美にはカウンセラーが必要だった。義明にはそれが務まっていない。だから義明は妄想のタヌキ達にその力を借りようとしていたのだ。そう義明も自覚をしていた。せっかくのきっかけだった。むだにしたくない。タヌキの力を借りなければ、そう思うと、すすり泣く春美の布団に手をやり、

「悪かったごめんね。でも春美の体調が悪いと知って、タヌキ達が元気づけようとしてくれているんだよ。タヌキ達も困った顔をして涙目になっているよ」


 少しすすり泣きの音がやんできた。

「大丈夫ですか、って、タヌキ達が少し寄ってきたよ」

「うそだよ、そんなのいるはずないでしょ」

 少し布団と床との間に隙間をあけて、春美は義明が座っている向こう側をしばらく見ていると、

「そこにいるね」

「え、なに?」

 一昨日の晩と同じ、義明が振り返って義明の布団一組と、壁と、床と、扉、しか見えなかったが、「うん、そうそう、そうだよ」と春美に調子を合わせた。少し鼻声で、

「ねえ、そこのタヌキさん、何か芸ができるの、踊るとか、化けるとか」

 そんなことを言い出したと思ったら、ふふっ、と少し笑い、

「考えてる」

 義明は春美が見ている方、寝室入口近くのスペースを見た。

「考えてる、考えてる、テーブル持ち出してきて輪になって、変わってるね」

 義明には見えていなかったが、調子を合わせ、

「このタヌキたちはね、まだ見習いなんだ、でもいつか立派なタヌキになって、人を幸せにするまで頑張るタヌキなんだよ。むずかしいことが起きるとそうやって打ち合わせをするんだ」

「くくく、うなずいてる、うなずいてる」

「そうだよ、春美の病気もきっと直してくれるよね?」

 そう言って壁のほうをふりむき、また、春美のほうを見ると、よどんだ顔のした春美は、

「消えちゃったよ、無理なんだよ、もう寝る」そう言って布団を頭からかぶった。

 無理、何を言ってるのだ。かぶった布団の頭のあたりに問いかけようとすると、

「ねえ」布団の中から春美が義明に問いかける。

「え、なに?」

「名前は何て言うの?」

 布団の中から春美が聞いてきた。義明があのドームからの帰り道で考えていたストーリーは、タヌキが魔力を使って小さい女の子が大人になるまで応援をし、その子がめでたく結婚して幸せになるのを見届けて消える、というもので、春美に聞かせる話としてはこれまでにない長編だった。ドームからの長い帰り道が義明に考える時間を与えていた。それぞれのタヌキには特徴があり、名前もある。

 たまたま、春美が言った5匹という頭数と合致していたのは偶然として、わからないことが起きるとテーブルを出して5匹で話し合って解決することは、昨日義明が職場で見たと言って語ったことを引用しているのだろう。

少しずつでもふたりのタヌキ像に共通点が出てくると、共通のふたりだけの物語ができてくる。良い方向へ向かっているかもしれないと義明は感じた。


「ねえ、そこで先頭に立ってこっちを見ているあの子は、リーダーなの?さっきのテーブルはどこいっちゃったの?話し合いのときだけ出てくるの?」

 春美が布団の隙間から顔と右手を出して問いかけた。春美が泣き止み少し声に明るさが出てきた。妄想でも空想でもなんでもいい、現実逃避かもしれないが春美をとにかく元気にしたかったので、これまで考えていたタヌキ像を春美と共有することにした。

「うん、そうだね、リーダーというより長男なんだ」

「ふーん、みんな兄弟なんだね、それで名前はなんていうの、君しゃべれるの?」

「ああ、その子は」義明も春美が見ているほうを向き、

「その子は、エゾティっていうんだ」

「エゾティ?エゾタヌキでエゾティなの?どんな字?」

「エゾはカタカナで、ティはアルファベットで小文字のtだよ」

「え、なんで小文字?」

「まだ未熟者だからだよ。人間の言葉を勉強しているけど、まだダダしか言えないんだ。『だだだだだだだ、たぬうきっ』ってね。立派なタヌキになれるよう毎日勉強しているんだよ」

「ダダダ?」

「そう、人間の言葉をあやつって呪文を唱えられるようになったら小文字のtは大文字のTにしてもらえるんだって」

「ふーん、昇格の制度でもあるの」

「そう、タヌキの先生がいるんだよ」

「先生の名前は?」

「エゾティ」

「同じじゃない?」

「いや、先生は漢字で蝦夷、亭主の亭で蝦夷亭だよ」

「そうなんだぁ、タヌキの学校があるんだね。おいエゾt、君はまだ未熟者なの?」

 そう春美は壁の方に問いかけ、まるで返事が返ってきたかのようにうなずくと、

「そうなの、まだ修行中かあ、ふーん、ところできみはどうしでダダしか言わないの、え、大王様に似てるから?何それ?」


 一瞬義明は氷ついた。まさか、どうして。長男のエゾtは春美に似てダダをこねるから、「ダダダ」としか言わない、そして、エゾtは主人公の女の子のことを「タヌキの大王」だと信じている、そう描いていた話のくだりはあったが、まさか、春美は春美が幻想のように見てダダ会話をしているタヌキがダダ語で「大王」と言ったと言っているのか。

「まさか」そう義明がつぶやくと、

「あれ、また消えちゃったよ、義明は見えていたの、見えていなかったの?」

 ためらった。なんといえばいいか。

「もう疲れた、寝るね。大王って何だろうね。また出てきたら聞いてみようっと」春美はうつぶせになり顔を向こうに向けてその夜の会話は終わった。


 タヌキならぬキツネにつままれたようだった。春美がタヌキの幻を見て、幻と会話をしていたのは間違いないと思った。熱のせいでぼーっとしていて、以前義明が春美にしたかもしれない話を思い出しただけのことだろう。もう少し調子を合わせ元気づけるべきであったかもしれない。

「見えていたの、見えていなかったの、か、そうだな」

 見えていると信じなければ消える、というか。見えていないと思ったら、うつつから覚めてしまうのかもしれない。見えていないような義明の気配を感じた春美が覚めてしまったのだろう。この話はもう、これっきりにしたほうがいいかもしれない。義明はそう思った。

「それにしても」

 どうして大王というワードが出てきたのか、自分のこれまでの春美との会話では大王などという言葉を発した覚えはないが、あるいは発したことがあったのか。

「少し疲れているのかな」苦笑いし、今日のことは忘れようとするかのように義明は寝室の明かりをけし、寝床についた。窓の月は西に傾きはじめていた。



 同じ月を洞窟の入り口でシーマが見ていた。オジロウが声をかけた。

「目が覚めたのか」

「ああ、オジロウ、感じたか」

 オジロウはやや渋い顔をして、

「ああ、かすかに、だがいつもの気のせいだろう」

「そうだな、だが今までにない何かだと思わなかったか?小さいが希望の灯かもしれない。いずれにしても待つしかない」

 洞窟の中ではろうそくの炎がゆらめいていた。二体の精霊はあの大戦後、秘境と呼ばれるシレトコで傷をいやしながら時を待っていた。



 翌朝、春美はふつうに起き上がり、義明と一緒に朝食をとり、掃除や洗濯を義明とふたりでこなした。春美はたまにしんどそうな顔をしてみせるが義明には大事ないように見えた。

 義明は休日だったので春美を病院へ連れていこうと思っていたが、春美はがんとして聞き入れなかった。仕方なく病院へ行くことはやめにして、天気もよいのでドライブに行くかと誘ったが「今日は家にいたい」と言って、いつもより念入りの掃除、というより模様替えをしはじめていた。タヌキの居場所をつくるというのだ。

「昨日はきゅうくつそうだったから」

 と、寝室の済のほうにあった家具を力任せに寄せて、タヌキが5匹でくつろげそうなスペースを作った。居間では食卓テーブルの横に置いてあったポータブルのテレビを食器棚の横へ移し、タヌキが5匹席に着けそうなイスの配置を考えている。庭を向いていたソファはキッチンの方へ向きを変え、キッチンから食卓テーブル、ソファまで皆の顔が見える空間にしている。

 義明はなんとなくせっせと楽しそうにして見せてくれる春美の顔を見て、そんなタヌキごっこもいいか、と思い、春美の想像力についていくことにした。タヌキが春美の作業を手伝う様を想像してみたりもした。


「ねえねえ、いつもくっついているその2匹は名前、なんていうの?」

「え、ああ」

 また少し意表を突かれてドキッとした。義明が空想していた5匹のうち2匹はまさにいつも離れず一緒にいる想定だったのだ。平静を装いつつ答えた。

「うん、エゾリンとタヌリンだよ。エゾリンが女の子で、タヌリンが男の子」

「へえ、エゾリンと、タヌリン、かあ、うふふ、なんか照れて、もじもじしているよ。ふたりともとっても優しいの。お手伝いをしようとしてくれるの。でもうまく物に触れないみたい。未熟者だからかなぁ」

 そう言って春美は人差し指でそのタヌリン、エゾリンの鼻の頭を突っつくしぐさをする。

「エゾリンはとっても優しくてしっかりもののようね。でもいつもタヌリンがそばで支えているって感じなのかな、偉いね」

 そう、そのとおり。義明はそう思った。敵対するタヌキや、他の動物や人間との争いをやめさせようとがんばるのがエゾリンで、そのエゾリンを守る役目をタヌリンが担っている、というような設定だった。


 偶然すぎる気がするが、これまでの話の中でそのようなタヌキ像になるのは必然なのか。やはり似た者夫婦だからなのか。ただ、イキイキとした春美の様子は嬉しかった。タヌキとの生活を春美と一緒に描くことにしよう。共通の話題がひとつできたということだ。いい家族ができそうだ。そう義明は思った。

 空想の世界、他人が見たら間違いなく変に思うだろう。けれども夫婦ふたりでひとつの物語をつくるのは悪くない、きっと楽しい。


「じゃあねぇ」そう言って春美が足元を見て、

「この子は、名前は何、とっても甘えん坊で、昨日も夜中じゅうじゃれてきたの。女の子でしょう。あ、本が読みたいみたい」

 そう言って春美は書棚から義明がクリスマスにプレゼントしてくれた絵本を取り出してラグマットの上に置くと、

「わかる?そうか、やっぱり触れないみたいだね。あ、エゾtが読んできかせるの、偉いね。」

 その子はね、義明もその絵本の方を見て、

「ポンちゃんだよ。言葉や頭の中で描いたものを空中に浮かべて実現する魔法を覚えようとしているんだよ」

「へえ、ポンちゃんすごいね。じゃあ、花火、って想像して花火を出したりするのかな?」

 見ている絵本はクリスマスに花火をあげるサンタのお話しだった。春美が絵本の置いてある手前あたりをみつめ、

「うんうん言ってる。でもね、ポンちゃんもエゾtも本がさかさまだよ。」

 そう言って絵本を180度まわし、2匹に「ここから縦に読んでいくんだよ」と、そこにいるのであろう2匹に話しかけている。そうかと思うと、

「じゃあ」

 春美が今度は窓辺のほうを見て、

「あそこで何となく落ち着かない子の名前は何?外を見張っているのかなぁ。でもあの子もとても人なつっこいよ。ポンちゃんより下の子?」


 義明は少し薄気味の悪ささえ感じていた。どうして、自分の空想した通りのタヌキ像なのだ。

「ねえ、この子男の子?」

「ああ、タヌタヌだね。男の子で末っ子だよ」

 そう言いながらも戸惑う。自分は昨夜無意識にどんなタヌキかの話までしていただろうか。春美はタヌキ5匹とも、義明が想像していたイメージに近いタヌキ像を描いている。タヌタヌは冒険心が強くて警戒心も強い。いつもみんなを守ろうと油断がなく、そのため落ち着きがないようにも見える。

「ふうん、タヌタヌは窓から外を見て何か警戒しているみたいだね。悪いタヌキさんでもいるの?それとも、義明が何か悪い空気を連れてきたとか?」


 春美は風水や占いに凝っていた時期があった。自分の病気も悪い『気』のせいかと思いながら、盛り塩をしたり、鏡を凶方位に置いたり、カーテンの色を変えたり。 

 その5匹のタヌキに関しては春美にとっては良い空気のようだ。義明は、あの場から悪い空気を一緒に連れてきていない、と言いきる自信はない。悪い空気と春美に言われ、先日の重々しいドームの感覚を思い出していた。あの廃墟のまわりによい運気が漂っていたとは思えない。それと「悪いタヌキさん」が登場するという点でも義明のたてたストーリーに沿い、的を得た春美の言葉だった。

 義明は5匹のタヌキと敵対、というか、5匹のタヌキとのバランスを考え、悪役のタヌキを物語に設定していた。イタズラ好きなそのタヌキはときどき現れては食器を壊したり、物を隠したりして主人公の女の子を困らせるのだ。義明はちょっと真顔で、

「そうなんだ、悪さをするタヌキがいて、ね」そう言いかけると、パリン、春美がテーブルに置こうとした茶碗がすべって床に落ちて割れた。春美があぜんとしてドアの向こうに見える隣室の窓を見た。


「びっくり、義明も見た、タヌちゃんたちってシーシーシーって声で相手を威嚇(いかく)するんだね。もう、悪タヌキの仕業で茶碗が割れちゃったよ」

 と、茶碗のかけらと隣室を交互に見ながらつぶやいた。

「でもタヌキってシーシー鳴くもんなんだ、ね」

 春美の顔が真顔になっていた。

「そうだね」

 そういう義明の複雑な表情を見て、春美の目が一層真剣になった。そうだね、現実と空想の世界がひとつに交わることを認める一言だった。

「昨日の晩からあの子たちずっといるの。空想じゃない本物だよ。ちょっと怖い、でも好き。はっきり見える。義明にも見えるでしょ?」


 うなずけなかった。認めてよいかどうか、確かに怖い、でもわるい気はしない。ふたりの足元には2匹ずつのタヌキが確かに見える。妄想のタヌキではない。確実にこの世に存在すると思えるタヌキだ。1匹は隣室から逃げた者を警戒してドア越しに立っている。足元の2匹ずつは、両手を広げ、腰を低くして隣室をにらんでいる。夫婦ふたりを守ってくれているのだ。



  こうしてタヌキたちはこの世に生まれ、この世の中

  について学びながら成長をしていくのです。



空想した生き物が現実のものとなりました。

タヌキ達との交流が始まります。

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