第四章 たぬき達の旅立ち〈前編〉 ④
夫の法要が行われる。気持ちに一区切りをつけるはるか。
たぬき達ははるかとかずみの身辺警護を固めつつ旅立ちの日を迎える。
(第四章 たぬき達の旅立ち つづき)
夏至の日、はるかのマンションにはトビが数羽はりついていた。
タヌキ達は手稲山で何回目かの修行を行う。
この日は大ダヌキ、蝦夷亭、凛、金、Bigポン、空、の5匹がそろった。
蝦夷亭はエゾtにカミナリの起こし方を伝授している。
「ふあああああ」蝦夷亭が空に両手をあげて念を発すると空が光って電撃が蝦夷亭に直撃し、ブルブルブルとふるえて倒れてしまった。倒れたまま手で「まねしてやってみるように」エゾtに指示している。
凛はエゾリンに変身の仕方を教えている。タヌキはでんぐり返って変身をする。今日は茶釜に変身する練習をする。茶釜は基本中の基本だった。お手本に凛がでんぐり返って、茶釜にはなるがシッポが出ている。茶釜はしっぽを出すのも基本だと解説する。
金はタヌリンに身体のまわりに「狸場理」を張る方法を教えている。前足を横に開き、フン、とふんばると身体を中心に透明の球ができてふわふわと浮かぶ。ふわふわと浮かんだまま、風に飛ばされていってしまった。
Bigポンはポンに正しいポンの出し方を教えている。息を吐き、息を吸って、口からポンの文字を出す。息を吸ったときにホコリを吸い込んだのか、咳き込んで、あたり一面にポンとゴッホの文字が散らばった
タヌタヌは普段は平地でスズリン、スズタンから基本的な飛び方を教わっていた。
今日は大ダヌキの空が手の平から波動を出す方法について教えている。手から出した波動の塊がふわふわ飛んでいた金に当たり、
ドッカン!
大爆発が起きて・・・、
「うわああっ」
マンションではるかは目を覚ました。
「ああ驚いた、変な夢・・・」
だいぶ熱は引いたようだ。もうお昼近い。
今朝は
「お母さんお熱は大丈夫?」「うん平気平気、行ってらっしゃい」
笑顔でかずみを送り出し、自室に戻って寝込んでいた。そしてタヌキ達が修行をしている変な夢から目覚めた。カーテンは閉めたままだった。立ち上がるとまだ頭がふらつく。カーテンを開いて、目をぱちくりさせ、それぞれに軽く会釈をしてゆっくりとカーテンを閉めた。
ベランダにびっしり10羽ほどのトビが並んでこちらを向いていた。自分が倒れたことで警備が強化されたのだろうか。安心であるが複雑な心境だ。みんなの期待に応えなければ。親族にも、タヌキ達にも、警備員たちにも。
病院に行くと「過労」と診断され「入院するほどでもないが点滴を受けるよう」勧められた。かずみが幼稚園から帰ってくる頃までには帰宅できそうだ。タヌキ達は毎日マンションに来てくれるが、このごろは以前ほどは密着していない。「修行」と言っていたが彼らも何かと忙しいのだろう。「あいつ」からの剣術の稽古も続けているようだ。
病院のベットから外を見ると外の木々にびっしりとトビやハヤブサがいる。どうしてこんなにも気にかけてくれるのだろう、ありがたいことだ、と思い外を見ていると、カラスが数羽やってきて小競り合いとなり、やがて大ゲンカになった。夢でも見ているのだろうかと思い、点滴がぽたぽた落ちているところを見て、病室にいる他の患者さんなど見て、もう一度窓を見ると、巨大なトビが一羽現れて喧嘩の仲裁をしたようだ。
大きい1羽が飛んできて病室の窓の柵につかまってこちらを見ている。はるかとそのトビがお互いに会釈をした。
点滴の間中、木々からの視線を感じていた。怪奇現象はあまり深く考えないことにしているはるかであった。考えても理解しきれない。「大王ってなんだろう」その疑問ももはや考えず、みんなが守ってくれるのは自分が大王だからだ、くらいに思うことにしている。
点滴が終って病院を出てバス停に立ち、バスが来る方向をぼんやり見ていると、30メートルほど向こう、歩道の上であの二匹が並んで立ってこちらを見ている。いつもと様子が違う。
(どうしたんだろう?)
じっと見つめていると、二匹そろって深々とおじぎをした。
「?」
バスが来た。バスの中はすいていた。一番後ろの席に座り、窓から二人を見た。まだおじぎをしている。
「和解したんだ・・・」
ホッとすると同時に安堵の涙があふれた。バスが動き出した。
見ているとまた刀を抜いてチャンバラを始めた。
「はあ・・・」
だがはるかはこの時、人が変われるように彼らも変われるのだと確信した。人はそう簡単に自分を変えることはできない。彼らもそうなのだろう。でも信じることにした。100%の悪はないのだ。魔物ではない限り。
「ひょっとして・・・」
はるかはあのビルやあの近辺の街中に憎悪を増幅させるようなマシンがあって、そのせいで片方の彼が悪者になっているのではないかと思った。大通近辺を根城にしているのなら、もうちょっと心穏やかに過ごせる場所へ移ってもらったらいいのかと思った。
「あいつも確か、公園のベンチとか地下鉄構内とか飲み屋街にいるとか言っていたなあ」
ああいう類の者は神社やお寺のほうが居場所としては望ましいように思う。
はるかの夫の法要はお寺で行われる。お寺も心穏やかに過ごせる場所とは限らない。
法要の日、はるかはかずみを伴ってお寺へ向かう。菩提寺ではあるが、墓地は市が管理する霊園にある。お寺での法要が終ったらバスや自家用車で墓地へ向かい、墓地で納骨を見届けて解散、というスケジュールになっている。
受付はお寺の事務職員が担当し、はるかは訪れる人達の相手をしていた。5匹のタヌキ達はマンションからはるかについて行ったが、寺には入らず寺の外側からはるかやかずみを見守ることにした。会長はじめ、自分達の姿を見ることができる人間が複数いるかもしれないと思っていたからだ。
寺から少し離れた場所から寺に出入りする人達を見ていた。
「だだだだ、たぬうき」あの男の人だ。
タヌキ達はこの時その人物、和政が会社の関係者であり、また、かずみにとって親族であることを知った。
寺の中に入った和政は受付を済ませ、軽くはるかと挨拶をする。法要の時間になり僧侶がお経をあげ、みなで法話を聞き、参列者のそれぞれがお骨の前で手を合わせ、別室に移動して、はるかが「本日はお集まりいただき」と堅い挨拶をして、会食となる。
はるかは病み上がりであったが、ビールをついだり、お茶を運んだり、たまにしか会わない親戚との接待で忙しい。
かずみはおとなしく座り、同年代の子たちと遊ぶこともなく、祖父や叔父、叔母のひざに坐って愛嬌をふりまくこともしない。飽きてきたのか席を立ち広間を出てお寺の中を見学して歩く。
寺の外では不穏な動きになっていた。なぜか数十羽のカラスが寺の屋根や庭木を占拠している。普通の人には見えない精霊であった。上空をトビが旋回している。トビはやはり精霊で手稲山からきたトンビの鷹雄さんの部下だった。
この不穏な動きに気付いているのは、寺から少し離れたところに待機しているタヌキ達と、和政だった。和政は広間から出て本堂の外、濡れ縁に立ちカラスやトビを見ていた。
和政はタヌキ達の気配に気づいていたようだ。お寺に入る前に入口で立ち止まってあたりを見回し気配の元を気にしていた。
タヌキ達は以前、大通公園からその男があの会社へ入るところを見ている。会社の中や外に漂う黒い影を目で追っていた男だ。そして、いまカラスやトビの姿を見る能力があることを知る。この男が何等かの形ではるかやかずみのまわりで起きていることに関わっていることを確信した。
「たぬりんたぬりんたぬりん」なんだろう、まわりに誰かいる?
タヌキ達は和政が一人ではないような気がしていた。薄く透き通っていてよくわからないがもう一人、あるいは複数の何かがうごめいているように思えた。うごめいているのは魔物ではない、精霊だろうか。
「まだ形成が不十分だが、あの男が生み出した者のようだ」
いつの間にか和尚さんがタヌキ達の横に立っていた。
「ぽんぽんぽんぽこぽこ」和尚さん、こんなところで何しているの?
「ああ、お寺の見学だ。法事と聞いてな。たまに他の寺を見ないと、お寺がどんな姿かわからなくなるからな」
和尚の出現に皆キョトンとしている。
和尚が単にお寺に興味があってタヌキ達についてきたのだとは思えないが、人からは見えないとはいえこの街中で和装に袈裟をかけているのはまだしも、足元はスニーカーである。なるほど、お寺や他の和尚はよく見て学習したほうがいいかもしれない。
それはともかく、あの男のまわりに漂うぼんやりしたものが霊気だとして、あの男はそういうものを生み出す能力があるのだろうか。
「あの男と、中で会食をしている者の何人かは霊力を持っているようだ」
法要には親族しか参列していないはず。和尚さんが言うようにこの中の何名かが黒い影に関わっているとしたら、会社やはるかのまわりで起きている怪奇現象は会社が原因、というよりは、はるかの親族が原因とみたほうがいいのだろうか。会社は同族会社なのでそう見て間違いないように思える。
「たぬたぬたぬたぬたぬたぬ」ねえ、トビやカラスは何をしにきたの。
「わからん、お前達についてきたように見えたが?」
タヌキ達はるかやかずみについてこのお寺まで来たのだが、途中妙にカラスがついてくるとは思っていた。和尚さんもついてきていたとは知らなかった。
タヌキ達と和尚は寺の前を走る道路の向こう側から寺の縁側を見ている。
「えぞりんえぞりんえぞりん」見て、かずみが出てきた。
濡れ縁へかずみが出てきた。かずみと和政の目が合う。その時、和政の背後にうごめいたものが、細かく揺れて、
「だだたぬうき」あれは誰だ?
和政のまわりでぼんやりしていた者の形が、少しはっきりしてきた。人間の形になったが全身がまだ不鮮明だ。なんとなく、和政がまるで分裂をして二重に重なって立っているように見える。和政は縁側からこちらの方、庭の方を向いているが、分裂した方のぼんやりした和政はかずみの方を向いている。
「ぽんぽんぽんぽこぽこ」刀を抜いたんじゃない?
不鮮明だが分裂してかずみを向いている者が刀を抜いて構えているように見える。
「たぬりんたぬりんりん」変タヌキが出た。
縁側の右手から悪気タヌキが現れた。そして左手から指南タヌキがすうっと、姿を現した。左手に指南タヌキ、真ん中にはかずみと和政とその「分身」、その右に悪気タヌキがいる。和政はあいかわらず立ったまま、身体は真っ直ぐ庭の方を向いている。その時、
バタバタ
かずみのすぐ目の前、縁側の欄干にカラスが一羽止まった。カラスは生身のカラスだった。かずみはカラスは恐くないようだ。じっと見つめて、手の平を出して近づこうとする。生身のカラスからは変タヌキ二体は見えていないようだ。
和政は身体の向きを変えず、顔と視線はななめ右下のかずみとカラスへ移した。じっとかずみとカラスを見ている。
変タヌキはどこを向いているのか?二体とも和政の影をにらんでいるように見える。悪気タヌキがすっと刀を抜いた、その時、
カアカアカアカア、
一斉にあたりのカラスが飛び出してきて、悪気タヌキに襲い掛かった。悪気タヌキはカラスをけちらそうとするが、あまりの数に振り払えず、縁側に倒れた。和政のそばにいた実態のわからない者はフッと姿を消した。
生身のカラスは気配を感じたのか、何が起きたのか、とあたりをきょろきょろ見ている。悪気タヌキは立ち上がり、なおも攻撃をしかけてくるカラス達を迎え撃とうとするが、
「行け!」
和政が変タヌキ二体に言い放ったように見えた。悪気タヌキは、かずみのほうを向きながら後ずさりし、すうっと向こうのほうへ消えて行った。指南タヌキはしばらく和政を見ていたが、その場で姿を消した。
「おじさん、誰かいるの」
「いや、誰もいないよ。かずみちゃんがカラスに突っつかれたら大変だから、カラスにもうおうちへお帰り、って言ったんだよ」
さきほどの生身のカラスはいつのまにかいなくなっている。
「なあんだ、カラスは私を突っついたりしないよ」
そう言ってかずみは和政の頭から足の先までを見て、
「おじさんだあれ」
「ああ、お母さんの従兄妹でかずみちゃんのおじさんだよ」
「ふうん」
「前に一緒に動物園に行ったんだけど覚えているかな?」
「うーん、わからない」
「そうか」
そう言って和政はかずみを抱き上げ、おでことおでこをくっつけて、
「おお、重たい、大きくなったなあ」
そういうとかずみを床におろし、しゃがんでかずみの視線で頭をなでで、
「もう中に入ろう。そろそろお墓に行く時間だよ」
「うんわかった」
そう言って、かずみは寺の中へ入っていく。
立ち上がって和政は寺の入口あたりを見る。かずみに危険が迫ったと思ったタヌキ達が道路を渡り寺の入口あたりまで駆けつけていたのだ。和政はタヌキ達を見ているように見える。カラスの精霊はおおかたいなくなり、トビが数羽と大きなカラスが1羽のみ残っている。
大きなカラス1羽は手稲山に現れた黒雄だった。タヌキ達が黒雄を見るのは初めてだった。黒雄は寺の方へスーッと飛んでいく。
「俺の姿が見えるだろう?」
和政の前、欄干に止まって和政に話しかけた。和政は答えない。
「今日は法要の日だから攻撃は控えたってところか。野良のカラスが来たのは俺たちも想定外だったな。バカな部下のカラス共は刀を持ったやつが野良カラスを襲うんだと勘違いして飛び掛かった。さわがせて悪かったな」
和政は聞こえているのか、聞こえていないのか、じっと庭を入口あたりを見ている。
「ちょっと挨拶にきたのさ、なあ、よかったら俺たちと組まないか?」
トビ達がざわついている。和政は何もなかったように寺の中へ戻って行った。
「ふん」
黒雄はバタバタと羽を震わせ門の方を少し見ると、西の空へ飛んでいった。
和尚さんもふっと消えていなくなり、お寺の入口、門のあたりには5匹が残った。
野生のカラスが欄干に止まらなかったら変タヌキ達の切り合いになっていたのだろうか。和政という男には和尚さんや自分達、そして、精霊のカラスや変タヌキは見えていたのだろうか。
「たぬりんたぬりんたぬりんたぬりん」あの黒雄ってカラスが生身のカラスを呼んだんじゃないかな。
タヌリンがそう言う。
「ぽんぽんぽこぽん」え、何のために?
タヌリンにもそこはわからなかった。ただ、生身のカラスがいたおかげて争いは回避できた。謎が残る。和政という男は何を考えているのか、カラスの黒雄はなぜこの寺に来たのか。
寺での会食が終わり、親族一同はバスに乗って墓地へと向かう。夫の健志の両親は健志が若くして他界していた。健志の父親もあの建設会社に勤めていた。
「いちどみんなお祓いしたほうがいいんじゃないかしら」
誰かがつぶやく。健志の父も健志も、あの会社に勤めていた同族の幹部が次々に亡くなっている。和政の両親、妻子もだ。みな病気ではなく事故が原因だった。
僧侶がお経をとなえる。お骨を持ったはるかが涙を浮かべながら骨を中へ投じた。親族に断り、かずみの描いた絵も墓の中に入れる。
「かずみ、お父さんに元気でね、って言ってあげて」
手を合わせるかずみ。数名すすりなく声を出している。ひとりずつ墓の前へ進み焼香をし、順に解散となる。最後に残ったのは祖父の崇と和政だった。和政が涙を浮かべてしばらくの間手を合わせていた。はるかには何も言葉をかけず、そのままひとりで墓地を出て行く。崇が言った。
「健志を守ってやれなかった。悔やまれる。だが失ったものを見ていても前へ進めない。これからは」
崇はかずみ、はるかの目を見、
「お前達の時代だ」
涙をうかべながら崇は墓に一礼をし、墓地をあとにした。
はるかの夫、健志の死は誰もが悼んでいた。あの会長も、黒い影が見えるあの男、和政も。法要はしめやかに行われ、何事もなくこの日は終わった、タヌキ達はそう思っていた。
休日であるが和政は会社へ行き、次に責任を負う仕事の準備を早々に始めようと思っていた。通用口からビルの中へ入り、エレベーターで5階まであがりオフィスに入ると自室の前でビルメンテナンス会社の作業員数名が立ち話をしている。
「失礼」
と言って和政が中へ入ろうとすると、
「ああ、ちょうどよいところへ、お留守中に少し困ったことが起きまして」
「困ったこと?」
「はい、清掃作業員が中を清掃中に、窓を開けたところカラスが飛び込んできまして、中を少し荒らして行ったんです」
和政は口をやや半開きにして作業員の話を聞き終わる前に中へ入り、本棚の前で立ち止まって茫然としている。
「部屋の中であばれた際に、空間センサーを壊したらしく・・・」
「もういい」
「あの・・・」
「もういい、出て行ってくれ!」
何羽のカラスが入ってあばれたのだろう、羽が散乱している上に、スプリンクラーの誤作動で床やデスクが水浸しになっている。書棚の本が数冊床に落ちている。それはいいとして、
「ない」
書棚に置いてあった「置物」がなくなっていた。
「なんということだ」
書棚に置いてあった「置物」は亡き父から譲り受けたもので、形見として大切にしていたものだった。翌日、和政はビルメンテナンスの清掃作業員、保安担当、警備員、オフィスのひとりひとりに尋問をしてその置物の消息を探ったが手がかりは得られなかった。和政の中で憎悪の念が増幅していった。感情のゆがみをおさえきれなくなるともうひとりの自分を呼び出し静めた。
「まあ、そういきりたつなよ」
「あれがなければ逆らう連中をおさえられない」
「ふん、あんなものもう必要ない。この俺の中に同じものがあるだろう」
「全て順調だったのに、やつらが現れてからだ、やつらさえいなければ」
「まあ、焦るな、先は長い、どうだ少し旅にでも出たら」
「旅だと、そんなのんきなことを、俺には仕事もあるんだ」
「やつらも旅に出るようだぞ、様子を探ってみては?」
和政はひとり言が多くなった。やがてそれはひとり言ではなくなる。傍目からはひとり言ではあるが、もうひとりの自分が現実世界に生きるようになると、それはひとり言ではない。もうひとりの自分は悪気に満ちた憎悪の化身である。
7月にはいった。タヌキ達ははるかにしばらくの間旅に出ると告げる。少し寂しげな表情のはるかに、
「だだだだだだたぬうき」護衛はいつも通りつくから安心して。
という。夫の祭壇がなくなりぽっかりと穴があいたようだった。このごろは夫の生まれ変わりのような「あいつら」も出現しなくなっていた。でもタヌキ達が毎日のように来てくれる。朝目が覚めてカーテンを開けてベランダを見るのが楽しみになっている。タヌキ達がパフォーマンスをして気持ちを癒してくれる、それらがはるかにとって毎日の活力剤になっていた。
タヌキ達はかずみには触れることができない、会話もできない、でも、かずみの泣いたり笑ったりの毎日をできるかぎり前向きに明るい方へ向いていくように陰ひなた導いてくれていることをありがたく思っていた。
「えぞりんえぞりんえぞりん」夏休みの間だけだよ。早く終わったら早く帰ってくるから。
「ねえ、あなた達、どこへ旅に行くの」
「だだだだだだ、たぬうきたぬうき」修行の旅だよ。もっとパワーアップして大王様やかずみの役に立つタヌキになるんだ。
ハヤブサやトビが交代で見にくるという。それはいいのだが、タヌキ達に危険なことはないのか、無事に帰ってきてくれるのか、心配になる。出会ったときはあまり気にもしない、「ああ何かいる」くらいにしか思っていなかったはるかだが、いまは「今日は来るか」「今度はいつくるか」といつも気にかかる存在になっている。
「危険なことはないの?無茶しちゃだめだよ」
そう言って
「絶対無理しない、かならず無事に帰ってくる」ということを約束した。
目的地の岩内町、雷電海岸は札幌市から車で2時間半くらい。日帰りで行ける距離である。偶然だろうか、和政がこの地で手がけたプロジェクトは破綻しそのあとをこの夏からはるかが担当することになっていた。はるかも岩内町へ近々出向くことにしているが、タヌキ達がそこを修行の場として立ち寄ることは知らない。そしてその雷電海岸近辺がタヌキ達にとって今後の戦いにおける重要な拠点になることなどはるかは知る由もない。
出発の日
朝早く、タヌキ達はお寺で和尚さんに修行に出ることを報告する。
「ああ、心してかかれ。道中の無事を祈っておるぞ。現地についたら精霊達と仲良く過ごせ。毎日ちゃんと歯を磨くのだぞ。夜更かしをするな。風邪をひかぬようにな。忘れ物はないか」
なんだか修学旅行に行く子供を送り出す親のようだ、とふと思う。
「そうだ、エゾt」
エゾtを呼び、和尚が、
「これを持ってゆくがいい」
「だだだだ」それは?
「見てのとおり巻き物だ。お前が使う呪文がひととおり書かれておる。すぐに全てを使えるわけではない。修行を重ね、心を磨き、力を蓄え、ひとつ、またひとつと覚えてゆけ。決して焦ることはないぞ」
そう言ってエゾtに巻き物を渡す。受け取って、
ズシン、と重たい。手に持ったまま床に手をつけた。
「まあそのうち重みにも慣れる。この世の全ての精霊たち、神や仏の祈りがこめられている。生きとし生けるものの怒り、悲しみ、苦しみ、喜び、それらを受け止め、背負うことも修行と心得よ」
タヌキ達はお寺をあとにし、はるかやかずみの住むマンションへ立ち寄る。
「本当に気を付けてね、元気で帰ってきてね」
タヌリンが、
「たぬりんたぬりんたぬりん」壊れた食器を買っておいてね。
「だだだだだ、たぬうきたぬうき」かずみと一緒に買いにいったらいいよ。
「え、食器?うんわかったわ」
あの時壊した食器をずっと気にしていたのか?と思いつつ、タヌキ達を見えなくなるまで見送っていた。
「だだだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽんぽこ」「たぬたぬたぬたぬ」行ってきま~す!
カモメのカッちゃんがマンションの屋上から飛び、タヌキ達を案内する。カッちゃんは伝令の役目も務める。手稲山やお寺、そしてこのマンションへ、タヌキ達の近況を報告する。
カッちゃんに続いて石狩の浜辺をめざす。風車や発電所などの大きな建物が見えてくる。防波堤や波止場のある港から少し離れた浜辺へ来ると、アザラシが5頭、こちらを見ている。
タヌキとアザラシが対面した。アザラシがみな涙ぐんでいる。1頭が腹這いで近寄り、日本語で挨拶をする。
「初めまして。私のことわかりますか?わからないでしょうね。あなた達とは兄弟なんです」
「?」
「私の名前はアザtです」
他の4頭も波打ち際からすり寄ってきて、
「アザリンです」
「アザタンです」
「シオシオです」
「僕、ラシラシ」
一番末っ子であろうか、ラシラシはまだ小さく、コロンとしている。
「ぽんぽんぽこ」かわいい、「赤ちゃん乳首」をくわえている。つぶらな瞳がかわいい。おもわず5匹が近寄って頭をなでている。
ネーミングは義明様のノリだ。間違いなく兄弟だと思った。「こんなに近くに兄弟がいたとは」と、タヌキ達は感慨深げである。
「いえ、私達は普段はシレトコというところにおります。今日は何が何でも来なければならないような気がして、仲間に断って出てきました」
義明は道内の各所にタヌキ達と同類の子供達を配置していた。アザラシ達はたくましく成長をしていた。ただ、義明の設定ではアザラシ達は雷電海岸に居住しているはずだった。なぜ知床に移住したのかは後にわかる。
アザtが
「あのう、そのう・・・」
すこしモジモジしながら、
「お父様、大王様はどのような方でしょう。できればお会いしたいです。お元気でしたか?」
そう聞かれ、義明様も春美も亡くなったと伝えると、
「おぃおぃおぃ・・・」と皆その場で泣きくずれた。カッちゃんは義明、春美の死をまだ他の皆に伝えていなかったのだ。皆が会いたがっていることはわかっていたが、悲しむのはわかっていたので伝えることができなかった。
気を取り直し、アザラシ達は自分達の役目を果たすことにする。タヌキ達を目的の場所まで運ぶこと。タヌキ達を陰ながら支えること。
「みなさんに会えたのは嬉しいです。かけがえのない私達の兄弟です。雷電海岸までみなさんをお連れします」
アザラシの背に乗って日本海沿岸を進む。天気は上々、夏の青空が広がっている。
アザtの背にはエゾtが、アザリンの背にはエゾリンが、アザタンの背にはタヌタヌが、シオシオの背にはポンが乗る。
ラシラシはまだ赤ちゃんだったが泳ぎは一番速かった。電動式の水中スクーターを使い、浮き輪の上に仰向けに寝そべったタヌタヌをロープでひっぱる。他の4頭4匹はそれについていく。
左手に小樽港、余市、積丹半島をまわりこんで、目的の海岸線が遠くに見えてきた。
「おかしいなあ」
仲間のウミウやカモメが迎えにくるはずだった。風向きのせいだろうか。ごつごつとした岩肌の雷電海岸はもうすぐそこに見えている。
「このところ魔物が出没していて、そのせいかもしれません。大事をとってゆっくり進みます」
カッちゃんが飛んできてアザラシ達と並行しながら、
「様子が変です。ちょっと見てきます」
そう言って先に飛んでいく。
「たぬたぬたぬたぬ」よし、僕も行く。
タヌタヌが浮き上がって空高く飛び始めた、と、思ったが、なかなか前に進まない。タヌタヌは前に進んでいるつもりだったが、アザラシ達の頭上から後方へ遅れ、だんだんと遠ざかる。風向きは向かい風だった。
「この風向きですから、迎えにくる鳥達は楽にこれるはず。何かあったのかもしれません」
アザtがエゾtやまわりのタヌキ達に話す。そうしているうちに、タヌタヌの姿が豆粒ほどになっているのに気が付く。
「えぞりんえぞりんえぞりん」あれ、いなくなっちゃったよ。
あわててアザラシ5頭は引き換えす。タヌタヌはもうそろそろ降りようかと、着地地点を探している。後ろに後退しているとは思っていなかった。ちょうどよさそうな岩場をみつけ、後ろ足で着地すると、右手を空に突き上げ、左手は腰のあたりでこぶしをにぎり、両ひざを軽く曲げて、ガッツポーズを決めた。
「だだだだ」おーい、
エゾtが叫ぶ。タヌタヌは雷電海岸に到着したくらいの感覚でいたが、後ろに流されていたと知ってショックを受けていた。
カモメのカッちゃんが飛んできて、
「いい判断でした、あのまま進んでいたらサメやコウモリに襲われていたかもしれませんよ」
そういう。
アザラシ達によると、このところあたり一帯に「ある魔物化した精霊」が暴れまわっていて、治安が乱れている。ふだん見かけない動物が入り込むと生身の動物も精霊も問答無用で攻撃をすることがある、という。タヌキ達がそのエリアでアザラシに乗って移動していれば、
「もしかしたら怪しいと思われるかもしれませんね」、という。
「たぬりんたぬりんたぬりん」きっと怪しまれるね。
カッちゃんによれば、今日もその魔物化した精霊が浜辺で騒いだので、海ではサメが、陸ではコウモリが興奮しているという。
「一応、アザラシに乗ったタヌキを見たら通してください、と言いましたが、なんとなく奇妙な顔をしていましたから」という。
確かに、アザラシに乗るタヌキなど、自然界でも精霊達の世界でも非常識きわまりないだろう。ましてアザラシの1匹は電動スクーターで浮輪をけん引し、その浮輪の上に空飛ぶタヌキが乗っているなど・・・。
一旦、アザラシから降りて、海沿いに陸路を進むことにした。
アザラシは
「私達は海水浴場でキャンプをしていますから、何か御用のときはいつでもお声をかけてください」
離れていくアザラシ達。
「今日は何を食べるの?」
末っ子のラシラシがお兄ちゃん達に聞くと、アザtが、
「そうだな、海鮮丼にしようか」
「やったー」
「ラシラシ、海藻もちゃんと食べるんだぞ」
「イカダにテントを張って寝るのはやめようね。」
「ああ、キャンプ場にはトイレも炊事場もあって便利だ」
どうやらテントを張って流されたことかあるらしい。アザラシがトイレや炊事場を使う姿は想像もつかないが。なんだか楽しそうだ。北海道の夏は短い。そういえばもう夏休みだ。はるかとかずみはどうしているだろうか。ふとタヌキ達は遠い空の下にいる親子に想いを馳せるのだった。
*
真夏の冒険がはじまります。
でも、留守中のはるかとかずみの身辺は大丈夫でしょうか?