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しあわせのたぬき  作者: 月美てる猫
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第四章 たぬき達の旅立ち〈前編〉 ③

タヌキ達の成長の封印が解かれる時がきました。

タヌキ達の成長にともなって様々な出会いが待っています。



(第四章 たぬき達の旅立ち つづき)



 夜明け前から手稲山をめざす。マンションはリスリン、リスタン、大ダヌキが警護に当たる。以前は義明様の車で中腹まで上がってもらい、ゴンドラで山頂まで登ったが、今日は歩いて山頂まであがる。

 登山道をゆくにつれて空が明るくなり、中腹付近で朝日に照らされた札幌市、石狩市の街並みを見た。以前、義明様、春美と暮らしていたあたりを5匹で並んで見つめた。今日の日をどれほど(うれ)いまた楽しみにしていてくれたことだろう。横でカモメのカッちゃんが涙ぐんでいる。


 出発前に和尚さんがそれぞれに着衣を渡してくれた。和装で短めの上着に(はかま)草履(ぞうり)の姿である。袴のすそは(はん)を巻き、その上から足袋(たび)を履いた。忍者か、または大昔の農民が着たような装束(しょうぞく)であるが、動きやすく、空を飛ぶのにもよいだろう。上着には忍者の着衣同様、ポケットがたくさんついている。何か大事なものを隠したり、持ち歩くのによさそうだ。


 登山道の斜面が急になっていく。上空をカモメのカッちゃんが飛んでいる。山頂はもう目の前だ。あの時は冬のはじめだった。いまはそこら中に気の早い夏草が茂っている。木々の梢は新緑につつまれ朝の光を眩しそうに受け止めている。

 山頂まで来ると日も登り、朝靄(あさもや)を散らしながら、街は今日の営みを精力的にこなし始めているようだ。カッちゃんの案内で修行の場まで進む。山頂から少し下がり、けもの道のような細い道を進むと急に開けた場所に出る。崖を前に大きな岩が並んでいる。


「よく来たな、待っていたぞ」

 太いよく通る声が背後から聞こえた。崖を背に振り向くと高い木の枝にとても大きなトビがとまってこちらを見ている。普通のトビの二倍もあろうか。その横にハヤブサのぴょんがいる。そして次々に鳥達が姿を現した。トビにハヤブサ、ツバメ、キジバト、フクロウ、アカゲラ、カッコウ、みな穏やかで厳しい目線をタヌキ達に注いでいる。トビとハヤブサが多い。トビとハヤブサで20羽はいるだろうか。大きなトビが、

「私はトンビの鷹雄(たかお)だ。ハヤブサのぴょんは知っているな。私とぴょんでこの鳥訓練場を取り仕切っている」

 ぴょんがタヌキ達を見ながらうなずいている。

「空を飛びたいタヌキは前に出よ」

 タヌタヌが前に出た。

「よし、タヌタヌよ、心構えはよいか」

「たぬたぬたぬ」はい、先生。

「よし、ではその岩の上にあがるがよい」

 義明様と春美と以前来た修行の場、あのとき上った岩の上に立つ。あの時はパワーもないのに気持を焦らせ、みんなに迷惑をかけた。今は飛ぶことを恐いと思えるようになった。そして飛ぶことの意味を胸に勇気を出して心で飛ぶ。人の役に立ち、みんなに元気を与えるために、飛ぶんだ。愛すべき、守るべき人をみつけた。あの子を脅かす全てのものから僕達が守り抜く、そのために飛ぶんだ。


「下には干し草が重ねてある。飛び降りてもケガをすることはない。ただ甘えるな。心から飛びたいと願い、自分の身体と干し草の間に念を込めるのだ」

 傷を(いや)す理屈と同じだ。思い描くことを身体の下の方へ念じる。

 眼下は切り立った絶壁。遠くに山々が果てしなく続く。空は青く澄みきっている。


 この日をどれだけ待ち望んだか。心はあの青く澄んだ空と同じに澄み渡っている。

 義明様の、いつかの声が聞こえる。


(勇気を出して一歩踏み出すんだ、そこから新しい未来がひらける)


 干し草の方へ身体を傾け、一歩踏み出す。

 鷹雄さん、ぴょん、カッちゃん、エゾt、エゾリン、タヌリン、ポン、集まった鳥達がかたずをのんで見守る。

義明様、春美、見ていて、

 タヌタヌの身体は干し草の上に落ちず、タヌタヌが立っていた岩の高さで身体が浮かんだ。そのままゆっくりと前に進む。干し草を通り越し、眼下の崖下には緑の大地が広がる。花畑になって、・・・ひばりが飛んだような気がした。


義明様、春美、見て、飛んだよ。

 

 鷹雄、ぴょん、みんなが涙を浮かべて見守る。

 タヌタヌは上昇気流に乗り、ゆっくりと円を描いて、もとの岩に戻る。タヌタヌは右手を空に突き上げ、左手は腰のあたりでこぶしをにぎり、両ひざを軽く曲げて、ガッツポーズを決めた。

 鳥達から拍手が起こり、やんやの声援が起きた。


 鷹雄さんから、

「よくやったぞタヌタヌ。見事な飛行だった。大王様、義明様も喜んでおられるだろう。だがまだまだ、これから修行を積まねば、まっすぐ飛ぶことも、障害物をよけて飛ぶことも、まだまだできるレベルではない。しばらくの間は平地で訓練を重ねよ。この訓練場にも時々顔を出せ。お前のコーチを紹介しよう」

「ぴーよぴーよ」「ぴーよぴーよ」

「たぬたぬたぬたぬ」「だだだだだだ」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽこぽこ」あ、スズリン、スズタン!

「先ずはスズリン、スズタンから基本的な飛び方を学ぶのだ」

「たぬたぬたぬたぬ、たぬたぬたぬ」わかりました鷹雄先生、よろしくね、スズリン、スズタン。


 タヌキ達が一段成長をする鍵は末っ子のタヌタヌが持っていた。タヌキ達は成長の扉を開き更なる成長を目指して冒険の旅に出る。タヌキ達は偉大な一歩を踏んだ。ここからタヌキ達の魔力は急激に高まってゆく。


 鷹雄が言う。

「タヌキ達よ、地上とここを何度も往復しながらパワーを高めるのだ。そして夏至(げし)を過ぎ7月の新月(しんげつ)を過ぎたら次の修行の場を目指すがよい」

 ぴょんが言う

「次の修行の場もカモメのカッちゃんが案内する。カッちゃん、よろしく頼むぞ」

 カッちゃんがハンカチで目頭を押さえながらうなずく。

「だだだだだたぬうき」次の修行の場はどこですか?

敷島内(しきしまない)雷電(らいでん)海岸だ」

 

 タヌキ達は一旦手稲山を下山する。タヌタヌはしばらくの間、平地で飛行の訓練を続ける。手稲山には昼夜問わず何度も往復する。

 下山しながらタヌタヌの上着の背に何か文字が浮かんでいるのをタヌキ達が見た。


「勇」という文字が浮かび白く光った。

 

 タヌキ達の下山を鳥達が見送っていると、


フッ、フッ、と、その鳥達がたたずむ木々の隙間を埋めるようにおびただしい数のカラスが姿を現した。鷹雄さんがつぶやく、

「来たな、黒雄(くろお)

「ああ、そういう役回りだからな」

 ひときわ大きなカラス、黒雄がそう、吐き捨てるように言い、鷹雄さんを(にら)み返した。

「黒雄、共にタヌキ達を見守るのだぞ」

 そう鷹雄さんが言うが、

「何を言う、俺たちは好きなように動く。指図(さしず)は無用だ」

「なんだと」

 義明はトビやハヤブサをタヌキ達の協力者として手稲山に配置したが、同時に、トビやハヤブサの手助けをするカラスを配置する空想をしていた。また、タヌキ5匹のバランスを考えて悪タヌキを生み出したのと同様、カラスが鳥達の中で悪役を請け負うことを期待していた。

 自然界においてカラスはなくてはならない生き物でありそれはどんな動物も精霊も認めるところである。しかし人間達からのカラスへの視線は必ずしも温かいものではない。()み嫌われがちな存在である。だから黒雄達は人間的な尺度で悪役にされることを潔しとはしなかった。黒雄達としては不本意な役回りであった。

 義明が亡きいま、カラス達は自らの意思を持って想定外の行動を起こす。後に鷹雄達をふりまわすような全く予期しない事態に発展することになるのだ。

 

 下山をしながらさきほどの感覚を忘れないようにと、時々タヌタヌは歩きながら地面すれすれに飛んでみる。浮き上がるが少しずつ沈み、手足を伸ばしたまま地面に着地する。浮き上がってもなかなか進まない。歩いた方が早い。タヌキだからであろうか、すいすいと飛べるようになるにはそれなりの時間を要しそうだ。

 


 かずみのマンションへ立ち寄ることにした。リスリン、リスタンが出迎えて、祝福してくれた。リスリン、リスタンから見てもタヌキ達が魔力を上げ、ひとまわり強くなったように思えた。

 インターホンを押すと、ドアが開いてはるかが浮かない顔をしている。はるかが言うには、

「かずみが幼稚園に行きたくないって言うの」

 という。新しい友達ができたばかりだったのに何が原因か、はるかにもわからないようだ。

 

 はるかはタヌキ達にかずみの心を読んで欲しいとは頼まなかった。タヌキ達のチカラや手助けに甘えることなく、自分のチカラでかずみを笑顔にしたかった。


 ひかるちゃんとの件ではタヌキ達がかずみの心や、はるかが何を言うのかを予測して最善の結果を導き出してくれた。特に嬉しかったのは、「かずみはそんな子じゃない」と先生に言おうとした、自分のかずみを信じる気持ちを読んでくれたことと、「かずみはそんな子じゃない」とかずみのことを信じてくれたタヌキ達の心。母親としてとても感激する出来事だった。

 だが、タヌキ達に頼めばなんとかしてくれる、というのは母親として無責任だと思う。子育ての本を読んだり、経験者の話を聞いたり、マニュアルめいたものを使うことは確率のよい手段だとは思う。だが、かずみはかずみであり、右へ(なら)えではなく、かずみに一番適する処方箋(しょほうせん)を母親である自分が出したかった。

 

「かずみが幼稚園に行きたくない理由」は、実はタヌキ達にもよくわからなかった。幼稚園で起きた事件では奇跡的といってよいほどいいアドバイスをはるかに提示できた。まぐれと言ってもよいだろう。タヌキ達はいつもいつでも人の心を正しく読めるわけではない。人の心は本当に難しい。

 はるかが自分達に何か答えを求めてくるようなそぶりを見せていないことから、少し様子を見ることにし、

「だだだだだ、たぬうき」明日は幼稚園に一緒に行って様子をみるね。

 そうはるかに言った。

 はるかも「幼稚園へ行きたくない」というはるかを叱ることはやめ、一晩様子を見ることにした。

 

 翌朝いつもの朝と同じように、はるかは一緒に食事をし、着替えをし、エレベーターで一緒に降りてマンションを出て、幼稚園バスのかずみに手を振り、バスとバスをおいかけるタヌキ達を見送って、はるかは路線バスのバス停へ向かう。


 会社はいつも通りだ。生身のクマやしゃべるイヌが訪れたことなどは誰も知るよしもなく、デスクワークなり、電話なり、外出してきます、と出ていく社員なりがめいめいに交錯している。はるかもその中に混じり、日常の業務からこなす。

 この会社に悪気や魔物がうごめいているなどとは感じない。実際に何か自分がわるさをされた、という感覚もない。黒い影のおかげで仕事が手につかないとか、悩ましくてノイローゼになりそう、などということもない。わんこちゃんやくまちゃんが言うように、何かが動き出すかどうかの「出方」を待つことにする。

 

「決済書類ができたら、5階に届けて押印してもらってきてくれる?」

 上司からの指示があり、先週のうちに作ってあった取引先との覚書に申請書をつけて5階の開発部へと向かう。


 開発部は会社の中でもはるかのいる営業部と並び、花形と言われる部署である。経営中枢が描くビジョンに基づいて、適する場所に適する建築物を建てるプランを描く。地元の経済状況や地形や地質の調査、行政との折衝(せっしょう)、地主との交渉、下請けへの仕事の割り当てなど、プロジェクトの土台をつくりあげるセクションである。

 会長である祖父が「同族経営はやめた」と言っていたが、はるかの他に何名かは重要セクションの一角をまかされた同族がいる。はるかと比較的年齢が近い従兄妹(いとこ)がこの開発部にいた。

「久しぶりですね、元気でしたか?」

「あら、和政(かずまさ)さん、お久しぶりです。あの物件、順調そうね」

 少し宙を見つめ、気のない返事をする。

「ああ、まあ」

 和政と呼んだこの男ははるかよりも5年ほど先輩にあたる。はるかはこの和政をつねに目標とし、意識しながら仕事をしてきた。若くして管理職となり、いずれ会社を背負って立つ逸材と噂されている。ただ、土地の取得にあたっては地上げによる地域住民とのもめごとや、行政とのトラブルなどを抱えることがあり、下請けやオーナーへの値下げ交渉中の態度など、やや強引なやり方には必ずしも全社員が賛同するわけではなく、全ての社員から慕われる管理者ではなかった。


「ああ、あの念書(ねんしょ)ですね」

 はるかが持ってきた書類を受け取ると、こちらへと自室へ案内する。よく整理された事務所には応接用のソファ、壁一面の書棚には隙間なく専門書が並び、デスク上には電話機のみが置かれている。

「いつも感心するわ、いつもピカピカの事務所ね」

「ふふ、そうですか」

 いとこ同士であるが、和政ははるかに対してはいつも敬語を使う。デスクの引出しの鍵を開き、引出しをあけて決済用の判を取り出し、慣れた手つきで書類に押印する。

「内容はあらかじめ写しを見て確かめてありました。押印しましたのでこの原本は本部長へ提示してください。発注は次の役員会後だと思いますが、スケジュールはあとで本部長まで届けますので」

 押印した書類をはるかに渡し、和政ははるかを見て、

「おちつきましたか。健志(たけし)さんがいなくなってさびしいですね」

 和政ははるかの夫、健志の葬儀には参列しなかった。同じ会社の社員であったが、会うのは久しぶりだった。

「はい、なんとか。かずみがいるし、仕事もあるから落ち込んでもいられません」

 そう言って、はるかはにっこり笑った。

「たくましいですね、何か必要なことがありましたら、仕事でもなんでも、声をかけてください」

 内線電話が鳴り、和政は「ちょっと失礼」と言って事務室を出る。

 はるかはなんとなく室内をながめ、事務所を出ようとして、

「なんだろう」

 少しの寒気を覚えた。書棚の方を見る、本と本の間に何か置物が飾られている。入社したての新人の頃から、潔癖症(けっぺきしょう)とも思えるきれいずきで、余計なものはデスクにも事務所にも置かない彼だけに、はるかには違和感をもって見えた。

 和政の個室に長居するのも失礼と思い、その置物を気にしながら部屋を出る。

 和政はオフィスの中央付近で何か社員と立ち話をしている。和政をちらりと見て5階のオフィスを出る。オフィスを出るはるかを和政はじっと見ていた。


 はるかは元の職場に戻ると、本部長に5階で押印を受けてきました、と、書類を渡す。

「ああ、ありがとう。ところで、岩内(いわない)の件は正式にあなたに任せることになったから」

「ええっ、あれは和政さんが手がけていたのでは?」

「うん、そうだけどね、会長が急に、あれは一昨日の夜だよ。担当をあなたにと、全役員に連絡したんだよ」

「和政さん、いま何も言っていませんでしたよ。順調そうですねって言ったら、まあ、とか言って」

 本部長は少し意外な顔をし、

「そうなの?今朝は開発部の役員に喰ってかかって大変だったんだよ。不承不承(ふしょうぶしょう)承諾(しょうだく)して、代わりに石狩市の養護施設や富良野(ふらの)のゴルフ場跡地を自分に、って言い出してね、石狩市は会長が却下して、富良野を今度手がけるようだね」


 岩内町敷島内の雷電海岸付近は新幹線ルートからもそれていて、そこに大型施設など誰もが反対していたのだが、和政は妙にそこに執着していて、行政との調整をとりまとめて今年中にも施設の着工に移ろうか、という段階まできていた。

 石狩市の施設も和政が手がけていた物件だったが、昨年の秋に和政が降ろされてはるかの役目となり、地元の調査を、とのことで近くにマンションの一室も与えられている。和政ははるかに対して心中は穏やかではないだろうと、上司は気にかけていた。

「彼、あんまり無茶しすぎだよなあ、部下もなんか(がら)の悪いのをやとっている感じだけど、まあ、はるかさんはマイペースで行こうね」

 はるかの上司である本部長も遠戚にあたる。自分のまわりは比較的おだやかな人達が多く、のびのびと仕事をさせてもらえている。どちらかといえば和政さんは孤立気味ではあるが、手がけた物件は自助努力で何がなんでも成功させる負けん気の強さがあり、和政さんの周囲はそれに合わせてなのか声の大きな荒っぽい感じの人が多い気はする。


 はるかはこのときはまだこの会社に潜む悪気(あくき)を社員に結びつけて考えることはなかった。はるかは人を見かけで判断することはない。もちろん、身内に悪気を蓄えている者がいるなどとは夢にも思わなかった。


 

 幼稚園バスから降りるかずみにつきそうように、タヌキ達が幼稚園内に入る。今日は小雨が降っているため、外でのお遊びや運動はなく、屋内でのお遊戯やお歌や図画工作が予定されているようだ。

 午前中はお絵かきをするようだ。園児それぞれの机にクレヨンと画用紙が用意され、

「今日はみんな、好きな動物の絵を描きましょう」

「はーい」

 元気のよいお返事をしている。かずみは元気がない。見守るタヌキ達は白い光を出さずとも想像ができた。かずみは父親に似て絵心がないのだ。

「みんなはどんな動物が好きかな?」

 一番前の子が手をあげて叫んだ。

「ぞうさん!」

「ぞうさん、いいね、ぞうさんはどんな動物かな?」

「うんとね、お鼻が長いの」

 2、3人の子にどんな動物が好きかを聞き、そんなやりとりをしたうえで、

「それじゃあみんな、描いてくださーい。描きたい動物がわからない人はここに写真がありますから、見にきて描いてね、それではスタート」

 みなめいめいに描いている。かずみはなかなか描こうとしない。

 タヌキ達は見守るしかなかった。かずみには触れることもできないし、話しかけることもできない。先生が気にして声をかけた。

「かずみちゃんはどんな動物が好きなの」

「・・・」

 先生は図鑑を持ち出して、

「ぞうさんとか、きりんさんとか、カバさんとか、ほら、いろいろいるでしょう?」

 かずみは動物は好きだった。親子で動物園には何度か行ったことがある。一番好きな動物は決まっていた。

「タヌキ」

 小さくつぶやいた。円山動物園に北海道に生息するエゾタヌキを展示しているコーナーがある。そこで親子のタヌキを見た。はるかが「さあ次に行こう」と促しても、父と娘はじっとその場から動かなかった。

 タヌキは顔には特徴が濃いが、身体全体はどんな姿なのかイメージがしにくい。ハリネズミとか、キリンとか、クジャクとか、とは違う。派手さはない、案外地味な動物なのだ。

「かずみちゃん、ここにほら、タヌキさんの写真があるから、これを見て描いていいよ」

 先生はかずみの机にタヌキの写真を置いて「これ見てかいてね」と言う。

 かずみはようやく絵を描き始めた。描きあがった絵は父親が以前、かずみのために描いたのと似たタッチの、つまり、いま5匹やはるかの前に出没している変タヌキに似た絵になった。

「みんな描けたかなー」

「描けた!」「できた!」「ほら見て!」

 おおかたが描き終えたであろうとみはからって、先生がそれぞれの園児に、

「みんな先生に見せてくださーい」

 というと、おおかたの園児が力作を先生のほうに向けた。かずみは画用紙を机に置いたままうつむいたままだった。

 先生はそれぞれを一枚一枚集めて、教室の掲示板に一枚一枚を貼りだした。くすくすと笑う声があがる。

「かずみちゃんのはなあに」

「変なのー」

 先生が、

「かずみちゃんのはタヌキさんだよ、よく描けているね」

「えー変だよ、タヌキはもっとかわいいよ」

 かずみの絵が一番ウケがよいものの、おおかたの評論は「けなし」である。下を向いて沈んでいるかずみを見て、ひかるちゃんが、

「かずみちゃんの絵、とても上手だよ、タヌキさんの絵、とっても上手」

 そうフォローするが、多勢に無勢である。


 かずみはお絵かきの時間が一番嫌いであった。自分でも上手ではないと思うし、他人が見ても上手ではないと評されるのだ。タヌキ達はかずみが自信を無くしていると見た。こんなときはどうすればよいのか。はるかにどうしたらよいのかを決めてもらうことにした。


 かずみは母親が仕事を終えて帰宅する時間まで幼稚園で過ごす。他の子は午後になると母親が迎えにくるなどして、ひとり、またひとり減る。今回は教室に貼りだされた絵はその日のうちに家庭へ持ち帰るのだが、掲示板の前に立ち「よく描けたね、えらい、えらい」などと自分の子の絵を評価し、更に、まだ持ち帰っていない他の子の絵をながめつつ、かずみの絵を指さして「これ面白いねえ」などと言うと、かずみは更に落ち込む。

 かずみと同様、母親が仕事に出ているひかるは幼稚園バスの最終便が出るまで居残りとなり、かずみと二人で積み木をしたり、絵本を読んだりして過ごしている。

 ひかるが

「かずみちゃんの絵、とっても上手だよ」

 となぐさめてくれて少し気持ちがなごむが、気持ちは晴れない。ひかるの絵もかずみに負けないくらい個性的であるが、何の動物かわからないくらいのタッチであり、かえって批評されずに済んでいるようだ。


 作品を手にして最終のバスに乗り、ひかるちゃんにバイバイをしてバスを降りる。はるかがマンションの前で迎えてくれる。一緒にマンションへ入り、エレベーターに乗り自宅のドアの前に立って手に持った絵をどうしようか、お母さんに見せたら何て言うだろうか、困った顔をしていると、先に入ったはるかがドアが開いて、

「どうしたのかな?今日はカレーだよ、いいにおいがするでしょ?お入り」

 優しく促した。

 タヌキ達は幼稚園バスが出発前に先にマンションへ着いていて、はるかが帰宅した際に、どうしてかずみが朝から元気がなかったか、幼稚園で今日何があったのかを報告していた。


 人からけなされたとき、自信が持てなくなったとき、母親としてどうしたらよいのか。カレーを煮込みながらかずみが帰ってくるまでの間、真剣に考えた。

 母親によっては「あなたの絵は最高」と褒めるだろう。あるいは「下手だね、練習しなさい」と教育する母親もいるだろう。または、「絵よりも運動で頑張ろう」などと、違う分野で自信をつけさせようとする親もいるだろう。絵のことにはあえて触れず、晩御飯のカレーで盛り上がるという方法もあるかもしれない。

 はるかは考える。かずみを笑顔にする方法。

 そもそも子供の描く絵というのは何だろう。芸術?遊び?美的センスの鍛錬(たんれん)

 みなから「けなされたもの」を母親の自分が褒めてもかずみは心の底から喜びはしないだろう。一般公開して人に見せるものであれば、人がその絵を見て感動すれば最高。音楽や映画などと同じだ。だがこの場合はどうだろう。万人ウケする作品ではない場合。


 タヌキ達がはるかに語った。

 自分達もお絵かきや習字をママと一緒にしたことがあった。自分達の描いた絵や文字は消えてしまう。半紙や画用紙は真っ白になる。ママは形に残るようになればいいのに、と、ため息をついたけど、でもママや自分達がその半紙や画用紙に触れると鮮やかによみがえった。心の中に絵や文字を焼きつけていたから。ひとつだけ消えずに残ったものがあった。タヌタヌとママが一緒に書いた龍という習字。それもいまはもうない。でも思い出せばいつでも心によみがえるんだ。

 

 かずみが元気なくまだ玄関に立っている。手には今日描いた絵の丸まった画用紙。

 黙ってかずみは画用紙をはるかに渡した。

「へーっ、今日はお絵かきの日だったんだね、どれどれ」

 かずみはうつむいている。はるかは広げた画用紙をみながらうんうんとうなずき、かずみを伴って居間に入りソファで、

「よく描けているよ。ねえ、かずみ、そろそろね、お父さんのお骨をお墓にいれなければならないの。これ、お父さんに預けてもいいかな。お父さん、宝物にして大事にしてくれると思うよ」

「お父さんに?」

「うん、いいよね?」

 そう言ってはるかは画用紙を折りたたみ、祭壇の骨壺の箱へ入れようとした。

「ねえ、待ってお母さん」

「え?」

「あのね、それでもいいけど、でも、もう一回、ちゃんと描く」

「そう、うん、わかった。じゃあ、これはお母さんの宝物にするね。いい?」

 かずみははるかの顔を見て、「うん」と言って笑顔を見せた。

 

 それからかずみはタヌキの絵を何度も何度も描いた。幼稚園バスを待っている放課後も幼稚園内で何度も描いた。ひかるちゃんも、その他の子もバスを待ちながらお絵かきをするようになった。かずみもひかるちゃんもみるみる絵が上手になった。かずみのタヌキの絵は相変わらずあの変タヌキの姿だった。だが、線の太さ、色合い、力強さ、優しい表情、最初のものとは見違えるほどイキイキしたもの変わった。

 絵は万人に見せるものとは限らない。芸術のなんたるか、絵画のなんたるか、は、はるかにはよくわからない。ここの幼稚園の教育が間違っているとは言わない。絵とは何か?特別な誰かの、自分の大切な人の心を幸せにする絵も「名画」といえるのではないかと、はるかは思う。


 はるかは最初に描かれたタヌキの絵を生涯大切にした。タンスの中に大切にしまっていた。後々かずみはそのことに気が付き、母の自分への思いをあらためて受け止めるのである。



 はるかは根っからの頑張り屋だ。会社の仕事もきちんとこなし、家事も、育児もぬかりなく行いたい。夫をなくして気がはりつめているいま、はるかは無理をしているとタヌキ達は見ていた。6月も下旬となり夫の納骨をする日が近づいてきた。法要を行うこととなり、親族が集まることになっている。会場や僧侶の手配、引き出物の準備等をひとりで行う。今週末が法要の日というときに、はるかは高熱をだし、会社を休んで寝込んでしまう。




夫との決別に気持ちの整理がつかないはるか、そして、

会社内に潜む悪気の影が動き始めます。


※ 誤字訂正 (6月4日) 

 誤)「はるかは更に落ち込む」

 正)「かずみは更に落ち込む」

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