第一章 光と影 (全六章)
こちらは本編で約7万字弱になります。
小分けした第一章①②③を別途掲載してあります。
目に見えるはずがないものが現実に現れたら。
それが幸せの隙間を埋めてくれる生き物だったら。
第一章で自ら生み出したものとの出会いを描いています。
まるで精霊の泥沼だった。もう誰が味方なのか敵なのかさえもわからない。よこしまな人間にそそのかされた者たちがまがまがしきモノにまみれ、次々に倒れ、魔物と化していく。最後の月舟が沈んだ。最後の一体が魔物になるまで戦いは続く。ここでみな精霊たちは魔物となって土の中へ吸い込まれるのだ。
「シーマ、シーマ、しっかり」
「ハクレイすまない。シーカーは、シーカーを救わねば」
「シーカーはもう助からない、肩につかまって、川から海へ出るんだ」
二体の精霊は茂みに足をとられ、岩につまずきながら、霧の中、川へ向かった。霧の奥ではまだ激しい戦闘が繰り広げられている。開けた平地の中央ではそのシーカーと呼ばれた大きな精霊の下半身が溶け、上半身は猛り声をあげながら襲い掛かる魔物たちをはねのけていた。あたり一面に無数の精霊が横たわり折り重なっている。
川辺では数匹のキツネが「こっちへ」「早く」と手招きをしている。一艘の小舟には傷ついた精霊が二体横たわっていた。シーマが転げながら駆け寄り舟をゆすった。「ライディン、オジロウ」
「シーマか、シーマか、よかった、私は大丈夫だ。オジロウも無事だ」
ライディンは呻きながら起き上がり、たもとから巾着袋を取り出すと両手でシーマの手を握りながら、
「シーマ、月影と月光だ。これを頼む、すまない」
「わかった」シーマはライディンの両手を抱き包むようにその巾着を受け取った。ライディンは、無念そうに、
「シーマ、私はシキシマウサギのもとに身を隠す。シーマは」そう問うと、舟に乗っていたキツネが、
「シーマ様とオジロウ様は私達がシレトコへお連れします。そこでお休みいただきます」
舟に横たわっていたオジロウが頭を持ち上げゆっくりうなずいた。
観念したかのようにシーマが、
「しばらくの別れだ。時をまとう。次の戦いに備えるのだ」そう言って霧深い空をあおいだ。
キツネはそれぞれに麻布を覆いかぶせ、静かに川をくだった。時折月が霧のすきまから道しるべとなって川面へ光を届けた。
しあわせのたぬき
月美 てる猫
かずみが語る
第一章 光と影
それから30年後。
車を走らせながら義明は春美のことを考えていた。
「今日も少し遅くなるなぁ」
2年前に結婚したふたり。春美は生まれつき病弱な身体であり、特にここ1、2週間は体調を崩していて、寝たり起きたりしながら義明が仕事から帰るのを待つ日々だった。
「え、店長、またお客様からですか?」
「そうなんだ」
提供する商品に満足できないという顧客からの問い合わせに対応することは日常茶飯なことであり、大切な業務のひとつであると、スーパーに勤めている義明は自覚している。商品不具合対応の基本は「お詫びと原因究明」であり、直にお詫びをしてそのご満足いただけなかった品を回収するのが解決への近道だと教育を受けているし、自身そのように確信している。
義明は顧客からの問い合わせに対して、お詫び対応をするために車で2時間ほどかかる市外の町へ向かっていた。店内が夕方の買い物客で混み合う時間帯ではあるが、すぐにその問い合わせをしてきたご主人のご自宅まで出向いて行ってその品を回収し、同時にこちらから持参する代替えの品をお渡しすることがベストと即断したのだ。
「さっきの電話ですね?」
事務所に入ってきた補佐役と一緒にそのお問い合わせ対応をしに行く先を、事務所の壁に張り出してある地図で確認した。
「ずいぶん遠くないですか?」
「うん」と短い返事をする。電話でご住所が遠いことを義明は既にわかっていた。職場を離れて行き帰りする時間を無駄と思うかどうか、判断は微妙なところであるが、この件に関しては義明に迷いはなかった。
ご自宅までの順路をメモしていると、鮮魚担当が白衣姿でやってきて、頭を下げながら、
「すみませんでした。これ、代替えの品です」
「おっ、ありがとう。でも珍しいねえ、昨日入荷したばかりだったよね」
よく吟味したのであろうお詫びの品を、事務所まで持ってきた鮮魚担当は、
「いやあ、そうなんすよ、納品元に文句言わなくちゃあ。真空パックですからピンホールってやつかもしれません。空気が入って鮮度が落ちていた可能性あります」
そう釈明した。信じられません、という顔をしてみせる鮮魚担当をなだめるように、
「そう、まずは行って見てからだね」
義明はそう笑って見せた。鮮魚担当は、
「いやあ、申し訳ありません。店頭に出すときもっとちゃんと見るようにします」
と、もう一度「すみませんでした」と頭を下げて事務所を出た。
義明はユニフォームを脱ぎ、ジャケットをはおって通用口を出て従業員用駐車場へ向かい、店舗で使用している社用車で出発した。
「僕が行きますよ、だって奥様具合悪いんでしょ?」
出がけに更衣室前で補佐が気を利かせてそう言ってくれたが、
「いや、いいんだ、これは店長の仕事だから」
義明はそう補佐役に「ありがとう、留守を頼むね」とにっこり笑って見せた。
部下に留守を任せてはきたが、お客様対応後に帰店して部下に任せた仕事の残務を引き継いで、その残務をこなしてから店を出て帰る。いつもの帰宅時間では済まないことは明らかだ。細心の注意を払っても商品不具合は起きる。今回は、購入した魚が傷んでいる、という電話でのお問い合わせだった。
お店の問題点を再確認して真摯に改善をすることで顧客満足度をあげる。お客様からのお問い合わせ対応は売上向上につなげるチャンス、そう、義明は前向きに考えていたし、一般論的にも小売業はそうなのだ。
ただし、一日8時間勤務の間のその数十分、数時間の外出は当然にも日常業務に支障をきたし、全体の労働時間に付加がかかることになる。鮮魚は鮮度、一般食品は品揃えや品切れ、店内作業中は接客、と、課題はいろいろあるが、いま顧客対応に向かう義明にとっては、帰宅してからの妻への対応も課題としては大きく重い。
「今朝も少し微熱があったしなぁ」
帰宅が遅くなると春美は出迎えもせずしばらくは冷めた空気が流れるのが常だ。駄々っ子のように晩御飯も食べず、すねて寝ている春美の横に沿って義明は童話を読んで聞かせたり、即興で作る昔話などで機嫌をとった。
「むかしむかし、えーつと、そう、龍が住むお寺の和尚さんがね」
「うん」
「和尚さんが」
「なに?」
「和尚さんが、龍の首に鈴をつけたんだよ」
「ふーん、どうして?」
「龍がいるとご利益があるから、その、鈴のプレゼントで龍をなつかせたのさ」
「なるほど、それで?」
「鈴が気に入った龍はそれからお寺の軒先で涼むようになったんだって。風が吹いたら鈴がリンリン鳴るから」
「へーっ、そうなの?」
「うん、でも、お寺を訪れる人が龍のしっぽを引っ張って、鈴を鳴らすようになったんだ。龍が嫌がるもんだから和尚さんは、鈴に紐をつけるようにして、鈴をならしたい人はお金をその箱に入れてくださいってことにしたのが、いまのお賽銭箱の始まりなんだとさ」
「鈴やお賽銭って、お寺よりも神社じゃないの?」
「あ、そうか、うーん、そう、かもね」
「まあ面白いよ、あれ鈴緒っていうしね。尾っぽの『お』の字じゃないけどね」
義明が帰宅後に即興でつくる昔話は動物が登場することが多い。
「むかしむかし、あるところにウサギが住む村がありました」
「メルヘンチックなお話し?」
「ある日ウサギは金の玉子を産む鳥がいるという噂を聞きました」
「金の玉子?それどこかで聞いたことある。雲の上?」
「いやそのあたりの野山。ウサギはいろいろな動物に金の玉子を探してほしいと頼みました。金の玉子を売って荒れた土地を開拓する資金にしようと思ったから」
「動物のネットワークがあるのね」
「ウサギは弓矢で乱暴もののオオカミやシャチからみんなを守ってくれていて信頼されていたから、みんな協力してくれました」
「弓を引くウサギねぇ・・・」
「ある日、アザラシが海から双眼鏡で陸のほうを見ていると、高い崖の上に、金の玉子が乗っているのを見つけました」
「よく見つけたね。アザラシって水中メガネって感じするけど」
「アザラシは友達のモモンガにウサギのために取ってきてほしいと頼みました」
「ふんふん」
「モモンガは、クマやシカやキツネやイヌやネコに頼んで肩車をしてもらうことにしました」
「ウサギも肩車に加わればよかったのにね」
「崖の上に着いたモモンガは金の玉子を見つけるんだけれど、金の玉子を抱いていた鳥に、ダメって言われるんだ」
「あらあら」
「モモンガはウサギに事情を説明しました。それは仕方ないね、とウサギがあきらめかけたそのとき、崖の上で金の玉子が割れて中から・・・」
「神様が出てきたんでしょ・・・」
「そうそう、神様はみんなが協力して地域を活性化しようとしていると、とても感心して・・・」
「・・・」
「行いのようものにはこれをあげようって、大判小判ざくざくと」
「・・・」
「ねえ聞いてる?寝ちゃった?」
そんな他愛ない話を帰宅が遅くなるたびに考え、春美に聞かせるのが行事のようになっていた。長編になり、だいたいの結末が見えてくると春美は寝てしまうことが多かった。寝かしつけるという意味では成功だが、義明にとってはなんとなく達成感が薄い結末である。
札幌市内を抜けるのに少し時間がかかった。大通公園のテレビ塔を見たのが15時頃、国道を進んで定山渓温泉を通過して、中山峠を上りきって下り始めたのが16時頃、正面に見えた蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山はまだ山全体が真っ白で、青い空を背に日没前の稜線を鮮やかに映していた。
長かった冬が終わり訪れた春の喜びをかみしめ、春の美しい風景を楽しむ、そんな余裕もなく、これから向かう顧客との対話のこと、そして、「今日のお話しを考えておかないと」と、義明の頭の中は落ち着きがなかった。
峠を下りながらの山道が続く。動物注意、シカ横断注意の看板をたて続けに見たと思ったら、前方の道路わきで草を食べているシカを見、車のスピードを落とす。4月ではあるが例年に増して積雪が多い、山々の木々にまだ葉はない。ただ、時折ぽつぽつ、と気の早いこぶしが白い花を咲かせているのを見かける。もう一週間もすれば一斉に木々達は芽を吹こうかというところ。北海道は一番美しい時季を迎える。
ただ、山間を抜ける道路周辺の残雪は高く深く春まだ浅い。舗装道路上には雪はなく、アスファルトへの太陽の照り具合で気温が高いのだろうか、路肩の芝生は山の残雪とは裏腹に青い。ふきのとうも、ぽつぽつと、出てきている。野生の草食動物はそれらを食べに危険を冒して山から道路へ寄ってくるのだ。
「今夜はシカやウサギの話でもしようか」
と、春美に聞かせる今夜の昔話をなんとなく考える。
「シカは神様の使いとか言うからな、シカに献上する草をウサギが選んで運んでいたら、リュックサックの底に穴があいていて、それで困っていたらシカが現れて、あなたが落としたのは金の草、銀の草、いや、これはまた『それ聞いたことある』とか言われるか」
アイヌ民族はシカもウサギも、草も木も、川も山も、風も火も、みなカムイと呼び、それぞれを『神』として尊重しているという。義明は、動物や植物は神々の世界から舞い降りてきた神達のこの世の仮の姿であり、神が宿る動物や植物と人間が共生する、というアイヌの考え方が好きだった。動物や植物は食糧にもなるが神の恵みとして身体に取り込む。それは自分が子供のころから躾られた、食事をする際に「いただきます」と言う、その考え方に共通するものがある。
それぞれの命を尊重し、動物同士も助け合い、みんな仲良く暮らせる世の中は理想であり、肉食も草食も協力し肩車をして金の玉子を取りに行くような姿が日常的に人間社会にも見られたら平和だと義明は思う。
妖精であったり妖怪であったり、精霊、生霊、魔物など、神話やおとぎ話に出てくるような神秘的存在は世界中のいたるところで伝えられている。動物が擬人化された民話や言い伝えも世界中にあるが、義明が発想する即興のお話しは、和風、洋風、古典、マンガ、アニメと、あらゆるものを引用するため神秘性に欠けることが多い。
ようやく峠道を抜けて平な農地が続き目的地手前の町を通り抜ける。民家やガソリンスタンド、コンビニを見たと思えば、また起伏のある、上る下るを繰り返しの山道に入る。さきほどの峠よりも木々は高くそびえ、道をトンネル状に覆うような威圧感がある。まだ葉はつけていないが、木々の梢は密集して薄黒く、その彼方に茜の雲がそよいでいて、
「おや?」
木々のすきまから銀色の何かが一瞬見え隠れした。
「何だろう、こんなところにリサイクル処理場か何かだろうか?」
たまにしか走らない道ではあるが、あのような大きな建造物らしきものが、この山中にあっただろうか、と少し首をかしげ、しばらくすると目的の集落が見えてきた。
ショッピングセンターもスーパーマーケットもない。だからこのあたりの人々は車で2時間もかけて、たまの買い物を札幌で楽しむ。その買い物のひと品が傷んでいた、というクレームだ。クレームといっても苦情でも文句でもなく、ご意見の域であり、電話口からの声は優しかったから、義明のほうが恐縮し店長自身による本日中の対応を判断したのだった。
「松の木とサクラの木が目印、あ、あれかな」
地図で見ても実際に現地へやって来ても民家がまばらにぽつぽつとしかなく、まっすぐにそのご自宅までたどり着けるのか不安であったが、その目印はいかにも目印としてふさわしかった。西向きに建つ屋敷前には赤松が枝ぶりよく日に映えていた。
玄関口に立って呼び鈴を鳴らす。もう夕暮れ時だ。カラスが道路沿いの電線に、びっしり群れをなしてこちらを見ているようだ。引き戸にカギはかかっていなかった。少し戸を開くと奥行のある広い玄関の向こうから電話をかけてきた家主と思われる人物がこちらをうかがっているようだった。
「ごめんください」
「いやあ、すまないねぇ」
農家を営んでいるのであろうか、土間のわきには十数人分の靴を格納できそうな下足箱があり集会場のようでもある。ご主人は閥悪そうに義明へとむかってきた。50歳前後と思われる、小太りで人なつっこそうなやわらかい表情の男性だ。手に持っていたのは〆サバの切り身で、なるほど痛みかけの姿をしていた。
「すみません、勘違いしていました。お宅で買った品じゃあなかったんですよ」
パッケージは義明の店のものではなかった。まれにあるお客様の勘違い。ひとしきり電話で怒鳴られてレシートを確認していただくと、「あらごめんなさい、よそのお店の品だったわ」というパターン。失礼にあたるので「本当にうちの品ですか?」などと電話中に質問することはまずない。「かしこまりました申し訳ございませんでした」とお詫びをし、ご自宅まで出向いてはじめて気が付き、笑い話になったり、引くに引けない電話の主が「あなたの店は品切れが多いし、店員は態度が悪いし」など、別件で責めてくることもある。そんな声に耳を傾け、お客様との距離を縮めるのもスーパーで働く者の務めと思ってはいるのだが、今回は少しご自宅までの距離が遠すぎた。
義明は脱力感を見せぬよう、精いっぱいの明るい笑顔でこう切り返した。
「いいですよ、ただ今お持ちしました当店の品を使ってください。私がその品をそのお店に返してきますから」
「いいのかい、すまないなぁ、来てもらって、僕は〆サバが好きでねぇ」
「いいんです、うちの店も今後ともごひいきにお願いしますね」
そんなやりとりをし、しきりと恐縮してすまなそうな顔を見せる主人を制しながら車へと戻った。そこまで見送りに、と、主人は義明のあとをついてくる。
「あの松の木、立派ですね。わかりやすい目印でした」
「ああ、あの松ね」
そう言って主人は松ではなくサクラのほうを見た。玄関に通じる歩道からの小道の右わきに松、左にも大きな木が立っているが、春まだ浅いせいか、あるいは弱っているのか、芽吹いてはいないようだ。
車のそばまできて義明が向き直って挨拶をしようとすると、そこら中に集まっていたカラスが一斉に飛び立って、山のほうへと向かった。
バサバサバサ、カーカーカー、
「うわ、すごい」飛び立ったカラスを見送りながら義明はカラスの数と迫力に圧倒されていたが、その主人はまるで「いつものこと」という感じであいかわらずサバの件で恐縮の姿勢でいる。
「いやあ、ほんとこんなところまで来ていただいて」
カラスのほうが気になる義明は、
「このあたりはカラスが多いんですか?」と尋ねると主人は、
「ああ、カラス、そうだね、町長がさ、鳥好きでね、カラスをいじめたり悪口を言ったりしたらとんでもない剣幕で怒るんだよ。カラスは自然界になくてはならない生き物なんだ、なんて力説したりしてさ。そのせいかな、うん、カラス、多いね。向こうのドームのあたりをねぐらにしているんだと思いますよ」
そういってご主人は目をほそめカラスの飛んでいく方向を見やった。
義明もカラスは嫌いではなかった。というよりも思い入れがあった。過去、通行人に痛めつけられていたカラスを守りきれなかったという苦い経験があるのだ。
「ドーム、って、国道を少し行ったあのあたりの建物ですか?」
義明は今きた道の向こうを指さした。さきほどみかけた建造物があった方角だ。
「そうそう、隣村のお荷物物件。昔、大手のゼネコンさんがさ、建てたんだよ、テーマパークなのか、野球場なのか、中途半端なことするから、いまじゃ廃墟さ。きれいなお花畑もあってね、観光客が来るって、みんなちょっとは期待していたんだけどね」
それでは、と言って義明は車を出し、帰路についた。ご主人は丁寧なおじぎをして、車が見えなくなるまで義明を見送っていた。
このご主人、タヌキ達の運命に深くかかわる人なの
ですが、タヌキ達がこの人と出会うのはまだずっと
先のことです。
「はあ、うちへのクレームではなかったんだね」
そうつぶやいて助手席に置いた魚のパッケージを軽くなでた。ご主人との話にあったドーム跡地に近づいてきた。何となく気になる。春美へのみやげ話になるかもしれないと、義明は車を道路わきにとめ、ハザードランプを点滅させて車を降り、車のドアをロックして細い山道を分け入った。
うっそうとした木々を頭上に見ながら進むが、やがて背の高い冬枯れしたススキやオオイタドリなどの野草が侵入者を拒むかのように足元から生え広がり茂っているのをかき分け進み、ようやくその建造物全体が見えるひらけた場所に出た。
「大きい、広い」
札幌ドーム球場ほどもあるのではないか、と思わせる巨大な建物と、広大な敷地だ。ドームの前にはドームよりもさらに広い広場があったようだが、背丈の低い木々が雑草のように生え、広がり、付近の林は周囲の山も空も隠すかのようにうっそうと茂って、背筋が寒くなるような不気味さだった。足元からドームまではコンクリートのプレートが敷き詰められているが隙間から雑草が伸び、その石畳はゆがんで波打っていた。
ドームの外壁はまだ現役で使えそうな美しさを保って見えるが、夕闇が迫っているためか付近の荒れ方のせいもあって、廃墟と呼んで差し支えはなさそうだ。
「どうしてこんなところに、もったいない」
何等かの公算があってここに建てたものであろうが、いまとなっては村にとっても、無用の長物でお荷物であろうか。
そんなことを思いながらドームの中が見えそうなゲートの近くまで歩いていく。カラスなど一匹もいない。静かすぎる、風のない夕闇迫る頃の廃墟。薄暗くて静かというだけではない何か得体のしれない重々しさを感じながら、恐る恐る近づく。と、
「うわっ」
何かにつまづき、もんどりうって義明は、地面に敷いてあった金属の鋼板にオデコを強打しながら倒れた。チカッと、目から火花が出たような、その刹那に義明は気を失ってしまった。目から火花が出たのではなかった。義明は気が付いていないが、転んだときに足元にあった金属バットと、地面に敷いてあった鋼板が光ったのだ。
少しして義明は眼をさました。あたりはすっかり薄暗くなっていた。国道を走る車の音を頼りに草木をかきわけ地面の凹凸につまづきながら、どうにか路肩に停めていた車にたどり着いて、そこでやっと左手に握っていたものが何かがわかった。
「これ、キレイな石だなあ」
転んだときに無意識につかんだのであろうその石。満月が上っていた。月の光に照らすといっそう輝きを増すように見えた。
打った頭は腫れもなく痛みもなく、めまいなどもしていない。車の運転は大丈夫だ。
「この石は帰ってから春美に見せよう」
そう思いながら、エンジンをかけ、スタートしようとすると、目の前を何かがトコトコ走っていき、立ち止まってこちらを見ている。エゾタヌキだ。夕方を過ぎると道路には野生動物がよく出てくる。人目につきにくい日没後は行動しやすいのだろう。ただし車を運転する人間にとっては夕方を過ぎた時間は視野が狭くなり注意が散漫になりやすい。しばしば起きるシカと車の衝突事故は、北海道では珍しくない。キツネやタヌキやリスが車にひかれて無残な姿をさらしているのもまれに見かける。特にタヌキは走るのが遅く臆病で、向かってくる車を避けられずに立ち止まってしまうことがあると聞く。義明はゆっくり四輪をころがし、ルームミラーにそのタヌキが映っているのを確認してからスピードをあげ、帰路を急いだ。
あらためてポケットの石を左手にとり、「これはタヌキからの贈り物だな」そんなことをつぶやきながら、今夜春美のご機嫌をとるストーリーを組み立てていた。
北海道に生息するタヌキはエゾタヌキ。本州に住む本土タヌキとは少し体つきがちがうという。降雪に対応するためだろうか、エゾタヌキは本土たぬきに比べて足が長い。ただ、目のまわりが黒いとか、しっぽがふさふさしているとか、トコトコ走るとかいう愛らしい特徴は共通するものがある。
タヌキは連れのタヌキが死ぬとその遺体を草むらに隠す習性があるらしく、車にひかれた身内のタヌキを引きずって道路脇へ運ぼうとしてまたひかれる、ということもあるらしい。散歩がてら郊外をドライブすると季節によっては道路をトコトコと親子で走っている姿をみかけることがある。大きいタヌキを先頭に2、3匹の小さいのが必至に走る姿は何ともユーモラスでかわいらしい。
義明は北海道に生息する動物の中でもエゾタヌキが一番好きだった。人をだますとか、ばかすとか、カチカチ山のお話しのように、悪役になることもあるタヌキだが、義明のイメージでは家族愛が強く、ほのぼのした家庭を築くような優しい動物であった。
「この宝物はタヌキのものだった。宝物を探しにタヌキの兄弟がたずねてくる。そして、タヌキはその家にいすわることになって、・・・」と義明は帰路の車中で物語を組み立てていった。
お預かりしたサバを競争店舗へ届ける。競争店舗の店長さんが「いやあ、申し訳なかったですねえ、お茶でもいかがですか」と、誘うが固辞し、世間話もそこそこにして自店に戻るともう閉店時刻に近かった。部下から作業の進行状況を聞き、部下を先に帰して残務を整理し、通用口のシャッターを閉めて家路についた。
月は煌々と高く、夜の街は人通りもまばらだった。義明の自宅は、札幌市郊外のベットタウン的な閑静な住宅地の、そのまた郊外にある。住所に番地はあるが一番近い隣まで50メートルはある。親から譲り受けたその家屋は築40年以上にもなりあちこちガタはきているが家も土地もふたりには贅沢すぎるほど広くありがたい我が家であった。
春美は義明と相談しながらその広い庭に好きな植物を植え、わが子のように大切にしていた。庭には両親が大切にしていた大きなサクラがあるほかはチューリップやグラジオラスなどの球根類がたまに花を咲かすような素朴ないでたちであった。
結婚して間もなく園芸市でナナカマドやカエデなどの木、フクジュソウやエンゴサクなどの多年草、ユリや水仙などの球根、そしてディジーやパンジーなどの一年草と、空いているところに少しずつ植え込みをし、四季折々、花が庭を彩るのを楽しみにしていた。秋枯れしては縄むしろをかけるなどの『冬囲い』をして次の春を待っては、ふたたび芽吹いた木や草の成長を喜ぶ。子が授からない二人にとって園芸は共通の趣味であり生きがいになりつつあった。
カーポートに停めた車を降りると、満月に照らされた春まだ浅い庭の草木が義明を出迎えた。こっちを見てよと言っているかのようなクロッカスやチューリップのつぼんだ花を少しちらちらと見ながら義明は玄関へ急いだ。
ただいま、と扉を開き、一階の居間にあがるとひと気がなく、二階の寝室に入ると春美は赤い顔をしてうらめしそうにこちらを見ていた。熱があるようだ。
「薬は飲んだの、何か食べた?」
怒っているとわかっていたので低姿勢でゆっくり尋ねると、春美はつぶやくように「大丈夫だよ、さっきおかゆ食べて薬飲んだから、義明も何か食べてきて、そして寝かしつけて」と言って、布団にもぐりこんだ。
居間に戻りキッチンを見るとコンロに味噌汁があり、炊飯器にはごはんが炊けている。テーブルには焼き魚と玉子焼きと小鉢に漬物、それぞれにラップがかかっていた。キッチンは洗い場が島になっていて、つまりキッチンと居間は一体になっている。壁面に食器棚、つぎにアイランドキッチン、つぎに食卓テーブル、その前が居間、という間取りである。居間にはソファがあり、庭を眺められるよう配置されている。キッチンのダウンライトと居間の常夜灯のみ点灯しているほの暗い室内に満月の光が差し込んでいる。居間のストーブは火を入れたままにしてくれていた。春とはいえまだ夜は肌寒い。
義明はテーブルに置いてある玉子焼きを見て更に心が温まった。春美の玉子焼きは、見てくれは悪いがとてもおいしい。義明にとってはいまや大好物だ。残業しての帰宅だったこともあり腹もすいていた。
灯りをつけ、炊飯器からごはん、コンロの鍋から味噌汁をよそって食卓テーブルへ運ぶ。箸を取りごはんと味噌汁と焼き魚と、最後まで手を付けずに残しておいた玉子焼きを、まず一口おいしそうにほおばる。二口目、何だろう。一瞬、箸でつまんだ一口大の玉子焼きを、口に入れずに口元で止めた。食卓テーブルのむこうに春美、ではなく、タヌキがこちらを見て、その口元の玉子焼きを食べたそうに見ている、そんな姿を見た気がした。単に自分がイメージしただけ、という意識はありつつ、何かタヌキと一緒に食事をしているような錯覚を覚えた。
義明が物語として想定していたメインのタヌキは5匹だ。それぞれの名前や特徴も考えていた。食卓テーブルにはイスが義明のものと春美のものと、2脚、更に左右に余分なイスがある。1脚には当然にも義明が座っていて、向かい側には春美、ではなく、2匹のタヌキがイスに座る、ではなく、後ろ足で立って、前足2本ずつ4本をテーブルに置いて、義明が玉子焼きを食べるのをだまって見ている、あとの2匹は左右の余分なイスに坐って義明の膝元を観察している。あとの1匹はなんとなくそのあたりをうろうろする、そんなような錯覚だ。
「おいしかった」
独り言を義明は、誰もいない誰も座っていない食卓テーブルの向こう側になんとなく誰かがいるような気がしながら、
「ごちそう様」
そう言って立ち上がると、食器をキッチンのシンクへ持って行って、水道栓を開いて洗う。洗剤をとり、スポンジをとり、何となくだが、タヌキ5匹が興味津々で水道栓から出る水や、義明の動作を観察しているような錯覚を覚えた。
食器をフキンで拭いて食器棚の定位置に戻す。キッチンの電気を消して、居間の窓辺に立って月をながめた。タヌキたちも月を一緒にながめている、また、そんな錯覚を覚えた。少しおでこに手をやる。あの施設で転んで、頭を打ったせいだろうか。あとから後遺症が出てくるということも考えられるが、目をぱちぱちさせ正気であることを確認するように、
「いや大丈夫」
そうつぶやいて居間を出て、義明ひとりで二階にあがる。
階段の途中で義明は階段の上、下をなぞるように眺め、ひとりで階段を上がっていることを確認する。「ちょっと疲れているかな」そう思いながら苦笑する。
この家は義明が子供のころから社会人になるまで両親と一緒に過ごした住み慣れた家である。幽霊のような異質なものを感じたことなど以前も世帯主になってからも一度もない。その自分が何かしら異質なものを感じていることを悟った。ただ、不気味とか怖いとかいうものではなく、受け入れがたいような異物でもなく、自分以外の自分が一緒にいるような、何か、であった。
寝室は二階の和室にある。身体の弱い春美からの希望で、ベッドを使うことはせず、布団を毎夜、毎朝、床から押し入れに、押し入れから床へ、と上げ下げしていた。ベッドを使うと寝たきりになるかもしれない、という春美の考えだった。
寝室に入ると布団がふた組並べて敷いてある。窓のほうが春美、入口近くが義明の布団で、窓の方の布団に膨らみがあり、膨らみの主が義明の気配に気が付いたのか、少し左右に揺れた。
寝室に入った義明は、義明と春美の布団の間に座りその膨らみに、
「晩御飯たべたよ、おいしかった」
と話しかけると、布団から顔を出した春美は待っていましたとばかりに、
「じゃあ、今日のお話し」
と言う目はうつろで、いかにも具合が悪そうだった。
「大丈夫か、明日は病院に行こうか?」
「いいよ、もう」
「いいよもう、じゃないよ、このところずっと体調悪いだろう」
「いいの、それより早くお話し」
毎夜ではないが毎週のように春美は微熱を出しては早寝をしていた。高熱ではないがその微熱のせいか「起きていられない」と言って晩御飯もそこそこに二階へあがって先に休む。
郊外の外れの一軒家ではあるが、歩いて行ける距離にコンビニもあり、スゥイーツのおいしいカフェもある。バス五区間ほどで雑貨や衣類のテナントを併設したスーパーマーケットにも行ける。家にはテレビがあり、ネットワーク回線の備品もそろっているが、春美は世の中のトレンドを追うことはなく、テレビドラマに夢中になることもなく、インターネットで買い物や情報収集に興じるような様子もなく、カフェや雑貨店で息抜きをするようなこともない。日中は家の中でぼんやりと過ごし、庭の草花を手入れし、夜は義明の帰りを待つ。
近所に友達や親戚知人がいるわけでもない。郊外の静かな一軒家でただひとりでの留守番は不安で退屈ではないかと思う。もともと甘えん坊の性格だったのだろうか、義明の帰りが遅いと機嫌が悪くダダをこねる。義明の帰りが遅いとわかる夜はなおのこと、居間の電気を消し、二階にあがり、布団をふたり分敷いて、うらめしそうな顔をするはいつものことであった。
顔色のよくない春美ではあるがお話しをせかされ、義明は用意してあったお話しを語り始めることにした。
まず今日のクレーム処理中に立ち寄った施設で偶然キレイな小石を『ある動物』から譲ってもらった、と話して、その小石を見せ、春美の手に取らせた。
「ふーん」
おみやげに小石を持ち帰ったのは正解だった。気持ちがほぐれたようだ。そう義明は思った。義明が昼間は仕事に専念する一方、ちゃんと奥さんのことを思っている、それは春美には理解をしてほしいところだ。ふだん家にこもりがちな春美にとっては単なる小石もエピソードが加わると外界からの不思議な宝物に変わる。
「ムーンストーンね、本物かしら?」
「ムーンストーン?」
「けっこうメジャーなパワーストーンだよ。でもちょっと変わってる。とてもきれい」
「タヌキがくれたお守りなんだよ」
「へーそうなの、どんなタヌキ、二本脚で立って、石を手渡ししてくれたわけ?」
「そうなんだ、とてもかわいかった」
「あ、そこにいるのがそう?」
「え、なに?」
振り返って布団ひと組と壁と床と扉しか見えなかったが、「うん、そうそう」と春美に調子を合わせた。そして物語をいつもの調子で始める。
「むかしむかしタヌキさんがね」そう義明が語りかけたのを無視するように、
「タヌキは何匹いたの、3匹、いや、4匹、5匹ね」
「うん、そうそう」
まるでそこにタヌキがいるかのような春美の目の動きに、義明は不安を感じていた。病状が悪くなっているのか、さっきの「いいの、もう」は何なのか、何か隠しているのか。
「ふさふさだね、触ってみたい」
春美は少し起き上がり、義明が正座している横あたりに身体を寄せて、手を伸ばし、
「いないね」と、笑って顔と身体を伏せ気味に布団へ戻った。身体にふれた春美の身体が熱を帯びていた。義明は心配になり、
「もう寝なよ。顔赤いよ、タヌキさんのお話しはまた明日ね」
そう促すと、
「はい」
素直にそう言って春美は枕に頭を乗せ、まぶたを閉じた。
春美は幻を見たのか。春美の空想か演出だったのか。義明が正座していた横に2匹、3匹と座っていたような感じか、そう思ってそういうイメージをすると、何となくふさふさのタヌキが2匹、3匹と、その辺りにいるような気がする。
春美が義明の空想していた通りの5匹と言い当てたのは偶然だろうが、それは似た者夫婦だからか、と、そのときは義明もその偶然を気にとめなかった。
天井のあかりを消して義明も布団にもぐり、タヌキ達が活躍する物語をもう一度組み立ててみる。窓からは月あかりがさし、ふた組のふとんを照らしていた。
義明はルーティーンの仕事をこなしながら、タヌキのエピソードを考えていた。勤務中に不謹慎ではあるが、こんなタヌキがいたら、という想像をし、春美が喜びそうなタヌキ像を創造することに楽しさを感じていた。
「店長、ご機嫌ですね」
「ううん、まあね」
知らず知らず、ニヤけてしまっていたのだろうかと、気持ちを引き締め仕事に専念しつつも、タヌキをイメージした。
ふと、店内をみやると、タヌキ5匹が買い物をしている。小さなカートを押して歩くタヌキ、低い位置の商品を品定めするタヌキ、タヌキの店員に値下げの交渉をする客のタヌキ、バナナのたたき売りをするタヌキ、と、いろいろなパフォーマンスを思い浮かべる。タイムセールの時間が近づくと、大売出しのハッピを着たタヌキが「店長、時間です」と腕時計を指さすようなしぐさで義明に伝える。レジで行列ができると、店長大変です、客が並んでいます、と5匹がレジの方を向きながら知らせる。従業員とうちあわせをしていると、向こうでタヌキたちもテーブルを持ち出して打ち合わせをする、など。
「今日一日、タヌキと仕事をしていたよ」
そんな報告を晩御飯の食卓テーブルで義明は夢中になって春美に話す。帰りの車の中では助手席で「シートベルトをして」と言われ、赤信号で止まっていると横断歩道を渡る人達を交通安全の旗を持って誘導するタヌキが現れ、玄関前ではコマ犬のマネをして2匹があうんの姿勢で居たり、と、ごはんを食べながら次々にネタを披露した。ふつうそんな話をしだすとあきれる奥さんもいることだろうが、春美はそんな義明をにこにこと見ながら、いちいち、うんうん、「あらそうなの」と聞き入っていた。
「実はねえ、私も今日は家の中でタヌキを見たよ」
「え、そうなの?」
「うん、そんなパフォーマンスみたいなことはしてくれなかったけど、ぬいぐるみみたいにおすわりしたり、ついてきたり、なんか、かわいくて。癒されるんだぁ」
「いまは?」
「うーん、いまはいないのかな。でもいるような気がする。私にもパフォーマンス見せてほしいなあ」
春美はまるでタヌキがそこら辺にいて、そのタヌキ達に聞こえるように呼びかけるような独り言を言った。義明が、
「うちに住んでくれたらいいね」
そう言うと、
「うん」
少し大きい声でそう答えた。
ふたりは晩御飯を食べるほうに少し集中した。「これおいしいね」「今日ね、そこのお店で安かったの」などと日常的な会話をし、「ごちそうさま」をして一緒に食器の片づけをし、
「さあ、歯をみがくぞぉ。良い子は寝る前に歯磨きするんだぞぉ」
と、またタヌキに聞こえるような独り言をいいながら、春美は洗面所へと向かった。
ソファに座ってその大きな独り言を聞き、義明は「子供に言い聞かせているみたいだ」そう思った。空想のタヌキは子供の代わりにもペットにもならないが、義明が留守中に孤独な春美には、孤独をいやす何かが必要だと思っていた。
ペットを飼おうかとふたりで話したこともあった。ペットショップをめぐったこともあった。だが、動物は死ぬと悲しいから、という春美は進んでペットを飼いたいという話をしなくなった。春美が子供の頃、春美の家ではネコが飼われていた。両親が亡くなって、春美が叔母に引き取られて間もなく、そのネコが他人に預けられ、すぐに死んでしまったという知らせを受ける。そんな悲しみの連鎖に遭って、そのことがあってか、春美は動物を飼うことをためらうようだ。
植物の世話が趣味となり心のよりどころとしているようだが、どこか物足りなさを感じている、ということは義明が感じていた。タヌキの空想は現実逃避のようであり、あまり長く続けるものではないとも義明は思った。しかし、タヌキの妄想は膨らむ一方で、やがて妄想を超えて現実味を帯びてくる。
翌日、義明はタヌキのイメージをどんどんと膨らませていた。義明があのクレームの際に空想していたタヌキの物語には『仕事中や通勤途中のパフォーマンス』などのくだりはなかったが、まるで妄想上のタヌキのほうが出たがりで、それゆえに仕事中でも義明の前に出てくる、かのように次々と義明の目の前に思い浮かんでくるのだった。
朝、出勤すると清掃作業のかっこうをして床みがきをしている。コーヒー飲料の広告のそばで、広告に出てくる俳優と同じかっこうをしてコーヒーを片手にポーズをとっている。鮮魚コーナーでは魚のふりをしてケースに寝ている。
すってんころりんと、客が転んだマネをし、「あっちあっち」と5匹が指をさした。ちょうど店内通路を歩いている方向だったが、通路をまがると客が転んで動けないでいて、数名のお客様が「大丈夫?」と介抱している。
「あ、店員さん、そのお客さん転んだみたいなの」
と、来店客が義明の腕を引いた。義明は転んでいるお客様に「大丈夫ですか」と声をかけ、近くの病院へ一緒に行くことにした。タクシーを呼び、その足をくじいたお客様を乗せて病院へお連れし、ご家族に連絡をとって、
「それではお大事に」
と言って病院を出て店の方へ歩いた。歩きながらふと、その転んで足をくじいたお客様を見つけて病院へお連れするまでのことを考え、不思議に思った。
「客が転んでいるのを教えてくれたのはタヌキだった」
妄想上のタヌキが義明へ店内事故の一報をしてくれたということなのか。
「いや、そうかな、まさか」
義明は歩きながら、義明と一緒に首をかしげながら歩いている5匹のタヌキを想像していた。わざと道を間違えると、「こっちこっち」と、正しい道を示す。道がわからないふりをすると、「そっちそっち」と、正しい道を示す。それはそうだ、自分が妄想したタヌキなのだから、正しい道を知っているのはあたりまえ。
「ちょっと想像力を働かせすぎかな」
そう義明は苦笑し、信号のある横断歩道を渡ろうとしたその時、5匹のタヌキが義明の前にたちふさがり、それぞれが両手を広げている。トラックが右から左にけっこうなスピードで通りすぎた。危なかった、赤信号だった。
信号が青になっても義明は動かず、「いまのは一体」と考えていた。イメージのはずのタヌキ達はすでに横断歩道を渡り終え、手招きしているように見える。まじまじと見つめていると、イメージは消えて、職場へ続く歩道がまっすぐに伸びているだけ。信号が赤に変わった。義明はしばらく横断歩道の向こう側をみつめ、動かなかった。
店に戻ると仕事に集中した。トラブル発生でまた残業になってしまいそうだ。タヌキのことを妄想する余裕はなく、また、タヌキたちが出てきてほしい、という欲求も起こさなかった。仕事をこなし、定時より一時間すぎた。また春美はすねているだろうか。
玄関に入る前に今日のことを振り返るが、仕事中、勤務時間中の妄想はさておいて、ともかく昨夜用意していたタヌキばなしの続きは春美に聞かせようと思った。ほのぼのとしたよい話だと、義明は思っていた。
少し遅めの帰宅だったが、春美は居間にいて、「遅かったね」とちょっとふくれて見せたものの、
「おかえりなさい」
と言って、晩御飯の仕上げをはじめた。あたたかい汁物にコロッケ、野菜サラダが食卓テーブルにそろうと、
「いただきます」一緒に食事をはじめた。
「今日も少し顔が赤くない?熱はないの?」
「平気」
微熱も、時々咳を我慢する様子も見慣れてきている。やはり一度病院へ行かなくてはと思う。ただ、今日の春美はいつもよりも少し明るい表情に見えた。
昨日は義明ひとりでタヌキの話をたくさんしたが、今日の義明は言葉少なに、もくもくと晩御飯を口に運んでいた。春美が、
「今日ねえ」と切り出した。
「タヌキちゃんたちいっぱい見たよ」
という。ちょっと義明の箸が止まり、春美をじっと見た。春美はニヤニヤしながら、
「あのね」春美は夢中になって義明に話し始めた。
「義明にいってらっしゃいしたあとね」お洗濯をするのに洗濯物を洗濯機に入れてスタートボタンを押して、入れ忘れた靴下一足を入れようとふたを開けたら、タヌキが目をまわしていた。洗濯物と間違ってタヌキを入れちゃったかと思ってよくよく洗濯機の中を見たら、タヌキはいなくなっていて、洗濯機が止まって洗濯物を外に干そうと思ったら、タヌキが物干しに引っかかってぶらさがっていた。お昼にテレビを見ていたらバレエをやっていて、外を見たらタヌキがバレリイナのかっこうをして踊っていた。大相撲が始まったらタヌキたちも庭で土俵入りをしていた。外の鉢に水やりをしようと思ってお庭に出たら、タヌキの置物のふりをしたタヌキが5匹立っていた。洗濯物を取り込もうと物干を見たらタヌキが平行棒や平均台の練習をしていた。一匹はまだ干されているままだった。洗濯物を取り込んでお庭を見たら、タヌキの置物は天使や女神のオブジェのマネをしたタヌキに変わっていた。
「タヌキたちねえ、お庭のサクラが好きみたいなの。しばらくじっと抱き着いていた。もうすぐ満開になるよね。お花見も好きかなあ、ねえ聞いてる?」
あっけにとられて聞いていた義明の目の前に手の平を左右に振り春美が「目が覚めているの」とばかりに確認する。
「うん聞いてる。ずいぶんいっぱい出てきたんだね」
「そう、そうなの」とにっこり笑う。
間違いなく妄想であろうとは思うが、何となく本当のことのように話す春美に相変わらず義明はあぜんとしている。
「でもね、不思議なことがひとつ」
「なに?」
「洗濯物を干しているあいだ、ちょっとの間だったけど雨が降ってきたの」
そういえば札幌市内も午後に夕立の雨がふった。短い時間だったが、来店客が出入り口で雨宿りをしていた。
「雨が降るちょっと前に、タヌキがね、雨、雨、って空から雨が降ってくる動作で教えてくれたの。お日様が出ていたから雨なんて降るのかな、と思ったら本当に降ってきて。あわてて外に出て洗濯物を取り込もうかと思ったんだけれど、でもちょっとの間だったから、お洗濯ものとタヌキ一匹はそのまま干しておいたの」
そう言って春美は「あれはなんだったのかな」と不思議そうな顔をして天井をみあげた。
同じだ。空想とは違うリアリティ。空想ではないタヌキが存在するのか。それとも、雨も客の転倒も潜在的に人間が持っている予知能力のようなものなのか。想像力を働かせているうちにふたりとも感性が鋭くなっているのかも、そんなふうに義明は思った。春美が、
「ねえねえ、タヌキの話をもっとたくさんしたい。義明の知っているタヌキの話をあとで聞かせてね」
もとよりそのつもりだったが、あんまりこんな話ばかりしていると、気が変になった、と周囲から思われないだろうか。むろん、そんな話は周囲にするつもりもないが、それより自分たちが気が変になりはしないかと思う。現に昨日は従業員からいぶかしい目で見られている。横断歩道のことや、来店客が転倒したときのことは春美にはしないつもりだったが、しておいた方がいいだろうか。などと義明は思考を巡らせていた。
「お箸が止まっているよ」
春美に言われ、我に返り食事を続け、あとはタヌキとは関係ない普通の会話が続き、晩御飯の時間が終わってあとかたづけをし、春美は「先に布団に入っているから」と言って寝室に向かった。
今日も少し微熱があるという。昼間の雨に打たれたのだろうか。体調は回復の兆しが見えず、そこへ妄想を膨らます春美のタヌキばなし。「どうしたものか」と、ひとり居間のソファに座り考え事をする。
いままでの日常の中にはなかった妄想の世界。あのドームの重苦しい雰囲気から道路に出てきた野生のタヌキ、そして左手に持っていた石。あの石は居間のサイドボードの上、小皿の上に鎮座し義明たちを毎日見つめている。
就寝の時間となった。寝室では寝床で春美は義明が来るのを待ち構えていた。今日も少し赤い顔をしている。
「顔が赤いよ。熱は?薬は飲んだの」そんな義明の昨日と同じ質問には「いいの」とだけ答え、
「義明の知っているタヌキさんのお話しをお願いします」
かしこまった言い方でせかされる。義明は春美のそばに座って、あたためていたそのストーリー、続きを語ることにした。
昨夜、話の途中で終わっていたタヌキが宝物をくれるところから始める。クレームの帰り道に寄った林の中で、
「タヌキさんが出てきて、その石をくれたんだ。トコトコトコ、って走ってきて、二本足で立っていてね、とてもかわいかったんだよ」
実際はそうではなく、転んだ拍子に手にした石ではあるが、あの石はタヌキからの贈り物である、と義明は半ば決めつけていた。そこまで「入信」しなければ物語が続かないと思うからだ。
「あのタヌキたちはね、幸せな心の隙間を埋めてくれるタヌキなんだ。出てきてはなごませてくれるし、人を幸せにしようと頑張ってくれるんだ」
春美の顔が沈んだ。
「私が病気で不幸だ、って言うの?」
「あ、いや、そういうわけではなくて」
「もういい」
春美は布団を頭からかぶり、布団の中ですすり泣いた。
もともとの概要話には続きがあり、「主人公の女の子を見守る」と、いうものだった。これまで職場や通勤途中で出現していたタヌキ達のパフォーマンス的行動の妄想は物語本編とは軌道が異なる。「主人公の女の子」というのはタヌキ同様、仮想の設定だった。ただし義明自身、可哀そうな境遇の主人公を、春美に重ねていたのかもしれないし、義明がタヌキのパフォーマンスを語るのを聞いて、春美も義明が春美自身の可哀そうな状況を慰めようとしていると感じていたのかもしれない。そんなことを省みた。
義明は、春美は自身のことを不幸だと思いながら、幸福になりたいといつも思っているように感じていた。例えば散歩のとき、帰宅した自分を迎えるとき、寝床でお話しを聞くとき、その時々で何かひとつでも良いことをつかもうと探しているような気配がする。それを手伝うのが自分の務めだと義明は思う。だが春美は、「自分はこれで充分」「これ以上は無理」と決めつけているようなところがある。自身が不幸であることを認めながらもまだまだもっと幸福になりたいという気持ちを強く持たなければ病気には勝てないだろう。
春美にはカウンセラーが必要だった。義明にはそれが務まっていない。だから義明は妄想のタヌキ達にその力を借りようとしていたのだ。そう義明も自覚をしていた。せっかくのきっかけだった。むだにしたくない。タヌキの力を借りなければ、そう思うと、すすり泣く春美の布団に手をやり、
「悪かったごめんね。でも春美の体調が悪いと知って、タヌキ達が元気づけようとしてくれているんだよ。タヌキ達も困った顔をして涙目になっているよ」
少しすすり泣きの音がやんできた。
「大丈夫ですか、って、タヌキ達が少し寄ってきたよ」
「うそだよ、そんなのいるはずないでしょ」
少し布団と床との間に隙間をあけて、春美は義明が座っている向こう側をしばらく見ていると、
「そこにいるね」
「え、なに?」
一昨日の晩と同じ、義明が振り返って義明の布団一組と、壁と、床と、扉、しか見えなかったが、「うん、そうそう、そうだよ」と春美に調子を合わせた。少し鼻声で、
「ねえ、そこのタヌキさん、何か芸ができるの、踊るとか、化けるとか」
そんなことを言い出したと思ったら、ふふっ、と少し笑い、
「考えてる」
義明は春美が見ている方、寝室入口近くのスペースを見た。
「考えてる、考えてる、テーブル持ち出してきて輪になって、変わってるね」
義明には見えていなかったが、調子を合わせ、
「このタヌキたちはね、まだ見習いなんだ、でもいつか立派なタヌキになって、人を幸せにするまで頑張るタヌキなんだよ。むずかしいことが起きるとそうやって打ち合わせをするんだ」
「くくく、うなずいてる、うなずいてる」
「そうだよ、春美の病気もきっと直してくれるよね?」
そう言って壁のほうをふりむき、また、春美のほうを見ると、よどんだ顔のした春美は、
「消えちゃったよ、無理なんだよ、もう寝る」そう言って布団を頭からかぶった。
無理、何を言ってるのだ。かぶった布団の頭のあたりに問いかけようとすると、
「ねえ」布団の中から春美が義明に問いかける。
「え、なに?」
「名前は何て言うの?」
布団の中から春美が聞いてきた。義明があのドームからの帰り道で考えていたストーリーは、タヌキが魔力を使って小さい女の子が大人になるまで応援をし、その子がめでたく結婚して幸せになるのを見届けて消える、というもので、春美に聞かせる話としてはこれまでにない長編だった。ドームからの長い帰り道が義明に考える時間を与えていた。それぞれのタヌキには特徴があり、名前もある。
たまたま、春美が言った5匹という頭数と合致していたのは偶然として、わからないことが起きるとテーブルを出して5匹で話し合って解決することは、昨日義明が職場で見たと言って語ったことを引用しているのだろう。
少しずつでもふたりのタヌキ像に共通点が出てくると、共通のふたりだけの物語ができてくる。良い方向へ向かっているかもしれないと義明は感じた。
「ねえ、そこで先頭に立ってこっちを見ているあの子は、リーダーなの?さっきのテーブルはどこいっちゃったの?話し合いのときだけ出てくるの?」
春美が布団の隙間から顔と右手を出して問いかけた。春美が泣き止み少し声に明るさが出てきた。妄想でも空想でもなんでもいい、現実逃避かもしれないが春美をとにかく元気にしたかったので、これまで考えていたタヌキ像を春美と共有することにした。
「うん、そうだね、リーダーというより長男なんだ」
「ふーん、みんな兄弟なんだね、それで名前はなんていうの、君しゃべれるの?」
「ああ、その子は」義明も春美が見ているほうを向き、
「その子は、エゾティっていうんだ」
「エゾティ?エゾタヌキでエゾティなの?どんな字?」
「エゾはカタカナで、ティはアルファベットで小文字のtだよ」
「え、なんで小文字?」
「まだ未熟者だからだよ。人間の言葉を勉強しているけど、まだダダしか言えないんだ。『だだだだだだだ、たぬうきっ』ってね。立派なタヌキになれるよう毎日勉強しているんだよ」
「ダダダ?」
「そう、人間の言葉をあやつって呪文を唱えられるようになったら小文字のtは大文字のTにしてもらえるんだって」
「ふーん、昇格の制度でもあるの」
「そう、タヌキの先生がいるんだよ」
「先生の名前は?」
「エゾティ」
「同じじゃない?」
「いや、先生は漢字で蝦夷、亭主の亭で蝦夷亭だよ」
「そうなんだぁ、タヌキの学校があるんだね。おいエゾt、君はまだ未熟者なの?」
そう春美は壁の方に問いかけ、まるで返事が返ってきたかのようにうなずくと、
「そうなの、まだ修行中かあ、ふーん、ところできみはどうしでダダしか言わないの、え、大王様に似てるから?何それ?」
一瞬義明は氷ついた。まさか、どうして。長男のエゾtは春美に似てダダをこねるから、「ダダダ」としか言わない、そして、エゾtは主人公の女の子のことを「タヌキの大王」だと信じている、そう描いていた話のくだりはあったが、まさか、春美は春美が幻想のように見てダダ会話をしているタヌキがダダ語で「大王」と言ったと言っているのか。
「まさか」そう義明がつぶやくと、
「あれ、また消えちゃったよ、義明は見えていたの、見えていなかったの?」
ためらった。なんといえばいいか。
「もう疲れた、寝るね。大王って何だろうね。また出てきたら聞いてみようっと」春美はうつぶせになり顔を向こうに向けてその夜の会話は終わった。
タヌキならぬキツネにつままれたようだった。春美がタヌキの幻を見て、幻と会話をしていたのは間違いないと思った。熱のせいでぼーっとしていて、以前義明が春美にしたかもしれない話を思い出しただけのことだろう。もう少し調子を合わせ元気づけるべきであったかもしれない。
「見えていたの、見えていなかったの、か、そうだな」
見えていると信じなければ消える、というか。見えていないと思ったら、うつつから覚めてしまうのかもしれない。見えていないような義明の気配を感じた春美が覚めてしまったのだろう。この話はもう、これっきりにしたほうがいいかもしれない。義明はそう思った。
「それにしても」
どうして大王というワードが出てきたのか、自分のこれまでの春美との会話では大王などという言葉を発した覚えはないが、あるいは発したことがあったのか。
「少し疲れているのかな」苦笑いし、今日のことは忘れようとするかのように義明は寝室の明かりをけし、寝床についた。窓の月は西に傾きはじめていた。
同じ月を洞窟の入り口でシーマが見ていた。オジロウが声をかけた。
「目が覚めたのか」
「ああ、オジロウ、感じたか」
オジロウはやや渋い顔をして、
「ああ、かすかに、だがいつもの気のせいだろう」
「そうだな、だが今までにない何かだと思わなかったか?小さいが希望の灯かもしれない。いずれにしても待つしかない」
洞窟の中ではろうそくの炎がゆらめいていた。二体の精霊はあの大戦後、秘境と呼ばれるシレトコで傷をいやしながら時を待っていた。
翌朝、春美はふつうに起き上がり、義明と一緒に朝食をとり、掃除や洗濯を義明とふたりでこなした。春美はたまにしんどそうな顔をしてみせるが義明には大事ないように見えた。
義明は休日だったので春美を病院へ連れていこうと思っていたが、春美はがんとして聞き入れなかった。仕方なく病院へ行くことはやめにして、天気もよいのでドライブに行くかと誘ったが「今日は家にいたい」と言って、いつもより念入りの掃除、というより模様替えをしはじめていた。タヌキの居場所をつくるというのだ。
「昨日はきゅうくつそうだったから」
と、寝室の済のほうにあった家具を力任せに寄せて、タヌキが5匹でくつろげそうなスペースを作った。居間では食卓テーブルの横に置いてあったポータブルのテレビを食器棚の横へ移し、タヌキが5匹席に着けそうなイスの配置を考えている。庭を向いていたソファはキッチンの方へ向きを変え、キッチンから食卓テーブル、ソファまで皆の顔が見える空間にしている。
義明はなんとなくせっせと楽しそうにして見せてくれる春美の顔を見て、そんなタヌキごっこもいいか、と思い、春美の想像力についていくことにした。タヌキが春美の作業を手伝う様を想像してみたりもした。
「ねえねえ、いつもくっついているその2匹は名前、なんていうの?」
「え、ああ」
また少し意表を突かれてドキッとした。義明が空想していた5匹のうち2匹はまさにいつも離れず一緒にいる想定だったのだ。平静を装いつつ答えた。
「うん、エゾリンとタヌリンだよ。エゾリンが女の子で、タヌリンが男の子」
「へえ、エゾリンと、タヌリン、かあ、うふふ、なんか照れて、もじもじしているよ。ふたりともとっても優しいの。お手伝いをしようとしてくれるの。でもうまく物に触れないみたい。未熟者だからかなぁ」
そう言って春美は人差し指でそのタヌリン、エゾリンの鼻の頭を突っつくしぐさをする。
「エゾリンはとっても優しくてしっかりもののようね。でもいつもタヌリンがそばで支えているって感じなのかな、偉いね」
そう、そのとおり。義明はそう思った。敵対するタヌキや、他の動物や人間との争いをやめさせようとがんばるのがエゾリンで、そのエゾリンを守る役目をタヌリンが担っている、というような設定だった。
偶然すぎる気がするが、これまでの話の中でそのようなタヌキ像になるのは必然なのか。やはり似た者夫婦だからなのか。ただ、イキイキとした春美の様子は嬉しかった。タヌキとの生活を春美と一緒に描くことにしよう。共通の話題がひとつできたということだ。いい家族ができそうだ。そう義明は思った。
空想の世界、他人が見たら間違いなく変に思うだろう。けれども夫婦ふたりでひとつの物語をつくるのは悪くない、きっと楽しい。
「じゃあねぇ」そう言って春美が足元を見て、
「この子は、名前は何、とっても甘えん坊で、昨日も夜中じゅうじゃれてきたの。女の子でしょう。あ、本が読みたいみたい」
そう言って春美は書棚から義明がクリスマスにプレゼントしてくれた絵本を取り出してラグマットの上に置くと、
「わかる?そうか、やっぱり触れないみたいだね。あ、エゾtが読んできかせるの、偉いね。」
その子はね、義明もその絵本の方を見て、
「ポンちゃんだよ。言葉や頭の中で描いたものを空中に浮かべて実現する魔法を覚えようとしているんだよ」
「へえ、ポンちゃんすごいね。じゃあ、花火、って想像して花火を出したりするのかな?」
見ている絵本はクリスマスに花火をあげるサンタのお話しだった。春美が絵本の置いてある手前あたりをみつめ、
「うんうん言ってる。でもね、ポンちゃんもエゾtも本がさかさまだよ。」
そう言って絵本を180度まわし、2匹に「ここから縦に読んでいくんだよ」と、そこにいるのであろう2匹に話しかけている。そうかと思うと、
「じゃあ」
春美が今度は窓辺のほうを見て、
「あそこで何となく落ち着かない子の名前は何?外を見張っているのかなぁ。でもあの子もとても人なつっこいよ。ポンちゃんより下の子?」
義明は少し薄気味の悪ささえ感じていた。どうして、自分の空想した通りのタヌキ像なのだ。
「ねえ、この子男の子?」
「ああ、タヌタヌだね。男の子で末っ子だよ」
そう言いながらも戸惑う。自分は昨夜無意識にどんなタヌキかの話までしていただろうか。春美はタヌキ5匹とも、義明が想像していたイメージに近いタヌキ像を描いている。タヌタヌは冒険心が強くて警戒心も強い。いつもみんなを守ろうと油断がなく、そのため落ち着きがないようにも見える。
「ふうん、タヌタヌは窓から外を見て何か警戒しているみたいだね。悪いタヌキさんでもいるの?それとも、義明が何か悪い空気を連れてきたとか?」
春美は風水や占いに凝っていた時期があった。自分の病気も悪い『気』のせいかと思いながら、盛り塩をしたり、鏡を凶方位に置いたり、カーテンの色を変えたり。
その5匹のタヌキに関しては春美にとっては良い空気のようだ。義明は、あの場から悪い空気を一緒に連れてきていない、と言いきる自信はない。悪い空気と春美に言われ、先日の重々しいドームの感覚を思い出していた。あの廃墟のまわりによい運気が漂っていたとは思えない。それと「悪いタヌキさん」が登場するという点でも義明のたてたストーリーに沿い、的を得た春美の言葉だった。
義明は5匹のタヌキと敵対、というか、5匹のタヌキとのバランスを考え、悪役のタヌキを物語に設定していた。イタズラ好きなそのタヌキはときどき現れては食器を壊したり、物を隠したりして主人公の女の子を困らせるのだ。義明はちょっと真顔で、
「そうなんだ、悪さをするタヌキがいて、ね」そう言いかけると、パリン、春美がテーブルに置こうとした茶碗がすべって床に落ちて割れた。春美があぜんとしてドアの向こうに見える隣室の窓を見た。
「びっくり、義明も見た、タヌちゃんたちってシーシーシーって声で相手を威嚇するんだね。もう、悪タヌキの仕業で茶碗が割れちゃったよ」
と、茶碗のかけらと隣室を交互に見ながらつぶやいた。
「でもタヌキってシーシー鳴くもんなんだ、ね」
春美の顔が真顔になっていた。
「そうだね」
そういう義明の複雑な表情を見て、春美の目が一層真剣になった。そうだね、現実と空想の世界がひとつに交わることを認める一言だった。
「昨日の晩からあの子たちずっといるの。空想じゃない本物だよ。ちょっと怖い、でも好き。はっきり見える。義明にも見えるでしょ?」
うなずけなかった。認めてよいかどうか、確かに怖い、でもわるい気はしない。ふたりの足元には2匹ずつのタヌキが確かに見える。妄想のタヌキではない。確実にこの世に存在すると思えるタヌキだ。1匹は隣室から逃げた者を警戒してドア越しに立っている。足元の2匹ずつは、両手を広げ、腰を低くして隣室をにらんでいる。夫婦ふたりを守ってくれているのだ。
こうしてタヌキたちはこの世に生まれ、この世の中
について学びながら成長をしていくのです。
それからというもの、夫婦ふたり、妄想ではない『そのタヌキ』の出現を楽しみにするようになった。はじめのうちはタヌキが出現するときのパターンはいつも同じであり、つまり絵本を見、もじもじし、警戒する、ということの繰り返しであって出現する時間は少なかった。やがて義明と春美がタヌキはこう、という空想を働かすとそれに沿う動作やパフォーマンスをしてくれる、ということがわかった。つまり、タヌキたちはまだ未熟、というより、生まれたての赤ん坊のようなもので、育児めいたことをするほどいろいろな行動をしてくれるようになる、ということのようなのだ。義明が、
「タヌキたちがじゃれてきたとき、お腹をなでてあげると仰向けになって喜ぶんだよ」
「まあ、なんか子犬みたい」
そんな会話をすると、次に出てきたときはおなかを見せてじゃれてくれる。春美が
「タヌキは朝晩欠かさずに歯磨きをするからとても歯が丈夫なのよ」
そういうと、朝晩、タヌキたちは歯磨きをする姿を見せてくれて、
「歯磨きをしたらパジャマを着てお休みなさいと言って寝るんだよ」
と言えば、歯磨き後にはパジャマ姿になって正座をし、
「ダダダダダダたぬき」「えぞりんえぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽこぽこぽん」「たぬたぬたぬたぬたぬ」
と、それぞれ
「おやすみなさい」
の意味のタヌキ語を発しながらおじぎをし、春美のそばに固まって寝る。
義明と春美は競うように、タヌキはこうで、ああだ、と空想や想像、というよりも、創造力をはたらかせ、タヌキたちの人格形成に夢中になっていた。
空想の具現化だけでの存在ではないようだ。タヌキたちは義明や春美の性格や知識や、それぞれのこれまで生きてきた中で学んできた世間的な常識を、ある程度とりこんでいるようだった。外へ散歩に連れ出し、春美が好きなクロッカスの花を見かけるとポンが指をさして
「ぽんぽんぽこぽこ」と「あそこに咲いているよ」と教えてくれる。
義明は極度なネコ嫌いだった。子供のころネコに頭を噛まれたことがあるのだ。そのせいか、散歩の最中にタヌキ達がネコを見かけた際、みな春美の側に隠れ、ネコが通りすぎて少し遠くに行くと、「シーシーシーシ」とネコを威嚇した。
春美はキュウリが苦手だ。匂いを嗅ぐのもイヤだと言う。だからタヌキ達もキュウリを見かけると口や鼻をふさぐ。もっともキュウリはめったに食卓にはあがらない。ただ義明が好きなのでたまに酢味噌和えなどにして出されるが、その皿めがけてタヌキたちは「シーシーシー」と威嚇する。
タヌキ達は蚊が嫌いだ。蚊の羽音を聞くと興奮する。これは義明に似たのであろう。
タヌキ達は何故か掃除機が嫌いだがこれは謎だ。吸い込まれそうな気がするという。掃除機が動物のように見えるのだろうか。春美が掃除機のスイッチを入れると「シーシーシーシー」と言って棒でたたこうとする。
義明も春美も自然が好きで、花や鳥や風や雲を愛でた。そのせいか、タヌキたちもサクラの花をめで、小鳥のさえずりに耳をやり、そよぐ風にここちよさを感じるしぐさをし、空の青さや星のまたたきを楽しむような表情を見せた。
選挙カーが公園に立ち寄り、演説がはじまるとややしばらく耳を傾け、神妙な顔をして首をかしげるようなしぐさは義明そっくりだった。鮮やかな色をした毛虫が道のわきを歩いているのを見て顔をしかめるタヌキたちの表情は春美のそれにそっくりだった。
冗談めいたこともよくしてくれる。毛虫を通りすぎたあと5匹で地面をはって毛虫のものまねをしたり、噴水のまわりに立って小便小僧のマネをしたり、春美がちょっと小石につまずいたりすると、5匹もつまずくマネをしてからかうようなちょっとした悪ふざけもした。
ふたりには5匹が見えていたが、他の人の目にはわからないかといえば、そうとも言い切れない。なんとなくこちらを気にして振り返る人がいる。散歩中のイヌなども気にしてか、じっと見つめていることがある。義明の設定では人を幸せにするタヌキであり、人の寂しさや憂いにより生じる心の隙間を埋めるために現れる幻、だからこのタヌキ達の姿が見える人たちは何かのよりどころを求めている人達かもしれない。春美と自分は、素晴らしい心のときめきをもたらす宝物を手に入れたのだ、そう義明は思った。
「あ、カラス、こっち見ているよ」
春美がエゾ松の枝にいるカラスを指さした。タヌキたちがおじぎをすると、カラスもおじぎをしたように見えた。
「あのカラス、カラリンコかしら」
「うんそうかなあ」
公園には顔見知りのカラスがいるのだ。義明も春美も動物はわけへだてなく好きだ。タヌキ達もそうあってほしいと思っていた。
義明と春美が住む住居は札幌市の郊外にある住宅街の更に外にあり、そこは自然ゆたかな場所であった。たまにキタキツネやエゾリスや野ウサギをみかけることもある。居間から外に出られるベランダには義明が作ったバードテーブルがあり、雀やシジュウカラがエサをついばみに来る。義明も春美もそんな環境を気に入っていた。タヌキ達も気に入っているようだ。タヌキ達の姿が家にないときは、タヌキ達はきっとその辺の野原や林で遊んでいるのだろうと春美は考えていた。
タヌキ達の「人格」は、少しずつではあるが一人歩きをはじめているように見えた。ふたりの意思とは無関係な行動をとることがひとつ、またひとつ、と増えていた。
たとえば義明が寝坊をしていると頼みもしないのに目覚まし時計がわりに、
「たぬたぬたぬたぬたぬたぬたぬたぬ」と耳元でつぶやいたり、
「ぽんぽこぽんぽこぽこぽん」誰か来たみたいだよ、と玄関を指さしたり、
つまりこのタヌキたちはそれぞれ意思を持ち始めているのだ。
庭に痩せたキツネが入ってきたことがあった。ケガをしているのか右後ろ脚をひきずっているように見える。野生のキツネやタヌキやウサギなどは一般住宅で保護することはできない。特にキタキツネは家畜やペットにも影響する寄生虫を体内に宿していることがある。この近隣も隣近所が空き地を挟んでまばらに建っているとはいえ、ネコや犬を飼っている家主に、キツネを義明が保護していると知れたら市から指導を受けるばかりか、このキツネも殺処分とされかねない。
「可哀そうだけど放っておくしかない」そう、義明や春美が思っていると、タヌキたちがそのキツネへと近づいていって、「こっちへおいで」と誘導している。タヌキたちが戻ってくると、
「だだだだだたぬうきたぬうき」キツネを安全なところへ連れていったよ、と説明してくれた。夜露をしのげて人間に見つからない場所を教えてあげた、という。
このお話しに出てくる、カムイ、精霊、と呼ばれる不思議
な存在は、日本中いたるところにいて、困っている生身の
動植物に力を貸すという働きをするのです。タヌキたちも
本能的にそんな行動をとっていて、義明さんや春美さんを
助けようとするのも、そのせいなのかもしれません。
さらに義明さんと春美さんがタヌキ達の理性なり感性なり
を形成する手助けをしていることになるのですが、そこが
他の霊的な「生き物」と大きく違うところです。人間を介
して派生したイキモノという点で。やがてタヌキたちは自
然界と向き合うようになると人間と自然界のはざまで大い
に戸惑うことになるのです。
自然界と向き合う人間がそうであるように。
タヌキたちは本能的に傷ついたキツネを助けた。足をひきずり、片目をつむり、毛が生えそろわず皮膚がむき出しになったキツネは容易に元気になるはずがないのは明らかだった。どこかの病院や保健所に知らせるという方法もあったかもしれないが、義明も春美も安楽死を宣告されることを恐れた。仮に義明や春美が一時的にそのキツネを保護し、再び野生に返すとしたら、その際には人間界に馴染んでしまった野生のキツネには自然界の厳しい掟が待つかもしれない。
自然界の定めにそのキツネもタヌキたちも従いつつ、現状において最良なのが当座雨風をしのげる場に連れていく、ということまでだったことに、義明も春美も異論はなかった。キツネを保護したというタヌキ達の話を聞き、ふたりは「この子たちはいい子だ」そう感心する。
野生のタヌキはキツネと同じイヌ科なのだが、この5匹のタヌキはイヌのような動きはしない。たまに四つ足で走り回ることはあるが、義明が「お手」をさせようとすると、春美が「犬じゃないんだからやめて」と義明を制する。春美に義明が、
「じゃあ毛づくろいとか、片足あげておしっことか?」と聞くと、
春美がこたえる前に、
「しないしない」と、タヌキ達が首を振る。
「じゃあトイレはどこでしているの?」と義明が聞くと、
「ぽんぽんぽこぽこぽん」といってトイレの方を指さす。
「トイレの仕方を教えなきゃね」と春美が言うと、
「たぬりんたぬりんたぬりん」「えぞりんえぞりんえぞりん」二人のを見てもう覚えた、という。
「流すのはどうやっているの?」と聞くと、みなで恥ずかしそうにモジモジする。
タヌキ達は動物の姿をしながらも擬人化の過程を経ているのだが、それは義明や春美がわが子のように接しているからだと義明も春美も思っていた。自然界のおきてを破る行為なのかもしれないなどとは考えていなかったし、世界の秩序はそれを容認していると、心の奥底から信じこんでいた。
公園のカラスのように、あのキツネのように、タヌキ達も成長をしたらやがてそれぞれ1匹ずつ巣立っていくことになるのだろうか。できればこの家族がずっといっしょに長く暮らしていけますように、そう義明と春美は心に願っていた。
その日、朝の散歩から帰ると、義明は春美と朝食をとり、
「行ってきます」
「だだだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽんぽこ」「たぬたぬたぬたぬ」「行ってらっしゃい」
春美とタヌキ達に見送られ仕事に出かけた。春美は掃除や洗濯を済ませ、軽い昼食をとると少し眠くなり、ソファで休んでいるとタヌキ達もそのまわりで居眠りをはじめた。触れることはできない、ただ心は通っていると春美は感じた。
タヌキ達とは二十四時間ずつと一緒ということではない。たまに出てきてたまにいなくなるを繰り返している。今日も掃除や洗濯のときには姿はなかったが、春美がソファに座ると現れた。朝晩の歯磨きタイムもいるときといないときがある。夜もいつも一緒に添い寝するというわけではない。ただタヌキ達が義明や春美と一緒に過ごす時間は毎日確実に増えていた。
春美がソファにもたれて少しうとうとし始めたとき、「とんとん」ドアでノックをするような音がした。確実なトントンではなく、どちらかというと、ガサガサという弱い響き。ドアのかたわらで、エゾリンとタヌリンが「誰かきたみたいだよ」と指を指している。何かと思い、ソファで就寝中の3匹を起こさないよう立ち上がって、玄関のドアをあけると、イヌ。
「はじめまして、僕はイヌのわんこちゃんです」
「・・・」
しばらくの沈黙が続いた。今度はなに?犬、日本語をしゃべっている。昨日犬の話題が出たからか、そう思いまじまじとその犬を見つめる。声はどこから出ているのか?テレパシーのようなものなのか?
「お休みのところすみません。ご挨拶がしたくて。よろしかったら和尚さんのところへご一緒しませんか?」
頭をなでると気持ちよさそうにした。生身の犬だ。北海道犬だろうか、きれいな赤毛、中型の賢そうイヌだ。首輪はつけていない。招かれるままサンダルをはき、「おるすばんしててね」と、家にタヌキ達を残して、その犬についていく。
家の裏手、林の中の細い小道を進むとすぐに開けた土地に出て、お寺らしき建物が見えてきた。
「え、こんなところにお寺なんかあったかしら」
イヌと一緒に近づくと、さい銭箱に龍の彫り物、そして鈴緒。おそらく義明がイメージしたものだ。お堂が開いて中から白いひげをたくわえた坊主頭の和尚さんらしき人間が出てきて、
「和尚です」と一言。しばらくの沈黙が続いた。
義明がイメージしたお寺と和尚。でも本堂は鈴緒のある入口しか完成していないようだ。扉の向こう側には空き地と林が見えている。この人間は、この和尚は、生身ではない。さっきのイヌとは違う。透き通っている。触れてみようなどと思わないが、おそらく触れることはできないだろう。タヌキたちのような愛くるしさは感じない。人間の姿をしているし、会話がなりたつ。幽霊とも違う。愛くるしさはないが親しみを感じる。ひょっとしてタヌキが変装をしているのかとも思い、ひとしきりじろじろと観察をして、
「和尚さん、はじめまして。和尚さんは普段はここで何をされているんですか」
「お寺の和尚をしています。お経を読みます」
「そのほかは?」
「お寺の仕事をしていますよ。お経を読みます」
「そのほかは?」しばらく間をおいて、
「床の拭き掃除をします」
「床、まだできていないようですけど」
しばらく無言でいると、
「お寺の仕事をしています」
何となくかみ合わない会話をしていると、そばにタヌキ達がいることに気が付いた。
「このタヌキ達はご存じですか?」
この質問には、よくぞ聞いてくれましたとばかりに勢いよく、
「立派なタヌキに育つように世話をしています。お寺はタヌキの学校です」
と、言う。
「タヌキの学校ですか。それじゃあ、先生は?蝦夷亭もいるの?」
「蝦夷亭先生とBigポン先生がいます」
「え、また新しいタヌキ。あ、その大きいのがそう?」
本堂の両脇にいつのまにか、本堂の屋根に届きそうな巨大な「信楽焼き風」のタヌキが、ぬうっと2匹立っている。微動だにしない、身じろぎもしない。頭には被り笠、手には白い徳利を持っている。春美が前後左右から、その大ダヌキを観察する。わんこちゃんも興味深そうに春美と一緒に観察している。
大きなしっぽ。徳利にはそれぞれ、「八」の字とその裏、または表に「蝦夷」という文字、「Big」という文字が縦書きで入っている。
いつのまにかタヌキたちはそれぞれ学校机の席につき、何かを学ぶような姿勢をしている。
「そうなんだ、ここでお勉強しているんだね。ん、6匹いる。後ろの席にいるのはお友達かな?」
じっと見ていると後ろの席の子がカエルをつまんで、エゾリンの頭に乗せた。エゾリンが頭でもぞもぞしているカエルに気が付いて、泣き出すと横に座っていたタヌリンが後ろを振り向いて「シーシー」言っている。
「あらあら、一番後ろの席にいるのが悪タヌキだね?困った子。でも悪ちゃんもなかなかかわいいじゃない」
タヌキ達のほのぼのした様子を見ていると、たたたたた、2匹のエゾリスが地面を這うようにやってきて、
「うわあ、大王様、すごい、こんな立派なタヌキ見たことない」
「は、また大王って言われちゃった。なんで私が大王なの?立派なタヌキですって?」春美の疑問には答えず、
「僕はリスリン」
「僕はリスたんです」
と言って、すりよってくる。このリス達も生身の春美に触れることはできない、タヌキと同じ系統のようだ。
「ぼくたち本堂で和尚さんの手伝いをしています」と、説明してくれた。
「そう、おりこうさんなリスさんなんだね、よろしくね」
「はい」
2匹一緒に元気な返事をした。このお寺、いいな、素敵、
「でも本堂が早く完成するといいのにね」そうつぶやくと、すうっと風のようにお寺もリスもタヌキ達も消えた。さっきのあの犬を探したがいない。
「床とか本堂とかがないなんて余計なこと言っちゃったかな」
涼やかな風が春美の髪をゆらした。サクラの季節は過ぎて、新緑がかおる初夏の風が辺りをすがすがしくめぐる。「また来ようっと」春美は住宅地の方向へ歩き、少し迷いながら我が家へ着いた。家に入るとソファでタヌキ達がすやすやと寝ている。「帰っていたんだね」春美もその中に割りいるようにして座り、うとうとと寝はじめた。
気が付くともう夕方で、キッチンには隣室の窓からの西日が差していた。ありあわせのもので夕飯の支度を整えながら、義明の帰りを待った。ふとめまいがして食卓テーブルのイスにもたれていると、タヌキ達がまわりにいて、あたりをきょろきょろと見まわしている。
春美は何か薄気味の悪さを感じていた。何かいる。西日が落ちた隣室の窓にカーテンをかけようと窓に近寄ると、すーっ、と黒い影のようなものが敷地の外を右から左へ、左から右へと動いてみえる。家の中に入ろうとしているのか、そのままゆっくり敷地の外側をぐるりと大きくまわり、また、西日が入る部屋の前あたりにきた。
どうやら敷地の中には入らない、というより、「入れない」様子だ。春美の横にきていたタヌキ達は一斉に「シーシーシー」とその黒い影を威嚇した。黒い影はそのまま向こうへ向かい、林の奥へ入って行った。タヌキ達は険しい顔をしてまだ窓の向こうの林を見ている。
「何、悪タヌキなの?」春美がタヌキ達に問いかけていると義明が帰ってきた。
「ただいま、どうしたの?」と聞くと春美が、
「うん、何かね、黒い影みたいなものを見たの。タヌキ達が警戒しているみたいなの。タヌキ達のお陰なのかな、敷地の中には入れないみたいだった」と答えた。
義明はまたあのドームのことを思い出していた。あの日、タヌキと一緒に何かよくないものを連れてきてしまったのだろうか。しかし春美が、
「でもね」少し考える様子から、
「私、この家にいると安心。この家にはあの黒い影は入ってこれない気がする」という。義明の両親やご先祖様が見守ってくれているのかもしれないと、義明も春美も思った。そして義明が仕事で外出している時間、春美がひとりぼっちでいた以前とは違う。タヌキ達がいることが義明も春美も、とても心強かった。
タヌキ達は義明の帰宅でほっと安心したようだ。義明のほうを見、正座をしておじぎをし
「だだだだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽこぽん」「たぬたぬたぬたぬ」
一斉におかえりなさいという意味のタヌキ語を発した。
義明はにっこりしてもう一度「ただいま」と答え、
「黒い影かあ」とつぶやきながら上着を脱いでいると春美が、
「そうだ、今日ね、和尚さんのところへ行って、リスりん、リスたん、それと蝦夷亭先生と、Bigポン先生にあったよ」
「え、そうなの?」
「うん、早く本堂を作ってあげたほうがいいよ」
「うーんそうだね、まだ入り口しかイメージしていなかったっけ。でも春美ひとりでよくそこへ行けたね」
びっくりというか、またまた意外な話に義明はあぜんとしていた。自分さえそのお寺をどの場所に建てたか正確に説明ができない。自分の想像通りのものがどこかに出現して、そこへ春美がたどりついたということなのか。
「うん、イヌのわんこちゃんが案内してくれたよ」
「え、なに?」
「だから赤毛のかわいいわんこ、お寺まで連れていってくれたの」
「犬?」
イヌは義明は空想していない。物語にも登場しない。「どうして?」ふたりで顔を見合わせた。タヌキ達もけげんな表情になり、出現した円卓のテーブルにつき、それぞれ顔を見合わせた。
タヌタヌが両手両足をのばして床に寝ている。本人は飛んでいるつもりで、飛ぶ練習をしているのだ。
義明は未熟者のタヌキ達は練習を重ねて能力を身に着けていく、というストーリーを設定していた。エゾtは言葉を使って呪文を唱える、エゾリンは変身、タヌリンは超能力を使い予言や予知もできる、ポンは思い描いたものを形にする、そしてタヌタヌは空を飛ぶ。ただ、そんなに簡単に能力を身に着けることはできず、いくつかの行程を経てその域にたどりつく。修行は近隣の山中で始まり、北海道の数か所をめぐって家へ戻ったときにはパワーアップをしている。そんな少し気の長い想定をしていた。
悪タヌキはイタズラ好きで困った子ではあるが憎めないキャラクターだ。悪タヌキも5匹に合わせて少しずつのパワーアップをし、結果として対抗する5匹は成長していく。
更にタヌキたちには弱点を設定していた。まずウサギに弱いということ。義明が空想した近所に住む野ウサギは二本足で歩き、火打石をカチカチと鳴らして悪さをしたタヌキをこらしめる。パワーはタヌキのほうが上だが、ウサギには喧嘩をしてもどうしても勝てない、という設定だった。
そして義明が苦手なネコ、春美が嫌いなキュウリもタヌキたちにとっては時に脅威となる。苦手や弱点がなければ成長過程を築けないと考えたのだ。
タヌキ達は掃除機がきらいだった。そんな設定は義明も春美もしていない。掃除機が苦手な理由はよくわからないが、これは早く克服して欲しいと思う。掃除のたびに「シーシー」言う。
タヌキ達はけっして義明や春美に制御されるがままではない。そして、それぞれが早く能力を身に着けようと頑張っているようにも見える。この不思議な生き物にも本能のようなものがあって、時折見える黒い影はタヌキ達にとっては天敵のようなものなのかもしれない。どうしてタヌキ達が自分たちを守ろうとするような行動をとるのか、思えば不思議なことであった。逆に、義明も春美もタヌキ達を守りたいという気持ちが強くなっていた。
悪タヌキではない違う何か。イヌの出現もそうだが、ふたりはこの先なにが現れて何が起きるのか不安であった。義明が当初考えていたストーリーに悪霊めいたものは登場しない。悪霊と戦うようなシーンも考えてはいなかった。実際に目の前にタヌキ達が登場してから義明と春美にとって彼らは大切な家族であり、道具でも戦力でもない。もちろん大判小判を掘り当てるとか、ギャンブルで勝たせてもらうような発想もしてない。ただ一緒にいて癒されているこの日々を幸せと感じている。
タヌキ達があらわれてからの生活は楽しく、それまで生きてきたなかで味わったことのない充実感であった。特に春美は早くに両親が他界し、叔母の家に引き取られていた時期が長く、孤独であった。義明との結婚で家庭を持ったことは幸せだと思っていたが、家族を持つ喜びをいまはじめてかみしめているのだ。
「こらっ」春美がどなった。悪ダヌキがまたこっちを見て、あっかんべーをしている。
「わるわるわるわるわるわる」
悪タヌキは「わるわる」しか言わない。悪タヌキは1匹ではあるが5匹分くらいのパワーがある、義明の設定だったが、「モノに触れることができる」のは想定外であった。いまは洋服箪笥から義明のパンツを引っ張りだして頭にかぶって走り回っている。
タヌキ達が出現してからタヌキ達に癒される日々ではあるが、可能であれば触れあうことができ、だっこをしたり、頭をなでてあげたりしたい、一緒に食事もしたい、と思っていたが、空想からの産物である以上はそれもかなわないものと半ばあきらめてはいた。反面、成長するにつれてそれがかなうものかもしれない、と期待もしていた。悪タヌキは成長が早く、能力が高いがゆえにモノに触れることができるのだとすれば、いずれは5匹とも触れ合うことができるのかもしれないと、ふたりは淡い期待をしていた。
タヌリンが悪タヌキを捕まえた。エゾリンが説教をしているが、エゾリンに、あっかんべーをして、エゾリンが泣き出してしまったのを見て、春美は悪タヌキにも触ることはできないが「げんこつをはるぞ」と見せた。悪タヌキは恐れ、涙目になり、その場から逃げ出そうとしつつ、おしりぺんぺんをして、またあっかんべーをし、
そして居間の窓をすりぬけて庭へ逃げたが待ち構えていた野ウサギが、
「カチカチ」
火打石を鳴らすと錯乱状態になり気絶をして消えた。見ると居間の中でも5匹が悶絶している。ウサギの火打石はけっこう強力だった。
起き上がったエゾリンをタヌリンがなぐさめている。ワルちゃんからの、あっかんベーがよほど悲しかったのか、あるいはウサギの思いがけない攻撃がこたえたのか、まだ涙をこぼしている。
げんこつをはる動作をしたその手を春美はながめていた。体罰というほどのものでもないが、子供をなぐるというのはあまりよい気持ちではないと思った。自分の父母はどうだったのだろうか。春美は両親からたたかれた記憶がなかった。兄弟げんかもしたことがない。そして触れることはできないがエゾリンとタヌリンを抱きしめるしぐさをして、2匹をなぐさめ、
「ねえ、エゾリン、ワルちゃんはふざけただけなの。エゾリンのこと嫌いなわけじゃないんだよ。今度ワルちゃんが来たら仲直りしようね」
横でタヌリンがエゾリンの涙をハンカチで拭くしぐさをする。エゾリンは泣き止み、「エゾリン」うん、わかった、と言ってうなずいた。
悪ダヌキは5匹が成長する過程で必要という義明の発想で登場している。ただ、春美も義明も、悪ダヌキには悪役を押し付けてしまい少しかわいそうな気がしてきている。
タヌキ達が落ち着いたのをみはからって、洗濯物を取り込みに外に出ると、敷地の外で「わるわるわるわる」悪タヌキが騒ぐ声がした。何を騒いでいるのかと春美とタヌキ達が道路へ出ると、さっきと少し様子が違う。1体の悪タヌキが2体、4体と分裂して10体となり、全員で
「わるわるわるわるわるわるわる」
と、わめいて通りを走り去っていった。春美にはそのとき悪タヌキが何を言って去っていったのかがわからなかったが、エゾtがこんなことを言った。
「だだだだだだたぬうきたぬうき」
つまり「5匹のタヌキと決闘だ、明日の夜8時にそこの公園まで来い」と言ったという。なんだか様子が変だ。時々悪タヌキはあらわれてはイタズラをするが、あのような暴力的な態度は初めてだ。5匹も少し困った表情をしている。円卓での相談が始まった。
義明が帰ってきて、そのときの様子を話した。義明の設定ではタヌキ達は分裂をすることができる。ただ、分裂する能力を身に着けるのは少しパワーアップしてからのことと思っていたが、モノに触ることができることといい、悪タヌキの成長は5匹に比べ想定より早すぎるという。また、分裂をした場合にはそれぞれのパワーは落ちる。パワーというのはそれぞれが持つ特殊能力のことで、悪ダヌキの場合はイタズラや意地悪だ。5匹の成長が遅くバランスが崩れてきているのであれば、何等かの対策を講じなくてはならない。
分裂したらパワーが落ちるはず、という義明の言葉に対して、春美が、
「でもさっきの感じだとよりいっそうパワーアップしたような感じだったよ。分裂してもそれぞれ弱くなったようには見えなかったけど」
と言う。悪ダヌキには1匹で5匹のタヌキに匹敵するパワーを設定している。分裂してなおパワーが増すとしたら「決闘」させるのは5匹にとって危険かもしれない。
「明日の決闘ってどうしたらいいのかな。ワルちゃんがそんなこと言うなんて全然想定外だなあ。」義明が腕組みをして考える。
相談中の5匹がこちらにやってきて、エゾtが
「だあだだ、だだだだ、だあだだだだ、たぬうき」
と言う。要するに、
「受けて立つよ。ワルちゃんの身に何かあったかもしれないから確かめなくちゃ」と言うのだ。ワルちゃんの身に何か起きる、ってどういうことだ。突然変異のようなものなのか。でも「決闘」は穏やかではない。
「私も行く。あまり過激なことするようだったらげんこつはってやるんだ」
春美が少し興奮気味に言った。だが、そう言い終わったあと、ふらり、と義明の腕に倒れこんだ。
「どうした、春美」
義明は春美をかかえて車に乗り込むと病院へ向かった。幸い行った先の病院が救急指定日であったので宿直の医者に診てもらえた。
「先生、春美は?」
「ああ、いまは落ち着いていますし、熱もありません」
ただ、そう言って義明の顔を神妙な顔でみつめ、
「少し症状が進行しているかもしれません」
「え、進行って?」
「私は担当医ではないので何ともいえません。明日精密検査を受けることになると思います。担当医からご主人が直接お聞きください」
気にはなっていたが、春美はひそかに通院をしていたのだ。そして、自覚症状もあり、医師からもある程度の診断結果を聞いていたのだろう。その晩は春美を病院に置いて帰宅することにした。ベットから春美は、
「ごめんね、でも大丈夫だから」そう言って義明の手を握り、
「ねえ、私ね、あの黒い影、タヌキ達がくる前から見ていたような気がするの。もしかしたら、タヌキに似た子たちもたくさんこの世にいるのかなあって思うの」
「そういうものが見れるようになったってことだね」
「うん、でもタヌキ達と会えてよかった。明日、退院して夜8時、公園にいってみんな仲直りしてもらうね」
「うんわかったよ」
「朝ごはんとかちゃんと食べてね」
「それじゃあ、おやすみ」病室を出て宿直の看護婦によろしく伝え、入院患者の面会時間、と、書かれた掲示を見ながら、
「明日退院は無理だろうな」と義明は憂鬱だった。階段を下りるとタヌキ達が待合室で心配そうにこちらを見ていた。明日また見舞いに来ようね、と言って5匹を連れ出し車へ乗せた。車から上弦の月がまぶしくみえた。澄んだ空だ。明日も天気だろうか。タヌキ達の決闘のことも気になるが、
「いまは春美を一緒に見守ろうね」と、助手席で不安そうに月を見るエゾtに声をかけた。
家について玄関をあけ、タヌキ達を中にいれ、振り返って月と桜の木を見た。
『黒い影を前にも見たことがある』そう春美は言った。義明は春美の言う黒い影を家の中でも庭でも見たことがなかった。夜中、庭の桜にカラスがいるのを見たことがある。闇夜のカラスと言うが、夜中に庭でカラスを見てもそれほど不気味な印象は持ったことがなかった。黒い影は春美の心の中に潜むものなのか、それともタヌキ達のような存在なのか。庭に塩をまくとか、お祓いをするとか、そんなことは思いついても実行しようとは思わなかった。タヌキは心の隙間に幸せをもたらす天使と、自身で決めたし、その通りの存在なのだ。不安や恐れの気持ちは黒い影に支配されてしまう。自分がしっかりしないと春美もタヌキも守れない。義明は、恐れない、負けない、と、気持ちをふるいたたせた。
朝、目がさめると、寝室には春美もタヌキ達もいない。台所に下りるとタヌキ達が割烹着すがたで何かしようとしていたが、
「朝食をつくってくれるのかい、ありがとう、でもいいよ、ソファに座ってテレビでも見ててね」
食欲もなかったが、タヌキ達が朝食をしっかり食べるようにという春美の意思を受け、朝食をちゃんと食べるようにと自分に諭しているのだと思った。しっかりしなければ。独身のころはいい加減な食生活であったが、結婚をしてからきちんと三度の食事をとることは心掛けていた。主菜、副菜と我ながら整った朝食を作り、タヌキ達に、じゃあ食べるね、と言って朝食をとった。
そういえば今朝のタヌキ達の食事は、と思っていたら、いつもの円卓に幻影ではあろうが義明がつくった朝食とほぼ同じものをならべて食べるしぐさをしている。タヌキとの生活がはじまってしばらくたった。不思議という感覚はすでになく、何か起きても「ああそうなんだ」と、それは偶然でも奇跡でも空想のたまものでもない、と思うようにしていた。奇跡という言葉は義明の頭からは消し、タヌキの存在を必然と思うようにしていた。この子たちにも、真理とか理想とか、食べ物のありがたみとか、仁義礼智とか思想めいたことも教えたほうがいいだろうか。でも、それ以前に自分自身も学習しないと、立派なタヌキになるよう導くことができない、そんなことを思いながら、たまにタヌキと視線をあわせては食事を進め、一緒に
「だだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽこぽん」「たぬたぬたぬたぬ」「ごちそうさまでした」と声をそろえた。
今日は忙しい。病院に行って先生の話を聞き、そのあと仕事へ向かって、夜8時の公園に間に合うよう帰宅するのだ。着替えをしながら、場合によっては和尚さんやウサギも助っ人に動員したほうがいいんだろうか、などと考える。
タヌキ達の弱点、ウサギに弱いということ。これは昔話で義明が知っている事実だ。だからウサギが悪さをしたタヌキをこらしめるようなイメージは以前からしていたので通用するかもしれない。そう都合よくウサギが出現すれば、ではあるが。
義明はウサギの幻影をうまくイメージができなかった。イメージしても決して居間や寝室には出てこない。出てくるのは常に屋外で庭。月を眺めるウサギの親子が庭に出てきたときには春美は喜んだがタヌキ達は無関心だった。義明は同じ屋根の下でウサギとタヌキが住まうという設定はしていなかった。義明の中にウサギとタヌキはライバルという固定観念が強いからかもしれない。そしてウサギはカメに弱いということ。カメもイメージしてはいるが、カメの正しい姿を義明はうまくイメージができないので出現はしない。
義明が空想する登場動物は限定的ではあるものの動物関係は少しずつ交錯してゆく。ただ義明の中ではタヌキ達は基本的に動物たちと皆仲良しだ。悪タヌキが反乱を起こすのは全く予期も想定もしていなかった。
タヌキ達はいつのまにか居間から消えていた。先に病院へ向かっただろうか。義明は車で病院へ向かうと、待合室で面会時間を待った。
春美が入院したこの病院は、札幌市の郊外に立地しているにしては大きくて立派だ。大手のゼネコンが行政から依頼を受けて建築をしたものだ。政治的な金の動きがあったのではないか、などという噂もあった。更に次は近隣に老人福祉施設の建設も同じゼネコンで予定されているという。それはともかく、まだ開業して間もないその病院はキレイであり、設備も充実していたことについては安心感があった。ただ、郊外立地のためかあまり患者で混み合っているという様子はなく、これで採算はとれるものなのか、よい医師を確保できているのか、と、余計な心配をしてしまう。
ふとあの日のお荷物物件を思い出す。ひょっとして同じゼネコンではないのか、などとまた余計なことを考える。落ち着かない。
春美が倒れたのはまさに青天のへきれきだった。のんき過ぎたかもしれない。ここは総合病院、産科もあれば末期症状の患者が休む病室もある。霊安室もあるのだろう。縁起でもないことを考えてしまう。ここは日常よりも生と死への時間が加速もするし鈍化もする場。相対性理論では速く進むと時間の進みが遅くなるなどというが、治療について時間を急げば春美の健康時間をゆるく長く進ませることができたのかもしれない。人生においてはふと気が付いた瞬間の急停車も急発進も予期せずに起きる。春美とはこの二年と少しの間、ゆっくりとした時間を過ごしてきたが、身体の中で知らず知らずのうちに病状だけが加速していたのだとしたら取返しのつかない過ごし方をしたと悔やまれる。春美になにごともなく、またいつもの日常に戻れることを祈らずにはいられない。
面会をすると顔色は昨日よりもよい気がする。
「タヌキは?」と聞かれ、
「ああ、居間で寝ているよ」とうそをついた。
「そう、タヌキちゃん達は元気なの?」
「ああ、朝食をちゃんと食べなきゃだめって言われたよ、それでね、あいつらも朝食の用意をしていっしょにいただきますしたんだよ」
今朝の朝食の説明をした。
「まあそうなの、あの子たちがいたら私いなくても安心だな」
「何を言っているの、早くちゃんとよくなって一緒に食事しようよ」
「うん、とりあえず今晩のことちょっと心配だな」
そんな会話をしていると、医師が巡廻してきて、今日のだんどりを説明してくれた。今日のところは検査で1日を要するから、今日中に春美が帰宅することはないということが確認できた。医師を見送ると、春美が、
「義明、もう仕事に行って、8時に間に合うように帰ってきてあげて」
そう強い調子で言われた。
「うんわかった」
「私、病院抜け出しちゃおうかな」
「それはだめだよ、任せて」
そういうと春美はうなずき、義明は仕事へ向かった。
「仕事を完璧にこなして、職場を早めに出て病院に寄ってから7時には自宅につくようにしよう」そう言い聞かせながら病院をあとにした。
仕事がやや荷重気味だったその日、効率よくこなすはずも焦りからか進まず、15分ほど残業をしてしまった。急いで職場を離れ、病院へ着いたのが7時15分、病室に向かうと「バスタイム」の札がベッドの頭のほうにぶらさがっていた。通りかかった看護師にここの患者は、と聞くと、
「ああ7時からお風呂の時間でしたね」
「元気そうでしたか?」
「そうですね、奥様ですよね、今日は検査だけでしたし」
看護師は立ち去り、義明はカラのベッドを見下ろし、とりあえず家へ向かうことにした。家に着くとタヌキ達はいない。呼んでも出てこない。
「あと20分くらいしかない。公園に行ってみるか」
悪タヌキが言ってエゾtが通訳した「そこの公園」とは義明と春美がいつも散歩をする、あのカラスがいる公園のことと思っていた。歩いて10分もかからないところにある。もしも違ったら、という疑念も頭をよぎる。行ってみると誰もいない。
上弦の月は昨日よりも地平に近く、木々のすきまに隠れようとしていた。街灯は薄暗く細かい虫がたかっている。
街灯の光は不思議だ。光だけが動いているかのようで、その他の全ては時間が止まっているかのようだ。昼間はいろいろな人が通り、声をあげ、動いていたであろう、その公園の中にいまあるもの全てがその街灯の光を浴びながら当たり前のように静止している。街灯や月がまるで光を浴びせて全ての動きを止め、そこへの人の侵入を拒んでいるかのようだ。
ひとつひとつ、淡い光に照らされ動かない遊具や花壇などを見ていると、ぽつんとタヌタヌが立っていた。タヌタヌが透き通って見える。動かない。タヌキ1匹でいるのは極めて珍しい。1匹だとパワーが薄れるのか。
「タヌタヌ、他のみんなは?」そうたずねると、
「たぬたぬたぬたぬたぬたぬ、たぬたぬたぬたぬ、たぬたぬ」と説明してくれて少し義明はびっくりして心臓の鼓動が早くなった。タヌキ達は春美の面会に行き、一緒に風呂に入ろうとしたら春美がいなくなったというのだ。
「みんなこっちに近づいているよ。約束の時間に送れないように一人で先に来たんだ」ともタヌタヌは言うが、おそらく春美もここへ来るのだろう。
「たぬたぬたぬ」
「え、来たって?」
タヌタヌが見つめるほうから、悪タヌキの一団がこちらへ歩いてきた。義明がイメージした悪タヌキはこんな険しい顔などしない。ちょっと悪い子、くらいのやんちゃな子、という想定であった。また、分裂は得意とするが、それは敵対する5匹に対し、イタズラを多方面からしかけてかく乱する戦術に使うものであり、5匹のレベルアップに呼応する進化、という予定であった。5匹はまだその域ではない。
「わるわるわるわるわるわる」
「たぬたぬたぬたぬたぬ」
「わるわるわるわるわるわる」
タヌタヌが「1匹ではない、じきにそろう」と言うと悪タヌキが「義明様まで味方にしてずるいタヌキめ」と卑怯者のようにさげすんだ。
「たぬたぬたぬたぬたぬたぬ」タヌタヌがお前たちの目的はなんだ、というと
「わるわるわるわるわるわる」と、いつもいつもいい子ぶって気に入らない、とっちめてやる、と言う。
何かおかしい。義明は戸惑った。悪タヌキは5匹のタヌキとのバランスを取るために必要と思って空想し、そして出現した。役回りは確かに可哀そうではあるが、悪タヌキが悪者役になるのは使命であり、もしもそれが気に入らないというのであれば義明への裏切りとも思える。それに、昨夜から悪タヌキの雰囲気がまるで異質だ。別人ではないかとさえ思う。この威圧的な空気感は何だ。そんなことを考えていると、いきなり悪タヌキは攻撃の姿勢をとった。
それぞれ右手に木の枝、左手にうんち。うんちかどうかはわからないが、うんちの形をしている。これが武器なのか。タヌタヌも似たような姿勢をとっている。右手に木の枝、左手にうんち。武器を持つようなことは教えてはいないし、空想をしたこともないつもりであったが、札幌の円山動物園にいたゴリラがよく見物客にうんちを投げつけていたが、その感じだ。その義明の脳裏にあったイメージを悪タヌキが盗み、タヌタヌがマネたのか?
「シーシーシーシーシー」
威嚇が始まった。武器は他愛ない、すぐに折れそうな木の枝、それにうんち。だが、10対1は多勢に無勢、タヌタヌにケガでもさせたら春美に申し訳ない。義明は間に入ろうとしたそのとき、
「だだだだだ、たぬうき」
エゾtを先頭に、エゾリン、タヌリン、ポンが駆け寄ってきた。10対5匹、それぞれ同じ姿勢で同じ道具を持ち、
「シーシーシーシー」
威嚇しあっていたかと思うと、悪タヌキがしかけてきた。
「シーシーシーシーシーシーシーシー」
はげしい取っ組み合いが始まった。エゾリンだけは、
「えぞりんえぞりんえぞりん」喧嘩はやめなさい、と諭している。
エゾリンが攻撃を受けるとタヌリンが助ける。
「たぬたぬたぬたぬうー」タヌタヌが噛まれている。ポンが加勢してタヌタヌを噛んでいる悪タヌキを噛み返す。
想像もしないことが起こった。義明は喧嘩をやめさせようとするが、触れることができない。背が小さく、すばしっこいタヌキたちの中で地面を這いながら、
「やめろやめろやめろ」と叫んだ。
タヌキたちは他の人からは見えない。これを誰かが見たときには、義明が泥酔でもして這いまわっている、くらいに思われたであろうか。両手にキュウリを持って振り回すが全く効果がない。
ウサギが2体飛んできた。
「ウサちゃん!」
一瞬タヌキ達は戦いをやめ義明とウサギを注目していると、ウサギはたもとから石をとりだし、
「カチカチ」
突然5匹のタヌキ達はパニックになる。
「カチカチ」
ますます5匹はパニックになるが、悪ダヌキ達は平気な顔をしている。一匹の悪ダヌキが耳に腺をしているのを義明に見せた。
「これはどういうことだ」
悪ダヌキ達は義明の考えを読み取り、あらかじめ耳栓を用意していたということなのか。義明はウサギに向かって火打ち石を使うのを制すると、ウサギは姿を消した。
タヌキ達は体制を整えるが勢いを増したワル達に防戦一方になっていた。
「戦いをやめなさ~い」
公園の向こうの住宅地にも届きそうな大音響で春美が叫んだ。病院のパジャマにカーディガンをはおっている。
「春美!」
義明は春美のほうを見、一瞬、タヌキ達も春美のほうを見たが、すぐに戦闘は続行された。
「大王の言うことが聞けないの」
また春美が大声で叫ぶが戦闘は止まない。
「こらああ、がおーっ」
春美はタヌキの大王になりきって、大股で両手をあげながら戦いの真ん中へのしのしと歩く。すると、みな戦いの手を止め、恐怖にかられたように春美のほうを見た。正確にいうと、春美の背後を見た。春美のすぐ後ろで春美におおいかぶさるように、大きな影が立ち、光る眼がタヌキ達をにらみつけた。
「うおおおおお」
その影が叫び声を上げる。驚いた春美が振り向くと、そこには見たこともないような大きな「エゾヒグマ」が立っていた。思わず春美は尻もちをつき、クマを見ながら震えた。義明も戦闘の中にあって、タヌキ達と共に身震いをした。
「うおおおおおおおお」
クマがまた叫ぶとタヌキ達は腰を抜かし、そして、悪ダヌキは10体から5体に、5体から3体に、3体から1体にと、もとの1匹にもどった。
すると、震えるその悪タヌキから、すうっと黒い影がぬけ、林のほうへ消えていった。
「わるわるわるわるわるわる」
悪タヌキは何が起こったの、というパニック気味のうろたえぶりで、そのへんをうろうろし、
「わるわるわる」
もとの茶目っ気のある表情のワルちゃんになり、四つ足になってすたすたと走り去った。
「だいじょうぶですか。」
しりもちをついた春美の横にあの犬、わんこちゃんが近づいてきておすわりをした。5匹のタヌキと義明もしりもちをついたままだ。春美が倒れているその背後には、そのクマがまだ仁王立ちになっている。
「こないだのワンちゃん、ね。そちらは誰なの?」
春美がやっと声をだし恐る恐る聞くとクマは仁王立ちをやめ、ふつうの四つ足になり、
「大王様はじめまして」丁寧におじぎをし、
「私はクマさん編集局くまちゃんと申します。義明さんやタヌキのみんなとも会えて、とてもうれしいですよ。イヌのわんこちゃんは私の友達です」
みな、目をぱちくりさせてそのクマをみやった。日本語。言葉をしゃべるクマと犬。しかも犬はわかりやすい名前でクマは変な名前。
しばらくの沈黙が続いたあと春美が起き上がり、
「ありがとう、タヌキ達を助けてくれたのね」
おそるおそる、鼻のあたりを触ると、触ることができる。息遣いが手に伝わる。普通の生き物。
義明とタヌキ達が立ち上がり、しばらくクマと犬を見ていると、ポンとタヌタヌがクマに近づき、珍しそうにじろじろ眺め、触ろうとした。義明が、
「ありがとうございます」と正座をし、
「あの、どちらから来たのですか、このあたりにお住まいですか」
と、まるで近所のおじさんに話をするように問いかけるとわんこちゃんが、
「いえ、僕たちはあるものを探しに旅をしている途中です。この世界で起きていることをすべて解決に導く」そこまで言うと、
「わんこちゃん、そこまで」クマがわんこちゃんを制し、
「今日は皆さんにお会いできてよかったです。またお会いできる日を楽しみにしています」とおじぎをし、林のほうへ目をやり、
「ワルワルさん達には魔物がとりついていたようです。そもそも魔物というやつらはそこらじゅうにいて、どんな人間や動物にも入り込みます。自分を見失わない強い心を持っていれば」そう言ってクマは春美を見つめ、
「魔物にも病気にも勝てますよ」
さあ行こう、そうくまちゃんはわんこちゃんをうながし、林の中へ姿を消した。わんこちゃんが「ワンワン」と言い、手をふるようにしっぽをふりながら、くまちゃんのあとについて林の中へ消えた。
思い出したように、数名の人間が家路につく通り道であろうその公園へ入ってきた。もう夜も更けていく。タヌキ達はケガもなくみな無事な様子だった。義明は春美を病院へ送った。
「また大王って言われちゃった、大王みたいなクマさんから。」
そう言って病室へ向かう春美は、少し強くなった気がする。さっきの大股で歩く春美はいままで見たことのない春美だった。タヌキ達との不思議な出会いは、きっと幸せへの通り道なのだ、そう信じようと義明は思った。ただ、タヌキ達にとって自分たちとの出会いは幸せなのだろうか、これまでのタヌキ達への関わりは結果として正しかったのか、と、省みるのであった。
義明さん、春美さんは自分たちが悪ダヌキを作り出したこ
とでタヌキ達を傷つける結果になってしまったのではない
か、そう反省するのでした。それにしても、わんこちゃん
くまちゃんはどこからきた誰なのでしょうか。
仕事へ行く前に義明は昨日の公園へ行ってみた。いつもと変わりない、砂場も、ぶらんこも、あのエゾ松の木も、いつものままだった。クマの痕跡も、うんちもない。公園はなにも知らない顔で朝の光とそよふく風を気持ちよさそうに浴びているようだった。ふともう一度その松の木をみやる。
「今日は来ていないんだな。」
よそのごみ収集場で人間の食べ残しでもあさっているのだろうか、顔見知りのカラスのことを想った。
春美と結婚する少し前のこと、この公園に住んでいたカラスにエサを与えたことがある。カラスにエサを与えることは決してよいことではない。ただ、ポケットにあった昨日食べかけの菓子パンを、腹をすかせ弱って見えた親ガラスにちょっとだけ与えただけ、そうその時はそれだけのこと思っていた。カラスは頭がよい。そのカラスと連れのカラスは義明が通りかかるたびにおねだりをするようになった。よく見るとかわいい顔をしている。愛嬌たっぷりにおねだりするその二羽のカラスにカラリン、カラタンと名前までつけ、毎朝のようにポケットに菓子などをしのばせて、人に見られないよう与えていた。カラリンとカラタンの見分けはついた。頭の大きい方がカラタンだ。
カラスは繁殖期になると巣の近くを通る通行人を威嚇するようになる。もちろん、人が憎くてではなく、わが子を守るためだ。義明が通勤で通りかかるその時間、たまたま通りかかった人がそのカラスの威嚇を受け、身の危険を感じたその人が公園に落ちていた棒切れをふりまわしてカラタンにケガをさせた。義明は棒切れをふりまわしている男性を制したが、間に合わなかった。やがてカラタンは息を引き取った。
義明は自分がエサを与えていたからそのような悲劇を生んだのだと深く後悔をした。
ただ、もう1羽のカラリンは引き続きその公園にとどまっていた。大きなエゾ松の木に巣をつくり、そこで4羽の子ガラスをカラタンと一緒に育てていたようだ。
4羽の子ガラスは既にに巣立ちをしていた。秋が深まってもまだカラリンからエサを口移しでもらっているようだった。口を大きくあけてカラリンにおねだりをする。まだ口の中が赤い色をしていた。
度重なる大雨や、カラスにとっての食糧不足のせいだろうか、4羽の子ガラスは1羽減り、また1羽減り、と最後の1羽だけが残った。カラリンが雨に打たれながら公園のベンチで動かないでいるのを見かけた。弱っているのか。気温が下がり雨は雪に変わろうかという時季だ。義明はカラリンを哀れに思い、食べ物を与えようと家に戻り、公園へ引き返したが、カラリンはベンチの上で息絶えていた。
ふと気が付くと公園のフェンスに身体の小さな子ガラスが雨に打たれながらこちらを見ていた。カラリンの最後の子であろう、その子にはカラリンコという名前をつけた。
カラスの子は親から与えられる食べ物以外は警戒をして口にしないと聞いたことがある。この子も死んでしまうのか。義明はカラリンの亡骸を公園のすみ、カラタンを埋めたその近くを掘って埋めてやり、カラリンに与えようと思った菓子をその場に置いて手を合わせた。
翌年の春、春美と一緒にその公園を散歩しているときにカラリンコらしきカラスを見かけた。カラスは一羽一羽のみわけがつきにくい。カラスのつがいは数百メートルに一組の範囲で縄張りをもつという。だからいつも同じ公園にたたずんでいるカラスは同じカラスのはずだが、そのカラスはカラリンコかもしれないし、カラリンコではなかったかもしれない。そのかたわらにはもう1羽のカラスが寄り添っていた。春美はそのもう1羽のほうに、ヨメリンコという名をつけた。
2羽のカラスは繁殖期に入り、やはり神経質になって他の人間を襲うことがあった。カラスに注意とのポスターが公園の電柱に貼られている。そのつがいは決して散歩中の春美と義明を襲うことはなかった。
春美と義明は頻繁にその公園へ立ち寄ることにし、棒を振り回すような人間がいたらカラスとその人間の間に入って悲劇がおきないよう気をつけることにした。この公園を散歩道によく使うのはそういうことがあったからだ。
カラスはどちらかといえば嫌われる動物だ。人間の中にも良い人とか悪い人とか言われる人がいる。でも生まれついて悪い生き物などいるものだろうか。昨日の戦いが終わり、この公園を改めて見渡し、悪タヌキやカラタンのことを思った。
良いたぬき、悪いたぬき、魔物、その垣根は何なのか。自分もいつ悪者になるかもしれない。魔物にだってなるかもしれない。カラスを見て不気味とか怖いとか言う人はいるが、義明は少なくともカラスを不気味とも怖いとも思わない。
人が食べ残したものをあさるカラスを見てあさましいと思う人はいるかもしれない。だがそもそも食べ残しをするのは人である。食べ残しをする人を忌み嫌う人はそうはいないだろう。カラスと人間にどれほどの差があるだろうか。義明は人間はカラスよりもよい動物だなどとは思わない。ゴミから食べ物をあさるカラスは人間の犯している食べ残しという罪を背負って悪者になっているのだ。
悪タヌキを悪役に仕立てたのは自分だった。今回は被害者にしてしまった。少し優しくしてあげなければ、そう、義明は思う。ただ、悪タヌキをそのように産み出し、そのように躾をしたこの数か月はもう後戻りできない定めを強いてしまっていたのかもしれない。
公園から戻るとタヌキ達はまだ寝室で寝ていた。着替えをし、朝食をとって、仕事へ向かった。見えないものが見えるようになった自分。昨日のクマの言葉、魔物はそこらじゅうにいるということ。通勤途中に見える建物、道、人、街路樹、この中によいもの、わるいものがうずまいている。自分もその中の一部である、と、義明は改めて思う。それにしても、
「それにしてもあのクマはいったい何者なんだろう?」
病院に戻ったその夜、病室で春美も、同じようなことを少し違う視点で考えていた。
「それにしてもあのクマさんはいったいダレなの?」
クマはワルちゃんに魔物がとりついていたと言った。昨日のワルちゃんは可哀そうだった。ワルちゃんがもしいなかったらあの子たちはどうなったのだろう。あの子たちも魔物にとりつかれ悪い子になったのだろうか。
あの魔物はどこから来たのだろうか。「全身100%のワル」ということありうるのだろうか。よい心を1%も知らずに、悪い心ができるなんてことがあるのだろうか。魔物ははじめから魔物で、よい心を持ったことは一度もないのだろうか。そのままにしておいたらワルちゃんも100%のワルになったのだろうか。
悪タヌキは一時的に魔物にとりつかれたかもしれない。でもよい子と悪い子の分別はついている。義明によれば、エゾリンは一生懸命喧嘩をやめるようにワルちゃんに説得していたというし、ワルもタヌキ達に「いい子ぶってかわいくない」と言っていたという。悪タヌキはいい子と悪い子の区別はついているはず。魔物はどうかわからないけど、悪タヌキは良い子になりたいのかもしれない。
クマが言っていた。自分を見失わなければ病気にも勝てる、そうかもしれない。5匹も悪タヌキもバランスとって仲良く元気に暮らすには、特に5匹には自分を見失わない、迷わない、強い子に成長してもらわないと。
悪タヌキのことを一番わかっているのはエゾリンだと思う。エゾリンはとても優しい。でもまだ少し泣き虫だから、タヌリンの支えが必要。エゾリンとタヌリンと悪タヌキでバランスを取りながら成長して欲しいと思う。
義明には悪タヌキと5匹の関係についてよく聞いていなかったけれど、多分義明は悪タヌキとエゾリン、タヌリンでバランスをとろうと考えていたんだと思う。エゾリンはどこまでパワーアップできるかな。私はどうだろう。だめかもしれない。私はもうそんなに強くなれる気がしない。
春美は自分の病状を理解していた。魔物がとりついているわけではない。ただ、病魔に打ち勝つだけの気力を出すことが無理だと決めていた。病魔によい子がいるわけがない。言ってきかせてもだめ。だからもう無理。
窓を見やった。月夜で空気が澄んでいるからだろうか、遠くに手稲山の稜線がかすかに見える。「手稲山か」春美はつぶやいた。タヌキ達には強く生きてほしい。それには生きていくための力を学ばせなければ。でももう私にはそれを伝える元気もない。
消灯後の病院。カラカラと何かを運ぶ音、ブザー音、お年寄りが叫ぶ声、パタパタというナースの足音、自分の身体に起きていること、自分の心の中の葛藤、そんなことはおかまいなしに、病院の時間は何かの音とともに淡々と過ぎていく。
「ああおうちに帰りたい」
そうつぶやきながら、ガラス窓にうつる病室の殺風景さと、外の二次元に近いパノラマを見比べ、春美はあのタヌキ達の住む家を瞳の中に映し出していた。
朝がきて定時の問診が終わり、義明が職場へ向かっている時間のこと。春美は病院のベットを抜け出して、ひとり家へと向かった。タヌキ達が元気にしているか気になっていた。悪タヌキもケガをしていたりしないか、また魔物にとりつかれそうになっていたりしないか、見てあげなければ。
公園にさしかかると、背後から懐かしい声が聞こえた。
「春美!」
「ああ、佑香、どうしたの?」
「元気だったぁ?」
佑香は高校で同級生だった親友だ。結婚式には出てくれたがその後は会っていなかった。久しぶりの再開に少女のようにふたりははしゃいだ。
「突然ごめんね、ちょっと顔が見たくなって」
「うれしい、ねえ、家すぐそこなの」と、春美は佑香を家まで案内した。
「ねえどこ行ってたの」
「うんちょっとそこまで」
「ねえ体調はその後大丈夫なの、まだ薬飲んでいるの」
佑香は義明が春美の病気のことを知りながらプロボーズして結婚に至ったいきさつを知っていた。
「うん、まあね、でも大丈夫だよ」
入院先から抜け出してきたことは言わなければならないかなあ、そんなことを考えながら、
「そこの家よ」
「へーお庭広いね」
「何も手入れしていなくて」
と、玄関口まで誘いキーを回しドアをあけて「どうぞ」と中へ招こうとして、一歩ためらった。居間に入るドアが開いていて、中から5匹が顔を出してこちらの様子をうかがっている。
「旦那様いるんだったの?」
春美が一歩進むのをためらったのを見て佑香が遠慮がちに尋ねると、
「ううん、いないよ、さあさあ、どうぞ」
と、手招きをして旧友を居間まで誘導した。
「おじゃまします」と佑香は居間に入り、少しけげんな顔をする。
「何も気にしないでおくつろぎくださいね、いまお茶出すから」
と、佑香が借りてきたネコのように硬直しているのを見て、もしかしたらタヌキが見えているのか、と疑った。タヌキたちも硬直して見える。ソファの影からこの初対面の侵入者にタヌキ達は少し緊張気味のようだ。
さっきまでの快活な態度とは裏腹にあたりをきょろきょろとみている佑香に、
「ねえ、こっちに来て座って、お茶をどうぞ」
と、キッチン側の食卓テーブルを勧めた。佑香は食卓テーブルのイスにつくと、居間の方を見ながらこういった。
「ねえ、旦那様はいまもやっぱりネコ嫌いなの」
よもやタヌキのことを聞かれはしないかとひやひやしていた春美は少しほっとして、
「そうなの、私はネコ飼いたいんだけど、旦那はだめみたいなの」
春美は子供のころ、両親が健在であった生家のネコを可愛がり、世話をしていたことがある。
「そうかあ、春美はネコが好きだったもんね」
お茶を一口すすった佑香が次に言った言葉に春美は硬直した。
「じゃあ、タヌキは旦那様のお気に入り?」
やはり見えていたのだ。自分たち以外にそれほどまで鮮明に見える人物がいたとは。「何のこと?」ととぼけてもだめだと思い、春美は聞き返した。
「見える?」
「うん、でもあれ、ペットとか野生とか、じゃないよね、映像にしては立体的すぎる、不思議。いったいあれ、何?」
春美はぽつぽつとこれまでのことを話した。とても信じてはもらえないような話だが、目の前にそれが現実に存在する以上は信じてもらうしかなかった。ふと、タヌタヌ、ポンが近寄ってきて、つんつんと佑香の太ももあたりに触れるしぐさをする。安全を確認したかのように、エゾtやタヌリン、エゾリンも近寄ってきて、物珍しそうに佑香を眺める
「うわっ」
と、佑香が大声をあげて両手をあげてタヌキたちを驚かせると、びっくりしたタヌキ達はのけぞりながらあとずさりしてコロンと仰向けに倒れた。起き上がるとタヌキ達は、両手で顔をゆがめたり、鼻を上に持ち上げたりの変顔を佑香にしてみせると、佑香も負けじと変顔をして、
「ギャオウ」
と変声をあげる。たぬきたちは一瞬ひるんで、
「だだだ」「えぞりん」「たぬりん」「ぽんぽこ」「たぬたぬ」と笑いころげた。
「何これ、こいつらめ」
と、佑香がこぶしを振り上げて怒るふりをすると、タヌキ達は居間のほうに逃げて「シーシーシー」と例のポーズで威嚇するそぶりをした。
「面白いねえ、他の人たちには見えないの?」
佑香があぜんとしている春美に問いかけた。春美は、こんなにも鮮明にタヌキが見える人物はこれまで佑香だけだと答えると、
「ふーん、そうかあ、私も幸せ未満だからね」
居間の方を気にしながら佑香は席につき、お茶をすすってこう切り出した。
「実はね、私、結婚しようかどうか迷っていたの、彼のこと少し信じられなくて。それでね、今日は春美のところにきて相談しにきたの」
春美が先を越すように佑香より先に結婚したあと、佑香は自分も早く所帯を、と焦ったようだ。いろいろな男性との交際を試みてやっといまの男性にたどりついたが、いまひとつ踏み切れないという。そんな打ち明け話をふと気が付くとタヌキ達が食卓テーブルの下にかたまり、メモをとるポーズで真剣に聞いている。
「うふふ、聞いているの。君たちはどう思う?」
そう佑香がタヌキ達に問いかけると、タヌキ達はいつものように円卓をかこんで相談を始めた。いつの間にか、タヌリンが棒を持ち出し、テーブルの上で倒した。そうかと思えば、サイコロを振ったり、要するにタヌキ達にも決められない、というパフォーマンスのようだ。
「うふふ、もういいよ、ありがとう」
佑香はその不思議な生き物たちが彼らなりに真剣に考えてくれていることがうれしかった。
「なるほど、幸せのすきまに現れるタヌキか。私はいま幸福でしょうか不幸でしょうか?」
またタヌキ達は考えるポーズをし、コインを投げて裏か表かを5匹で確認するしぐさをしてみせた。
春美は、
「私にはわからないけど、決めるのは佑香だから、でも佑香ならきっと正しい選択ができると思うよ」
と言い、佑香は、
「そうだね、わかった、幸せそうな春美にそう言われたら元気が出てきたよ」
幸せそうな、と言われた春美がやや目を伏せた。その様子を佑香は見逃さなかった。
「ねえ、本当に体調は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫、でもそろそろ病院に戻らなくちゃ」
「え、戻らなくちゃって、入院でもしていたの?」
「実はね」
玄関先まで佑香を送った。春美は家のかたづけをしてから間違いなく病院へ向かうと佑香に約束をして見送った。佑香は、
「今度くるときはタヌキさんたちが見えないかもしれない。私きっと幸せになるからね」
そう庭から玄関の春美やタヌキ達に告げた。
春美も健康な身体になっていつまでも義明と幸せに暮らしたい。でも健康になって幸せいっぱいになったとしてもタヌキ達ともずっと一緒に年をとりたい、家族でいたい、そう心の中で願っていた。ただ病状は早く改善させなくては、と今更のように思う。ふいな友人の来訪と、タヌキ達の接待に春美は元気づけられていた。
この佑香さん、後にタヌキ達にとって命の恩人となります。
でも、佑香さんがタヌキ達を見るのはこれが最初で最後
でした。
検査の結果はおもわしくなかった。病気は進行していて、春美には手術が必要だという診断だった。義明は医師に手術を申し出たが春美は拒んだ。
「いや」
「だめだよ、このままだと悪くなるばっかりだってお医者さんも言ってたじゃないか」
「いやだ」
がんとして聞き入れない。いやだと言われても縄でしばりあげても手術をさせる気ではいたが、本人がその気にならないと病気に打ち勝つことはできない、義明はそう考えていた。
春美には不安や恐怖に打ち勝つ魔法が必要。タヌキ達から応援を得ようと考えたが、空想で産み出した幻に生身の人間の病気を治療するパワーがあるとまでは思っていなかった。そしてタヌキ達はまだ未熟者だ。勇気、夢、信じる心、それらをタヌキや自分を通じて春美にどうしたら備えさせることができるだろう。
タヌキ達の姿は春美にとってはいまやかけがえのない癒し薬だ。タヌキがいなかったら春美はますますふさぎ、よどみ、気力をなくしていっただろう。でも病気に打ち勝つためには、癒しを超えた自助努力が必要なはずだった。タヌキ達がそのきっかけを作ってくれはしないだろうか。
その日は台風の通過で激しい雨が降り続いていた。強い風が庭の草木を揺らし、サクラの小枝が折れて道路まで散乱していた。義明は庭の植木鉢やジョウロなど風で吹き飛びそうなものを収納し、戸締りをしっかり確認して車に乗り込んだ。
ふと車外を見るとタヌキ達はまだ雨カッパ姿で散乱したサクラの小枝を丁寧に拾うそぶりを見せていた。幹や太い枝が折れていないかを念入りに見ている。義明は車から降りてタヌキ達がするように、道路に散乱した小枝を拾って庭のほうへもどした。
タヌキ達に車へ乗るよううながし、病院へ向かう。強い風に車はときおりあおられハンドルが微妙に揺れる。道路は冠水したかと思うほどの大きな水たまりの連続で、車は大波小波を派生させながら進んだ。天気の崩れは何かよからぬことの前触れか、と不安をかきたてる。義明はタヌキ達を連れて病室を訪れた。だが逆効果だったかもしれないと少し戸惑う。
「来てくれたのね。でもみんな涙目になっているよ。わたし、嬉しいけど悲しい」
タヌキ達は春美に会えた嬉しさと、病気への不安で心配そうだった。タヌキ達は義明と春美の空想から生まれたものだ。それだけに二人の感情をよくとらえ、鏡のように表しているのかもしれない。
「雨風が強くて、さっきまでみんなで庭の掃除をしていたんだ」
そういう義明は全身濡れていて、靴にズボンに頭に、サクラの小枝や葉がこびりついている。「目に風や雨が入って、ね」と義明はタヌキ達に「そうだよね」と同意を求め、身体についた枝葉を取りながら、
「ねえ、タヌキのためにも頑張ろうね」
義明はそういって春美を慰め、勇気づけるのが精いっぱいだった。春美は義明がベッドに落とした葉のついた小枝を手にし、はかなさ、せつなさをかみしめているようにも見えた。
消灯の時間になり、義明とタヌキ達は帰宅をしようとした。タヌキ達が病室の外を気にしている。身構えている。何かくるのか。それは例の黒いかげのような形のないものではない。透き通ってはいるがキューブ状で、目のような突起がいくつもあり、長い腕が2本ある魔物だった。魔物かどうかはわからないが、まがまがしいものには違いなかった。
タヌキ達が身構えている。キューブ状の魔物はふわふわと浮きながら通路を移動してきて、春美の病室前で止まり、じろじろと中の様子をうかがっている。タヌキ達や義明の警戒する念が勝っていたのだろうか、病室内へ入りかけて止まりそれ以上は進めずにいるように見えた。
魔物はタヌキたちの存在に気が付いたようだ。視線を床のほうへ向け、タヌキを一匹一匹まじまじと見つめると、向きを変えて階段のほうへ向かい、姿が見えなくなった。
春美の病室は6人部屋だが、春美はいちばん通路側で休んでいる。向かいのおばあさんもキューブが見える位置にいるが、気が付いていないようだ。おばあさんにはタヌキ達も見えていない。
「わたし手術うける。」
春美がふいに口をひらいた。
「私も強くなって魔物からタヌキ達を守るんだ」
春美はそう力強く決意した。タヌキ達はますます目がうるうるとしていた。悪タヌキに魔物が乗り移ったようなことが今後もあるかもしれない。タヌキ達を守るのは自分の務め、春美はそんなふうに思ったのだ。
あのクマが言っていた。魔物はそこらじゅうにいると。タヌキのように人を癒す精霊のようなパワーもそこら中にいるということなのかもしれないが、このタヌキ達はいまや自分に幸せな時間をくれるかけがえのない家族だ。
「自分を見失わなければ勝てる」そうクマは言った。きっと病気にも勝ち、タヌキ達を守り抜くんだ。そう春美は決心をした。
義明やタヌキや友達が応援してくれている。さきほどのキューブや黒いかげが春美や病院の人に悪さをするかどうか、それはわからない。ただ自分にやどった病魔という確かな事実は、医学の力と自分の力で打ち消すしかない、それは春美にもよくわかっていた。
義明とタヌキ達は、手術の日まで春美を元気づけようと必死だった。タヌキ達は家には帰らず、常に病室で春美のそばを離れなかった。
スイダムアが出た!
生身のエゾクロテンが2匹倒れている。シカの精霊1体とキツネの精霊2体が、エゾクロテンを救い出そうとその四角い魔物に攻撃をかけているが、相手は強い。凪いで静かな海、半月があたりを照らしている。断崖がそびえるその岩場に魔物の雄叫びがこだまする。
「キューイン」
ドシュン、
5、6個はあろうか、突起した目からエネルギーがほとばしりキツネ1体に照射されるとキツネは数メートルほどゴムまりのように飛び、岩にたたきつけられ動かなくなった。さらに魔物は2体に分裂すると一体はシカめがけ突進しシカの身体と同化してシカを支配してしまった。魔物に支配されたシカと分裂した1体の魔物が挟み打つようにもう1匹のキツネに襲い掛かる。飛び掛かるキツネを長い腕ではたき落とし、魔物化したシカがキツネを蹴り上げる。キツネはうめき声をあげて岩場に膝をついた。魔物はもとの一体に戻ったが、魔物に支配されていたシカは気を失って岩に倒れこんだ。透き通った四角い魔物は片膝を着いたままうめき声をあげ苦しむキツネにふわふわと近寄ると、突起した目にエネルギーを充填し、一撃を入れる、その間一髪手前、
キィエーッ
大鷲のカムイ一羽が飛来し、一撃でその魔物を粉々にした。
「大丈夫か、ケガは」
大鷲はキツネに羽を載せると何かを念じ白い光をあびせた。キツネは癒され立ち上がり「はい、ありがとうございます」少し荒い息遣いで、
「でも仲間のキツネとシカと、命あるクロテンが」
「よし、手当しよう」
そう言って大鷲は生身のクロテンと精霊のシカ、精霊のキツネに白い光を浴びせた。
「これで大丈夫だ、じきに目がさめて歩きだせるだろう」
「隊長、あの子は」
キツネから隊長と呼ばれたその大鷲はこなごなになった魔物の中央付近に横たわるクロテンの子を見つめた。起き上がったクロテン2匹がかけよりぺろぺろと身体をなめるが、クロテンの子はうめき声をあげて苦しんでいる。大鷲が駆け寄り羽から白い光を浴びせるとクロテンの子はぐったりしたまま動かなくなった。
「いまは眠っている。今夜が山だろう。ついていてあげなさい。」
そう2匹のクロテンを励ました。
「可哀そうに。恐ろしい魔物だ。生身の動物にも精霊にも乗り移り支配する。まだ他にいるかもしれない、気を付けて帰れ。何かあったら大声で叫べ。この半島の中であればわれわれ誰かが助けに行く」
そう言ってシカとキツネが走り去るのを見送った。
「それにしても」大鷲は空を見上げつぶやく。
「シーマ、魔物が増えているぞ。このシレトコも安泰とはいえなくなってきた」
シーマは洞窟の中、大鷲の目を通して、嘆き悲しむクロテンを見つめた。親子だったのだろうか。こんなことがまだまだこれからも増えるのか。だが待たねばならない。あのとき感じた光、もしイヌのわんこちゃんが言うことが事実であれば、それに賭けるべきか。だがわれわれにとっては脅威になるかもしれない。人間が精霊を生み出すとは。
病院へ春美の見舞いに通うタヌキ達はいろいろなパフォーマンスをして春美をなごませた。
「カバの物まね?」
「だだだたぬうき」
「え、院長先生?ふうん、言われてみるとそうかな」
タヌキ達が病院スタッフの物まねをしていたが、
「え、今度は?だめだよ向かいのおばあちゃんのマネなんかしちゃあ」
小声でタヌタヌを諭す。向かいのベツトのおばあさんはひとりで立って歩くことはできないらしい。寝たり座ったりしていて92歳と高齢だ。たまにご家族にわからないことを話して困らせているが、おばあさん含めてほのぼのとしたよい家族だ。
春美の祖父母は春美が幼少のときに亡くなっている。一緒に過ごした記憶はほとんどない。父母も春美が小中学生のときに次々と他界してしまった。だからあのように家族を見舞い、家族に見舞われるようなことはこの先訪れない。そんな後ろ向きなことを考え、暗い表情をしているときは決まってタヌキ達がいろいろと慰めてくれる。そう、自分にも家族ができた。タヌキ達がいるではないか。
悪タヌキも見舞いにくる。自宅でのタヌキ同士でのイタズラは時に笑わせてくれるが「あれ、あれ、なんだこれ、ボールペンじゃない」と、体温計を持とうとしたナースにボールペンを持たせるなど、一生懸命働いている病院スタッフへのイタズラには顔をしかめる。本物のナースキャップをして登場したときにはげんこつをはった。
「返してきなさい」
ワルちゃんは物に触ることができる。だがふつうの人にはタヌキは見えない。だからナースキャップが空中を飛んできたことになると春美は思った。そもそもそんな大事なユニフォームを勝手に持ってきてはいけない。未熟者のタヌキ達にはまだそのあたりの思慮分別をつけさせることが難しい。ただ、ワルちゃんなりに自分を励まそうとしているのだろうと理解する。
少し気になることがある。タヌキ達がしきりに出入りする者のチェックをするのだが、たまに険しい表情になるときがある。険しい表情は目に見える人間に向けてのこともあれば、空間を見つめて険しい表情になるときもある。どこに何がいるのか見えないものに春美が神経をとがらせても仕方ないが、タヌキ達が自分を守ろうとしてくれているのはとても頼もしくうれしい。
向かいのおばあさんがゴミ箱を指さして、
「そこにほっかむりしたタヌキがいる」
と大声を出したときには春美はびっくりしたが、
「ぽんぽんぽこぽこ」それはゴミ箱がたぬきに見えただけ、と、解説してくれてほっとした。ただ、そのおばあちゃんが春美の主治医を指さして、
「あんたはイカサマ師かい」
と叫んだことがある。また、タヌキ達もそのひげ面の主治医が病室に入るときはどこか少し、いぶかしげな表情になる。
「ねえ、あの先生なにか問題あるの」小声でタヌキ達に問いかけると、
「たぬりんたぬりんたぬりんたぬりんりん」ふつうの人間には違いないけど、なんとなく普通じゃない気がするけど普通な気がする、という。
「だだだだだたぬうきたぬうきだあだだだたぬうきだあだあだ」魔物がわからないようにこっそり乗り移っているならわからないし、わかるように乗り移っているならわかる、などとよくわからないことをいう。
「自分を見失わなければ大丈夫」
あのクマの言葉を信じ、また、いまはこの病院や主治医を信じ、自分の病気がよくなると信じるしかない。
手術前、春美は一時退院の許可が出て、一泊だけ我が家で過ごすこととなった。家の中は思ったほどちらかってもいない。
「まあ感心感心」
中に入って、
「私がいなくても義明ひとりでも大丈夫だね」
またそんなことを言うと、タヌキ達がまた涙目でこちらを見る。エゾリンが泣き出してタヌリンが慰めている。
「あ、ごめんごめん、私大丈夫だよ、ちゃんとよくなって帰ってくるからね」
と、タヌキ目線までしゃがんでひとりひとりに笑ってみせ、エゾリンの頭をなでるしぐさをした。
新聞代や公共料金の支払いなど、春美にしかわからないことをひととおりチェックして、入院中に必要なことについて義明にいちいち説明した。
「お米が残り少ないから、仕入れておいてね、ちゃんと朝ご飯食べてね。退院したら一番にチェックするからね」
「うん、わかった、ちゃんと朝ご飯つくって食べるよ、ね」
と、義明はタヌキのほうを向くと、タヌキ達はうんうんとうなずく。そうしていると、
「カサカサ」
玄関であのノックの音がする。義明がドアをあけると、
「あ、イヌのわんこちゃん、だね」
「はい、こんにちは。覚えていてくれてうれしいです」
「こないだは助けてくれてありがとう」
「いえ、私の力ではありません」
「あの立派なクマちゃんは?」
イヌがひとりで来訪すること自体不思議だが、出迎えた主人と親しげに会話をする様子に、タヌキも春美も目を丸くして見ている。
「くまちゃんも近くにいますよ。でも昼間は少し目立ちすぎますから、茂みの中で昼寝しています。あの、今夜、僕らもお寺にご一緒してもいいですか?」
義明はびっくりしながらわんこちゃんを見つめた。義明は今夜サプライズで春美とタヌキ達を自分が空想でつくりあげたお寺まで案内しようと思っていたのだ。今日は満月だった。満月といえばタヌキとウサギと和尚、というのが義明のイメージだ。
「え、なんのこと」
春美が間に入ってわんこちゃんと義明の顔をみくらべた。
「うん、いいよ」
義明は、わんこちゃんと春美とタヌキ達を見て、
「今夜は月夜だ、みんなでお寺に行くよ」
「うわあ、それいいね、お寺でお月見みするのね」
タヌキ達もにこにこしている。義明はタヌキ達とは相談していた。月を見ながらお寺の境内で踊りを踊るのだ。
夕暮れどき。居間で昼寝をしていたわんこちゃん、タヌキ達が起き上がり、窓から見える大きな月を見てはしゃいでいた。
「だだだだ」「たぬりんたぬり」「ぽんぽんぽこぽん」「いいお月様ですね」
お天気は上々、まあるい月が東からのぼってきた。寒くないよう、自分にも、そして春美にも少し厚着をさせ、義明は春美の手を引いてお寺が出現するであろう方向へ歩いた。春美も何となく記憶に残っているその方角だった。
義明と手をつないで歩くのは新婚以来久しぶりだった。義明の手の暖かさが伝わってくる。
「タヌキちゃんたちは何か芸をしてくれるのかなぁ、分服茶釜とか」
そう春美が問うと、
「たぬたぬたぬたぬたぬたぬ」春美のすぐ横を歩いていたタヌタヌが、あれは可哀そうなお話しだよ、と言い、エゾリンが
「えぞりんえぞりんえぞりんりんえぞえぞりん」茶釜に化けたり、綱渡りしたり、まるで見世物にされていたもんね。でもそこから世界的なスターに上り詰めたんだよね。
そんなことを言っている。
「ねえ、そんなお話しだったっけ」
春美が義明の顔を覗き込んだ。義明は実は分服茶釜のお話しをよくわかっていない。エゾリンの言っていることは義明としてはあながち間違いではなかった。正しいかどうかはわからない。
「ううん、まあ、だいたいそんな話だったかなあ」
そう義明がいうと、うんうんと義明様の言うとおり、と、ほかのタヌキたちがうなずいている。
「ねえ、あなたたち、どうして義明は義明様で、私が大王様なの?」
「あ、大王様見えてきましたよ」
わんこちゃんが春美の方を見てそう言ったかと思うと、あたりが急に開けて、お寺の本堂と、その前の広場が浮かび上がった。本堂の扉から和尚が出てきた。
「こんばんは、いい月夜ですね」
春美は和尚様が以前お会いしたときとは変わり、少し威厳が出てきた気がした。本堂の奥のほうも出来上がってきているようだ。仏像が見える。阿弥陀如来だろうか。
リスリン、リスたんが出てきて、
「義明様、大王様」
そういって、うれしそうにすり寄った。広場の真ん中にはいつのまにか火櫓に炎が注がれ、その向こうに大きなクマが炎を見つめていた。義明と春美が近寄り、
「クマさん、先日はありがとうございました」
と御礼を言うと、
「くまちゃんと呼んでください、私はただ、通りすがりのクマです。ちょっと吠えてみただけですよ」
と話し、にっこり笑ったように見えた。
「さあ、皆の者、用意はいいかあ」
和尚さんが袈裟をぬぎ棄て、上半身が裸になると、タヌキ達はキリリとした表情になり、火櫓のまわりに立つ。本堂のわきから信楽焼き風の大ダヌキが2体、のしのしと、本堂の中から2本足のうさぎが2匹、すたすたと、出てくると、大ダヌキが「うぅぉおおおおお」
と、叫ぶ声に春美と義明はちょっと驚き、あとずさったが、トン、トン、トントン、腹鼓を打ったのがユーモラスでかわいらしい。大ダヌキの掛け声に合わせ、和尚さんが、ボン、ボン、ボンボン、と腹鼓を打った。大ダヌキに負けていない。よい響きだ。
「はぁあああああ」
と、タヌキ達が声をあげ、タヌキ踊りが始まった。タヌキ達は、踊りのときは「は」と言う発音ができるらしい。
ドン、ドン、ドンドン、ドン、「はっ、はっ、はっはっ、はっ、はっ」ドンドン、ドンドン、ピーヒャララララ、うさぎの横笛が響く、
「はっ、はっ、はっはっ、はっ、はっ」ドン、ドン、ドンドン、ドンドン」
大ダヌキと、和尚さんが競うように腹鼓を打つ。踊りは極めてシンプル、踊りの輪をつくっているタヌキ達と、リスは両手を天に向け手のひらを返し、両足はすりあしで膝をまげて、まるで天を支えるように一歩あるき「はっ」一歩あるき「はっ」二歩歩き「はっ、はっ」それを繰り返し、火櫓のまわりをまわる。わんこちゃんは楽しそうにわんわんと、そのまわりをまわる。義明と春美とクマちゃんは輪の外からそれを楽しそうに眺めた。
「大王様、義明様、くまちゃんもいっしょに」
と、リスリン、リスたんが誘う。ふたりは笑いながら輪に入って、タヌキ達のあとをついて、同じようなかっこうをして火櫓をまわった。クマちゃんもタヌキの動きをマネて真剣そうな顔で踊りの輪に入った。踊りながら春美が気が付いた。
「このかっこう」公園で春美が大王になりきって悪タヌキを威嚇したときの歩き方と同じだ。
「大王様お上手ですね」
リスリン、リスたんが褒めてくれて、春美はその気になり、気持ちを入れて踊った。いつのまにか、キタキツネ、うさぎ、オコジョ、ヒグマ、野生のエゾタヌキ、カラス、スズメ、ヒヨドリ、野ネズミ、いろいろな動物が集まってきて踊りの輪を見つめていた。
カラスと目があった。あのカラスだろうか。動物たちは身体が透き通っている者もいる、生身のような者もいる。みな楽しそうに火櫓のほうをみつめた。
月があがり、和尚さんが疲れたのか本堂へ上がる階段に座り込むと、みなゆっくりと姿を消し、篝火の火も台座も消えて、義明と春美のほかは月の光と静けさと、わんこちゃんとクマちゃんだけが残った。
クマちゃんがゆっくりと春美に近寄り、
「今日は楽しかったですね。ありがとうございます」
春美と義明を交互に見ながら、クマちゃんはおじぎをした。
「お体心配ですが、どうか、お気持ちを強く持って、幸せをご自身で願ってください。幸せを願う人には困難なことがおきても必ず助けてくれる者が現れますから」
そう言ってまた茂みのほうへ姿を消した。わんこちゃんもおじぎをしながら、手を振るようにしっぽをふって、クマちゃんのほうへ向かった。
「帰ろうか、きっとタヌキちゃんたちは先に帰ってソファで寝ているよ」
義明は春美の手をとり、家路についた。カラスがまだ広場の木に残っていた。ふたりを見送っているようだった。
夢のような月夜だ。来月の満月はきっとおうちの窓から見よう、そう春美は思った。束の間ではあるが手術前の不安な心は高ぶる希望へと変わった。
手術の日がきた。執刀医はあのひげの主治医ではなかった。若い外科医だ。義明は医務室で主治医、執刀医のふたりから手術の説明を受け、病室へ戻るとすでに春美はストレッチャーに移り、手術室へと移動するところであった。義明が春美に付き添えるのは手術室の手前までだ。タヌキ達は手術室まで入り込めるようだが、メスで春美が切られる様は見せたくなかったので、
「いっしょに外で待っていよう」
と諭すとタヌキ達は不服そうだったが諌めた。義明は手術室の手前まで春美の手を握り、義明もタヌキも、
「だいじょうぶ」「だあだだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ぽんぽんぽこぽん」「たぬたぬたぬたぬ」と励ました。
「じゃあ行ってくるね」
そう言って春美は手術室へ吸い込まれた。「手術中」のランプが点灯した。もうすでに春美は夢の中であろう。
タヌキ達が落ち着かない。義明はだいじょうぶ、だいじょうぶ、と自分にもタヌキ達にも言い聞かせていた。ふと目の前を見て驚いた。いつの間にか主治医がそこに立っている。どうしたのか。義明が座っている長椅子は廊下に沿って設置してある。つまり、義明は廊下の向こう側の壁を向いていた。その壁の手前、廊下の真ん中に主治医が手術室を向いて音も立てず、いつのまにか立っている。
主治医はゆっくりと義明の方を見、何も言わず正面を向いて手術室の方へ歩きだした。
「タヌキは、どうしたんだ、みな硬直して動かない。なんだ、どうしたんだ」
病院全体の時間が止まってしまっているようだ。そう思っていた義明自身の身体も動かない。主治医は手術室の前に立ち止まったかと思えば、そのまま扉を通り抜けて手術室へ入っていった。まずい、だめだ、春美が危ない。何とかしてもがき、動こうとするが全く動けない。
「春美~!」心の中で叫び声をあげた。
手術室では手順通りであろうか、執刀医のオペが進行していた。ひとりで手術をしているわけではない。助手もいるし血圧などの計器を見る者もいる。もしも執刀医が魔物であったとしてもオペに異常があれば他の者が気が付くはずであるが、執刀医が魔物であることは誰も気が付くことはできない。
春美は麻酔で眠っていたが、眠りの中、手術室に侵入した魔物がその執刀医を介して春美の中に入り込んだことに気が付いた。眠りの中でパジャマ姿の春美とその魔物が向き合っている。あのキューブ型の魔物だった。
「あなたは誰、何をする気?」
魔物は答えなかった。長い両手が伸び春美の両肩をつかむ。春美は何もできず、目を覚まして声を出すこともできない。手術台の上に寝る春美はうめき声をあげたが、誰も何も春美の中で起きている異常に気が付かない。魔物は春美の両肩をつかんだまま、6個の突起を徐々に光らせた。殺される。そう春美が悟ったとき、
「シーシーシーシーシーシーシーシーシーシーシー」
突然眠りの中、5匹のタヌキが現れキューブに向かって威嚇を始めた。魔物は両手を春美から放し、タヌキ達の方へ向きなおり、突起をそれぞれに向けエネルギーを放出した。
「やめてー」春美が叫んだ。
ドシュン、
それぞれの放射がタヌキに命中し、タヌキ達は5方へ飛び散った。
「何をするの!」
春美はキューブに向かって突進するが身体がすりぬけて向こう側へ倒れこんだ。再びキューブは春美を向き、エネルギーを放出しようとすると、
「シーシーシーシーシーシーシー」
傷ついたタヌキ達が再び春美の前に立ちはだかり、
「シーシーシーシーシーシーシーシー」
さっきよりも鬼気迫る強い語気で、
「シーシーシーシーシーシー」魔物に迫る。
魔物は少しあとずさりするが、ふたたび突起を光らせエネルギーを、
ドシュン、
タヌキ達はさきほどよりも強く、深くダメージを負ったであろう、眠りの中の遠くへ吹き飛ばされた。
「なんてことを」
春美は涙を流した。手術台の上の生身の春美も涙を流している。三たび、その魔物は春美に近寄り、照準を合わせるようかがむ。
「もうだめ、さよなら義明」
そううなだれたその春美の前でタヌキ達がさえぎった。ただしもうタヌキ達には力が残っていないようだ。ふらふらで、
「シーシーシー」弱々しくやっとの威嚇をする。
「やめて、この子たちは傷つけないで。わたしを殺しなさい」
タヌキ達をかきわけ、春美はキューブの前に出た。キューブは向き直り春美に狙いを定めた。そのとき、
「こおの、イカサマ師め!」
突如現れた向かいのおばあさんが思い切り魔物にパンチを浴びせた。
どおん
という音がして魔物は吹き飛び、粉々にくだけた。
手術室ではみなあっけにとられていた。執刀医が突如、
「こおの、イカサマ師め!」
と、手術室入口あたりに向かって叫んだのだ。
「え、え、僕いま何か言いましたか?」
と、左右の助手を向き、気を取り直して術式を続行した。
眠りの中、
「大丈夫かい?」
向かいのおばあさんがタヌキに声をかけた。タヌキ達は痛手を負っているがみな起き上がれるようだ。おばあさんは倒れこんでいる春美を抱き起し、
「春美、大丈夫かい?」
「あなたは?」
「覚えていないだろうけど」
「え?」
「おばあちゃんだよ」
春美の目にいっぱい涙がうかんだ。
「おばあちゃん、私のおばあちゃん」
ひとしきり抱き合うふたり。
「いてもたってもいられなくてね。来ちゃったよ。そのタヌキさん達についてきたんだよ。あんた、幸せだよ。いい子たちだねえ」
タヌキ達も涙をぽろぽろ流しながら見つめていた。
「さあ、もう行かなくちゃ。みんな目が覚めるころだよ」
「おばあちゃん!」
「幸せにね」
手術台で春美の目から涙があふれていた。執刀医は、
「終わりましたよ、うまくいった。悲しい夢でも見ているのかな。でももう大丈夫だ」
手術中のランプが消え、義明の身体の硬直は解けた。執刀医が手術室から出てきて、
「手術は成功でしたよ、麻酔が解けたらお話ししてもかまいませんから」
そう言い残して行った。
「みんな、よかったな、心配しすぎて疲れちゃったみたいだな」
義明の横ではタヌキ達が疲れ切って倒れこむように長椅子に横たわっていた。
病棟のフロアに戻ると事務室がちょっとした騒ぎになっていた。春美の主治医が突然何者かに殴られたようにイスから床に飛んだと看護師がうわさしていた。
「毎日ご苦労様だなあ、疲れていたんだね、きっと」
義明がそんなことを言うとふらふらついてきたタヌキ達がニヤニヤと笑った。
春美が集中治療室で目を覚ました。義明が声をかけた。
「よかったね、手術、うまくいって」
「タヌキは?」
「タヌキ達は待合室にいるよ。少し疲れているみたいだ。一生懸命心配してくれていたみたいだよ」
「そうね、ほんとに、いい子たちだね。あのね」
「ん?」
「病室に行って向かいのおばあちゃん、元気そうか見てきてほしいの」
「ああ、いいけど」
手術中に向かいのおばあちゃんの夢でも見たのかなあ、と思いながら義明は病室へ行き、向かいのおばあちゃんを見た。特に変わった様子もないが、
「右手を突き上げるようにしてこぶしを握り締めていたよ」
と、集中治療室に戻って春美に伝えると、
「そう、よかった」
そういってにっこりと笑ってみせた。
退院の日、主治医と執刀医から経過を聞き、御礼を言った。春美は、
「手術の日はほんとうにありがとうございました」
と、深々とおじぎをした。主治医は、
「僕は何もしていないけどね、なんか変な夜だったなあ。彼に殴られる夢なんか見てさ」
「それはたいへんでしたね、ふふふ」
術後の経過はよく、退院の日がやってきた。病室の荷物をかたづけて身支度をする。向かいのおばあさんはイヤホンをしてテレビを見ていた。春美はおばあさんに挨拶をしたかった。おばあさんとは入院中とくに会話をしたことがなかった。心の中で、
「おばあちゃん、どうもありがとう」と御礼を言い、だまっておじぎをすると、
「幸せにね」
テレビを見たままおばあさんが確かにそう言った。認知症がかった92歳にしては、はっきりとした言葉だった。春美は涙を見せぬよう、もう一度おじぎをし、病室をあとにした。
外は雪景色に変わった。タヌキ達の待つ我が家へと向かう。敷地に入った車を降りると5匹のタヌキとワルちゃん5匹が雪合戦をしていた。タヌキ達はみな雪には触れることができるようだ。「ただいまあ」みな一斉にこちらをむいて
「だだだだだたぬうき」「えぞりんえぞりん」「たぬりんたぬりん」「ポンポンポコポコン」「たぬたぬたぬたぬ」「わるわるわるわるわる」おかえりなさい、と言って、
雪玉を投げてきた。
「やったなー」
春美はタヌキ達の中にはいり、地面の雪をタヌキ達に撒いてはしゃいだ。
「おうい、病み上がりなんだから」そうつぶやきながら、
こんな幸せがいつまでも続きますように、義明は小雪が舞う空を見上げ、空と地上の間に漂う全ての幸運に「ありがとう」を伝えたい気持ちだった。
たぬきたちも幸せをかみしめていたことでしょう。そして
たぬきたちはさらに強く成長をするために試練に立ち向
かっていくことになるのです。ただ、その前に
大きな課題をまのあたりにすることになるのですが、
次はそのお話しになります。
(第二章 たぬきと戦争)
二人は幸せな家族を手に入れるこてができました。でも第二章では、まさに光と影、真逆の世界を体験するこてになります。