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九州大学文藝部・2021年度・初冬号

午後の見学

作者: 奴

 外を歩いていて人とすれ違うとき、あれは友人だったのではないかと気づいて、振り向いてよく見ればやはり友人だということがたまにある。学生時代は、道端でクラスメイトに遭遇して話しかけられるのがどうも嫌だったから、それらしい人が行手から来ても、荷物とか路傍の何かに気を取られているふりをしてやり過ごしていた。その名残で、歩くときにはぼんやりしてしまうのかもしれない。大学に入ってからは、この人に出くわしたらぜひ声をかけて立ち話をしたいという友人が何人かできたから、よもやすれ違うとなればかならず話をする心づもりだったが、最初に言ったとおり、道行く人の容姿をちらりとでも見ることがなくなって、かわりにため池を泳ぐカモや塀から突き出た庭木などを眺めるから、そのあいだにその人は黙って横を通り過ぎている。振り向けばずっと先を歩いている。


 あとになって当の友人にその話をすることはない。「ああやっぱり君だったか」となっても「そうか別人だったか」となっても話は続かないし、「僕も君じゃないかと思っていたんだ」と言われても「そうか気がつかなかった」と言われても困る。もとより大したことではないのだから、会話のあいだに挟みこむようなものでもない。


 しかし先日、あとをついていって肩をたたきたいくらいの人に会った。けれども私が顧みたときには、彼女は人の流れに乗り波間に消えていた。それが口惜しいあまり、このような手慰みの文章を書いている。書かなければならなくなったのだ。


 その人は、高校生だった私が大学見学へ行ったときにそこで出会った。私は午前の見学をいいかげんに打ち切って、昼に大学構内の食堂へ入った。先に注文と支払いを済ませてから席を探すという形式だったから、それに従い盆に乗った料理を手にして席へ座った。私の前の席はあいている。みな友人どうしで固まって食事したいから、ひとつだけあいている席は見送って、二、三人で並んで座れる空席を探す。料理の乗った盆を持ってあたりを見渡している一団が何組もあるにもかかわらず、一人分であるがゆえに私の前の席へはだれも座ろうとしない。そこに彼女が、ここあいていますかと尋ねてから座ったのだった。私は食事の最中で、急に全然知らない声を聞いたので、自分には関係ないと無視する気でいながら、もし自分に話しかけられたのなら済まないと思って、半分不発のつもりで顔を上げると、やはり彼女は私に話しかけている。用心したはずなのに、尋ねた相手が私だったのは自分でも予想外に思われて、うまく受け答えできなかった。彼女は怪訝な顔をして座った。私が何回も、はいあいてますをうまく言えずに言い直すからだ。そのころ神経質が悪化していた私は、それで彼女から永久に嫌われてしまったと思って絶望した。知人ではない、まして同じ高校の人でもない。さらに言えば同じ県の高校生かも怪しい。だから彼女に何を思われても今回かぎりの交流だろう。この大学にふたりして通うとしても、もう一度巡り会うのかどうかなどだれにもわかりえない。それでも私は、後悔と自責をし続けて、飯の味もわからくなっていた。


今まさに心のなかで私へ毒づいているかもしれない彼女が、また話かけてきた。これも私には意外だったから、声を発する彼女の顔を一遍のぞいてから、自分宛の話だとわかると、ようやく本式に彼女を見た。志望学部と専攻の話をしたと記憶している。というのは、そのときの会話がもとになって、午後の見学をふたりでやることにしたから。


彼女は眉が太かった。髪はすこし首を動かすと肩に当たる。黒い絵具へわずかばかりの茶色を混ぜたように、一見すると黒色だが光にかざすと茶色にも見えるという微妙な色合いの髪と眉だった。話すときは人の顔をじっと見つめる。声はすこし低く、小さい。聞き取れないというわけでもない。それから、食事が終わってふたりで立ち上がったときにわかったが、身長が同じか、彼女のほうが高いくらいだった。


名前は模擬講義を受けに行く道すがら聞いた。仮に書けば、マツグチ・チハル。岐阜県出身、吹奏楽部、志望は文学部の国文学専攻。


「わざわざ岐阜から来たの?」


「阪大に行きたいけど行けるかわかんないし、そこ諦めるなら思いきって九大か東北大まで足伸ばそうかなって」


「ここに来るまでどのくらいかかった?」


「知らない、電車のなかはずっと寝てた」


前方に障害物がないか一瞥する以外では、彼女の目は私に向いていた。


模擬講義は望む専攻のものがなかったから、かわりに考古学のものを受けた。実際の発掘調査のようすが写真で紹介され、出土した土器の破片が説明される。かけらがすべてそろわないときは図面に起こして、足りない部分を石膏か樹脂で作るという。私は受けるつもりのなかった講義だけれど思いのほか夢中で聞いたので、彼女がどういう顔をしていたか知らない。教授の顔か、写真を映しだしたモニターを見つめていたのだろう。そのはっきりした眉の下のまっすぐなまなざしで。


研究室を訪問し、学生や院生や教員の説明を聞いた。国文学と日本史学と言語学と哲学。こちらから質問はせず、相手の話へ静かに聞き入る。みな、まず自分の専攻について熱意のある目で語る。勧誘されたので話を聞くことにしたというところでも、その分野をほんとうに好いてる人の話を聞くとおもしろい。興味が湧いてくる。最後に大学生活について説明された。


四箇所、訪問しても、まだ互いの集合時間にはすこし余裕がある。私たちは自動販売機で飲みものを買うと、食堂のテラス席へ移った。彼女はたしかミルク・ティーを買っていた。


私は見学内容の報告が課題として出されてあったから、彼女に断って、そのテラス席の机にレポート用紙を出してあれこれ書きつけた。風が拭いていた。雲が多く、日ざしは柔らかかった。夏の盛りという記憶だが、秋だったかもしれない。彼女は文庫本を学生鞄から取り出して読みはじめ、何ページか繰って、すぐに閉じた。二、三日あとに提出すればよいその課題は、その場で書き終わった。


私の課題が済んだあとでも私たちは何も話さなかった。一度、私から、吹奏楽部では何を演奏するのか、と尋ねた。フルートと彼女は言った。それだけだった。


集合時間が迫って、私たちはそこをあとにした。二人で地図を確認すると、互いの集合場所は離れているようだったから、そこで別れた。


「ごめんね、課題やっちゃって」


「別に。タケル君の書いてるのを見てたから」


十歩ほどの距離で彼女は私の目をじっと見つめていた。それから、「じゃあまた。大学同じだったらまた会おうね」


彼女はすこしほほえんだ。






この記憶は私のこしらえた夢物語が混じっているかもわからない。マツグチ・チハルという人と大学見学をしたのはたしかだが、彼女のことばや表情は、私の記憶として映写されるものよりはずっと冷たく、硬かったかもしれない。何となく一人では心もとないから、同じように一人でいる人間に声をかけたというだけで、途中から嫌になって、もう一遍、一人で行動したくなっていたかもしれない。が、それを今になって脳裡に回転させても、何にもならないだろう。大学でも会うことはなかった。


つい先日、彼女らしい人と街ですれ違った。まったく他のことに考え耽っていたから、すぐには気づかなかった。五、六秒のすえ、たしかにあのとき会ったマツグチ・チハルだと思って、人ごみを顧みた。そこにはもう彼女のような人はいなかった。


私は彼女のまなざしが見たかった。

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