第五話
旧病棟に迷い込んだ雫石暁を新病棟に送り届ける途中で、僕は謎の発光物体と遭遇した。
それは淡い白い光を放ちながらふわふわと浮かんでいる。
予想外の事態に絶句する僕の横で暁が震える。
「七楽くん。あ、あれってもしかして、ひとだま……?」
「わ、わからない……」
そう僕が言うと同時に、人魂が急に速度を上げてこちらに近づいてきた。
声に反応したのだろうか。
その飛翔速度はまるでタカやワシのような猛禽類だ。
本能的に危険を感じた僕は暁の手を取って新病棟内に駆け込む。
「雫石さん、こっち!」
「う、うん!」
僕と暁は慌てて建物内に入り込んだ。
そしてドアの影から外の様子を窺う。
人魂はまだ外を飛び回っている。
僕らを探しているのだろうか。
その時、今度は背後から物音が聞こえた。
病院の廊下の向こうの方から誰かが歩いてくる。
足音から察するにおそらく女性看護師だ。
彼女は手に懐中電灯を持ってこちらにやってくる。
先ほどの高校生たちの話し声につられて来たのだろう。
まずい。
僕は焦った。
今僕は葛城との約束を破って夜間に新病棟に入り込んでしまっている。
たとえ自分の意思ではなくても、初日からいきなり約束を違えては葛城に許してもらえない可能性が高い。
言い訳をしようにもオカルトを全く信じていない葛城に人魂のことを説明したところで逆効果だろう。
僕は手探りで近くの病室の引き戸をそっと開けると、その中に入り込んだ。
中は廊下同様に暗いが、しかし完全に真っ暗というわけでもなく僅かに月明かりが窓から差し込んでいる。
その光を頼りに部屋内を見回すと、そこは患者が入っていない空き病室だった。
一方、隣の暁は不思議そうな顔で僕を見つめてくる。
人魂はともかく、看護師からも逃げている僕のことを不思議に思っているようだ。
僕は彼女の耳元で小さく囁く。
「事情があるんだ」
すると、それを聞いた彼女は少し意地悪そうに微笑んだ。
もしかすると今この瞬間に彼女に弱みを握られたかもしれないが、そんな事を気にしている場合ではない。
僕は扉に近づき廊下の足音を探る。
すると、看護師の足音はだんだん大きくなってきた。
僕は咄嗟に暁の手を取ってベッドの下に潜り込んだ。
そして二人身を寄せ合って身を隠す。
その際に彼女の体温を腕に感じて、僕の鼓動が早まったが今はそれどころではない。
僅かな物音も立てまいと、神経を集中させる。
その時病室の扉が開いて看護師が入って来た。
彼女はぶつぶつと独り言を呟きながら部屋を懐中電灯で照らす。
「たしかに何か聞こえたんだけど……。もう……勘弁してよね。これだから見回りは嫌だわ」
幸いにして彼女はベッドの下を覗き込むようなことはせず、そのまま部屋を出て行った。
扉が閉まる音を聞いた僕は胸を撫で下ろす。
すると隣の暁が話しかけてくる。
「ふふふ、ドキドキしちゃった」
それを聞いて僕は彼女と密着していた事を思い出す。
慌てて彼女から離れて謝った。
「ご、ごめん。いきなりこんなことをして……」
「別に気にしてないから大丈夫だよ。退屈しのぎにもなったし。それで、七楽くんって一体何やらかしたの? まるで逃亡中の犯罪者だよ」
「その事についてはまた今度にしてくれるかい? とりあえず今度こそ君は戻りなよ」
「わかった。今日はこの辺にしてあげるし、それに君が今夜病棟に忍び込んだことも黙っててあげる」
「恩に着るよ」
「そのかわり! また今度あの幽霊屋敷に遊びにいくから。七楽くんも捕まっちゃダメだからね。いい?」
「うん、わかった」
「よろしい。グッドラック!」
親指をピンと上に立ててサムズアップポーズを決めると、彼女はそろりそろりと慎重に病室を後にした。
そして僕も旧病棟に戻ろうと立ち上がった時、急に視界がぐらりと揺れる。
我慢していた反動だろうか。
急激に眠気が襲ってきたのだ。
今までは隣に暁が居たので気を張れていたのだが、彼女を送り届けたことにより気持ちが緩んでしまった。
しかし、それにしてもこの眠気は異常だ。
まるで強力な睡眠薬でも盛られたように、意識がごっそり刈り取られてしまうような感覚だった。
薄れゆく意識の中で、高校生達の会話が脳裏で再生される。
ひょっとしてこれも“悪魔”とやらの仕業なのだろうか。
僕は朦朧となりながらも何とか歩き出そうとするが、それも叶わず仰向けにベッドに倒れこんでしまった。
そして倒れた瞬間、この世のものとは思えない何かの笑い声を聞いた気がした。
◆◆◆
病室のベッドに倒れこんだ僕はすぐさまガバッと起き上がる。
そして辺りを見回すと景色は様変わりしていた。
そこは病院ではなく何も無い荒野だった。
周りには草木一本も生えていない。
空には分厚い雲が立ち込めている。
そして雲の切れ間からは陽光とも青白い月明かりとも違う、血のように紅い光が差し込んでいる。
まるでマイナーな退廃芸術家がキャンパスに描いた抽象画のような光景だ。
混乱した僕はとりあえず起き上がって闇雲に歩き回るが、どれだけ歩いてもずっと同じ景色が繰り返されるだけだ。
やがて歩き疲れた僕は地面に腰を降ろした。
そして途方に暮れる。
ここはどこなのだろうか。
僕は倒れこむように寝る前には、確かに尾狩島総合病院の空き病室に居た。
それが一瞬のうちにこんなわけのわからない場所へと飛ばされてしまったのだ。
ここはどこなのだろうか。
再度僕は頭をフル回転させて考えてみるが、やはり答えは見つからない。
その時。
目の前に唐突に扉が現れた。
何も無い荒野にポツンと扉が現れたのだ。
僕はその扉を注視する。
そして息を呑む。
木製のその扉は何の変哲も無い扉、というわけではなく頑丈な鍵と鎖が複数取り付けられている。
それは単なる出入り口としての扉ではなく、何か恐ろしいものを閉じ込めているかのようなそんな禍々しさを放っていた。
そしてそれは僕にとってはとても見覚えのあるものだ。
両親と暮らしていた時の、僕の自室の扉だった。
僕はふらついた足取りで扉に近づくと、その周囲をぐるりと回ってみる。
だがやはり何も無い空間にポツリと現れた扉は、どこかに繋がっているようには見えなかった。
それでも僕は恐る恐るその扉に手を掛けようとする。
ドアノブに僕の指が触れたその時、扉の向こうから人の話し声が聞こえてきた。
僕の両親の声だ。
父と母が話している。
「ねえ、あなた。私もう無理よ……。これ以上あの子の面倒を見るなんて」
「そう言うな。俺もできるだけ早く家に帰るようにするから」
「ふん、どうだか。この前、あの子が飛ばした家具で私が怪我した夜、あなたは楽しくバーで飲んでいたんでしょ?」
「それは医局の連中に付き合わされて仕方なくだ。悪かったと思ってるよ。だからおまえから電話をもらってすぐに帰ってきただろ?」
「ええ、そうね。感謝してるわ。でも今度からは“そもそも飲みに出かけないで欲しい”の。無理なお願いをしてるのはわかってるんだけど、でももう……無理なのよ、私」
その会話を聞いて、僕は胸が張り裂けそうになった。
今聞いた会話が僕がまだ小学生だった頃の両親の会話だ。
そしてふと辺りを見回した僕は愕然とする。
いつの間にか荒野は消えうせ、僕は実家の自分の部屋にいた。
その部屋には家具と呼べるものはほとんど置かれていない。
ポルターガイストが暴れて全部壊してしまうからだ。
あるのはせいぜい寝袋と最低限の洋服、そしてぶつけられても怪我の無さそうな文庫本くらいのものだ。
それが僕の部屋のすべてだった。
そして部屋から出るための扉には外から鍵が掛かっている。
“中から”ではなく“外から”だ。
僕はポルターガイストが暴れ出す夜間は、この部屋に閉じ込められていたのだ。
ずっと嫌悪していた部屋に再び閉じ込められ、僕は動悸が激しくなる。
「落ち着け、落ち着け。ここは現実じゃない。夢の中だ……」
ぶつぶつと独り言を呟き、自分に言い聞かせる。
そして部屋の窓に目をやった。
窓には頑丈な板が打ち付けられており、僕はそこからは出ることは出来ない。
しかし板の隙間から外の景色を見る事はできた。
そこには現実で僕が見た景色と同様の住宅地が広がっている。
しかしそれを照らす月は現実のものとは違い、血のように真っ赤であった。
やはり、ここは夢だ。
その確証を得るに至った僕は何とか部屋から脱出できないかを試し始めた。
しかし窓の板の釘を抜けるような工具もなく、扉は中からは開かない。
それでもダメ元で僕は再び扉に手を掛けようとする。
その時、ガチャリと鍵が外される音が響いた。
唐突に響いた音に驚いた僕は思わず後ずさって様子を窺う。
夢の中の両親が鍵を開けたのだろうか。
そう思った僕が息を呑んで扉を注視していると“それ”は部屋の中に入って来た。
“それ”は一メートルほどはありそうな、巨大な脳みそのようなブヨブヨした物体だ。
その脳みそにはおぞましいことに、たくさんの目玉がついている。
さらに細長い触手のようなものが無数に生えており、そして“それ”は地べたを這いながら部屋に侵入してきた。
「ひっ……」
恐怖心を抱いた僕が呻き声を漏らすと、それに反応して脳みそはこちらを向く。
脳みその放つ禍々しい視線に射抜かれ後ずさった僕は、足に力が入らずにへたり込んだ。
恐怖で身動きできない僕に脳みそは触手を伸ばしてくる。
僕は逃げようとしたが体が動かず、また仮に動いたところでこの部屋には逃げ場も無い。
ゆっくりと伸びてきた触手が僕の首元に絡みつき、そして締め上げてきた。
首を絞められ再び意識が遠のく。
抵抗しようにも恐怖で体が竦み、腕に力が入らない。
やがて諦めの境地に達した僕が体の力を抜いたその時、誰かの声が聞こえてきた。
まだ声変わりしていない少年のような、はっきりとした声色だ。
「おい、ボウズ!! まだおねんねするには早えーぞ!!」
次の瞬間、何かが僕の首に巻きついた触手を振り払う。
それは先ほど僕と暁が目撃した人魂だった。
否、それは人魂などではない。
先ほどは暗がりの中で遠巻きに目撃しただけなので、その姿はおぼろげにしか見えなかった。
しかし今、至近距離でそれを見ると一目瞭然だ。
それは灰色の体毛と羽根を備えたフクロウだった。
呆気にとられる僕にそのフクロウは話しかけてくる。
「ふぅ、何とか取り込まれる前に助けられたか……。やれやれ、間一髪ってところだなボウズ」
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【おしらせ】
本日は時間をずらしつつ第十二話まで投稿する予定です。